三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
|||
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
||
北斉 550 - 577 |
|||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
五 胡 |
匈奴 | 攣テイ部 |
@前趙304−347 | 盧水胡 |
L北涼 | 鉄弗部 |
N夏 | |||||
鮮卑 | 段部 |
慕容部 |
吐谷渾 | D 前燕 | H後燕 | 西燕 | J南燕 | |||||
拓跋部 |
代 | 北魏 | K南涼 | 乞伏部 |
I西秦 | 宇文部 |
||||||
羯 | C後趙 | |||||||||||
氏 | 仇池 | 巴氏 | A成漢304−347 | E前秦 | G後涼 | |||||||
羌 | F後秦 | 宕昌国 | ケ至 |
五 胡 以 外 |
漢族 | 東晋 | B前涼316―376 | 冉魏 | M西涼400−421 | 段氏 |
北涼 | 桓楚 | 後蜀 | 馮氏 |
O北燕 |
高句麗 | 高氏 |
北燕 | |||||||||
丁零 | テキ魏 |
頁 |
上の五胡十六国模式図を参照 |
|||||
T |
1.西晉265−316 | 2.代315−376 | 3.東晉317−420 | 4.西燕384−394 | 5.北魏386−534 | 6.宋420−479 |
U |
@前趙304−347 | A成漢304−347 | B前涼316―376 | C後趙319−351 | D前燕337−370 | |
V |
E前秦351−394 | H後燕384−407 | F後秦384−417 | G後涼386−403 | I西秦385−431 | |
W |
K南涼397−414 | J南燕398−410 | M西涼400−421 | N 夏 407−431 | O北燕407−436 | L北涼397−439 |
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
|
斉 479 - 502 |
|||
梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
|
陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
|
隋 581 - 618 |
晉・東晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人 | |||||
<西晉詩> | 裴秀 | 韋昭 | 傳玄 | 皇甫諡 | 山濤 |
杜預 | 陸壽 | 李密 | 荀メ | 劉怜 | |
張華 | 程暁 2.詩《嘲熱客》 | 潘岳 | 束ル | 張翰(張季鷹) | |
策靖 | 陸機 | 陸雲 | 王戎 | 阮咸 | |
向秀 | 張協 | 左思 | 左貴嬪 | 張載 | |
孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |
曹リョ(手へんに慮) | 王讃(王正長) | 郭泰機 | 石崇 | 欧陽建 | |
何劭 | |||||
<東晉詩> 東晉317 −420 |
劉コン(王+昆) | 422 廬ェ | 423 謝尚 | 424 郭璞 | 425 曹毘 |
426 王羲之 | 427 陶潜 | 428 謝混 | 429 呉隱之 | 430 廬山諸道人 | |
431 恵遠 | 432 帛道蘊 | 433 趙整 | 434 司馬睿(元帝) | 435僧肇(そうじょう) | |
<宋詩> | 451 孝武帝 | 452 南平王鑠 | 453 何承天 | 454 顔延之 | 455 謝靈運 |
456 謝膽 | 457 謝恵連 | 458 謝莊 | 459 鮑照 | 460 鮑令暉 | |
461 呉遇遠 | 462 王微 | 463 王ソウ達 | 464 沈慶之 | 465 陸凱 | |
466 湯惠休 | 467 劉呉 | ||||
<齊詩> | 481 謝眺 | 482 王融 | 483 劉繪 | 484 孔稚圭 | 485 陸厥 |
486 江孝嗣 | |||||
<梁詩> | 501 梁武帝 | 502 簡文帝 | 503 元帝 | 504 沈約 | 505 江淹 |
506 范雲 | 507 任肪 | 508 邱遅 | 509 劉ツ | 510 呉均 | |
511 何遜 | 512 王籍 | 513 劉峻 | 514 劉孝綽 | 515 陶弘景 | |
516 曹景宗 | 517 徐ヒ | 518 虞羲 | 519 衞敬瑜妻王氏 | ||
520 劉キョウ | 文心雕龍(南朝梁の劉キョウが著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期頃) | ||||
<陳詩> | 531 陰鏗 | 532 徐陵 | 533 周弘譲 | 534 周弘正 | 535 江總 |
536 張正見 | 537 何胥 | 538 韋鼎 | 539 陳昭 | ||
<北魏詩> | 551 劉昶 | 552 常景 | 553 温子昇 | 554 胡叟 | 555 胡太皇 |
556 | |||||
<北齊詩> | 561 刑邵 | 562 祖テイ | 563 鄭公 | 564 蕭懿 | 565 顔之推 |
566 馮淑妃 | 567 斛律金 | ||||
<北周詩> | 571 ユ信 | 572 王褒 | |||
<隋> | 581 煬帝 | 582 楊素 | 583 廬思道 | 584 薛道衡 | 585 廬世基 |
586 孫萬壽 | 587 王冑 | 588 尹式 | 589 孔徳紹 | 590 孔紹安 | |
591 陳子良 | 592 王申禮 | 593 呂譲 | 594 明餘慶 | 595 大義公主 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
1.前趙(漢)(304〜329) | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
劉淵 | りゅうえん | 251?〜 310 | 在位304〜310。 | ||||||
劉宣 | りゅうせん | ?〜 308 | |||||||
劉和 | りゅうか | ?〜310 | 漢の二代。在位310の1月。 | ||||||
劉聡 | りゅうそう | ?〜318 | 漢の三代烈宗昭武帝。在位310〜318。 | ||||||
王彌 | おうみ | ?〜311 | 政治家・軍人 | ||||||
劉殷 | りゅういん | ?〜312 | |||||||
劉易 | りゅうい | ?〜316 | |||||||
劉乂 | りゅうがい | ?〜317 | |||||||
陳元達 | ちんげんたつ | ?〜317 | |||||||
劉粲 | りゅうさん | ?〜318 | |||||||
劉曜 | りゅうよう | ?〜329 | |||||||
キ準〔革+斤〕 | きん じゅん | ? - 318年 | |||||||
2. 成漢 (304〜347) 304−439 | |||||||||
李 特 | り とく | ? - 303年 | 成漢建国の祖 | ||||||
李 流 | り りゅう | (?〜303) | |||||||
李雄 | りゆう | 273〜334 | 成漢の太宗武帝。在位304〜334。 | ||||||
范長生 | はんちょうせい | ?〜318 | 天文術数 | ||||||
東1. 前趙(漢)(304〜329)317−420 | |||||||||
劉淵 | りゅうえん | 251?〜 310 | 在位304〜310。 | ||||||
字は元海、漢の初代高祖光文帝で、在位は304〜310の7年である。新興の人、南匈奴の単于の一族の出身で、劉豹の子である。幼いころ崔遊に師事し、漢民族の文化に通じ、文武兼備を自負した。西晋の初年、父劉豹が没すると、匈奴左部帥となった。八王の乱が起こって晋朝が乱れると、祖業を恢復しようとする匈奴諸部にひそかに単于に推された。成都王司馬穎に取り入って、北単于・参丞相軍事に任ぜられた。永興元年(304)、離石において起兵し、大単于を称した。次いで左国城に進み、漢帝の後裔を自ら任じ、国号を漢と定め、漢王を称した。永嘉二年(308)、帝号を称し、永鳳と建元した。翌年には平陽に都を移し、河瑞と改元した。洛陽攻略を望んだが、志半ばにして病没した。 | |||||||||
劉宣 | りゅうせん | ?〜 308 | |||||||
字は士則。劉淵の従祖父にあたる。儒者に師事し、『毛詩』『左伝』を学んだ。晋の武帝のとき、右部都尉・右賢王となった。八王の乱が起こると、?より劉淵を左国城に召し帰して、劉淵に大単于の号を奉った。劉淵が漢王となると、丞相・都督中外諸軍事となり、開国の元勲として特に尊重された。 | |||||||||
劉和 | りゅうか | ?〜310 | 漢の二代。在位310の1月。 | ||||||
字は玄泰。漢の二代。在位310。劉淵の子。劉淵が漢王を称すると、大将軍に任ぜられた。劉淵が帝位につくと、大司馬となり、梁王に封ぜられ、太子に立てられた。劉淵が没すると、位を継いだが、在位一月にして、弟の劉聡に殺された。 | |||||||||
劉聡 | りゅうそう | ?〜318 | 漢の三代烈宗昭武帝。在位310〜318。 | ||||||
