紀頌之の 中國詩人名鑑のサイト


       中唐の詩人たち

中唐の詩人たち


      唐王朝時代の詩人




         中唐の詩人たち


中唐の詩人

 中唐 766〜826
中唐

766


826
皇甫冉 賈至  許 渾 元結 張謂 錢起  顔真卿 劉長卿 朱放 丘爲
独孤及 韓コウ 郎士元 皇甫曾 李嘉祐 郭子儀 吉中孚  孟雲卿 戴叔倫 司空曙
耿イ 冷朝陽 李端 呉道玄 梁肅 李觀 靈一 楊巨源 釈皎然 盧綸
崔ドウ 夏侯審 苗發 韋應物 陸羽 賈耽 陸贄 杜佑 顧況 孟郊

李吉甫 百丈懷海 李賀 武元衡 權コ輿 崔護 柳宗元 僧 慧琳 薛瑩 徐昂

馬総 韓愈 白行簡 李益  蛹綽 張籍 張コ 元槇 李渉 張継

薛濤 廬仝 王建 令孤楚 僧 澄觀 李コウ 僧 宗密 劉禹錫 賈島 李紳

白居易 牛僧孺





         


 
ID 詩人名 よみかな 生没年 代表作品/出身地/備考
1
皇甫冉 こうほぜん 714 - 767年 曾山送別  送陸鴻漸栖霞寺採茶
2
賈至      (かし) 718年〜772年 長門怨(獨坐思千里)   春思(草色青青柳色黄) 
3
許 渾 きょ こん 生没年不詳 秋思
4
元結  Yuan Jie  げんけつ (723)―(772) 舂陵行 竝序    賊退示官吏(并序)  篋中集
5
独孤及 どっこきゅう  725 - 777 毘陵集
5
張謂 いちょう 721年 〜780 張謂 題長安主人壁  詩 早梅  送盧舉使河源
6
錢起    せんき 722〜780年 江行無題(咫尺愁)
7
韓コウ 〔宏+羽〕【大暦十才】 かんこう 720〜未詳
8
郎士元     【大暦十才】 ろうしげん 727〜780? 長安逢故人
9
皇甫曾     【大暦十才】 こうほそう 721〜781? 哭陸羽処士   送陸鴻漸山人採茶回
10
李嘉祐     【大暦十才】 りかゆう 719〜781
11
郭子儀 かくしぎ 692 - 781 
12
顔真卿 がんしんけい 709 - 785 題杼山癸亭得暮字  謝陸処士杼山折青桂花
見寄之什  贈裴将軍  贈僧皓然  詠陶淵
明  三言擬五雑組二首  使過瑤台寺有懐円
寂上人?序   登平望橋下作  刻清遠道士詩
因而継作
13
劉長卿 りゅうちょうけい 709?〜785? 送李判官之潤州行營(萬里辭家事鼓?)  逢
雪宿芙蓉山主人(日暮蒼山遠)     送靈
K(蒼蒼竹林寺)     送舍弟(??七弦上) 
14
吉中孚     【大暦十才】 きつちゅうふ 未詳〜785 送帰中丞使新羅冊立弔祭
15
孟雲卿       もううんけい (729〜未詳) 格律異同論 格律異同論「譜」  
10




11
朱放 しゅほう 生没年未詳 題竹林寺(歳月人間促) 
12
丘爲 きゅうい 694? - 789 左掖梨花詩
13
戴叔倫 たいしゅくりん 732年〜789年 戴叔倫集  敬酬陸山人二首

司空曙     【大暦十才】 しくうしょ 未詳〜790 江村即事(釣罷歸來不繋船)   送吉校書東帰

耿イ 〔シ+韋〕 【大暦十才】  こうい 734〜未詳 秋日(返照入閭巷)/春日題苗発竹亭 /贈苗
員外

冷朝陽    【大暦十才】 れいちょうよう (740〜未詳) 同張深秀才遊華厳寺  中秋与空上人同宿華厳寺  瀑布泉  宿柏巌寺  登霊善寺塔
14 李端      【大暦十才】 りたん 732 - 792 送劉侍郎詩  山中寄苗員外
15 呉道玄 ごどうげん  ?  - 792
16 梁肅 りょうしゅく 753 - 793

李觀 りかん 767 - 795
17 靈一    りょういち 727〜799   僧侶 題僧院(虎溪闌肢相)
18 楊巨源 ようきょげん 770−未詳
19



20 釈皎然 (しゃく こうぜん、) 730年 - 799年 塞下曲(寒塞無因見落梅)  送?濟牧台州(海上名山屬使君)
21 盧綸      【大暦十才】 ろりん 748年〜800年 和張僕射塞下曲(鷲?金僕姑)    客舎苦雨即事寄銭員外郎士元員外  送郎士元使君赴郢州      元日述懐(筮仕無中秩 )

