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女性論 古代女性の結婚観


愛情、結婚及び貞操観
従来 龍泉剣を有するを誇る、
試みに割て 相思の断ち得るや無や″
− 彰杭の妻張氏


一勇敢な愛の追求
唐代には遥か後世まで語り伝えられた多くの愛情物語が生れた。美しい少女借娘は、従兄と愛しあっていたが父母は結婚を許さなかった。それで、借娘の魂は身体から遊離して、遠くに行く従兄の後を追って行き、ついに幸せで円満な結婚に至るという話(陳玄祐『離魂記』)。ある多情の村の娘は郊外にピクニックにきていた科挙受験生の雀護にひと目惚れした。雀護が去った後、この村娘は恋いこがれ病気になって死んでしまった。ところが雀護が再びこの村にくると、彼女は生き返り、の意中の人と結婚したという話(『軽蔑』)。この物語は「人面桃花」という著名な成句を残すことになった。また、才色兼備の令嬢雀鴬鴬は、書生の張君瑞とたまたま出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廟(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、というロマンチックな物語も生れた(元槙『蔦鴬伝』)。これは後世、ながく名作として喧伝されることになる戯曲『西府記』 の原話である。これは中国古代の恋愛物語の典型ということができる。また、別の話であるが、美しくて聡明な官僚の家の娘無双は、従兄と幼い時から仲良く遊び互いに愛し合っていた。
後に無双が家族の罪に連坐し宮中の婦にされると、この従兄は侠客に頼んで彼女を救い出し、二人はめでたく結婚したという話(醇調『劉無双伝』)。名妓李姓は、自分のために金と財産を使い果し、乞食に落ちぶれた某公子を救い、さんざん苦労して彼が名を成すのを助け、二人は白髪になるまで一緒に暮らしたという話(『李娃伝』)。妓女霞小玉は才子の李益を死ぬほど愛したが、李益は途中で心変りして彼女を棄ててしまった。小玉は気持が沈んで病気にかかり、臨終に臨み李益をはげしく恨んで失恋のため死んでしまったという話(燕防『霞小玉伝』)。唐代には、こうした話以外に、人と神、人と幽霊、人と狐が愛しあう「柳毅伝書」、「蘭橋遇仙」など有名な物語がたくさん生れた。唐代の愛情物語は、中国古代のなかできわだっており、後代の戯曲、小説に題材を提供する宝庫となった。
* 「人面桃花」は、雀護が桃花の下に美女を見初め思慕の情を詠んだ詩の一句「人面桃花相映じて紅なり」 の一部分。いとしい人にもう会えない、という意。
こうした愛情物語に出てくる女性には、貴族の令嬢、御屋敷のお嬢様もいれば、村の田舎娘、姫妾や娼優もおり、さらにまた多くの女仙人、女幽霊もあるといった具合で、多様な女性がいた。彼女たちはみな美しく、可愛らしく、多情で、また勇気があった。彼女たちは愛情を渇望し、愛に対しては大胆で執着心が強く、また誠実で貞線も堅かった。彼女たちは封建道徳を軽蔑し、権力の強制と父母の命令にも勇敢に反抗し、極端な場合には生命を犠牲にすることも厭わなかった。たとえば、名門豪族の姫妾であった歩飛個は、才子の趨象と密かに情を交わしていたところ、主人に発覚してしまった。彼女は主人から激しく打たれ息も絶え絶えになったが、愛のためには死んでも悔いない覚悟であったので、恐れる様子もなく、「生きて互いに愛しあうことができたのですから、死んでもどうして恨むことなどありえましょう」と言った(『三水小旗』「歩飛爛」)。先に紹介した霞小玉は、危篤に陥った時、長く働果して裏切った李益を激しく恨み「私は女として、このように薄命で死なねはなりません。貴方は立派な男子なのにこのように私を裏切りました。……李君よ、李君、永訣の時がきましたが、死んだ後に必ず悪霊となって現れ、貴方の妻、妾たちを一日たりとも穏やかに暮らさせはしません」(『霞小玉伝』)といった。なんと愛一筋に生きた多情多恨の女性であったことか。
このように多くの、人の心を打つ愛情物語が唐代に生れたことは、文芸創作が発達した現れであったが、ただそればかりでなく、社会の現実が多くの材料を提供した結果でもあった。愛情物語は唐代社会の男女の愛、とりわけ女性の愛に対する激しい想いが、まだ封建道徳によって完全には抑圧されていなかったことをよく反映している。さらにまた、唐代の人々が封建道徳観念にとらわれず、しかも自由恋愛と女性の自発的で勇気ある愛情の追求に称讃と同情の態度をとっていたことを反映している。文人によって描かれた多情多恨の女性の姿は、唐代という時代の特徴を濃厚に帯びており、まさに唐代女性の個性的な姿の芸術的な縮図であった。
愛情物語の中ばかりでなく、現実の生活の中でも、当時の労働する女性たちが自由に恋愛し夫婦となることは、どこでもわりに一般的に見られることであった。「妾が家は越水の辺、艇を揺らして江煙に入る。既に同心の侶を覚め、復た同心の蓮を来る」(徐彦伯「採蓮曲」)。あるいは「楊柳青青として 江水平らかに、邸が江上の唱歌の声を聞く。東辺に日出で西辺は雨、遣う是れ無暗(無情)は却って有晴(有情)」(劉禹錫「竹枝詞」)などと詠われている。これらは労働する女性たちの自由な愛情を描いている。彼女たちは長年屋外で働いていたので、男性との交際も比較的多かった。同時にまた、封建道徳観念は稀薄であり、感情は自然で自由奔放であったから、自由な恋愛はわりに多くみられた。一般庶民の家の娘は礼教の影響や束縛を受けることが比較的少なく、自由な男女の結びつきは常に、またどこにでも存在していたのである。たとえば、大暦年間、才女の見栄は隣に住む文士の文茂と常に詩をやりとりして情を通じ、また機会を見つけては情交を重ねた。見栄の母はそれを知り、「才子佳人というものは、往々にしてこんなふうになるものだ」と嘆息したが、ついに二人を結婚させた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」)。この話は、当時の社会には男女の自由な恋愛やひそかな情交があったばかりでなく、こうした関係を父母が許していたことも示している。
女性が恋人と駆落ちするという事件も時々発生した。白居易は次に紹介する詩の中で、庶民の娘の「駆落ち」について書いている。