字は玄明。漢の三代烈宗昭武帝。在位310〜318。劉淵の四男。経書に通じ、武芸の腕は群を抜いた。はじめ晋の新興太守主簿となり、右部都尉に累進した。のち成都王司馬穎のもとで、積駑将軍をつとめた。劉淵が北単于となると、右賢王として立てられ、劉淵が大単于を称すると、鹿蠡王となった。劉淵が帝を称すると、車騎大将軍・大司徒・大司馬・大単于を歴任した。河端二年(310)、兄の劉和が帝位を継ぐと、誅殺されそうになったため、反攻して劉和を弑した。帝位につき、光興と改元した。翌年、王弥・劉曜らに洛陽を攻めさせ、晋の懐帝を捕虜とした。のち長安を攻めて晋の愍帝を捕らえ、西晋を滅ぼした。日増しに酒色に溺れ、遊興に節度なく、大規模な宮殿造営をおこない、連年にわたって兵を用いて、民の流亡をまねいた。大臣に対して刑罰を濫用し、諫言を聞き入れなかった。 | |||||||||
王彌 | おうみ | ?〜311 | 政治家・軍人 | ||||||
青州東莱の人。弓馬に優れ、膂力は人並み外れていて、そのため飛豹と号した。若いころ京師に遊び、劉淵と親交を結んだ。永興三年(306)、劉柏根が晋に叛いたのに従って、その長史となった。柏根が敗死するとその余衆を集めて、青・徐二州にわたって転戦し、衆数万に拡大した。永嘉元年(307)、劉淵に降り、鎮東大将軍・青徐二州牧に任ぜられ、東莱公に封ぜられた。翌年、洛陽を攻めたが、晋軍に敗れた。司隷校尉・侍中となった。光興二年(311)、劉曜・石勒らとともに洛陽を陥し、大いに掠奪した。青州に軍を返す途中、石勒と争って殺された。 | |||||||||
劉殷 | りゅういん | ?〜312 | |||||||
漢(後の前趙)の官吏。字は長盛。新興郡(現在の山西省忻州市)の出身。後漢の光禄大夫劉陵の玄孫であり、周(姫姓)の頃王の王子である姫季子こと劉の康公の末裔といわれている。『晋書』及び『十六国春秋』に伝がある。 俗気がなく、さっぱりした性格であり、世を救う志を持っていた。 7歳の時に父を亡くしたが、その時の悲しみぶりは尋常ではなかったという。3年の間喪に服すと、その間礼の限りを尽くし、歯を見せて笑うことは一度もなかった。 20歳になると学に励んで儒学の経典や歴史書に精通し、それぞれの内容を総合的にまとめた。書物や詩・賦で読まないものはなかった。常人を超えた才能を有し、世を救う志を有していた。倹約に努め、言動や行動に卑しさはなく、清く慎ましく生活を送った。協調性もあり、年配の者には恭順に振る舞ったため、郷里の人や親族より称賛された。郡からは主簿として、州からは従事としてそれぞれ勧誘を受けたが、家中を扶養する者がいないことを理由にいずれも断った。さらに、司空・斉王司馬攸からは掾として、征南将軍羊?からは参軍事として招聘を受けたが、これも病と称して断った。 同郡出身の張宣子は并州の大豪族で、多くの財産を持っており、また達見の士として評判であった。彼は劉殷へ向けて、司馬攸らからの招聘を受けるよう勧めたが、劉殷は「今、二公(司馬攸・羊?)が晋の柱であり、私は彼らのように垂木となることを望んでいる。だから、この機会を頼らずして栄達はないことなど、とうにわかっている。だが今、わが家には曾祖母の王氏が健在であり、もし今仕官を受ければ臣の礼を尽くさねばならず、曾祖母の面倒を見ることが叶わなくなる。かつて子輿(孟子の字)が斉の大夫を辞退したのも、親の気持ちを汲んだからであろう」と述べた。張宣子は「あなたの言葉は凡人などが理解できるものではないな。今後は私の先生となっていただきたい」と言い、自分の娘を劉殷に嫁がせた。 太傅の楊駿が執政していた時、劉殷へ贈り物を用意して招いたが、彼は年老いた母の世話を理由に固辞した。楊駿は劉殷の志を称賛し、母親への孝道を遂げさせることを許した。地方に命じて、彼の家へ衣食を供えるようにし、租税を免除した。また、絹200匹と穀物500斛を下賜した。 301年、趙王司馬倫は帝位を簒奪した。側近の孫秀は、劉殷の名望を以前より尊重しており、彼を招集して散騎常侍に任じようとした。だが劉殷はこれを拒絶し、雁門へ逃走した。 斉王司馬冏が執政するようになると、劉殷を大司馬軍諮祭酒に任じ、劉殷はこれを受け入れた。彼が入朝すると、司馬冏は、「先王(司馬攸)は何度も君を招集したが、君は来なかったな。今、私は君を呼んだが、なぜ引き受けてくれたのか」と尋ねた。劉殷は「世祖(司馬炎)は大聖をもって天命に応え、先王は高い徳行をもってこれを助けました。これは堯・舜が君主の時代に后稷・殷契がこれを補佐したのと同じです。彼らがいたからこそ、この殷は一人の男として生きることを望み、仕官を拒んで来ました。幸運にも唐虞(堯・舜)のよう治世の下に生まれたので、刑死の罰など恐れる必要は無かったのです。今、殿下は勇ましさと聡明さを併せ持ち、暴徒を除いて帝を復位させました。しかしながら、その行跡はやや粗く、その厳威によりますます周囲は静まり返っております。私は再び政変が起こることを恐れ、これを伝えたく思いました。そのため、仕官せずにはいられませんでした」と答えた。司馬冏は彼のことをただ者では無いと感じ、新興郡太守に任じた。 彼は赴任すると、刑罰を行うときはしっかりと明察を行い、善行を積む者へは手厚く称した。こうして大いに治績を挙げ、周囲から称賛された。 永嘉の乱が起こると、新興へも劉淵の軍勢が到来し、劉殷はその手中に落ちた。以降は漢に仕え、抜擢を受けて侍中となった。漢が建てられた際には、その謀略に与った。 305年、劉?が晋陽に拠って劉淵と対峙するようになると、劉殷は「殿下(劉淵)が挙兵してから1年が経過しましたが、その成果は辺境の地をいくつか占拠しただけであり、いまだ威望は震っていません。もし殿下が将兵を四方に派遣させたならば、機を見て劉?と大胆に決戦を行い彼を討ち、河東を平定した後に皇帝位に即位し、南に大軍で進出し長安を落として我らの都とし、さらに再び関中の兵を動員して洛陽を席巻することも全て容易に可能となるでしょう。これは漢の高祖が大業を興し、強大な楚(項籍)を滅ぼしたのと同じ手法です」と進言した。劉淵は深く喜び「あなたの言葉は私の考えと合致する」と答え、これに従った。その後、左光禄大夫に任じられた。 310年7月、劉淵が重病で床に伏せるようになると、劉殷は左僕射となり後事を託された。同年8月、子の劉聡が即位すると、劉殷は劉聡からも大いに重用され、その才能を高く評価された。10月には大司徒に昇り、さらに録尚書事・太保を歴任し、大昌公に封じられた。 劉殷が皇帝に対して強く諫言をすることは滅多になかったが、事の状況に応じて適切な進言を行ったため、国家の発展を大いに促した。劉聡が朝議を開いた際、劉殷は劉聡の意見に直接反対することなく、群臣が退出した後に、理を尽くして説得した。そのため劉聡は劉殷を信用し、毎度その進言に耳を傾けたという。朝廷にあっても、彼は公卿らと慎み深く付き合い、決して自分の顔色を表に出すことはなかった。また、品行の悪い士人とは付き合わず、彼の門下に決して入れなかった。 民からも大いに慕われ、冤罪を役所へ訴えられずに劉殷に助けをもとめた者は、その数百人に上った。 劉殷は子や孫へ向けて「君主に仕える者というのは、遠回しに忠言を為すべきである。凡人が相手でも正面から非難してはならないし、ましてや相手が諸侯であるならなおさらである。主上の怒りを買い災いを招く原因は、その過失を言い立てるような行為にある。常に主を敬っているならば、道理を用いて討議をするのが当然である。かつて鮑が龍顔(天皇の顔)を犯して誅罰を受けたことをよく考えるのだ」と常々言いきかせていたという。 後に劉殷は、劉聡より「剣履上殿(剣と靴を身に着けたまま殿に登ることを許される)」「入朝不趨(入朝時に小走りにならなくとも咎められない)」「乗輿入殿(輿に乗ったまま入殿することを認められる)」という、3つの特権を与えられた。 311年11月、劉殷の娘2人は劉聡により宮中に迎えられ、左右の貴嬪となって昭儀より上位に置かれた。また、孫娘4人も貴人となり、貴嬪に次ぐ位となった。 312年、劉聡が遊猟に耽るようになると、中軍の王彰は固く諫めた。大怒した劉聡は彼を処刑しようとしたが、劉殷は諸公卿列侯100人余りと共に劉聡の下へ赴くと、冠を外して涙を流しながら固く諫めた。これを受けて、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。劉聡は謝罪し、劉殷を始め全員に帛100匹を下賜した。 同年6月、劉殷はこの世を去った。文献公と諡された。常に謙虚に振る舞い、慎重に行動したため、乱世でも富貴と名声を守って天寿を全うすることができたという。 真冬のある日、劉殷の曾祖母である王氏は菫を食べたいと望んだ、その事を話さなかった。その後、彼女は10日間あまり食事を満足に取らなくなったので、劉殷は奇妙に思って尋ねると、王氏は本心を打ち明けた。当時9歳であった劉殷は、湖沼に向かうと菫を探し回ったが、この季節菫は成長を終えて既に枯れており見つからなかった。劉殷はひどく嘆いて「私は罪深く、父母の喪に遭う罰を受けた。また、曾祖母が健在にもかかわらず、10日間も孝行をしなかった。私は所詮人の子であり、各地を探し回ったが何も得ることが出来ていない。天地の神が私に同情することを願う」と言った。それから半日あまり泣きわめいていたが、突然「止めなさい。泣くのを止めなさい」と人の声らしきものが聞こえた。劉殷は泣くのを止めてあたりを窺うと、すぐに菫が生えているのが見えた。劉殷はこれを1斛余り摘んでから帰宅し、王氏へ振舞った。その菫は奇妙であり、食べても食べても減る事は無く、菫が生える季節になると無くなったという。 劉殷はかつて夜に夢を見た。ある人が彼に「西の籬(竹や木などで出来た低く目のあらい垣)には、穀物があるぞ」と言った。目が覚めた後、劉殷は堀りに行き、15時間かけて大量の穀物を得た。上面には銘文が書かれており、「100石の穀物7年分を、孝子である劉殷に与えましょう」とあった。その時より穀物を食べ始め、7年かけてようやく食べ終わった。当時の人は、神霊と感応できる彼の資質を褒めたたえた。そして、先を争って劉殷へ米や穀物・絹糸を捧げた。劉殷はそれを全て受け取り、礼を述べなかった。ただ、富貴を得た後に必ずこれに報いなくてはならないな、と呟いたという。 曾祖母の王氏が亡くなると、その棺は劉殷の家中に置かれたが、ある時西隣の家で失火が起こった。風の勢いが凄まじかったため、火は強まり劉殷の家をも飲み込まんとしていた。劉殷と張氏は棺の前で跪き、泣き叫んだ。すると、火は彼らの家を飛び超え、東隣の家へ移った。そのため、劉殷たちは無傷であった。この火事の直後、2羽の白い鳩が家の庭にある樹に巣を築いた。そのため、周囲の人からは彼らの名誉がさらに顕れて見えたという。 |