崔ドウ〔山+同〕【大暦十才】 さいどう    (未詳)

夏侯審    【大暦十才】 かこうしん (750〜未詳)

苗發      【大暦十才】 びょうはつ  (未詳) 送司空曙之蘇州  送孫徳諭罷官往黔州
22 韋應物  いおうぶつ 737 - 804 韋蘇州集 ?州西澗(獨憐幽草澗邊生)    秋夜寄丘二十二員外(懷君屬秋夜)  寄李?元錫(去年花裏逢君別)    與村老對飮(鬢眉雪色猶嗜酒)
23 陸羽 りくう 未詳 〜 804 茶道の開祖、 茶經  会稽東小山
24 賈耽 かたん 730 - 805
25 陸贄 りくし 754 - 805 陸宣公奏議
26 杜佑 とゆう 735 - 812
27 顧況 こ きょう 725年 -814年? 聽角思歸(故園黄葉滿苔)
28 孟郊 もうこう 751年 - 814年
34 李吉甫 りきっぽ 758 - 814 元和郡縣志
29 僧 百丈懷海 そう ひゃくじょうかいかい 749 - 814 百丈C規
30 李賀 りが  790-816 李長吉歌詩  金銅仙人辭漢歌(茂陵劉カ秋風客)      蘇小小墓(幽蘭露,如啼眼)    雁門太守行(K雲壓城城欲摧)





31 武元衡 ぶげんこう 758〜815 嘉陵驛詩  題嘉陵驛(悠悠風旆繞山川) 
32 權コ輿 ごんとくこう 759-818 送陸太祝赴湖南幕同用送字
33 崔護 さいご 未詳
34 柳宗元 りゅうそうげん 773〜819 319 柳宗元の詩  江雪(千山鳥飛絶)  登柳州峨山(荒山秋日午)   漁翁(夜傍西巖宿)   汨羅遇風(南來不作楚臣悲)   再上湘江(好在湘江水)  與浩初上人同看山寄京華親故(海畔尖山似劍鋩)   登柳州城樓寄?汀封連四州(城上高樓接大荒)   柳州城西北隅種柑樹(手種黄柑二百株)   渓居
35 僧 慧琳 そう えりん 737 - 819 一切経音義100巻





36 薛瑩 せつえい 未詳 秋日湖上(落日五湖遊)
37 徐昂 じょこう   822 宣明暦
18 馬総 ばそう  ? - 823 意林
19 韓愈 かんゆ 768年〜824年 韓昌黎先生集40巻
韓昌黎先外集5巻
韓昌黎先生遺文集
韓昌黎先生補遺集
韓愈ものがたりと作品
20 白行簡 はくぎょうかん  ?  - 826 李娃傳
21 李益     【大暦十才】 りえつ 748年 - 827年頃) 幽州(征戍在桑乾)/夜上受降城聞笛(囘樂
峯前沙似雪)/題軍北征(天山雪後海風寒)/
喜見外弟又言別(十年離亂後)/ ?河曲(?水
東流無限春) 
22 蛹綽 りゅうこうしゃく 763 - 830
23 張籍 ちょうせき 768年〜830年 張司業集  秋思(洛陽城裏見秋風)    董逃行(洛陽城頭火??)     征婦怨(九月匈奴殺邊將)    節婦吟 寄東平李司空師道(君知妾有夫)     築城詞 [ 張籍<5>
24 張コ〔示+古〕 ちょうこ  ? - 830 胡渭州詩
25 元槇 げんしん 779〜831 會真記  鶯鶯傳  聞白樂天左降江州司馬(殘燈無焔影幢幢)  得樂天書(遠信入門先有涙)  歳日(一日今年始)  遣悲懷(謝公最小偏憐女)   離思(曾經滄海難爲水)
26 李渉(李渤) りしょう  りぼつ 773〜831 題鶴林寺(終日昏昏醉夢間)    重登滕王閣(滕王閣上唱伊州) 
27 張継 ちょうけい 生没年不詳 楓橋夜泊(月落烏啼霜滿天)






薛濤 せつ とう 768年 -831年 春望詞四首 其三 秋泉 柳絮 海棠渓  酬人雨後玩竹    薛濤100首全詩訳注解説





28 廬仝    ろどう  ?  - 835 走筆謝孟諫議寄新茶

王建 おうけん 751 - 835 行宮(寥落古行宮)元?  故行宮詩(寥落古行宮) 新嫁娘詞三首之三(三日入廚下)   渡遼水(渡遼水)     宮中調笑(團扇)     宮中調笑(楊柳)
29 令孤楚 れいこそ 766 - 837 思君恩
30 僧 澄觀 そう ちょうかん 737 - 838 華嚴經疏
31 李コウ りこう 772 - 841
32 僧 宗密 そう しゅうみつ 780 - 841 原人論
13 劉禹錫 りゅううしゃく 772年〜842年 楊柳枝詞/石頭城/烏衣巷/與歌者何戡/秋
詞/同樂天登棲靈寺塔/同樂天登棲靈寺塔/
元和十一年自朗州召至京戲贈看花ゥ君子/
杏園花下酬樂天見贈/詠紅柿子/逢舊/憶江
南/秋風引(何處秋風至)/浪淘沙