井底引銀? 白居易 (井底より銀?を引く)白居易(白氏文集 巻四)

井底引銀?、銀瓶欲上糸縄絶。
石上磨玉簪、玉簪欲成中央折。
瓶沈簪折知奈何、似妾今朝与君別。
憶昔在家為女時、人言挙動有殊姿。
嬋娟両鬢秋蝉翼、宛転双蛾遠山色。
笑随戯伴後園中、此時与君未相識。
妾弄青梅憑短牆、君騎白馬傍垂楊。
牆頭馬上遥相顧、一見知君?断腸。

知君断腸共君語、君指南山松柏樹。
感君松栢化為心、暗合双鬢逐君去。
到君家舎五六年、君家大人頻有君。
聘則為妻奔是妾、不堪主祀奉蘋?。
終知君家不可住、其奈出門無去処。
豈無父母在高堂、亦有情親満故郷。
潜来更不通消息、今日悲羞帰不得。
為君一日恩、誤妾百年身。
寄言癡小人家女、慎勿将身軽許人。

(井底より銀?を引く)
井の底より銀?を引きあぐに、銀桝は上らんと欲で糸縄絶つ。
石の上にて玉くつわ簪を磨くも、玉簪は成らんと欲て中央より折れたり。
研沈み簪折れる 知らず奈何せん、妾 今朝君と別れるに似たり。
憶うに昔家に在りて女為りし時、人言う 挙動に殊姿有りと。
嬋娟な両鬢は秋蝉の翼、宛転った双蛾は遠山の色。
笑いで戯伴に随う後園の中、此の時君と末だ相い識らず。
妾は青梅を弄びて短塔に憑りかかり、君は白馬に騎って垂楊に傍う。
墻頭と馬上とで遥かに相い顧み、一見して君が即ち断腸たるを知る。

君の断腸たるを知りて君と共に語り、君は南山の松柏の樹(雄大にして常緑なる巨木のたとえ)を指さす。
君が松柏を化して心と為す(わが心は松柏の如く四時変ることがない)に感じ、闇かに双鬟(少女の髪型)を合して君を逐うて去る。
君が家に到りて舎ること五、六年、君が家の大人頻りに言有り(小言をいう)。
「聘すれば(礼をもって迎えたならば)則ち妻と為り 奔すれば(出奔して来たならば)是れ妾、
主祀(祭りの主宰)として蘋?(供物とするヨモギ科の草)を奉ずるに堪えず」と。
終に君が家の住まる可からざるを知るも、其れ門を出でて去く処無きを奈んせん。
豈 父母の高堂に在る無からんや、亦た親情(肉親)の故郷に満つる有り。
潜かに来れば更に消息を通ぜず、今日 悲しみ羞じて帰り得ず。
君が一日の恩の為に、妾が百年の身を誤る。
言を痴小なる人家の女に寄す、「慎んで身を将て軽しく人に許すこと勿れ」と。


白居易は詩を書いて世の人々を戒めたのであるが、こうした駆落ちは決して例外的なことではなく、また結婚も必ずしも両家の家長の承認を得なければならないものでもなかったことが分かる。
官僚の家の女子の自由恋愛は比較的困難であったが、元横が自分の経験に基づいて書いた『鴬鴬伝』や、陳玄祐の『離魂記』、辞調の『劉無双伝』などの小説が世に出現したことは、彼女たちの中にも先に紹介した雀鷺鴬のような、封建道徳への反逆者たちが出現していたことを示している。"要するに、唐代の女性たちの愛を追求する想いは、決して封建道徳によって完全に圧殺されはしなかったし、彼女たちの勇気に人々は感嘆の声を上げたのである。
唐代の女性の恋愛観は社会全体の価値観の影響を全面的に受けて、相手に「文才」があることをとても重んじた。小説はもちろん現実の世界においても、女性が愛する対象はたいてい風流才子であった。「我は悦ぶ 子の容艶を、子は傾く 我が文章に」(李白「情人に別れしひとに代りで」)、「娘は才を愛し、男は色を重んじる」(『零小玉伝』)というように、女は男の才能を愛し、男は女の容色を重んずるというのが、唐代の男女の典型的な恋愛観であった。ここから、後世の小説や戯曲の中の「才子佳人」という恋愛パターンが形成されたのである。
しかし、生活手段を持たない女性が、自由に恋愛ができるかといえば、絶対にできないのである。生活の基本である収入がない、この時代の女性は、誰かに頼らなければ生きてゆけないのである。喩え、男であっても、身分が高かろうと低かろうと強いもの、生活力のあるものに寄りかかっていくしか生きれない時代である。男性の方は、強い立場から、弱い立場の方に向かうという条件下であれば、ある意味、比較的自由に恋愛できるという事である。