|||||||||
劉易 | りゅうい | ?〜316 | |||||||
劉聡の子。劉聡が立つと、河間王に封ぜられ、太尉・太宰を歴任した。劉聡が朝政をみず、劉粲・王沈らが国政を専断しているのを憂えて上疏したが、劉聡が怒ってその表を破り捨てると、劉易は憤死した。 | |||||||||
劉乂 | りゅうがい | ?〜317 | |||||||
劉淵の子。劉淵のとき、北海王に封ぜられ、撫軍大将軍・司隷校尉となった。劉聡が劉和を殺して立つと、皇太弟・大単于・大司徒となった。劉聡をしばしば諫めたが、聞き入れられなかった。劉粲・?準らが謀って謀反の罪で誣告させたので、廃されて北部王となり、まもなく劉粲・?準らに殺された。 | |||||||||
陳元達 | ちんげんたつ | ?〜317 | |||||||
もとの姓は高、字は長宏。新興の人。匈奴族後部の出身。幼くして孤児となり、耕作しながら書を読み、四十過ぎまで仕えなかった。劉淵が漢王を称すると、出仕して黄門郎となった。劉聡が立つと、廷尉に任ぜられ、直諫を憚らなかったので名が知られた。劉聡が中常侍王沈を重用するようになると、太宰の劉易とともに王沈を弾劾したが、かえって王沈が列侯に封ぜられると、劉易は憤死し、かれもまもなく自殺に追いこまれた。 | |||||||||
劉粲 | りゅうさん | ?〜318 | |||||||
字は士光。漢の四代少主隠帝。在位318。劉聡の子。劉聡が即位すると、河内王に封ぜられ、撫軍大将軍・都督中外諸軍事をつとめた。劉曜とともに長安を攻め落とし、晋陽を奪回して、丞相・大将軍・録尚書事に上り、晋王に改封された。のち相国・総百揆に任ぜられた。?準・王沈らと謀って北海王劉乂に謀反の罪を着せて殺害し、ついに皇太子・大単于となった。劉聡が没すると、帝位を継ぎ、漢昌と改元した。酒色にふけり、朝廷の元勲を殺害し、国事をすべて?準に決裁させた。在位わずか一月で?準に殺された。 | |||||||||
劉曜 | りゅうよう | ?〜329 | |||||||
字は永明。前趙の建国者。在位318〜328。劉淵の甥にあたる。幼いころ孤児となり、劉淵に養われた。劉聡が即位すると、しばしば戦功を立て、王弥らとともに洛陽を攻め落とし、晋の懐帝を捕虜とした。さらに長安を陥し、車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧に上り、中山王に封ぜられた。のち長安を失陥し、龍譲大将軍に下り、大司馬となった。建元二年(316)、再び長安を攻めて晋の愍帝を捕らえた。大都督・太宰に任ぜられ、秦王に封ぜられた。劉聡が没すると、丞相となった。劉粲のもとで相国・都督中外諸軍事に上った。光初元年(318)、?準の乱を平定して即位し、国号を趙と改めた。陳安の乱を平定し、さらに前涼を討って藩国とした。学問を奨励し、善政を布いた。八年(325)、後趙の石生に敗れて、軍や領土の多くを失い、国勢が衰えた。十一年(328)、後趙の石虎が来攻して大敗した。さらに石勒に攻められて敗れ、捕らえられて殺害された。 | |||||||||
キ準〔革+斤〕 | きん じゅん | ? - 318年 | |||||||
中国五胡十六国時代における漢(後の前趙)の政治家である。匈奴屠各種の系統の有力者である。劉粲を始め漢の皇族を虐殺し、漢天王を自称した。 漢の外戚 若い頃の事績は明らかになっていない。漢王朝に仕え、劉聡の時代には中護軍の地位にあった。彼には娘が少なくとも3人おり、その中でも?月光と?月華は殊色がある事で評判であった。 315年、劉聡は?準の屋敷へ赴くと、彼女らを後宮に迎え入れ、左右の貴嬪に立てた。その数か月後、?月光は皇后となり、さらに後に上皇后に立てられた。また、?月華は右皇后となり、末娘の?夫人もまた劉聡の世子である劉粲の妻となった。これにより?準は劉氏の外戚となり、権勢の一端を担うようになった。 同年、御史大夫陳元達は上奏し、?月光が淫行を為したとして弾劾した。劉聡は?月光を特に寵愛していたが、父の代からの功臣である陳元達の発言を無視するわけにもいかず、やむなく皇后から廃した。?月光はこの一件を大いに恥じ、間もなく自殺してしまったので、?準は陳元達を深く恨むようになった。 当時、宦官である中常侍王沈・中宮僕射郭猗・中黄門陵修らはみな劉聡から寵遇されており、315年頃より劉聡が政務を怠るようになると、彼らが朝政を仕切るようになっていた。王沈らの車・衣服・邸宅の豪華さは諸王を超え、良民を迫害して財貨を着服していたが、?準は彼らに媚び諂ったという。 キ準の従妹は皇太弟劉乂に侍女として仕えていたが、侍人と密通したことにより、劉乂の怒りを買って処刑された。これ以降、劉乂はこのことで度々?準を嘲笑したので、?準は深く恥じ入ると共に憤った。その為、彼は劉乂を皇太弟の地位から引きずり降ろそうと考え、劉聡の嫡男である劉粲の下へ赴いて「東宮(皇太子)は万事の補佐であるので、殿下(劉粲)こそがその地位に座るべきであります。また、殿下の世継ぎとして次の世代も早く決めておくべきです。大将軍(劉敷)と衛将軍(劉翼)が皇太弟(劉乂)を擁立して造反を起こすと言う話は、今や道行く人でさえ知っています。もしも皇太弟が天下を取ったら、殿下には身を入れる場所さえなくなってしまいますぞ。昔、孝成(成帝)は子政(王政君)の言を容れなかったために王氏(王莽)に簒逆を許すことになったのですが、殿下はそれでよいのですか」と問うと、劉粲は「許してよいはずがない」と答えた。これに?準は「その通りです。つきましては、殿下に伝えておかなければならないことがあります。噂によれば大将軍、衛将軍および左右輔はみな皇太弟を奉じて春に変を起こそうとしているとのことですから、殿下は備えをなされますように。そうしなければ禍を招くこととなるでしょう。また、主上(劉聡)は皇太弟を信じておられるので、おそらくは造反を告げても信じられないでしょう。一案として、東宮の禁固を緩めて皇太弟の賓客との交わりを許可するのです。皇太弟はもともと士を待遇することを好むので、必ずや疑うことなく人を招くでしょう。そうすれば、軽薄な小人は皇太后に近づいて謀反を持ち込むでしょう。後に私が殿下のためにその罪を暴露させるので、殿下が太宰と一緒に皇太弟と交流していた者を捕えて責めれば、主上もこれに罪があるとされるでしょう。そうしなければ、今や朝望は皇太弟に多く帰しているので、主上にもしものことがあれば殿下は恐らく立つことができないでしょう」と進言した。劉粲はその言葉を信じ、東宮を守っていた卜抽に命じ、兵を率いて東宮を去らせた。 316年7月、河東で蝗害が大発生した。?準は部下を率いてこの対処に当たり、蝗を捕らえて土の中に埋めたが、蝗は再び土中から飛び出して豆を食い荒らした。その鳴き声は十里余り遠方まで聞こえたといわれ、これにより平陽の飢饉はさらに悪化した。 317年3月、劉粲は王平に命じて「詔によれば都に異変が起ころうとしております。武具を集めて備えられますように」と、劉乂に向けて偽りの発言をさせた。劉乂はこれを信じ、宮臣に命じて宮殿に武具を集めさせた。劉粲は使者を?準・王沈のもとへ派遣して「王平によれば東宮で非常事態が起きているとのことだが、どうすべきか」と問うた。?準がこれを劉聡に報告すると、劉聡は大いに驚き「そのようなことがあるのか」と半信半疑であったが、王沈らが声を揃えて「臣らは久しくこのことを聞き知っておりましたが、陛下が信用されないことを恐れていたのです」と言うと、劉聡は遂に信じ、劉粲に命じて東宮を包囲させた。?準は劉粲の命により、?族・羌族の酋長10人余りを捕えて肉刑を加え、劉乂と共に反逆を謀ったと嘘の自白をさせた。またこの時、?準は普段から憎んでいた大臣および官属数十人を誅殺した。 4月、劉乂は廃されて北部王に降格となった。間もなく劉粲の命により、?準は刺客を放って劉乂を殺害した。 領内において再び蝗害が大発生し、特に平陽や冀州・雍州が最も酷く、?準がこれの対処にあたった。その最中、二人の子が突然死亡したという。 318年、劉聡が王沈の養女を左皇后に立てると、尚書令王鑒・中書監崔懿之らがこれを固く諫めた。劉聡は大怒し、劉粲に命じて彼らを捕らえて市に送った。刑の執行に際して崔懿之は王沈へ「?準の容姿を見るに必ずや国の患いとなるだろう。また、汝も人を食らったからには、必ずや人が汝を食らうだろう」と言い放ったという。 ?準の乱 6月、劉聡が崩御すると劉粲が即位した。次子の?月華は皇太后に立てられ、末子の?氏は皇后に立てられた。劉粲は日々歓楽に耽り、劉聡への哀傷の姿を見せなかったという。これを見た?準は密かに謀反を企むようになったという。 8月、?準は政権を掌握しようと思い、劉粲へ「聞くところによれば諸公が伊尹や霍光を真似て、まず太保(呼延晏)と臣を誅滅し、大司馬(劉驥)に万事を統率させようとしているとのことです。陛下はこれに先んじて手を打たれねば、禍に見舞われますぞ」と言った。しかし、劉粲はこれに従わなかった。?準は恐れて、二人の?夫人(?皇太后と?皇后)に対して「諸侯王は帝を廃して済南王(劉驥)を立てようとしている。おそらくわが一族は皆殺しにされてしまうであろう。このことを帝に申し上げるのだ」と言った。両?氏が機会を見てこれを申し上げたところ、劉粲はこれに同意し、太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉、大司馬・済南王劉驥、車騎大将軍・呉王劉逞、大司徒・斉王劉?らを捕らえると、全員処刑した。政敵のいなくなった?