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306 白楽天の詩


      唐王朝時代の詩人


306 白楽天の詩



白楽天 白居易
772〜846
下弁(陝西)出身。字は楽天、号は香山居士。
800年29歳徳宗の貞元年間の進士及第。
       翰林学士から左拾遺に進んだ。
       青年期は「経世済民」を志して諫官を自任。
806年35歳で籀窒県(ちゅうちつけん、陝西省)の尉
       翰林学士、左拾遺を歴任する。
       このころ社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く
       制作する。 賣炭翁 (伐薪燒炭南山中)
815年44歳武元衡暗殺をめぐり越権行為があったとされ、江州(現江
       西省九江市)の司馬に左遷される 淮西鎮対策の上書が
       貴顕に憎まれてのものだった。このときに香炉峯下に草堂を建
       てた。
       江州に着任して、地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖
       の治水・干拓は代表的なもので、『白堤』は現代に至るまで
       西湖名勝の1つに数えられるものだ。
               王昭君 二首 白楽天
821年50歳に中央に復帰したものの自ら求めて杭州・蘇州刺史を歴任。
827年56歳に召されて刑部侍郎着任した。
829年58歳太子賓客分司に任じられ、洛陽に移る。
       (朝廷からお呼び出しがある時だけ)ほとんど隠居生活。
       詩篇の編纂。仏教に勤しむ。
       苦熱 (頭痛汗盈巾)
838年65歳刑部侍郎、
836年67歳太子少傅
842年71歳刑部尚書(法務大臣)をもって致仕した。


 地方官以降、青年期、江州時代の社会や政治批判を主題とする「新楽府」より詩風も一変し、簡適系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元槇と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に膾炙された。日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えている。
 逸話として、自分の作った詩を路傍の老婆に読み聞かせ、老婆が詩の理解ができまでわかりやすくするよう手を加えたという。晩年の作は、心優しい好々爺という人物像がうかがえる作品が多い。


聞夜砧(誰家思婦秋擣帛)       
長恨歌(漢皇重色思傾國)         
琵琶行・序(元和十年,予左遷九江郡司馬)  
琵琶行・一 (潯陽江頭夜送客)      
琵琶行・二 (轉軸撥絃三兩聲)      
琵琶行・三 (沈吟放撥插絃中)      
琵琶行・終尾(我聞琵琶已歎息)       
花非花(花非花,霧非霧)        
初貶官過望秦嶺(草草辭家憂後事)      
臨水坐(昔爲東掖垣中客)         
訪陶公舊宅序(余夙慕陶淵明爲人)      
訪陶公舊宅(垢塵不汚玉)          
訪陶公舊宅(我生君之後)          
遊趙村杏花(趙村紅杏毎年開)       

對酒(蝸牛角上爭何事)           
想歸田園(戀他朝市求何事)       
梨園弟子(白頭垂涙話梨園)      
念金鑾子(衰病四十身)          
太平樂詞(歳豐仍節儉)         
見元九悼亡詩因以此寄(夜涙闇銷明月幌)
送春(三月三十日)           
燕詩示劉叟(梁上有雙燕)         
靈巖寺(館娃宮畔千年寺)         
新豐折臂翁(新豐老翁八十八)     

楊柳枝 八首 其一(六幺水調家家唱)
楊柳枝 其二(陶令門前四五樹)    
楊柳枝 其三(依依嫋嫋復青青)    
楊柳枝 其四(紅版江橋青酒旗)    
楊柳枝 其五(蘇州楊柳任君誇)    
楊柳枝 其六(蘇家小女舊知名)   
楊柳枝 其七(葉含濃露如啼眼)   
楊柳枝 其八(人言柳葉似愁眉)   
餘杭形勝(餘杭形勝四方無)      
五年秋病後獨宿香山寺三絶句其一(經年不到龍門寺)
五年秋病後獨宿香山寺三絶句其二(飮徒歌伴今何在)
五年秋病後獨宿香山寺三絶句其三(石盆泉畔石樓頭)
舟中讀元九詩(把君詩卷燈前讀)   
村夜(霜草蒼蒼蟲切切)       
商山路有感(萬里路長在)    
春題湖上(湖上春來似畫圖)   
香爐峯下新卜山居草堂初成偶題東壁(日高睡足猶慵起)


秋居書懷(門前少賓客)      
晩秋闍潤i地僻門深少送迎)    
效陶潛體詩(不動者厚地)    
病中哭金鑾子(豈料吾方病)    
勤政樓西老柳(半朽臨風樹)    
新秋(西風飄一葉)         
賣炭翁(賣炭翁,伐薪燒炭南山中)  
杪秋獨夜(無限少年非我伴)     
商山路有感(憶昨徴還日)      
觀幻(有起皆因滅)          
暮江吟(一道殘陽鋪水中)      
自詠(朝亦隨群動)            
香鑪峰下新置草堂即事詠懷題於石上(香鑪峯北面)

洛陽春(洛陽陌上春長在)     
魏王堤(花寒懶發鳥慵啼)    
逢舊(我梳白髮添新恨)     
代鄰叟言懷(人生何事心無定)  
長安道(花枝缺處青樓開)  
感月悲逝者(存亡感月一潸然)
晩起(爛漫朝眠後)          
勸酒(昨與美人對尊酒)         
勸夢得酒(誰人功畫麒麟閣)      
逢舊(久別偶相逢)           
聞哭者(昨日南鄰哭)          
池西樓(朱欄映晩樹)          
杏園花落時招錢員外同醉(花園欲去去應遲)
戲答ゥ少年(顧我長年頭似雪)    
讀道コ經(玄元皇帝著遺文)     
題峽中石上(巫女廟花紅似粉)