不得媒無選、年過忽三六 白居易「続古詩」
二 結婚の状況
唐代の女性は一般に早婚であり、大半が十五歳前後で嫁に行った。早い人は十三、四歳であり、遅い人は十七、八歳であった。これくらいが正常な結婚年齢であった。「媒無ければ選ぶを得ず、年は忽三六(十八歳)を過ぐ」(白居易「続古詩」)。女子は十八歳を過ぎれば婚期を逸したと思われていたようである。唐初より以来、人口増殖のために、国家は結婚適齢期に遅れないように結婚せよとずっと強調してきた。貞観年間には十五歳以上の女子に対して、開元年間には十三歳以上の女子に対して、婚期に遅れないように結婚すべしと命じた(『唐会要』巻三八「嫁要」)。こうしてみると、女性の結婚年齢は大体これらの年齢のあたりを上下していた。
女子の結婚の大半は、父母の命令と媒酌人の仲立ちに依って行われたが、父母の命令は常々女子の結婚に悲劇をもたらした。たとえば、武殿という者が、母方の叔母の娘と恋仲になり、すでに婚約をしていた。ところが武殿が科挙の受験に都長安に行っている留守中に、叔母は娘を金持のところに嫁にやろうとした。娘は泣いて従わず、何度も髪を切って尼になろうとしたが果せなかった。

ついに、どうすることもできず嫁に行き、身の不幸を生涯恨み続けた(『太平広記』巻一五九)。父母の命令による結婚は、時にはいささか喜劇じみた様相を帯びることがあった。宰相張嘉貞は郭元振という者を婿にしようと思った。張には五人の娘があったので、各自に一本の糸を持たせ唯 の裏に立たせ、その一本を郭に自由に引かせたところ、三女が当ったという(『開元天宝遺事』巻上)。結婚は父母の言い付けによるものの他に、「天意」 によっても決められた。唐代の人々は、結婚というものは前世ですでに相手が決められているとか、天がその因縁を決めているとか信じていたので、月下老(縁結びの神様)が紅い縄で男女の足を縛って結婚させるという有名な話が生れた(『続玄怪録』巻四)。
この話は今日まで伝えられている。唐代の社会風潮はわりに開放的であり、また父母もわりに開明的な考えを持っていたので、娘が自ら気に入った婿を選ぶこともあった。そうしたことは、官僚・士大夫の家に時として現れた。宰相李林甫には五人の娘があった。彼は自宅の応接室の横壁に一つ窓を開け、その窓を赤色の薄いカーテンで蔽い、娘たちを部屋で遊ばせ、貴族の子弟が謁見に来ると、窓越しに自分の意中の人を選ばせた(『開元天宝遺事』巻上)。また、李朝の娘は父の卓上にあった慮儲の提出した書状を見て、侍女に「此の人は必ず状元(科挙の首席合格者)になる」と言った。李朝はそれを知ると虞を娘の婿にした(『太平広記』巷一八一)。また、宰相鄭攻に一人の娘がいた。彼女は羅隠の詩が大好きで、彼の嫁になりたいと思っていた。ある日、羅隠が家に来たのでカーテンの隙間から覗いたところ、容貌がきわめて醜かったので、もう二度と彼の話はしなかった(『南部新書』丁)。また、牛僧濡『玄怪録』(巻一)に次のような話がある。葦という姓の娘がいた。彼女はすでに十五歳にもなり、二回も縁談があったのにどちらも断ってしまった。母親もやむなく諦めざるを得なかった。後に一人の進士が求婚したところ、彼女は初めて喜んで結婚に同意し、母もそれを許したという話である。これらの話は、娘が自分で婿を決め父母がそれを許した例である。

唐代の結婚は、また「門当戸対」とか、「当色為婚」とか言われる、家柄のつり合いを大変に重視した。良民と賎民は決して縁組みをしないばかりか、良民の中でも同じ階層の者同士が結婚するのが普通だった。唐代は士族と庶民の区別が前代のようには厳密でなく、また通婚圏もそれほど閉鎖的ではなかったが、士族・庶民ともに一族一門の名誉の観念は依然として強烈であった。李光顔は太師(最高の栄誉である官職、実職はない)という高い官職にあったが、みだりに名族の姻戚を求めたりはしないといって、娘を下級将校の嫁にやった(『唐語林』巻四)。しかし、一般的には士族は娘を身分の低い庶民などにやりたくはなく、また権門貴顕の大多数が娘の才能や容姿などお構いなしに、争って士族との縁組みを求めたのである。こうした社会通念の影響を受けて、士族の娘自身も家柄を重視し、庶民の家に嫁ぐことを恥だと考えた。巽州長史の吉慾は権勢をもって士族雀敬の娘を嫁にしようとした。しかし、結婚の当日彼女はベッドに横たわったまま迎えの車に乗らなかった。末娘がそれを見て、父を救うために姉の身代りとなり吉慾のところに嫁に行った(『朝野愈載』巻三)。