準は大将軍・録尚書事に任じられた。 劉粲は酒に溺れて後宮に入りびたりとなり、政務・軍務問わず?準が取り仕切るようになった。?準は劉粲の命だと偽り、従弟の?明を車騎将軍に、?康を衛将軍に任じた。金紫光禄大夫王延は徳望ある老臣であったことから、彼に謀反の計画を伝えたところ、王延はこれに従わずに朝廷へ報告すべく駆け込もうとした。?康は彼を捕らえ、身柄を?準のもとへ差し出した。 ?準は時機を見計らって決起すると、まず光極殿に上り、甲士に命じて劉粲・劉元公父子を捕えさせ、劉粲父子の罪状を数え上げた上でこれを処刑した。?準は劉氏を老若男女問わず全て東市に引き出して斬首し、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)を掘り返し、劉聡の屍を斬った上で宗廟を焼き払った。平陽では幽鬼の哭く声が百里に渡って響いたという。?準は大将軍・漢天王を名乗り、百官を任命した。 ?準は胡嵩へ「古来、胡人で天子になった者などいない。伝国璽を汝に渡すので、これを晋に返すのだ」と言った。だが、胡嵩は?準の命を受けなかったので、?準は誅殺した。?準は東晋の司州刺史李矩へ使者を派遣し「劉淵は屠各種の小醜であり、晋の乱れに乗じて天命を詐称し、二帝(懐帝と愍帝)を虜庭(蛮族の土地)に幽没させました。今、私が兵を従え、梓宮(皇帝の棺)を運びます。この事を朝廷に上聞されますよう」と述べた。李矩が元帝に報告すると、元帝は太常韓胤などを派遣して梓宮を迎え入れさせた。漢の尚書北宮純らは?準に反発し、旧臣を集めて東宮を守った。?康がこれを攻略すると、彼らを皆殺しにした。?準は王延を左光禄大夫に任じて同志に引き込もうとしたが、王延はこれを拒んで「貴様は逆賊である。我を殺すなら速やかに殺せ。そして、我が左目を西陽門に置くように。そうすれば相国(劉曜)がお前を滅ぼすのが見られるであろう。また、我が右目を建春門に置け。そうすれば大将軍(石勒)が入城するのを見られるであろう」と詰った。?準は怒って王延を処刑した。 相国の劉曜が?準の謀反を知ると、長安から平陽に向かった。大将軍の石勒も精鋭5万を率いて?準討伐を掲げ、襄陵北原に駐軍した。?準は石勒を攻撃したが、石勒は守りを固めて?準の鋭気を削いだ。 10月、劉曜が河東の赤壁に至ると、皇帝の位に即いて大赦を下した。ただし、?準一門は大赦から外された。北原に駐軍した石勒は平陽を攻撃し、巴?族・?族・羌族・羯族の人々が石勒に帰順した。石勒の動きに呼応して劉曜は征北将軍劉雅、鎮北将軍劉策を汾陰に駐軍させ、石勒と共に?準を討つよう命じた。 11月、?準は侍中卜泰を派遣し、石勒に乗輿や御服を贈って和睦を請うた。しかし、石勒は卜泰を捕えると劉曜に送った。劉曜は卜泰へ「先帝(劉粲)は確かに大倫を乱した。司空(?準)はただ伊尹や霍光に倣ってそれを誅しただけである。そのおかげで朕が即位できたので、司空には大功がある。もし朕を迎え入れるなら、今までの全てを許し、政事を任せるつもりだ。卿は朕のために城に帰り、朕の意思を伝えよ」と述べた。卜泰は平陽に帰ると?準へ事の次第を報告した。しかし、?準は劉氏の一族を皆殺しにしていたので、投降を躊躇った。 12月、左車騎将軍喬泰・右車騎将軍王騰・衛将軍?康らは、遂に?準を見限って殺害し、尚書令?明を新たな主君に立てた。?明らは卜泰を劉曜の陣営に派遣すると、伝国璽を返上し、平陽の士女1万5000人を率いて帰順した。だが、劉曜は?氏一族を許さず、老若男女問わず?氏一族は皆殺しとなった。この?準の乱をきっかけとして、漢は劉曜の前趙・石勒の後趙に分裂した。 |
|||||||||
劉 煕 | りゅう き | 313 - 329 | |||||||
五胡十六国時代の前趙の最後の皇太子。字は義光。5代皇帝の劉曜の第3子。母は羊献容。西晋の清河公主の異父弟。 318年10月、父の即位に伴い皇太子となった。本来は次子の劉胤が後継ぎであったが、?準の乱で行方不明となったために、代わって劉煕が立てられた。 323年、前涼が藩国になった後、黒匿郁鞠部に逃亡していた劉胤が帰って来ると、劉曜は涙を流して喜んだ。劉胤には風格が有り才知は突出していたことから、劉曜は劉胤を重んじ、朝臣も同じく期待を寄せた。劉曜は群臣を集めると、劉煕を廃して劉胤を新たに皇太子に立てるつもりであると言い、皆に意見を求めた。太傅の呼延晏らは皆賛成したが、左光禄大夫の卜泰、太子太保の韓広はこれに猛反対し、命を懸けて諫めた。さらに、劉胤は劉曜の御前で涙を流し、自らを劉煕の補佐に回してもらうよう求めた。 劉煕は、劉曜が寵愛していた羊氏が産んだ子であり、劉曜は次第に廃するのに忍びなくなり、結局廃立は取り止めとなった。劉煕には、劉胤に対して家人の礼を尽くすよう命じた。 328年12月、洛陽攻略中の劉曜が、石堪の急襲を受け大敗した。劉曜は石堪の兵に捕まり、石勒の下へと護送されると、しばらくした後に殺害された。 329年1月、劉曜が捕まった事を知った劉煕は衝撃を受け、劉胤、劉咸らと共に協議し、西の秦州へ遷都することを決めた。 尚書の胡勲はこれに反対したが、劉胤は怒って斬り殺してしまった。そして、劉煕らは百官を率いて上?へと撤退し、劉厚、劉策は守備を放棄して逃亡した。これにより、関中は騒乱に陥った。将軍の蒋英と辛恕は、兵数10万を擁して長安に拠ると、使者を派遣して石勒を招き入れようとした。石勒は、石生に洛陽の兵を与え、長安に向かわせた。 8月、劉胤と劉遵が兵数万を率いて石生の守る長安を攻撃すると、石勒は、虎に騎兵2万を与え、劉胤を迎え撃たせた。 9月、劉胤は石虎軍に破れて上?へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上?を攻め落とした。屍は1000里に渡って転がり、劉煕、劉胤を始め、将王公卿校以下3000人余りが生け捕られ、石虎に皆殺しにされた。石虎は、台省の文武官、関東の流民、秦雍の豪族9000人余りを襄国へと移し、王公と5郡の屠各5000人余りを、洛陽で生き埋めにした。ここに前趙は前身の漢の建国から26年目に滅亡した。 |
|||||||||
@前趙304−347 A成漢304−347 B前涼316―376 C後趙319−351 D前燕337−370 E前秦351−394 F後燕384−407 G後秦384−417 H後涼386−403 I西秦385−431 J南涼397−414 K南燕398−410 L西涼400−421 M 夏 407−431 N北燕407−436 O北涼397−439. |
|||||||||
2. 成漢 (304〜347) 304−439 | |||||||||
李 特 | り とく | ? - 303年 | 成漢建国の祖 | ||||||
西晋末年に活動した流民集団の首領であり、事実上の成漢建国の祖である。字は玄休。巴?族(巴?族)の出身であり、略陽郡臨渭県(現在の甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕。兄に李輔、弟に李庠と李流と李驤がいる。 ● 巴蜀へ避難 若くして州郡に仕えた。身長は八尺あり、見識を備え、勇猛であり騎射に長けていた。性格は穏やかであり、強固な意志と広い度量を持っていた。また、非常に義理堅く、弱きを助け強きをくじくことを善しとした。州内で彼と志を同じくする者は、すべて彼に帰属したという。 296年、?族の斉万年が晋朝に反乱を起こすと、関西は動乱に陥った。また、連年に渡り飢饉が続いていた為、略陽・天水を初め6郡の民は食糧を求めて流亡の身となり、数万家が漢川に逃げ込んだ。李特もこの時、兄弟と共にこの流民集団の中にあった。途中、病気や飢餓に苦しむ者が数多くいたが、李特兄弟はよくこれを援助し、その者たちを保護した為、大いに人望を得た。 流民達は漢中へたどり着いた後、巴蜀の地へ入り食糧を恵んでもらうよう請願したが、朝廷はこれを却下し、侍御史李?を派遣して流民達を慰労させると共に、剣閣へ入らないよう監視させた。だが、漢中へ入った李?は流民達から賄賂を貰ったので「流民達は十万人余りもおり、漢中一郡では救済できません。東の荊州に下ろうとしても、水の流れが急な上に舟がありません。蜀には食糧の備蓄が十分あり、民百姓は豊かな暮らしをしております。どうか流民達を蜀へ移住させ、この問題を解決してくださいますように。」と上表した。朝廷はこれに従い、流民達が益州・梁州の地に移ることを禁じなくなった。 李特は流民達と共に蜀へ移動し、その途上で剣閣に至った。そこから蜀の険阻な地を見下ろすと、嘆息して「劉禅はこのような地にありながら、降伏したというのか。何という愚かなことか!」と述べた。これを聞いた閻式・趙粛・李遠・任回らは、皆彼をただ者ではないと感じたという。その後、李特は流民達と共に益州へ入った。 趙欽の乱 300年11月、益州刺史の趙?は密かに蜀の地で独立しようと目論み、かつてこの地に割拠した劉氏(蜀漢)に倣い、官庫の食糧を流民達へ振舞って人心掌握に努めた。李特兄弟は武勇に優れ、配下はみな巴西の出身で趙?とは同郷であった為、趙?は特に彼らを厚遇して自らの側近とした。李特は趙?の後ろ盾を得ると、食糧を得る為に流民達をかき集め、強盗紛いの行為をするようになった。その為、蜀の人は彼らを甚だ恨んだ。 趙?は反乱を起こすと、成都内史耿滕を攻撃して彼を殺した。さらに、西夷校尉陳総へ兵を差し向けると、これも討伐した。その後、趙?は大都督・大将軍・益州牧を自称し、独断で役人を配置し、太守や県令を入れ換え、太平元年と改元した。李特の弟である李庠は趙?の腹心となり、流民1万人余りの勇士を統率して北道を遮断する任につくと、李特もこれに付き従った。 301年1月、趙?は李庠が勇猛であり強兵を率いていたのを恐れるようになり、理由をつけて彼を誅殺し、その子や宗族30人余りを処刑した。李特は李流と共に兵を率いて北道封鎖を続けていたので、趙?は李特らが反乱を起こすことを恐れ、使者を派遣して「李庠は人臣として言ってはならないことを口にした為に死罪となった。