賈島 かとう 779年〜843年 度桑乾詩  渡桑乾(客舍并州已十霜)     尋隱者不遇(松下問童子)     題李凝幽居(闍緒ュ鄰並)       劍客(十年磨一劍)      三月晦日贈劉評事(三月正當三十日)
35 李紳 りしん 780年〜846年 憫農詩
36 白居易・白楽天 はくらくてん  772〜846
37 牛僧孺 ぎゅうそうじゅ 779 - 845

中唐の詩人たち













中唐の詩人たち


● 中唐期の詩人たち

  766〜826 中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元?(?は禾偏に眞)らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。



ID 詩人名 よみかな 生没年
作品名
301 張謂   いちょう 721〜780年
早梅(一樹寒梅白玉條)   
題長安主人壁(世人結交須黄金)

送盧舉使河源
張謂:中唐の詩人。721年(開元九年)〜780年(建中元年?)。字は正言。河内(現・河南省沁陽県)の人。天宝年間
の進士。若い頃は嵩山にこもって勉学に励んだ。権勢にこびず、自ら気骨のあることを誇っていたという。進士に及第し、節度使
の幕僚となって北方に従軍した。いくつかの官を経て、「礼部侍郎」(文部次官)、「知貢挙」(科挙の試験の総裁)になった。
酒の好きな淡白な性格の人で、湖や山を訪れるのを楽しみにしていた。詩を作るのが巧みであった。
302 錢起  せんき 722〜780年 ・江行無題(咫尺愁風雨)
・逢侠者(燕趙悲歌士)
・『銭考功集』十巻
中唐の詩人。字は仲文。呉興(現・浙江省)の人。722年(開元十年)〜780年(建中元年)。天宝10載(751年)の進士
で、校書郎・考功郎中を歴任、大暦年間には太清宮使・翰林学士に至った。大暦十才子の一人に数えられ、郎士元とともに
「銭郎」と併称される。
現在『銭考功集』十巻が残っている。
303 靈一  れいいち 未詳 題僧院(虎溪闌肢相過)
中唐の詩僧。俗姓は呉氏。廣陵(現・江蘇省揚州)の人。若耶渓(現・浙江省紹興)の雲門寺、餘杭(現・浙江省)の宜豐
寺に居し、劉長卿、皇甫冉、朱放らと交わる。
304 朱放 (しゅほう)  未詳 題竹林寺(歳月人間促)
唐の詩人。字は長通。襄州の人。越の溪に隠棲する。江西節度參謀となる。後、貞元の初めに、拾遺に召されたが就かなか
った。
305 劉長卿  りゅうちょうけい 709〜785 『劉随州集』。 
字は文房。河間の人。若い頃は嵩山にこもって読書し、のちにハ陽に移住した。開元二十一年(733)、進士に及第した。至徳
年間に監察御史から検校祠部員外郎・転運使判官を歴任し、知淮西岳鄂転運留後となった。のち無実の罪で投獄され、
南巴の尉に左遷された。ある人が弁明してくれたので、睦州司馬に移り、随州刺史にいたった。五言詩にすぐれ、「五言の長
城」と自称した。

重送裴カ中貶吉州(猿啼客散暮江頭)  尋盛禪師蘭若(秋草黄花覆古阡) 細聽彈琴(??七弦上)送李判官之潤州
行營(萬里辭家事鼓?) 逢雪宿芙蓉山主人(日暮蒼山遠)  送靈K(蒼蒼竹林寺) 送舍弟之?陽居(?陽寄家處) 

 
306 顔眞卿  がんしんけい 709- 785年 戲答諸少年
 死没年からは中唐に分類すべきであるが、盛唐での活躍が大きいので盛唐で掲載している  
安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた時期に当たり、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、顔真卿は、
族兄(お互いの五世の前の男系祖先が同じ)で常山郡太守であった顔杲卿とあい呼応して、唐朝に対する義兵を挙げた。そ
の後、至徳元載(756年)に平原城を捨て、鳳翔県に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じら
れ、御史大夫をも加えられた。


しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相の元載のような実権者より妬まれ、反臣の淮南西道節度使李希烈に対す
る慰諭の特使に任じられ、そこで捕えられた。李希烈は真卿を惜しみ、自らの部下となるよう何度となく説得したが真卿は断固
拒否し続け、唐への不変の忠誠心を表す「天中山」を記すに至り李希烈は説得を断念、殺された。この最期は非常に劇的で
あったため、後世忠臣の典型例として、靖献遺言に取り上げられている。





顔氏は顔真卿以前より能書家の家系として知られており、真卿も壮年期には張旭に筆法を学
び、書論『張長史十二意筆法記』を残している。


楷書
真卿は初唐以来の流行である王羲之流(院体)の流麗で清爽な書法に反発し、「蔵鋒」の技
法を確立した。力強さと穏やかさとを兼ね備えた独特の楷書がその特徴である。伝説では、顔
真卿が貧しかった頃、屋根裏に染みた雨漏りの痕を見てこの書法を編み出したといわれてい
る。叔父・顔元孫が編纂した「干禄字書」の規範意識に基づく独自の字形を持つものも多い
が、その字形は当時標準とされた楷書とは異なり、正統的な王羲之以来の楷書の伝統を破
壊するものであったため、賞賛と批判が評価として入り混じっている。これらの楷書は「顔体」(顔
法、北魏流)とも呼ばれ、楷書の四大家の一人として後世に大きな影響を与えた。楷書作品
には『顔氏家廟碑』、『麻姑仙壇記』、『多宝塔碑』、『顔勤礼碑』などがある。



多宝塔碑
『多宝塔碑』(たほうとうひ)の建碑は天宝11年(752年)。題額は徐浩の隷書、碑文は真卿
44歳のときの楷書、撰文は岑による。題額の隷書は「大唐多宝塔感応碑」の8文字、碑文
の初行には「大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑文」とある。この碑は長安の千福寺に勅命に
より建立したもので、僧・楚金(698年 - 759年)が千福寺に多宝塔を建立した由来を記した
碑である。現在は西安碑林に移されている。現存する真卿の作品の中では最も若いときのも
ので、後年のいわゆる「顔法」と称される風骨は未だ十分に発揮されていないが、碑字にあまり
損傷がなく、旧拓もあるため楷書の手本として広く用いられている。
          『顔勤礼碑』(部分)顔真卿撰・書   
顔勤礼碑

『顔勤礼碑』(がんきんれいひ)の建碑は乾元2年(759年)と大暦14年(779年)の両説ある。真卿の曽祖父・顔勤礼の墓碑で、真卿の撰ならびに書の楷書碑である。碑高は268cm、幅は92cmの四面刻であったが、最後の銘文のあった一側面が宋代に石材として利用され削られたことが『金石録』に記録されている。碑は永く土中にあったため文字が鮮明で、技巧的に洗練されて筆がよく冴えており、「顔法」を学ぶ上に最も重要な資料である。

顔氏家廟碑
『顔氏家廟碑』(がんしかびょうひ、『顔惟貞廟碑』とも)の建碑は建中元年(780年)、真卿72歳の時の楷書碑である。篆額は李陽冰の書で「顔氏家廟之碑」と3行に入れてある。真卿が父の惟貞のために廟を造り、碑を建てて顔家の履歴を自ら述べたもので、西安碑林に現存する。碑高は345cm、幅は160cmの四面刻で、両面は各24行・各行47字、両側は各6行・各行52字あり、全部で2000字をこえる力作である。碑の保存もよく、拓本も多く伝わっており、真卿の楷書の代表作である。


行書
行書に関しては楷書と異なり、書の達人として王羲之に匹敵するとされており、文句なしの賞賛を受けている。遺墨が多く残り、『劉中使帖』、『争座位帖』、『祭姪文稿』が特に有名である。

争座位帖

関中本
『争座位帖』(そうざいじょう、『争座位文稿』とも)は広徳2年(764年)、真卿55歳の時の書。真卿が右僕射の任にあった郭英乂に送ったとみられる手紙の草稿(下書き)。内容は英乂が百官集会(諸官の集会)の折、座位を乱したことに対して、朝廷の権威をそこなったとして抗議したもの。『祭姪文稿』、『祭伯文稿』とともに「顔真卿の三稿」といわれた1つ。真跡は伝わらないが、西安碑林にある関中本が最も信頼できる刻本とされる。
307 戴叔倫   (たいしゅくりん) 732〜789年
中唐の詩人。字は幼公。(現・江蘇省)潤州金壇の人。道教に帰依した。(732〜789)字は幼公。金壇の人。永泰元年
(765)、進士に及第した。翌年、戸部尚書劉晏の幕下で仕えた。

安史の乱の兵乱を避けて?陽に移住し、もっぱら学問に励み、蕭穎士の門下に入って随一と謳われた。貞元16年(800年)、
進士に及第、杭州新城県の令などを務め、真面目な勤務ぶりを認められて、撫州刺史・容州刺史兼本管経略使を歴任、
善政を敷いて住民に慕われた。のちには辞職して道士となったが、間もなく死んだ。