家柄以外では、婿の家の財産と本人の才能が重視された。唐代には文学が尊ばれ、また科挙制度も発達したので、文士は名声が高まるだけでなく、文才で出世することも比較的容易であった。こうして才能の中でも文才が重んじられたのである。高貴で財産もある家でも、婿を取る時には家柄や財産よりはむしろ文才を重んじる場合があった。揚州将軍の薙某は財産家であったが、文人たちを心から尊敬し、呉楚(漸江、湖南一帯)の出身で貧しいけれど奔放で自由気ままな才子雀涯に娘をやり、また彼ら文士たちを支援した(『雪渓友議』巻五)。このような富貴な家が、官職についていない知識人を選んで婿にした事例は枚挙にいとまがない。次の話は、婿を選ぶ基準が財産と文才の二つであったことをよく示している。才子李郡は美貌の娘を嫁にしようとして、もう一人の男と争った。

娘の家ではどちらにするか決めかねて、二人に百万銭の金を持参するように求め、先に持参した者に娘をやるといった。しかし、二人は同時に金を持って来たので、今度は詩を一首作らせ取捨選択することにした。その結果、李郡が一歩先んじたので彼に娘をやった(『唐語林』巻二)。

これとは逆に、女が嫁に選ばれる資格の第一は容姿であり、第二が金と財産であった。原理的には、徳を重んじて色を重んじないということになってはいたが、しかし唐代の世風は礼法を尚はず、色気や艶っぽさを重んじたので、男は誰でも美貌を重視した。才子や名士などといわれる人物は、とりわけそうした傾向が強かった。たとえば、名士捏顛は前後四、五回も妻を替えたが、その度にただ美貌だけを問題にした。また、才子張又新は「ただ美しい妻を得さえすれば、それで一生満足である」とさえ言った(『唐才子伝』巻六)。もちろん、妾を入れる時は一層容貌が選択の基準になった。娘の家の財産もたいへん重視された。だからこそ、貧しい家の娘はもらい手がなく大きな社会問題となった。このような情況を慨嘆する唐詩は少なくない。「緑窓 貧家の女、寂実 二十余り。……幾過か人聴えんと欲するも、日に臨んで又蜘臍う」(白居易「議婚」)。「家貧しくして 人碑えず、一身帰する所なし」(郡謁「寒女行」)、「毎に恨む年年金桟を圧して、他人の為に嫁衣裳を作るを」(秦鮨玉「貧女」)等々。これらの詩は貧家の娘が嫁に行くことの難しさを慨嘆している。李商隠は、それを妊婦の歩行や新婦の接客と同じょうに難しいことだとみなしている(『義山雑纂』「遅滞」)。
そのほか、親は娘の婿選びに常に家柄や財産を重視したので、「老いた夫と若い妻」という現象
を多く生みだした。進士の宇文棚は権勢を得るため、あろうことかたいへん美しい娘を六十過ぎの睾確の嫁にやった(『北夢墳言』巻四)、雀元綜は五十八歳で十九歳の妻を要った(『太平広記』巻一五九)。
陳晴は年八十近くであったが、儒門の家の娘をむりやり嫁にした(『全唐詩』巻八七一)。こうした事例は珍しいことではなく、「老いた夫と若い妻」なる現象をもっぱら皮肉る民歌も生れた(『唐代民歌考釈及変文考論』第二六篇)。このような結婚を女性はもちろん願いはしなかったから、結婚後の生活も楽しいものではなかった。雀家の娘は年が若く才能もあり学問もあったが、老いた校書郎(秘書官)の虞という男に嫁いだ。結婚後、心が沈んで楽しくなかった。夫が妻に詩を作らせたところ、「怨まず 慮邸の年紀大なるを、怨まず 鹿部の官職卑きを。自ら恨む 妾の身 生まるること較や晩くして、鹿部の年少き時に及ぼざるを」(雀氏「述懐」)と詠んだ。癒されることのない悲しみや怨みの気特をどうすることもできず、やむなく茶化してしまおうとする気特が、この詩の行間に溢れている。
唐代の結婚について、もう一つ注目すべき現象がある。それは男が女の家に行って婚礼をあげるケースがひじょうに多いということである。これについては、敦燈で発見された唐代の書儀(諸種の公文・書簡等の書式)の写本が確かな証拠を提供してくれる。それに「最近の人の多くは妻を自分の家に迎えない。つまり妻の実家で結婚式をあげ、何年たっても夫の実家に行かない。自分の実家でそのまま子供を出産することが、一度や二度にとどまらない者もいる。道が遠くて日返りで舅姑に挨拶に行けないからでもない。……婦人は婚礼が終っても夫の一族を全く知らないのである」という。
この文書からみると、夫は妻の実家で結婚式をあげ、また妻は何年も夫の家に行かないのみならず、甚だしい場合には、何人か子どもを生んだ後でも妻は夫の実家の人々と知りあうことがないのである(以上の観点と材料は超和平先生より提供いただいた。併せて周一良先生の「敦煙写本書儀の中に見る唐俗」『文物』一九八五年七期を参照した)。唐代の小説にもこうした風習が反映されている。『太平広記』に収められている「襲航」(巻五〇)、「桃氏三子」(巻六五)、「閣庚」(巻三二八)、「鄭徳慾」(巻三二四)、「雀書生」(巻三三九)、「睾玉」(巻三四三)、「鄭紹」(巻三四五)などがそうである。これら唐代の小説は、夫は
妻の実家で結婚式をあげ、ついには妻の家の婿になることを書いた話であり、疑いもなく当時の社会風俗を反映している。こうした結婚の風習は、明らかに唐代の女性の地位がわりに高かったことの表れであり、そしてまた、当然にも妻が家庭の中で比較的大きな権力と高い地位を持つという結果をもたらしたのであった。