だが、この罪は兄弟には及ばない。」と諭した。また、李庠の屍を李特の下へ返還し、李特と李流を督将に任じて慰撫した。だが、李特は趙?を甚だ怨み、これに従わずに兵を率いて綿竹へ帰った。趙?は長史費遠・?為郡太守李?・督護常俊らに1万人余りの兵を与え、北道の封鎖を継続させた。彼らは綿竹の石亭に拠点を築いた。 李特は密かに七千人余りの兵を集めると、費遠の陣営を夜襲した。費遠軍は大敗を喫し、放火により陣営は焼き払われ、八・九割の兵が戦死した。李特はそのまま成都を目指して進撃した。趙?はこれを聞くと、大いに恐れて為す術を知らなかった。費遠・李?・軍諮祭酒張徴は夜の間に逃亡し、文武百官は離散した。趙?は妻子とともに小船に乗って広都まで逃げたが、従者の朱竺に殺害された。 李特は成都に入城すると、兵を放って略奪を許可し、西夷護軍姜発を殺害した。更に長史袁治を始め、趙?の任じた官吏を誅殺した。また、牙門王角と李基を洛陽へ派遣し、趙?の罪状を陳弁させた。 ● 羅尚と対立 趙欽の乱が鎮まると、朝廷は羅尚を平西将軍・領護西夷校尉・益州刺史に任じた。羅尚は牙門将王敦(東晋の王敦とは別人)・上庸都尉義?・蜀郡太守徐倹・広漢郡太守辛冉を初め七千人余りを伴い、蜀へ出発した。 李特らは羅尚の到来を聞くと非常に不安になり、弟の李驤を派遣して彼を出迎えさせ、珍品宝物を貢いだ。羅尚は大いに喜んで李驤を騎督に任じた。また、李特は李流と共に牛肉や酒を携えて綿竹に出向き、羅尚を慰労した。王敦・辛冉は共に羅尚へ「李特らは流民であり、盗賊を業としておりました。急ぎ除かなくてはなりません。何か理由を見つけて処刑するべきです。」と説いたが、羅尚はこの進言を容れなかった。辛冉は李特と古くからの知り合いであり、李特へ「旧知の仲がこうして会うのは、吉ではない。まさしく凶である。」と言い放った為、李特は大いに恐れ警戒するようになった。 同年3月、羅尚は成都へ入城した。朝廷は益州にいる流民達を秦州・雍州へ連れ戻す様通達を出し、彼らを監督させる為、御史馮該と張昌を派遣した。李特の兄の李輔はもともと郷里の略陽に留まっていたが、李特らを迎えに行くことを口実に蜀に入り、李特へ「北は大いに乱れており、帰還する意味はない。」と忠告した。李特は深く同意し、巴蜀の地に割拠する意志を持つようになった。李特は配下の閻式を羅尚の下へ幾度も派遣し、帰郷を秋まで延期するよう求めた。さらに、羅尚と馮該に賄賂を送ったので延期は許可された。朝廷は趙?を討伐した功績により、李特を宣威将軍・長楽郷侯に任じ、李流を奮威将軍・武陽侯に任じた。又、益州政府に命じて、六郡の流民で李特と共に乱の鎮圧に当たった者を列挙させ、封賞を加えようとした。辛冉はこれを不満に思い、趙?を滅ぼした功績を自らのものとしようとして、流民達の活躍を上言しなかった。その為、流民達は皆これを怨んだ。 辛冉は貪欲・乱暴な性格であり、流民の首領を殺してその資財を奪おうと目論み、李?と共に羅尚へ「流民共は趙?の乱に乗じて略奪を行いました。関所を設けてこれを取り返すべきです。」と進言した。羅尚はこれを受け、梓潼郡太守張演に手紙を送り、秦州や雍州に帰る途中の要所に関所を設けて流民の財産を調べさせた。 しばらく経ち、羅尚は従事を派遣して流民達へ7月までに故郷へ帰るように勧告した。李特は再び閻式を派遣し、秋の収穫が終わるまで退去の期限を延長してもらうよう固く要請した。しかし、辛冉と李?がこれに反対した。別駕杜?は流民の帰郷を一年待つよう進言したが、羅尚は辛冉らの意見に賛同した。杜?はかつて羅尚により秀才に推挙されたが、その時の推薦書を返上すると、辞職して家に帰った。 当時、流民の多くはは梁州や益州で力仕事に従事しており、州郡が自分達を追い返そうとしていると聞くと大いに怨んだが、皆どう対処していいか分からなかった。また、ちょうど大雨が降り続いていたので帰る手段もなく、まだ穀物も実っていない時期であった為に食糧も無かった。李特兄弟が自分達の為に請願していることを知ると、皆感動してこれを頼みとし、李特の下に集まるようになった。 そこで李特は綿竹に大きな陣営を築き、行き場のなくなった流民を保護した。そして、辛冉へこの事について寛大な措置を請うた。だが、辛冉はこれに激怒し、人を派遣して街道に立札を掛け、李特兄弟の首に重い懸賞金をかけた。李特はこれを知ると大いに驚き、立札を全て持ち去ると李驤と共に内容を改変し「六郡の豪族である李・任・閻・趙・楊・上官及び?族・叟族の侯王の首一つを送れば絹百匹を与えよう。」と書き換えてから立て直した。流民達はこの立札を見ると驚愕し、尽く李特に助けを求めた。1月もしないうちにその数は2万を超え、李流の下にも数千の民が集まった。 李特はまたも閻式を羅尚のもとに派遣し、期日を延ばすよう頼んだ。羅尚はこの時、流民達へ寛大な処遇をするよう考えており、閻式へ流民達を落ち着かせるよう伝えた。だが、辛冉が要所に囲いを設けて流民を捕らえる準備をしていたので、閻式はこれを見ると大いに嘆いた。閻式は綿竹に戻ると、李特へ「羅尚は寛大な対応を取ると言いましたが、信じ切ってはいけません。なぜなら、羅尚には威厳が無く、刑罰を明確にしていない為、辛冉らが強兵を独占しております。一度変事が起これば、羅尚には事態を収拾できないでしょう。十分に備えをしておくべきです。」と言い、李特は同意した。 ● 流民決起 10月、李特は陣営を二つ築き、李特自身は北営に、李流を東営に留まらせた。辛冉と李?はともに「羅侯(羅尚)は貪欲で決断力がない。今のままでは、ただ流民どもに姦計を成す時間を与えているだけだ。李特兄弟は武勇に優れており、我らは奴等の捕虜となるやもしれぬ。今すぐ策を実行に移すべきであり、羅尚は相談するに値しない。」と話し合った。そして、広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに密かに歩兵・騎兵3万を与え、李特の陣営を奇襲させた。羅尚はこれを聞くと、止むを得ず督護田佐を派遣し、曽元らを援護させた。李特は初めからこういう事態に陥ることを分かっていたので、武具を修繕し兵器を磨き、臨戦態勢で彼らを待ち構えていた。曽元等が流民の陣営に迫っても、李特は悠然として動かず、敵軍の半数が陣に侵入したところで伏兵に襲撃を命じた。これにより敵軍の大半を討ち果たし、田佐・曽元・張顕を戦死させた。そして彼らの首を羅尚・辛冉の下へ届った。羅尚は諸将へ「奴らはいずれ去るはずだったのだ。だが、広漢(太守の辛冉)の奴が独断で動き、敵の気勢を高めてしまった。こうなってしまった今、どうやって収拾をつけるというのだ!」と嘆いた。 ここにおいて、六郡の流民達は李特を首領に推した。部曲督李含・上?県令任臧・始昌県令閻式・諫議大夫李攀・陳倉県令李武・陰平県令李遠・将兵都尉楊褒らは上書し、梁統が竇融を推戴した故事に従い、李特を行鎮北大将軍に推挙し、正式な手順に則り爵位・官位を授けた。李特は李流に行鎮東将軍、東督護と名乗らせ、東営の流民を指揮させた。又、李輔を驃騎将軍、李驤を驍騎将軍に任じ、広漢を守る辛冉を攻撃させてその軍勢を幾度も破った。羅尚は李?と費遠を派遣して辛冉を救援させたが、彼らは李特を恐れて進軍しなかった。辛冉は連敗を続け、策も無く気力も尽き果てて江陽へ逃走した。李特は広漢に入城するとそこを拠点とし、李超を広漢郡太守に任じた。 その後、さらに兵を進めて成都へ向かい、羅尚を攻撃した。羅尚は閻式へ手紙を送り李特らを説得するよう求めたが、閻式は聞き入れなかった。羅尚は城郭にひきこもって固く守り、梁州・寧州に救援を求めた。 李特は長子の李始を武威将軍に、次子の李蕩を鎮軍将軍に、少子の李雄を前将軍に、李含を西夷校尉に任じた。また、李含の子の李国・李離・任回・李恭・上官晶・李攀・費佗らを将帥とし、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達、麹?ら爪牙とし、李遠・李博・夕斌・厳?・上官g・李濤・王懐らを僚属とし、閻式を謀主とし、何巨・趙粛を腹心とした。 羅尚は貪欲かつ残忍であったため民衆に嫌われていた。一方で、李特は法を緩めて簡略にし、貧民には施しを与えて労役を軽減し、賢者を礼遇し不遇の士を取り立て、軍規や政務は粛然としていた。そのため、蜀の民衆は「李特は良いが、羅尚は我らを殺す。」と謡い、李特を支持した。 羅尚は李特に連戦連敗を喫し、都安から?水まで水路に沿って七百里に渡る陣を築き李特と対峙した。また、梁州と南夷校尉に援軍を求めた。 302年、河間王司馬?は李特討伐の為、督護衛博を梓潼へ進軍させ、朝廷は張徴を広漢郡太守に任じて徳陽へ進軍させた。さらに、南夷校尉李毅は兵5千を派遣して羅尚を救援させた。羅尚は督護張亀を繁城へ派遣した。李特は、李蕩・李雄を陽?へ派遣して衛博を攻撃させた。そして連日争った結果、これを撃破して敵軍の大半を殺した。恐れた梓潼郡太守張演は城を捨てて逃走した。李特自身も張亀を攻撃し、これを大いに打ち破った。李蕩は衛博を追撃して漢徳に至ると、衛博は葭萌へ逃走した。李蕩は進軍を続けて巴西を攻撃すると、巴西丞毛植・五官襄珍は郡をもって李蕩に降伏した。李蕩は降した郡を慰撫した為、民衆は大いに安心した。李蕩がさらに軍を進めて葭萌を攻撃すると、衛博はさらに遠く逃れ、彼の軍はみな李蕩に降伏した。司馬?は新たに許雄を梁州刺史に任じ、李特討伐に当たらせた。 この後、李特は大将軍・大都督・梁益二州諸軍事・益州牧を自称した。 8月、李特は軍を進めて張徴を攻撃した。張徴は険阻な地に拠って李特と連日対峙した。この時、李特は軍を半分に分けて李蕩に率いさせており、張徴は李特の陣営が手薄であると知り、山に沿って歩兵を派遣し攻撃した。李特は迎撃したが不利に陥り、地勢にも阻まれ為す術が無かった。羅準・任道らは撤退を進言したが、李特は李蕩の救援を信じておりにこれを認めなかった。李蕩は救援に駆け付けると死に物狂いで奮戦し、迎え撃って来た張徴の軍を壊滅させて李特を救った。張徴が退却しようとすると、李特はこれを見逃して?