現在『戴叔倫』二巻が残っている。   
夜發袁江寄李頴川劉侍郎(半夜囘舟入楚郷)
過三閭廟(元湘流不盡)
夏日登鶴巖偶成(天風吹我上層岡)
關山月(月出照關山)
贈殷亮(日日河邊見水流)








308 司空曙   (しくうしょ)  未詳〜790 江村即事(釣罷歸來不繋船)

別盧秦卿(知有前期在)
中唐の詩人。司空が姓。複姓の一。字は文明。広平の人。虞部郎中に至る。大暦の十才子の一。代宗の大暦年間の初め
頃(770年頃)、左拾遺となり、徳宗の貞元初年(785年頃)、剣南西川節度使の幕僚になった。潔癖な性格で権臣に媚び
ず、長沙郡のあたりに流寓していたこともある。大暦十才子の一人。
現在『司空文名詩集』三巻が残っている。
309 楊巨源   (ようきょげん) 770−未詳 折楊柳(水邊楊柳
麹塵絲)
中唐の詩人だが生没年不詳。長く宮中や地方の役人を勤めながら優れた作品を世に出した。
310 洪 耿   こうい 763〜未詳
中唐の詩人。字は洪源。河東の人。 秋日(返照入閭
巷)
311 陸羽 (りくう) 未詳〜804

 
312 顧況(こ きょう) 725- 814年
唐の詩人。蘇州(江蘇省)の出身。字は逋翁(ほおう)。号を華陽山人、また悲翁という。粛宗の至徳2戴(757年)の進士。
徳宗のときに秘書郎となり、権官の李泌に師事していたが、李泌が宰相となったとき、自分も昇進すると期待したが、かなり遅れ
て著作郎に転任したにとどまった。
李泌の死後、弔いもせずに嘲笑的な詩を作ったため、饒州(江西省波陽?陽)司戸参軍に左遷され、やがて家族を引き連れ
て茅山(江蘇省句容県の東南)に籠もり、最後は消息不明となったので、仙人の術を得たと伝わる。今日では『華陽真逸詩』
二巻などが残っている。聽角思歸(故園黄葉滿苔)
313 盧綸  ろりん 748〜800年
中唐の詩人。748年(天寶七年)〜800年?(貞元十六年?)。字は允言。河中蒲(現・山西省)人。大暦十才子の一。
大暦の初め,屡々進士の試験を受けるが及第しなかったが後に、監察御史となった。長らく不遇であり、後に檢校戸部郎中と
なる。和張僕射塞下曲(鷲?金僕姑)

314 孟郊(もうこう) 751- 814年
唐代の詩人。字は東野、諡は貞曜先生という。
湖州武康(浙江省)の出身。狷介不羈で人嫌いのために、若い頃は河南省嵩山に隠れた。798年、50歳の時に三度目で進
士に及第し、江蘇省?陽の尉となった。一生不遇で、憲宗の時代に没する。
詩は困窮・怨恨・憂愁を主題としたものが多く、表現は奇異。韓愈とならんで「韓孟」と称せられる。蘇軾は賈島とならべて「郊
寒島痩」、つまり孟郊は殺風景で賈島は貧弱と評す。韓愈が推奨するところの詩人であり、「送孟東野序」が知られている。
『孟東野集』10巻がある。

登科後  游子吟 古別離 帰信吟  渭上思帰  京山行   答盧仝  贈鄭夫子魴  燭蛾  寒地百姓吟  罪松 
 贈別崔純亮  
贈蘇州韋郎中使君  

315 武元衡  ぶげんこう 758〜815
 字は伯蒼。河南の人。建中四年(783)、進士に及第した。徳宗に才能を認められ、華原の令から比部員外郎・右司郎中・
御史中丞を歴任。順宗のときに、王叔文に従わなかったため降職されて太子右庶子となった。憲宗の時代になって御史中丞・
戸部侍郎を歴任し、元和二年(807)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。淮西節度使・呉元済が叛乱を起
こしたとき、憲宗から委任されて討伐を準備したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。 題嘉陵驛(悠悠風
旆繞山川)

316 崔護(さいご)  未詳
唐代の人。貞元十二年(796年)の進士。字は殷功。博陵(現・河北省定県)の人。『太平廣記・卷第二百七十四・情
感』に録されている
「人面桃花」の人題キ城南莊(去年今日此門中)