三 貞捜観の稀薄さと離婚、再婚の風潮

唐代の人々の男女関係はわりに放噂で、貞操観念も稀薄であったことは誰もが認めるところであり、後世の通学者の「勝ない唐、欄った漢」という説を生むにいたった。それは女性の愛情、結婚生活の中にそう言われても仕方のない種々の明らかな根拠があったからである。というのは、唐代には未婚の娘が秘かに男と情を通じたり、既婚婦人が別に愛人を見つけたり、離婚や再婚があたりまえの社会風潮になっていたからである。
先に述べた雀鷺蔦は、未婚の娘がこっそりと恋人と情交を結ぶという芸術作品上の代表的人物である。彼女は恋人と詩や手紙をやりとりして互いの真情を通じあったばかりでなく、夜には積極的に西のひさしの間である「西廟」 に走って恋人と情交を重ねる。この話はもともと『西廟記』 の原話『鷺鴬伝』を書いた元横の体験実話であり、まさに唐代の実際の社会生活そのものだった。さらに注目すべきことは、元横の書いた物語は後世の『西廟記』 のような「恋人同士は遂に夫婦になった」といった結末ではなかったことである。元横の『鷺鷺伝』 では、鴬鴛は別の人に嫁ぎ、恋人の書生張君瑞も別の人を嫁にしたのであるが、その後も二人はやはり詩歌のやりとりを続けているのである。また、この小説から、当時の人々はこうした男女交際を決して奇異とも思わず、ただ張生は自分の気持を抑えすぎたと言うにとどまり、あまつさえ風流なよい話だなどと誉め伝えていたことが見て取れる。そしてまた、唐代の人々は少女の結婚前の貞操に対してもあまりこだわらず、貞操をなくして他家に嫁入っても特に問題はないと考えていたことも分かる。唐代の小説や随筆を通覧すると、未婚の娘や女仙人、女幽霊が男を誘って「自ら枕や敷物を勧める」話がたくさんあるが、これはまさに当時の社会の現実を忠実に反映したものであった。李商隠はかつてこうした当時の世相を批評して、「娘は成人となって迎えの車に乗るが、母はその純潔を保証できない」(『全唐文』巻七七六、李商隠「令狐拾遺に別れる書」)と言っており、女子が婚前に処女を失う現象は決して稀ではなかったことが分かる。
女性が結婚の後に、また夫の死後に愛人を見つけるといったことは、さらに普通のことだった。
貞元年間のこと、文人の李章武は、華州(陳西省筆県)のある民家に宿泊し、その家の息子の嫁と愛し合って情交を結び、死んでも心は変わらぬと誓った(李景亮『李章武伝』)。また、貴族の姫妾であった獣鄭新野達実が姓)は、一人の少年を自分の部屋にひそかに隠していた。官庁がこの少年を捜し始めたので、彼女はこの年若い愛人に自分の家族とは異なる人物や食べ物の話を教え込み、それを官に自白させた。玄宗が我国夫人の家だと誤解するようにしむけたのである。後に玄宗は戯れに我国夫人にこのことを聞いたが、彼女は特に否定もせずただ大笑いしただけだった(王鐙『黙記』巻(下)に引く侠名『達実盈盈伝』)。維揚(江蘇省揚州市)の大商人の妻孟氏が家で詩を吟じていたところ、一人の少年が門に入ってきて彼女に言った。「浮世の人生など夢のごときもの、若い時はどのくらいありますか。しばし時を盗んで楽しんでもいいではありませんか」と。彼女はすぐ応じて情を通じた(『太平広記』巻三四五)。長山(山東省陵県)の趨玉の娘は、ある日林の中で一人で遊んでいたところ、きらびやかな軍服を着て諷爽とした将校に出会った。それで彼女は「こんな人を夫にできれば死んでも恨みません」と言うと、将校は「しばしの夫であってもよいでしょうか」と聞いた。彼女は「そうであっても、あなた様の恩愛を忘れません」といい、二人は林の中で情を交わして別れた(『太平広記』巻三〇六)。これらは、唐代の小説に出てくる話である。
唐代の人々の著作の中には、前代の后妃や美人、西施や王塘(王昭君)などがひんぽんに幽霊とか、仙人とかに化けて出て、現世の人と「会を同じうし枕を共にする」、つまり情交を結ぶ話がたくさんある。そればかりでなく、織女さえも牽牛を棄てて夜ごと人間界に降ってきて愛人と密会するのである。その愛人が織女に「どうしてあなたは牽牛を棄てて下界に降りて来るのですか」と尋ねると、織女は「陰陽の変化は牽牛と何の関係がありましょう。ましてや天の川で隔てられていますから、彼が知るわけがありません。もし知れたとしでも何の心配もありません」と答えた(『太平広記』巻六八「郭翰」)。これらの物語は、唐代の人々は既婚女性が愛人をつくるといった不貞行為をよくある普通なことだと見なし、決してたいした恥とも思わず、むしろ風流なことだとさえ考えていたことをよく示している。実際、唐代の社会、とりわけ上層貴族の風紀はたいへん乱れており、その凄まじきはこれらの物語をはるかに越えていた。高祖の張捷好とダ徳妃の二人は、皇太子李建成と怪しい関係であった。武則天も太宗の妃嬢であった時、皇太子と愛情関係にあり、また女帝になった時、多くの愛人を置いた。たとえば、史上有名な辞懐義、沈南塚、張易之、張昌宗などである。張兄弟は武則天の娘の太平公主が母親にとりもった男であった。また、武則天は広く美少年を選抜し、身のまわりの世話をする奉巌府の内供奉に入れた。大臣の朱敬別は女帝を諌めて、「臣が聞くところによりますと、およそ志は充分に満たされるべきものではなく、また楽しみは極めるべきものではないとのことです。……陛下の内寵にはすでに辞懐義、張易之、張昌宗などがおり、これにて十分でございましょう。ところで、近頃耳に入りまするに、尚舎奉御(宮中の管理人)の柳模は、自分の息子良賓は色白で美しい顔をしていると言いふらし、また左監門衛長史(近衛将校)の侯祥は、自分の陽物は大きく醇懐義のモノよりも立派であるから女帝にぜひお勧めしたいなどと言っております」(『旧唐書』張行成附張易之・昌宗伝)と申し上げた。このような諌議を何ら悼ることなく直言することは、人を赤面させるものだが、武則天は罰するどころか褒美として綾絹五段を下賜して誉めた。