へ還そうと思ったが、李蕩と司馬王辛は「張徴の軍は連戦して士卒は傷ついており、智勇ともに尽きております。これに乗じて捕虜とすべきです。もしこれを逃がせば、張徴は疲人を養い死者を回収し、他の軍と合流してしまうでしょう。そうなれば、容易に対処することは叶わなくなります。」と進言した。李特はこれに従い、再び張徴を攻撃し、張徴は包囲を抜けて逃走を図った。李蕩は水陸の両面からこれを追撃し、張徴を殺害した。さらに、張徴の子である張存も生け捕りにしたが、張徴の遺体を彼に渡して帰らせてやった。 同時期、李特は騫碩を徳陽郡太守に任じると、騫碩は巴郡の?江まで軍を進め、この地を占領した。 李特は李驤に命じ、李攀・任回・李恭と共に?橋に駐軍させて羅尚への備えとした。羅尚は迎撃に出るも、李驤らはこれを破った。羅尚が再度数千人を派遣すると、李驤はまたこれを破って武器を奪い、敵の陣門を焼いた。李流は軍を進めて成都の北に軍を置いた。羅尚は配下の張興を派遣し、李驤に偽装投降して軍中の様子を観察させた。李驤の軍は2千人に満たないのを知ると、張興は宵闇に乗じて陣営から逃げ、このことを羅尚へ報告した。羅尚は精鋭1万人余りを李驤攻撃の為に派遣し、張興に案内をさせた。彼らは口に銜枚を含むと、李驤の陣営を夜襲した。これにより李攀は迎撃するも戦死し、李驤は将士とともに李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると、進んできた羅尚軍を迎撃し、大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかった。梁州刺史許雄も軍を派遣して李特を攻撃したが、李特はこれを破った。 303年1月、李特は進撃して羅尚の水上軍を破ると、成都へ侵攻した。蜀郡太守徐倹は成都少城を挙げて降伏し、李特は李瑾を蜀郡太守に任じてこれを慰撫させた。李特は少城へ入城すると、年号を建初と定めて自立を宣言し、その勢力圏内に大赦を下した[2]。城内で馬を徴発して軍馬にしたが、それ以外の略奪は行わなかった。羅尚は成都太城に籠城し、守りを固めた。李流が進んで江西に屯すると、羅尚は大いに恐れ、使者を派遣して講和を求めた。 ● 討死 蜀の人々は大いに李特を恐れ、皆集落を築いて李特へ命を請うた。李特は使者を派遣してこれを安撫し、彼らの為に食糧を供出した。その為、軍中は食糧不足となり、これを解消するために六郡の流民を各地の集落へ分散させた。李流は李特へ「各集落は投降してきたばかりで、未だ人心は安定しておりません。豪族の子弟を人質にとり、不慮の事態に備えておくべきです。」と進言した。李特の司馬上官惇も手紙を送り「彼らを容易く受け入れるのは、敵を懐へ入れるのも同じです。油断してはなりません。」と忠告した。また、前将軍李雄も李特へ警戒するよう進言したが、李特は怒り「大事は既に完成しているのだ。次は民を安心させるべき時なのに、なぜ彼等を疑って離反を招く必要があるのだ。」と反論した。 恵帝は荊州刺史宋岱・建平郡太守孫阜に水軍3万を与えて羅尚を救援させた。宗岱は孫阜を先鋒に任じて徳陽に進ませた。李特は李蕩と蜀郡太守李?を派遣して徳陽郡太守任臧を救援させた。宗岱と孫阜の軍は士気が高く勢いがあり、李特に降ったばかりの各集落には二心があった。益州兵曹従事任叡は羅尚へ「李特は悪逆であり、民衆に対して暴虐な振る舞いをしております。また、兵を分散させて各々の集落へ配備しており、自らへの備えをなしておりません。天が彼を滅ぼそうとしているのです。各地の集落に告げ、日を選んで内外から攻撃すれば必ず破ることが出来るでしょう。」と進言した。羅尚は夜の間に任叡を集落へ派遣し、2月10日に同時に李特を攻撃するよう命令を下した。更に、任叡は偽って李特に投降した。李特が成都太城内の様子を聞くと、任叡は「食糧はすでに尽きかけており、財物と布絹があるのみです。」と答えて李特を油断させた。さらに家へ戻ることを求めると、李特はこれを許した。任叡は陣営を出ると成都太城に帰り、李特の状況を羅尚に報告した。 2月、羅尚は大軍を派遣して李特の陣営へ総攻撃を掛け、2日に渡って争った。これに各集落が一斉に呼応した為、兵が少なかった李特は大敗を喫し、敗残兵を纏め上げると新繁に退いた。羅尚の軍が撤退すると、李特は転進して追撃し、三十里余りに渡って転戦した。だが、羅尚が再び大軍を率いて迎撃すると、李特の軍は大いに打ち破られ、李特は戦死した。李輔・李遠も討ち取られた。李特の屍は焼き払われ、首は洛陽へ送られた。弟の李流が後を引き継いだ。 後に子の李雄が王位に即くと李特は景王と諡され、李雄が帝位に即くと追尊して景皇帝と諡され、廟号は始祖といった。 |
|||||||||
李 流 | り りゅう | (?〜303) | |||||||
西晋末年に活動した流民集団の首領であり、成漢の基礎を作った人物の一人である。巴?族(巴?族)の出身であり、略陽郡臨渭県(現在の甘粛省秦安県の東南)の人。父は東羌猟将の李慕、兄に李輔、李特、李庠がおり、弟に李驤がいる。李特の死後、跡を継いで残された集団を率いた。 李特の下で 幼い頃より学問を好み、弓馬の扱いに長けていた。東羌校尉の何攀は、李流を賁育(孟賁と夏育)の勇があると称賛し、東羌督に任じた。 296年、?族の斉万年が晋朝に反乱を起こすと、略陽・天水を初め6郡の民は食糧を求めて益州へ避難した。李流も兄弟と共に益州へ移った。途中、病気や飢餓に苦しむ者が数多くいたが、李流らはよくこれを援助し、その者たちを保護した為、大いに人望を得た。 益州に避難すると、益州刺史趙?は彼を人並み外れた器であると称賛した。李流と彼の兄弟は武勇に優れており、配下は皆巴西の出身で趙?とは同郷であった為、趙?は彼らを厚遇し、自らの爪牙とした。 302年1月、趙?が乱を起こすと、兄の李庠は腹心となり、流民の中から1万人余りの兵を束ねた。この時、李流も郷里の子弟を招いて数千人を集めた。 後に、趙?は李庠の勇名を恐れ、呼び出して誅殺した。李流は兵を率いて李特と共に北道封鎖を行っていたが、趙?は李特と李流が反乱を起こすことを恐れ、使者を派遣して「李庠は人臣として言ってはならないことを口にした為に死罪となった。だが、この罪は兄弟には及ばない。」と諭した。また、李庠の屍を李特の下へ返還し、李特と李流を督将に任じ、彼らとその配下を宥めた。だが、李特は趙?を甚だ怨み、兵を率いて綿竹へ帰り、李流もこれに従って流民を慰撫した。 李特が趙?討伐の兵を挙げると、李流は常俊を綿竹において破り、そのまま進撃して成都を平定した。朝廷は功績を称えて、李流を奮武将軍に任じ、武陽侯に封じた。 3月、新任の益州刺史羅尚が着任すると、秦州・雍州から避難してきた流民達を追い返そうとした。李特は、綿竹に大きな陣営を築き、行き場のなくなった流民達を収容した。この時、李流の下にも数千の民が集まった。 10月、李特は陣営を二つに分け、李特自身は北営に、李流を東営に留まらせた。李特が羅尚と対立するようになると、李流を行鎮東将軍・東督護と名乗らせ、東営の流民を指揮させた。李特は常に精鋭を李流に率いさせ、羅尚と対峙させた。 李特軍は戦況を有利に進め、李流は軍を進めて成都の北に軍を置いた。弟の李驤は李攀・任回・李恭と共に?橋に駐軍して羅尚へ備えていたが、羅尚は精鋭一万人余りを李驤攻撃の為に派遣し、李驤の陣営を夜襲した。これにより李攀は迎撃するも戦死し、李驤は将士とともに李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると、進んできた羅尚軍を迎撃し、大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は十人のうち一、二人に過ぎなかった。 303年1月、李特が成都少城を陥落させると、年号を建初と定めて自立を宣言した。羅尚は成都大城に籠城し、守りを固めた。李流が進んで江西に駐屯すると、羅尚は大いに恐れ、使者を派遣して講和を求めた。 蜀の人々は大いに李特を恐れ、皆集落を築いて李特へ命を請うた。李特は使者を派遣してこれを安撫し、食糧を供出した。その為、軍中は食糧不足となり、これを解消するために六郡の流民を各地の集落へ分散させた。李流は李特へ「殿下の神武により、小城において勝利されました。ですが、山からの収穫はまで得ておらず、食糧も多くはありません。また、各集落は投降してきたばかりで、未だ人心は安定しておりません。豪族の子弟を人質にとり、広漢の両陣営に移らせ、精強な者を集めて防備を固めておくべきです。」と進言した。だが、李特はこれに従わなかった。 後を継ぐ 2月、羅尚は大軍を派遣して李特の陣営へ総攻撃を掛け、これに各集落が一斉に呼応した為、兵が少なかった李特は大敗を喫して戦死した。李特が死ぬと、蜀の人は多くが離反した為、流民達は大いに恐れた。李流は、李特の子である李蕩と李雄と共に兵を束ねて赤祖へ撤退すると、自身は東営を守り、李蕩と李雄には北営を守らせた。その後、李特を継いで大将軍・大都督・益州牧を称した。 荊州刺史宋岱が李流討伐の為に水軍三万を?江へ進出させると、前鋒の孫阜は徳陽を攻略し、李特が置いた守将騫碩を捕えた。太守の任臧らは撤退して?陵に屯した。 3月、羅尚は督護の常深を?橋へ派遣し、さらに牙門の左氾・黄?・何沖を派遣して、三道から北営を攻撃した。さらに?陵の民である薬紳がこれに呼応し、李流を攻撃した。李流と李驤は晋軍に、李蕩と李雄は薬紳に対した。李流は薬紳を打ち破ると、そのまま常深の陣を攻めてこれに勝ち、常深の士卒は四散した。何沖が北営を攻撃すると、営内にいた?族の苻成と隗伯が呼応した。それを知った李蕩の母である羅氏は、自ら甲冑をまとって戦いに臨んだ。隗伯が羅氏の目を斬ったが、羅氏はひるまず戦った。ちょうどその時、李流らが引き返してきた為、北営に入って大勝した。苻成と隗伯は部衆を率いて羅尚の下に奔った。 李流は軍を進めて成都に迫ると、羅尚は閉門して守りを固めた。李蕩は馬を馳せて苻成らを追撃したが、倚矛により傷を負って戦死した。