317 李賀  りが 790〜816
 福昌昌谷(河南宜陽)の出身。字は長吉。宗室の一員で、早くから才能を称揚されたが、皇族の故に父の諱(晋叔)を避ける
ために進士の称号を断念せざるを得ず、官人としては不遇だった。一説では、元?との面会を断ったことを恨まれて父の諱の事を
指摘され、韓愈の仲介も聴かれなかったという。幼時にすでに韓愈に詩才を認められて[鬼才]と評され、その詩は華麗にして陰
鬱と評される。雁門太守行  金銅仙人辭漢歌(茂陵劉カ秋風客)  蘇小小墓(幽蘭露,如啼眼)  雁門太守行(K
雲壓城城欲摧)

318 權コ輿 こんとくこう (759-818)
中唐の詩人。字は載之。天水略陽(現・甘肅省秦安)の人。四歳で詩をよくしたという。太常博士、吏部侍郎等に任じられ
た。徳輿(759-818)は、中唐貞元、元和時期の文壇に君臨した著名な文学者であり、その文章は「弘博雅正、温潤周
祥」、詩歌は「中正渾厚、頗多佳什」と評価されている。 蘇小小墓(萬古荒墳在)

319 柳宗元   A  りゅうそうげん 773〜819
 河東(山西)出身。字は子厚。793年に進士に及第し、校書郎をへて監察御史に進んだ。太子近侍の王叔文・韋執誼らに
与して順宗即位と共に礼部員外郎とされ、賦役削減の諸改革にも参与したが、憲宗が即位して叔文らが失脚すると永州司
馬に左遷された。815年に柳州刺史に転じて弊風改正に注力し、在任中に歿した。
 文人として著名で、韓愈と同じく戦国〜西漢の散文復帰を主張して復古運動を展開したが、六朝以来の形式的な駢文打
倒には至らなかった。学術的議論文に優れた韓愈の古文に対して叙景文に優れ、韓愈とともに唐宋八大家の一人とされる。
1江雪 2漁翁 3渓居 4捕蛇者説 5汨羅遇風 6再上湘江 7登柳州峨山 

320 李益  りえつ 748- 827年
中唐の詩人。李益(り えつ、748年-827年?)は、中国・唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威)の出身。字は君虞(くんぐ)。中
唐の鬼才といわれた詩人・李賀の同族。大暦4年(769年)の進士で、鄭県(陝西省華県)の尉となったが、昇進の遅いのに
不満を抱いて辞職し、河北の地方を遊歴、幽州(北京)・?寧(甘粛省東部)節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こ
え、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられ、傲慢な態度のために一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任、
礼部尚書に至った。疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰を撒いて不義を防いだりしたため、「妬癡
(とち)尚書李十郎」と呼ばれたという。大歴十才子の一人に数えられ、『李君虞詩集』二巻が残っている。幽州(征戍在桑
乾)   夜上受降城聞笛(囘樂峯前沙似雪)  題軍北征(天山雪後海風寒)  喜見外弟又言別(十年離亂後)  ?
河曲(?水東流無限春)

321 元槇(げんしん) 779〜831
 字は微之。河南河内の人。元和元年(806)、進士に及第した。左拾遺となった。しばしば皇帝に上書したため権臣に憎ま
れ、河南の尉に左遷された。のちに監察御史となったが、宦官の劉士元と争って江陵府士曹参軍に左遷された。通州司馬・?
州長史を歴任した。元和の末年(820ごろ)、都に呼び戻されて膳部員外郎となった。さらに中書舎人・工部侍郎を経て、長慶
二年(822)には同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、わずか四カ月で罷免されて越州刺史・浙東観察使に転出した。
武昌節度使に遷って没した。白居易の親友で、楽府にすぐれ、「元白」と併称された。『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。遣悲懷 
聞白樂天左降江州司馬 歳日 離思 ;『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。

322 白居易/白楽天  はくらくてん 772〜846 
 下弁(陝西)出身。字は楽天、号は香山居士。徳宗の貞元年間の進士で、翰林学士から左拾遺に進んだが、淮西鎮対策
の上書が貴顕に憎まれて江州司馬に降格され、このときに香炉峯下に草堂を建てた。821年に中央に復帰したものの自ら求
めて杭州・蘇州刺史を歴任し、827年に召されて刑部侍郎などを歴任し、刑部尚書をもって842年に致仕した。
 当初は経世済民を志して諫官を自任したが、江州に出されてより地方行政に尽くして善政を讃えられ、西湖の治水・干拓は
代表的なもので、“白堤”は現代に至るまで西湖名勝の1つに数えられる。江州時代より詩風も一変し、簡適
系と呼ばれる平易・写実的なものが多くなって元?と並称され、玄宗と楊貴妃を題材とした『長恨歌』などは生存中から人口に
膾炙し、日本に伝えられた文集は平安文学に多大な影響を与えた。
 弟の白行簡も文人として知られ、官人としては不遇だったが、『李娃伝』は秀作として後世まで広く知られた。 