三月三十日題慈恩寺(慈恩春色今朝盡)
三月三十日作(今朝三月盡)
酬哥舒大見贈(去歳歡遊何處去)
強酒(若不坐禪銷妄想)
春夜宿直(三月十四夜
禁中夜作書與元九(心緒萬端書兩)
雨夜憶元九(天陰一日便堪愁)
夢亡友劉太白同遊彰敬寺(三千里外臥江州)
對酒(百歳無多時壯健)
春風(春風先發苑中梅)
杭州春望(望海樓明照曙霞) 
賦得古原草送別(離離原上草)
大林寺桃花(人間四月芳菲盡)
問劉十九(?新?酒) 
鍾陵餞送(翠幕紅筵高在雲)
劉十九同宿(紅旗破賊非吾事)
楊柳枝詞(一樹春風千萬枝)
詔取永豐坊柳植禁苑感賦(一樹衰殘委泥土)
八月十五日夜禁中獨直對月憶元九(銀臺金闕夕沈沈)
夜雪(已訝衾枕冷)

八月十五日夜禁中独直対月憶元九   白居易


八月十五日夜禁中独直対月憶元九 
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。

それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)
八月十五日の夜 禁中に独り直し 月に対して元九を憶う
銀台【ぎんだい】  金闕【きんけつ】  夕べ沈沈たり、独宿【どくしゅく】  相思うて 翰林【かんりん】に在り。
三五夜中【さんごやちゅう】  新月の色、二千里外【にせんりがい】  故人【こじん】の心。
渚宮【しょきゅう】の東面には煙波【えんぱ】冷やかならん、浴殿【よくでん】の西頭には鐘漏【しょうろう】深し。
猶【な】お恐る  清光【せいこう】  同じくは見えざるを、江陵は卑湿【ひしつ】にして  秋陰【しゅういん】足る

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八月十五日夜禁中独直対月憶元九 現代語訳と訳註
(本文)
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。

(下し文)
銀台(ぎんだい)  金闕(きんけつ)  夕べ沈沈たり、独宿(どくしゅく)  相思うて 翰林(かんりん)に在り。
三五夜中(さんごやちゅう)  新月の色、二千里外(にせんりがい)  故人(こじん)の心。
渚宮(しょきゅう)の東面には煙波(えんぱ)冷やかならん、浴殿(よくでん)の西頭には鐘漏(しょうろう)深し。
猶(な)お恐る  清光(せいこう)  同じくは見えざるを、江陵は卑湿(ひしつ)にして  秋陰(しゅういん)足る。


(現代語訳)
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)

唐朝 大明宮2000


銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。


三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの仲秋の明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。


渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
(そこ、)渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。(ここ)私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
  
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)

「三五夜中新月色,二千里外故人心。」(三五夜中(さんごやちゅう)  新月の色、二千里外(にせんりがい)  故人(こじん)の心。


(解説)
 白居易が「新楽府五十篇」「秦中吟十篇」に集約される諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときで、政事批判の詩は、これまでに先例はあったものの、これだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことであった。タイムリーな時期に発表されてものかどうかはわからないことであり、元?の言動は露骨に近かったから、露骨な策略に貶められたということではなかろうか。

 これら詩文をもってただちに、唐代においては比較的言論の自由はあったとみるのは早計であろう。歴史は力関係により作られるもので、批判は陰にこもったものであったはずである。陰に籠もったからこそ詩文として残ったのではなかろうか。いずれにしても、白居易にとって、元?という心許せる同調者がいたときはよかったが、元?が宦官の策略に落ちって左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得なかった。

 掲げた詩は元?が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っている。「青門」は青明門のことで、春、東が青で示される五行思想に基づいたもの、塗られていた青門といい、長安の東壁南側にあった。 
10risho長安城の図035

月夜 
今夜?州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。

今夜  ?州【ふしゅう】の月、閨中【けいちゅう】  只だ独り看【み】るらん。
遥かに憐【あわ】れむ小児女【しょうじじょ】の、未【いま】だ長安を憶【おも】うを解(かい)せざるを。
香霧【こうむ】に雲鬟【うんかん】湿【うるお】い、清輝【せいき】に玉臂【ぎょくひ】寒からん。
何【いず】れの時か虚幌【きょこう】に倚【よ】り、双【とも】に照らされて涙痕【るいこん】乾かん。


さて杜甫の「月夜」は、 白欒天のこの詩にもいうように、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」であって、月色は、山河を隔て、環境を異にしつつも、その色を同じくするものである。だから、それに誘発されて、杜甫は、はるかなる妻の身の上を思うのであり、おなじ月の光にさそわれて、はるかなる妻も、自分を思うであろうことを自分自身に思わせるのであるが、自分の見る月とはいわないで、妻の見る月の色を、はるかに思いやったというところは、この詩人の心が、常に常識を越えて別の次元につき入ろうとしていたこと、そうしてまたその結果、表現としては、緊迫した言葉を常に求めていたこと、つまりみずからもいうように「語の人を驚かさずんば死すとも休まず」とする傾向にあったことを、もとより最も顕著に示す例ではないけれども、なお何がしか示すものである。




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