李流は李特・李蕩が立て続けに戦死した上に、宋岱・孫阜の軍が近づいて来た為、非常に恐れた。太守の李含が李流に降伏を勧めると、李流はこれに従おうとした。李雄と李驤はこれに強く反対したが、李流はこれを認めなかった。 5月、李流は子の李世と李含の子の李胡を孫阜の軍に人質として派遣した。李胡の兄の李離は、父の李含が降伏しようとしていると聞いて梓潼から馳せ戻り、諫めようとしたが聞き入れられなかった。 李雄は李離と共に独断で孫阜軍を攻撃するとこれに大勝し、宗岱も?江で死去した為、荊州軍は撤退した。李流は自らの判断が間違っていたことを深く反省し、李雄の才覚を認めるようになり、彼に軍事を任せるようになった。 6月、李雄は羅尚の軍を攻撃した。これを受けて羅尚は大城に籠った為、李雄は江を渡って?山郡太守の陳図を攻撃して彼を殺害すると、遂に?城に入った。 7月、李流は陣営を移して?城を拠点とした。だが、三蜀(蜀郡、広漢郡、?為郡)の民衆は皆、乱を避けるため険阻な地に籠って集落を築くか、または南の寧州や東の荊州に逃走しており、城内は全て空となっていた。その為、李流は食糧を得ることが出来ず、士卒は飢えに苦しんだ。 この時、?陵の范長生は千家余りを率いて青城山に拠点を築いていた。羅尚の参軍である?陵の徐?は范長生を?山郡太守に任じ、彼と呼応して李流を討つことを望んだ。だが、羅尚はこれを許さなかった。徐?はこれを怨み、江西へ使者を遣わして李流に降った。李流は徐?を安西将軍に任じた。徐?は范長生らを説き伏せ、李流に軍糧を供給させた為、李流軍は息を吹き返した。 李流は事ある毎に、李雄には長者の徳があると言いって彼を重んじた。また、「我が家を興す者は、必ずこの人である。」と述べ、諸子に命じて李雄を尊奉じさせた。 9月、李流は病が篤くなり、諸将に向かって「驍騎(李雄)は高明で仁愛であり、並外れた見識と決断力を持っている。正に、大事をなすに足る才能がある。前軍(李雄)の英武は天から与えられたものである。軍を束ねて天命に従い、成都王に推戴するのだ。」と遺し、子の李世を差し置いて李雄を後継者に指名し、間もなく死去した。享年56であった。諸将はともに李雄を立てて君主とした。 後に李雄が皇帝位に即くと、李流を追諡して秦文王とした。 |
|||||||||
李雄 | りゆう | 273〜334 | 成漢の太宗武帝。在位304〜334。 | ||||||
字は仲儁。成漢の太宗武帝。在位304〜334。略陽郡臨渭の人。巴?族の出身。李特の三男。李雄の母は大蛇が身にまとわりつく夢を見て李雄を孕んだという。西晋末に父李特が流民を率いて晋朝に反抗すると、前将軍となった。父の死後、叔父の李流が跡を継いだが、数ヶ月で病死し、李雄が首長となった。大都督・大将軍・益州牧を称し、晋に奪われた成都を奪還した。建初二年(304)、成都王を称し、建興と建元した。翌年には帝を称し、晏平と改元し、国号を大成とした。晏平六年(311)、李驤を遣わして?城を奪い、玉衡と改元した。刑罰法令を簡略にし、夫役を軽減して、民心を定めた。治世の三十年間善政を布いたので、「時に海内大乱なるも、蜀のみひとり事なし」といわれた。 | |||||||||
范長生 | はんちょうせい | ?〜318 | 天文術数 | ||||||
もとの名は延久、字は元。?陵郡丹興の人。博学で天文術数をよくした。天師道の首領となり、西晋末年に数千家を率いて青城山に拠った。李流の軍が飢えに苦しんだとき、軍糧を支援した。李雄は范長生が蜀人の間に声望があったため、君主として擁立しようとしたが、范長生はかえって李雄に自立を勧めた。李雄が成都王を称すると、丞相となり、范賢と尊称された。李雄が帝位につくと、四時八節天地太師と加号され、西山侯に封ぜられた。蜀人に神のように尊崇され、齢百歳近くして亡くなった。 | |||||||||
李驤 | りじょう | ?〜328 | 献皇帝 | ||||||
字は玄龍。李特の弟。李特が鎮北大将軍を称すると、驍騎将軍に任ぜられた。しばしば晋軍と戦い、功を挙げた。李特の死後、李流は晋に降ろうとしたが、李雄とともに反対した。李雄が成都王を自称すると、太傅となった。玉衡八年(318)、梁州刺史李鳳が巴西で叛くと、これを討ち滅ぼした。李雄の寛政を助け、生産を回復させ、文教を興し、学官を立てた。十八年(328)に没した。のちに子の李寿が帝位についたため、献皇帝と追尊された。 | |||||||||
李班 | りはん | 287〜334 | 成漢の哀帝 | ||||||
字は世文。成漢の哀帝。在位334。李蕩の四男。叔父の李雄の養子となった。玉衡十四年(324)、李雄が衆議に反して太子に立てた。下士に対して恭謙で、古制を守った。二十四年(334)、李雄が没すると、跡が継いで帝を称した。政治を李寿らに委ねて、喪礼を守った。李越・李期らが位を奪わんと起兵したため、ついに殯宮で殺された。 | |||||||||
李期(314〜338) 字は世運。成漢の廃帝。在位334〜338。李雄の四男。はじめ安東将軍となる。玉衡二十四年(334)、李雄が没すると、太子の李班が継いだが、李班が李雄の子でないのに不満を抱き、兄の李越とともに李班を弑し、帝を称した。旧臣を軽視し、阿諛の徒を寵遇して、朝政は乱れた。漢王李寿が禍がおのれに及ぶのをおそれて?城に起兵し、歩騎一万で成都を襲った。李寿は太后の令と偽って李期を廃して?都県令とし、別宮に幽閉した。のち殺された。 |
|||||||||
李寿(300〜343) 字は武考。成漢の中宗昭文帝。在位338〜343。李驤の子。李雄が成都王を称したころ、母とともに晋の羅尚に捕らえられた。晏平五年(310)、釈放された。玉衡七年(317)、前将軍・督巴西軍事に任ぜられ、のち征東将軍となった。十八年(328)、大将軍・大都督・侍中に進み、扶風公に封ぜられた。二十三年(333)、寧州を落とし、南中の地を征服した。建寧王に封ぜられた。李雄の遺詔により輔政にあたることとなり、李班が立つと録尚書事となった。李期が立つと、漢王に改封され、?城に鎮した。寵臣の李越・景騫らに憎まれたため、禍が及ぶのをおそれ、玉桓四年(338)についに起兵して成都を襲った。李期を廃して自ら帝を称した。国号を漢と改め、漢興と改元した。李雄の旧臣や六郡出身の人々は排斥された。石虎と連合して東晋を攻めようと企て、群臣に諫められた。奢侈を好み、宮室の増修築を繰り返したため、百姓は使役に苦しんだ。大臣で直諫する者はみな誅された。 |
|||||||||
李勢(?〜361) 字は子仁。成漢の後主。在位343〜347。李寿の長男。李寿が没すると帝位についた。弟の李広を太弟に立てたが、のち自殺させた。荒淫にして政治をかえりみず、刑罰を濫用したため、国が傾いていった。嘉寧二年(347)、東晋の桓温の征討を受け、兵敗れて降り、成漢は滅んだ。東晋より帰義侯に封ぜられて、のち建康で没した。 |
|||||||||
@前趙304−347 A成漢304−347 B前涼316―376 C後趙319−351 D前燕337−370 E前秦351−394 F後燕384−407 G後秦384−417 H後涼386−403 I西秦385−431 J南涼397−414 K南燕398−410 L西涼400−421 M 夏 407−431 N北燕407−436 O北涼397−439. |
|||||||||
東3.前涼 (316〜376)317−420 | |||||||||
張 軌(ちょう き 255年 - 314年)は、五胡十六国時代の前涼の創建者。安定郡烏氏県(現在の甘粛省平涼市川県)の人。父は太官令の張温。母は隴西郡の辛氏。祖父は外黄県令の張烈。前漢初期の趙王張耳の17世孫に当たると伝わる。 ● 若き日 張軌の家系は代々孝廉に推挙され、儒学を専攻していたことで著名であった。張軌は幼い頃から聡明で学問を好み、その才能と人望で世間の評判であった。また、上品であり威厳のある風貌をしていたという。同郡の皇甫謐とは非常に仲が良く、仕官する前は宣陽の女几山で共に隠居生活をしていた。 265年、恩蔭制度(任子)により叔父の五品官を継ぎ、洛陽へ入った。 ある時、中書監張華より招聘を受け、経書を交えて政事の利害を互いに論じ合った。張華は彼の見識を高く評価すると共に、言葉遣いや人となりも称え、二品官と比べても非常に優秀であると感じた。同時に、張華の様な人物がこれまで埋もれていた事から、安定郡の中正官(人材を見極めて適正に評価する官職)が正しく職務を果たしていないことを痛感したという。 その後、衛将軍楊?に召し出されて属官となり、太子舎人に任じられた。やがて昇進して散騎常侍・征西軍司に任じられた。 ● 河西に拠る 八王の乱により洛陽が乱れると、張軌は難を避ける為、密かに河西の地に拠ることを考えるようになった。その吉凶を見定める為に占いを行うと、六十四卦のうち泰卦と観卦を同時に得た。この結果に、張軌は蓍(占いに用いる細い棒)を放り出して大喜びし「これは覇者の吉兆である」と述べ、朝廷へ上表して涼州刺史の地位を求めた。公卿大臣もまた張軌の才能が有れば十分に遠方を治めることが出来ると評価し、彼の要請に賛同した。301年、要求が認められ、張軌は涼州刺史・護羌校尉に任じられた。 当時、涼州では鮮卑が反乱を起こしており、強盗・略奪行為が横行していた。張軌は着任すると瞬く間にこれを討伐し、1万人余りを討伐した。その威名は涼州に轟き、河西においては大いに教化が進められたという。 張軌は宋配・陰充・氾?・陰澹らを左右の謀主とし、九郡貴族の子弟5百人を召した。また、学校設立を積極的に推し進め、崇文祭酒(文化事業を行う部門を監督する役職)を設置して別駕と同等の地位とした。春秋には郷射の礼(一般の者から才覚有る者を取り立てる行為)を行い、広く人材を抜擢した。秘書監繆世徴・少府摯虞は天文を観測すると「天下は乱れきっており、避難するのはただ涼州の地のみである。張刺史(張軌)は徳行・度量共に非凡であり、まさに人の上に立つ人物ではないか」と述べ、張軌を称えた。 