武則天は自分が男寵を置いただけでなく、その男寵の母の阿蔵にも愛人である「私夫」を見つけてさえやった。また、中宗の章后と上官昭容(上官娩児)は、二人とも武三息と私通していた。さらにまた章后は馬秦客、楊均などの男寵を抱えており、その醜聞は宮中の外にまで伝わった。公主たちはさらに放縦であり、高陽、裏陽、太平、安楽、部国、永嘉などの各公主はみな愛人を持ち、また常に一群の男寵たちを侍らせていた。斎鼎、寺格、李万、李升らは部国公主の邸宅に出入りし、そのため「醜聞が漏れ伝わった」。また裏陽公主に至っては愛人の家に押しかけて、その母親に対して姑に挨拶する礼さえ行った(『旧唐書』斎復伝、『新唐書』李宝臣附李惟簡伝)。我国夫人が族兄の楊国忠と怪しい関係にあったことは誰でも知っていた。この楊国忠が使節として外国に長く行っていた間に妻が妊娠した。楊は自嘲しながら、これは夫婦の情が深い為だなどとこじつけて弁解したので、人々の失笑を買った(『開元天宝遺事』巻上)。唐朝の高官であった張亮、裳談、蓑光庭の妻たちは、みな男と私通していた。許敬宗の後妻は先妻の息子と通じていた。これら偶然に残ったいささかの記録から、こうした出来事が唐代では決して珍しくなかったことが分かる。それで後世の人々は、妻の姦通を黙認する唐人を「唐烏亀」(妻を寝取られた男を亀公という)と誘っている(察東藩『唐史演義』第一回)。しかし、唐代の人々はよくある話と受けとめて、それほど騒ぎ立てたりしなかった。