戲答ゥ少年  讀道コ經 三月三十日題慈恩寺  三月三十日作  春夜宿直  禁中夜作書與元九  雨夜憶元九
  夢亡友劉太白同遊彰敬寺  春風  賦得古原草送別  大林寺桃花  問劉  長恨歌   琵琶行・序 琵琶
行・一   琵琶行・二  琵琶行・三  琵琶行・終尾   花非花  初貶官過望秦嶺  臨水坐  訪陶公舊宅序  
訪陶公舊宅 二首 遊趙村杏花  對酒  想歸田園  太平樂詞  見元九悼亡詩因以此寄  送春  燕詩示劉叟
  靈巖寺  新豐折臂翁  楊柳枝 其一〜其八  舟中讀元九詩  村夜  商山路有感  效陶潛體詩  病中哭
金鑾子  勤政樓西老柳  新秋  賣炭翁  杪秋獨夜  商山路有感  觀幻  暮江吟  自詠  洛陽春  魏王
堤  逢舊  代鄰叟言懷  長安道  感月悲逝者  晩起  勸酒  勸夢得酒  聞哭者  池西樓  杏園花落時
招錢員外同醉

324 劉禹錫  りゅうしゃくう 772〜842年
劉禹錫:中唐の詩人。772年(大暦七年)〜842年(會昌二年)。白居易や柳宗元との詩の応酬も多い。白居易とともに
『竹枝詞』や『楊柳枝』を作る等、前衛的、実験的なことに取り組む。字は夢得。監察御史、太子賓客。

烏衣巷(朱雀橋邊野草花)/與歌者何戡(二十餘年別帝京)/秋詞(自古逢秋悲寂寥)同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不
覺難)/同樂天登棲靈寺塔(歩歩相攜不覺難)/元和十一年自朗州召至京戲贈看花ゥ君子(紫陌紅塵拂面來)/杏園
花下酬樂天見贈(二十餘年作逐臣)/詠紅柿子(曉連星影出)/逢舊/憶江南
秋風引(何處秋風至)/浪淘沙(八月濤聲吼地來)/楊柳枝詞(煬帝行宮?水濱)/石頭城(山圍故國週遭在)/浪淘沙
(九曲黄河萬里沙)/再遊玄キ觀(百畝庭中半是苔)

325 韓愈   @  かんゆ 768〜824年
韓愈:中唐の文人、政治家。768年(大暦三年)〜824年(長慶四年)。洛陽の西北西100キロメートルの河陽(現・河
南省孟県)の人。諡は文公。四六駢儷文を批判し、古文復興を倡えた。仏舎利が宮中に迎えられることに対して韓愈は、
『論仏骨表』を帝(憲宗)に奉ったが、却って帝の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。その時の詩が多い。唐宋八大家の一
人。
醉留東野(昔年因讀李白杜甫詩)   山石(山石犖?行徑微)   忽忽(忽忽乎余未知生之爲樂也  左遷至藍關示
姪孫湘

326 張継  ちょうけい 生没年不詳
 中唐の詩人。字は懿孫(いそん)、湖北省襄州(じょうしゅう)に生まれた。天宝12年(753)の進士。地方官より中央の検校
(けんこう)祠部(しぶ)郎中(ろうちゅう)に至る。張祠部(ちょうしぶ)詩集一巻あり。『楓橋夜泊』の詩は内外に愛誦される。清
の学者兪越(ゆえつ)の書いた石碑が寒山寺にある。
楓橋夜泊(月落烏啼霜滿天)  杪秋獨夜

327 張籍  ちょうせき 768〜830年
中唐の詩人。字は文昌。和州(かしゅう)烏江(安徽省和県)の人。師友の韓愈に目をかけられ、その推薦によって、国子博
士となった。楽府に長じている。

節婦吟 寄東平李司空師道 蜀道後期(客心爭日月) 幽州新歳作(去歳荊南梅似雪)
(1)哭孟寂   (2)秋思(洛陽城裏見秋風) 董逃行(洛陽城頭火??) 征婦怨(九月匈奴殺邊將)  築城詞  

328 韋應物  いおうぶつ 735〜835
 京兆長安の出身。若い頃は任侠を好んで玄宗に仕えたが、帝の死後は改めた。洛陽丞・徐州刺史・蘇
州刺史を歴任し、蘇州刺史の時代には善政を行なって韋蘇州と尊称された。五言詩に優れ、詩風は陶淵
明に似て韋陶と並称されるほどで、白居易とも交際があった。

與村老對飮(鬢眉雪色猶嗜酒)  調笑令寄李?元錫(去年花裏逢君別)  ?州西澗(獨憐幽草澗邊
生)  秋夜寄丘二十二員外(懷君屬秋夜) 