304年、洛陽で河間王司馬?・成都王司馬穎が専横を極めるようになると、張軌は3千の兵を洛陽へ派遣して恵帝の護衛に当たらせた。 305年6月、隴西郡太守韓稚は秦州刺史張輔と対立するようになると、子の韓朴に兵を与えて張輔を攻撃させ、殺害してしまった。少府司馬楊胤は張軌へ「今、韓稚は朝廷の命に背き、独断で張輔を殺しました。明公(張軌)は重兵を配備して守りを固めると共に、不法の徒を罰するべきです。これは『春秋』にも提唱されている大義です。春秋の諸侯が互いに殺し合い領土を奪い合うと、斉の桓公はこれを止めることが出来ず、これを恥としたと言います」と進言した。張軌はこれに従い、中督護軍氾?に2万の兵を与えて討伐に当たらせた。同時に、使者を派遣して韓稚に1通の手紙を届け「今、朝廷の綱紀が乱れており、各地の諸侯は力を合わせてこれを支えるべきである。雍州からの報告によれば、汝は兵を起こして内紛を招いたとある。我には里人を監督統治する一方、反逆の徒を討伐する義務がある。そのために今、3万の将士を絶え間なく進ませているが、旧友である汝が殺された痛みは言葉にできるものではない。古来より戦というのは国を保つことが上策であり、汝がもし単身で軍門に来て謝罪するならば、共に世の難を平らげることが出来るだろう」と述べた。韓稚はその書を受け取ると降伏した。 同年、鮮卑の若羅抜能が反乱を起こすと、張軌は司馬宋配を派遣してこれを討伐させた。宋配は若羅抜能を斬り殺すと、10万戸余りを捕らえて帰還した。これにより張軌の威徳はさらに知れ渡ったという。 恵帝は使者を派遣して張軌を慰労し、安西将軍に任じて安楽郷侯に封じ、さらに食邑千戸を加えた。これを受け、張軌は治所である姑臧城を大規模に改修した。この城はもともと匈奴が築いたものであり、南北七里・東西三里に渡り、龍の形をしていたために、臥龍城とも称された。 張軌は関中を鎮守する南陽王司馬模のもとに主簿令狐亜を派遣し、礼物を贈った。司馬模はひどく喜び、帝から賜った剣を張軌へ贈ると「隴より以西においては、征伐の一切を汝に委ねよう。それはこの剣と同様である」と言った。 ● 張越の乱 308年2月、張軌は中風を患い会話が不自由となり、息子の張茂が州事を代行するようになった。 晋昌郡の張越は涼州の豪族であり、隴西の内史を勤めていた。ある時、彼は張氏が涼州の覇者となるという予言を聞いたが、自らの才能を過信していたので、自分のことを言っているに違いないと考えた。やがて張越は梁州刺史に昇進したが、涼州を統べる志があった為、病だと称して河西に戻った。さらに、密かに張軌を引きずりおろして自らが取って代わろうと謀り、兄である酒泉郡太守張鎮、尚書侍郎曹?と共に水面下で画策した。そして、秦州刺史賈龕を仲間に引き入れると、まずは張軌と賈龕の刺史の地位を交代させようとした。張軌の別駕である麹晁もまた権勢を手中に収めたかったので、張越の企みに協力した。彼らは長安を統治する南陽王司馬模のもとへ使者を派遣し、張軌が重病であることを訴え、秦州刺史賈龕を後任とするよう願い出た。さらに、密かに洛陽へ使者を送り、曹?を西平郡太守に任じるよう請うた。これにより、互いに呼応して乱を為そうとした。 賈龕はこれを受けて任官の準備をしていたが、彼の兄は「張公(張軌)は当代きっての名士であり、威名は涼州で際立っている。おまえは何の徳があって代わりに受けるというのか」と諫めた。これにより賈龕は考えを改め、その地位を辞退した。 賈龕の辞退を受け、張鎮・曹?は朝廷へ正式に新しい涼州刺史を派遣するよう上表した。またその返答が来る前に、張越は張鎮・曹?・麹儒らを各郡へ派遣し、張軌を廃して軍司杜耽に州事を代行させる旨の檄文を送った。杜耽は朝廷へ上表し、張越を涼州刺史に任じるよう求めた。 これらの事が張軌の耳に入ると「我は八年に渡って涼州にあったが、地方を安定させることが出来ずにいる。中原は反乱軍共により乱され、秦隴の地も危急の時を迎えている。加えて我の病状は日に日に重くなっており、賢人に職務を譲って隠居することを真剣に考えていた。ただ、任務が重大であるために、すぐにその望みをかなえてやることが出来なかった。図らずもこのような事変が起きてしまい、我の心が明らかになっていないようだ。我は、涼州を離れる事を靴を脱ぐくらいにしか思っていない」と述べ、宜陽に隠遁しようと考えて馬車を準備させ、また朝廷へ使者を派遣して職を辞す旨を伝えようとした。だが、長史王融・参軍孟暢は張鎮の送ってきた文書を踏みにじると「晋室で変事が相次ぎ、人民は塗炭の苦しみを味わっており、みな明公が西方を安撫することを期待しております。張鎮兄弟は厚かましくも凶逆の限りを尽くしており、その罪を明らかにして誅滅するのが当然であります。彼らの野望を成就させてはなりません」と諫めると、張軌は黙り込んでしまった。王融らは戒厳令を敷くと、逆に張越らの討伐を呼びかける檄文を近隣の地に回した。 ちょうどその頃、張軌の長男張寔が洛陽から帰ってきた。王融と孟陽の勧めにより、張軌は張寔を中督護に任じ、張鎮討伐に当たらせることを決めた。同時に張鎮の外甥である太府主簿令狐亜を張鎮の下へ派遣し、張鎮を説得させた。令狐亜は「叔父上は時期と情勢を見定め、よく考えて行動を起こされるべきです。張公は涼州において徳望が高く、雲霞の如く兵馬を有し、烈火さながら燃え滾っております。にもかかわらず、叔父上は江漢の水を待って火を鎮めんと図り、洪水に飲まれております。越地の人が来るのを期待しているようですが、力不足ではないでしょうか。今、数万の大軍が城下に迫っておりますが、誠心誠意に州府に帰順するのであれば、一族の平安は永く続き、家族の幸福は保たれるでしょう」と諭した。張鎮は号泣して「奴らのせいで我は誤まったのだ」と述べ、その罪を功曹魯連に帰して斬首すると、張寔の下へ赴いて謝罪した。だが、張越・曹?は未だに張軌に従わなかった。その為、張寔は軍を率いて南進すると、曹?を攻撃してこれを敗走させた。 この頃、朝廷は以前に張鎮らから受けていた上表を認め、張軌を更迭して侍中袁瑜を後任の涼州刺史に任じた。これを聞いた治中楊澹は馬を駆けて長安へ至り、自分の耳を切り落とし皿の上に置いて、張軌が貶められていると司馬模へ訴えた。司馬模はこの要請を入れ受け、上表してこの人事を止めさせるよう朝廷へ求めた。同時期、武威郡太守張?は子の張坦に駿馬を与えて洛陽へ向かわせ、張軌の更迭を思いとどまるよう請願させた。張坦は朝廷に赴くと、上表して「魏尚は辺境を安定させるも罪を得て、趙充国は忠を尽くすも貶められました。これらは全て前代の歴史においても嘲りの対象とされており、現在の教訓としなくてはなりません。順陽の吏民は太守の劉陶を懐かしく思っており、彼の為に墓を守る者が千人に達しております。張刺史が涼州を統治するようになると、あたかも慈母が赤子を育てるが如く振る舞ったために、涼州の百姓は彼を敬愛しております。それはあたかも乾季に穀物の苗が恵みの雨を迎えるが如しであります。朝廷が刺史が交代させるという噂が涼州に流れており、庶民は父母を失うかのように慌てふためいております。今、胡人が華夏を乱している中で、地方を?き乱すのは得策ではありません」と述べた。懐帝は司馬模の上表と張坦の請願を受け入れ、詔を下して張軌を慰労すると共に、曹?の討伐を命じた。張坦はこの詔を持って洛陽から急いで引き返すと、張軌は大いに喜び、州内の死罪以下に大赦を下した。また、張寔に尹員・宋配を初め歩騎3万余りを与え、曹?の討伐を命じた。さらに、従事田迥・王豊には8百の騎兵を与え、姑臧の西南から石驢山に出て、長寧に進ませた。曹?は麹晁を黄阪に派遣して張寔を迎え撃たせた。張寔は密かに小道より浩?へ出て、破羌において曹?と交戦すると、牙門将田囂を斬り殺し、さらに曹?を討ち取った。曹?の討死を聞いた張越は大いに恐れて逃走したので、涼州の騒動は鎮まった。 314年2月、愍帝は大鴻臚辛攀を張軌の下へ派遣し、拝礼した。張軌は侍中・太尉・涼州牧に任じられ、西平郡公に封じられたが、侍中・太尉・涼州牧については固辞した。また、既に老齢に差し掛かっていたために、息子の張寔を副刺史に任命した。 5月、張軌は病のために、病床へ伏すようになると「我は他者への恩徳が少なく、今や病により危篤となっており、恐らく命数は尽きるであろう。我の死後、文武の将佐は皆忠義を尽くして民百姓を安んじ、上は国に報いて下は家を安んじることを旨とせよ。我の死後、葬儀は普通の棺を用いて質素に行い、墓に金玉は入れないように。また、良く安遜(張寔)を助けて朝廷の意思に従うように」と遺言し、正徳殿において亡くなった。享年60であった。前涼の創建者とされる張軌だが、生涯晋朝には忠義を尽くし、王号を用いることはなかった。 遺体は建陵に葬られ、武公と諡された。また、朝廷より侍中・太尉を追贈され、武穆公と諡された。子の張寔が後を継いだ。後に張祚が僭称すると、張軌を追諡して武王に封じ、廟号を太祖[7]とした。 ● 逸話 後漢末期、金城郡の陽成遠が太守を殺して反乱を起こすと、郡の人である馮忠は太守の死体を前にして大声で泣き、血を吐いて死んだ。張掖郡の呉詠は護羌校尉馬賢から招集を受けて佐吏となり、次いで太尉?参の属官となった。後に馬賢と?参が対立するようになると、互いに罪状を捏造して陥れ、死刑にすべきだと言い合った。二人は呉詠を呼び寄せて証言を求めたが、呉詠は双方の理に適うことが出来ないのはわかっていたので、憂悶の末に自害してしまった。馬賢・?参は甚だこれを後悔し、相互に和解した。張軌がこれらの話を聞くと、馮忠・呉詠の墓参りに赴き、彼らの子孫を優遇したという。 同じく後漢末期、敦煌の博士侯瑾は弟子へ「そのうち、城西の泉は枯渇し、間もなく泉底の上に二つの楼台が立つであろう。そこから城の東門を互いに見ると、きっと覇者が出現するであろう」と予言した。魏の嘉平年間(249年 - 254年)に至ると、郡の長官は学舍を建てると共に、泉底の上に城の東門を見渡せる二つの楼台を築いた。後に張軌が涼州に着任した時、東門より到来し、河西の覇者に昇ったという。 |
|||||||||