唐代の人々は貞操観念が稀薄だったので、離婚、再婚はきわめて一般的な風潮となり、古代社会史上注目すべき現象となった。ところで離婚は、もちろん男女双方に平等というわけではなかった。
唐代の法律は、まず男が女を離婚して家から出す権利を保証している。唐律は、妻が次の「七出」を犯せば、夫は離婚してもよいと規定している。「七出」とは古い時代からの礼法により、@男児を生まない、A淫乱である、B舅姑によく仕えない、C他人の悪口を言いふらす、D盗みを行う、E嫉妬心が強い、F悪い病気にかかる、以上の七項目とされている。しかし、「七出」に該当するものでも、追い出せない三つの条件があった。それは、?舅姑の葬式を主催した者、?嫁に来た時は下品であったが後に立派な女性になった者、?離婚されても行くところのない者、以上の三つの場合は妻を離縁すべきでないとした(『唐律疏議』巻一四)。こうした一定の制限があったにせよ、妻を離縁することはやはりきわめで簡単であった。離婚の理由はたいへん多く、たとえば、厳澄夫の妻慎氏は十余年たっても子供が出来なかったので離縁された(『雲渓友議』巻一)、李過秀の母は微賎の生れであったが、嫁が家の奴婦を叱る声を聴き不愉快になった。息子の過秀はそれを知るとすぐ妻を離縁した(『雲渓友議』巻一、『旧唐書』李大亮伝附李過秀伝)。白居易の判決文にも、妻を離縁することを許した例が少なからずある。たとえば、父母が嫁を好かないという理由で、三年たっても男児を生まなかったという理由で、母の前で嫁が大声で犬を叱ったという理由で、嫁の織物が命じられた通りでなかったという理由で、それぞれ離婚が正当であるとされている(『全唐文』巻六七二、六七三)。
当然もっとも目につくケースは、古女房に厭きて新しい女に引かれたり、富と権威を得て妻を換えた場合だが、こうしたことはどの時代にもある。許敬宗は、高宗が現皇后を追い出して武則天を新皇后に擁立しょうとした時、それに賛意を表して「田舎の百姓でも麦が十射(百斗)余計に積れただけで、古女房を換えようといたします」(『大唐新語』巻二一)と申し上げた。このように妻を棄てる風潮が盛んであったから、唐詩の中にも「棄婦」(棄てられた妻)をテーマとする作品が数多く現れて、「棄婦」を弁護した。「古来 棄婦有るも、棄婦に帰る処有り。今日 妾 君と辞るるも、君と辞れて何に遣れ去く。本家は零落して尽き、来る時の路に働果す」(李白「去婦詞」)、「夫婿は軽薄児、新人は美しきこと玉の如し。……〔夫は〕但だ新人を見て笑うのみ、郡にして旧人の笑するを聞かん」(杜甫「佳人」)、「関西(函谷関の西)の辟騎大将軍、去年虜を破りで新たに勲を策す(功名を記録簿に乗せた)。勅によって金銭二百万を賜り、洛陽より迎え得たり 花の如き人。新人迎え乗りで旧人は棄てられ、掌上の蓮花(新人) 眼中の刺(旧人)。新を迎え旧を棄てること未だ悲しむに足らず、悲しみは君の家に両児を留むるに在り」(自居易「母 子に別る」)などの詩である。これらの詩の大半は、夫が新しい女性を喜び古い女性を嫌うこと、妻は容色が衰えると棄てられること、あるいは夫が出世して後に別に新しい妻を要り、糟糠の妻を棄てることを描写している。こうしたケースは、社会でわりに一般的に見られる現象であったことが分かる。これは、もちろん男尊女卑の社会であったことに根本的な原因があるが、その他に唐代の人々が名節や礼法を尊ばなかったことと関係があるのだろう。男には一方的に妻を離別する権利があったほか、唐律ではさらに、夫婦の間にかりに「義絶」の状態 − つまり夫婦間あるいは親族の間に殺人、傷害等の事件が起った場合には、必ず離婚しなければならないと規定している。
さらに唐代に特徴的なことは、夫婦の性格が不一致ならば協議離婚をしたり、女性の万から離婚を積極的に要求したりできることだった。「唐律」巻一四の戸婚律に次のような明確な規定がある。
「もし夫妻が和語できず和離(協議して平和的に離婚)する場合には罪に問わない」とあり、両者による協議離婚の権利を保証している。敦煙文書の中に、唐代の「放妻」(妻を離別する)文書が三件残っている。内容はだいたいが「夫婦が不和であるのは、必ず前世に仇同士であった因縁があるからであり、二人が一緒に生活しても楽しくない、家業も盛んにならない、両者は別れてそれぞれ良縁を求めた方がよろしい」といった内容であった。文書から見ると、離婚は夫と妻の相方から求めあったものである。興味深いのは、離婚書の中に妻の再婚に対する祝詞まで書いてあることである。それは、「奥方よ、願わくは貴女が別れた後に再び娘時代の髪型に戻り、美しく装い、化粧をしておしとやかに振舞い、高官の御主人を選んで嫁になりますように。またこれまでの怨みを許しわだかまりを解き、さらに相い憎まず、別れてからは互いに寛容になって、それぞれ楽しくくらせますように」(『敦煙資料』第一輯)という内容であった。この文書には、唐代の人々が離婚、再婚に対して、きわめて開明的であったことがよく表れている。女性の方から積極的に離婚を求めたり、夫を棄てて家を出るといったことも時々発生した。太宗の時代、劉寂の妻夏侯氏は、父親が失明したので自ら離婚を求め、老父を扶養した(『旧唐書』列女伝)。また、秀才の楊志堅は学問が好きだったが家は貧しく、妻の王氏は官庁に行って離婚・再嫁の許可を求めた。州官の顔真卿は社会風俗を害するものだと考え、離婚して他の男と再婚することは許可するが、枚二十たたきにすると判決をくだした。
顔真卿のこの判決によって、風俗は大いに正され、この地に夫を棄てる人はいなくなったということである(『雲渓友議』巻こ。しかし、このことは反って妻が夫を棄てる風習が少なくなかったことを証明している。また唐末のことであるが、李将軍の娘は戦乱で一家が離散したため、ある下級部官の妻にならねはならなかった。後に彼女は親族を捜し出すと夫に言った。「戦乱の中では女は弱く自分一人で生きることはできません。幸いに貴方の御世話になり、ここまで無事にこられました。