329 賈島(かとう)  779〜843年
賈島:中唐の詩人。779年(大暦十四年)〜843年(會昌三年)。字は浪仙。范陽の人。初め、僧侶で無本と号し、後、
韓愈に認められて(「推敲」)還俗、仕官した。五言律詩にすぐれる 范陽出身。字は浪仙、号は無本。科挙に失敗を重ねて
青龍寺に居し、元?・白楽天の平易な詩風に反対し、苦吟推敲を重ねて作詩することを提唱した。“推敲”の
語の由来者であり、823年、詩作に没頭して京兆尹韓愈の車列を乱してより韓愈に詩才を認められ、還俗して進士科にも及
第したが、微行中の宣宗に無礼があって罷免され、困窮の裡に歿した。渡桑乾(客舍并州已十霜)   尋隱者不遇(松下
問童子)   題李凝幽居   三月晦日贈劉評事   對酒

330 李紳  りしん 780〜846年
李紳:建中元年(780年)〜會昌六年(846年)。中唐の詩人。字は公垂。無錫の人。 潤州無錫の出身。字は公垂。徳
宗の元和年間の進士。穆宗に召されて右拾遺とされ、ついで翰林学士に進められて李徳裕・元?とともに“三俊&#
8221;と称され、累進して戸部侍郎まで進んだが、824年に宰相の李逢吉と対立して端州司馬に遷された。地方官を歴任し、
842年に李徳裕に反対されながらも同平章事に進められたが、翌年には退けられて淮南節度使で終った。念金鑾子

331 李渉・李渤  りしょう

773〜831
中晩唐の詩人。初め、弟の李渤とともに廬山に隠棲して白鹿を飼っていたが、憲宗の時代に太子通事舍人となった。清谿子と
号した。洛陽(現・河南省洛陽)の人。題鶴林寺(終日昏昏醉夢間)  重登滕王閣(滕王閣上唱伊州)

332 薛瑩 (せつえい)
未詳
中唐の詩人。文宗時代の人。秋日湖上(落日五湖遊)
333 薛濤 (せつとう)
768- 831年
伎女・詩人。魚玄機とならび詩妓の双璧と称される。長安の出身(一説では成都とも)。父の赴任とともに蜀へ移り、14・5歳
の頃に任地で父が亡くなり17・8歳頃までに楽籍に入った(伎女となること)。蜀の長官・韋皐の屋敷に召されて酒宴に侍し、詩
を賦して女校書と称せられた。浣花渓にいて、白居易・元?・牛僧孺・令狐楚・張籍・杜牧・劉禹錫などと唱和し、名妓として
知られた。
春望詞一首  送友人 海棠渓  
●唐 女性と文学
●薛濤の全詩訳注解説
 

王建 おうけん 751 - 835

中国、中唐の詩人。字(あざな)は仲初(ちゅうしょ)。潁川(えいせん)(河南省許昌(きょしょう)市)の人。775年(大暦10)の
進士。身分の低い寒門出身のため、官途についても栄進せず、地方官や大府寺丞(だいふじじょう)、侍御史(じぎょし)などの
小官を歴任し、晩年には辺塞(へんさい)で従軍生活を送った。これらの境遇は彼を困窮した人民の同情者とし、文学活動に
おいて、平易な表現を旨とする民歌形式である楽府詩(がふし)を用いて、鋭く現実を批判し、中唐新楽府運動の一環を担
わせることとなった。彼は親友で文学傾向を同じくする張籍(ちょうせき)と「張王」と併称され、「宮詞(きゅうし)」100首は当時
世評が高かった。『王建詩集』10巻。
・新嫁娘詞三首 〈新嫁娘:新婚の女性。新たに嫁いできた女性。〉、・渡遼水。・行宮(寥落古行宮)。・故行宮詩(寥落古
行宮)。 ・宮中調笑(團扇)。・宮中調笑(楊柳)。などがある。 
《渡遼水》
渡遼水,    此去咸陽五千里。
來時父母知隔生,重著衣裳如送死。
亦有白骨歸咸陽,營家各與題本ク。
身在應無回渡日,駐馬相看遼水傍。
(遼水を渡る)       
遼水【りょうすい】を渡る,此を去ること 咸陽【かんよう】五千里。
來たる時 父母 生を隔つと知り,重ねて衣裳を著ること 死を送るが如し。
亦た 白骨の咸陽に歸ることも有りて,營家 各々の本郷を題【しる】して與【あた】ふ。
身 應に渡りて 回【かへ】る日 無かるべきに在れば,馬を駐【とど】めて 相看る 遼水【りょうすい】の傍【ほとり】に。

 












  ページの先頭へ  



漢詩総合サイト

15の漢詩総合サイト
















漢文委員会


紀 頌之