女が貞操を失うことは不幸ではありません。ところで、人にはそれぞれ伴侶というものがありますから、貴方と死ぬまでくらすことは難しいのです、どうか今からお別れすることを許して下さい」と言った(『北夢項言』巻九)。貞節を守るとか失うとかいうことを何か特別な事柄のようには決して見なしていなかったのである。敦煙変文の中に「齢酎書」という一巻があり、その中に利かん気の強い女性のことが書いてある。彼女は姑と喧嘩して離婚届をくれと請求し、「私を離縁して他の人に嫁がせてください」と要求した(『敦塩変文集』巻七)。このように女の方から積極的に離婚を要求することは、下層の民間社会にも存在していたことが分かる。また、嫁の実家が離婚を要求することもあった。呂温の娘は兼敏のところに嫁に行き二人の子供を生んだ。夫が病気になると、妻の実家は離婚を求めた。しかし後に夫の病気が治ったので二人は復縁した(『旧唐書』武宗紀)。妾が夫を棄てることは多分さらに多かったであろう。房千里が遠くに旅に出たところ、妾の趨氏は待とうとせず、葦という秀才のところへ嫁に行った(『雲渓友議』巻二)。また、謝という秀才の妾縞練は夫と一緒にいるのがいやになり、他の男に嫁ぎたいと求めた。謝は彼女を手離し難かったが、ついに留め置くことができなかった(『続補侍児小名録』)。こうした多くの事例から見ると、唐代の社会は女性が貞操を失ったり、再婚したりすることを全く意に介さなかった。それで女性たちも、「一女は二夫に仕えず」とか、「鶏に嫁げば鶏に従い、犬に嫁げば犬に従う」といった強烈な男尊女卑の観念がなく、結婚生活が満足できなければ自ら進んで離婚を要求したのである。
寡婦となって後家暮らしを続けた後に、あるいは離婚した後に再婚することも、唐代ではごく普通の風潮であったから、世論の非難を受けることはなかった。また政府も人口増殖を図るために、やはり寡婦の再婚を奨励した。当時の人々の観念でも、再婚は人情にあい道理にかなう正常なことであると見なされていた。たとえば、楚王李霊亀の妃であった上官氏は夫の喪があけた時、兄たちから「妃は年がまだ若いし、また子もないから他家に改めて嫁しても、礼儀や常理に違わない」と勧められた(『旧唐書』列女伝)。人々が再婚は礼にかなったことと見なしていたことが分かる。
再婚の事例に至っては、枚挙にいとまがない。名門の官僚の家ですら再婚の女性を嫁に迎えることをいやがらなかった。たとえば、宰相宋場の息子は美貌の寡婦鄭氏を要った(『新唐書』宋環伝)。
また、厳挺之の妻は離婚の後、刺史王元攻の妻となった。後、王元淡が罪を犯した時、厳挺之に救われた(『旧唐書』李林甫伝)。葦済の妻の李氏は夫の死後、自ら宰相王府のところへ走り、王は偽って彼女を妻だと称した(『旧唐書』王相伝)。唐代儒学の第一人者であった韓愈大師の娘でさえ、まず父の門人李漠に嫁いだが、離婚して後契仲乾と再婚した(『全唐文紀事』巻三六)。
もちろん、再婚に関していえば、最もそれを自由気ままにやってのけたのは公主たちである。唐代の前・中期の高祖から粛宗までの間の全公主九十八人の内、再婚したのは実に二十七人で、この内の四人は三回も結婚している。それで魯迅が、晴代の儒者は「唐人が書いた文章の中で公主再婚の話を読むたびに勃然と怒り狂い、これは何事だ、尊貴な人のやるべきことではない。ひどいものだ″といった。もし唐人がまだ生きていれば、きっとその功名を取り消され 人心を正し風俗を改められた″ ことであろう」と書いたのも怪しむに足りない(魯迅『墳』「我が節烈観」)。清代の人々が見るのもいやがった風俗の頭廃も、唐代の人々にとっては奇怪なこととも忌避すべきこととも思われなかった。まさに二つの時代の社会通念の相違であった。東晋(三一七−四一九)以来、家門と家法を誇って来た貴族や士人も、世風の変化にさらされることになった。『北夢墳言』(巻五)に「およそ
士族の女に再婚を認める礼法というものはもともとなかった。しかし、唐の司徒裳壕の娘は早くに寡婦となり、再び嫁した。こうした倫理道徳に反する再婚は河東・(山西省の西部地方)から始まる」と述べている。この判断が正確かどうかに関わらず、士族の女性も「独りその身を善くする」(『孟子』尽心篇の言葉)ことができなくなったことも事実であった。山東の名門であった鄭遠の娘は魂元忠の息子の嫁になった。魂氏が難に遭うと鄭家はすぐ離婚を要求し、離婚した二日後には娘を再び他人の嫁にやった(『大唐新語』巻三)。これは士族の娘も同様に再婚していたことの証明である。
世間の風潮がこうしたものであっても、唐代の人々に封建道徳の観念、貞節の観念が全くなかったわけではなく、ただ比較的薄かっただけである。節婦・烈女が決していなかったわけではない。
ただ後世と比べると「鳳風の毛や麒麟の角のように珍しくて少ない」だけであった。寡婦の再婚について論ずれば、「一女は二夫に事えず」という観念を抱いて、あるいは他人から圧迫されて、再婚できずに孤独な半生に苦しむ女性はたくさんいた。自居易の 「婦人の苦しみ」なる詩に、「婦人一たび夫を喪えは、終身 孤才を守る。林中の竹の如き有り、忽ち風に吹き折らる。一たび折れて重生せず、枯死して猶お節(貞節と竹の節をかける)を抱く」と述べている。終身貞節を守って寡婦を通した女性もやはり少なくなく、それで自居易も嘆息したのだということが分かる。
唐代の人々が記録にとどめた節婦・烈女の中には、生涯再婚はしないと誓った者、甚だしい場合は再び嫁に行けないように自ら顔を傷つける者さえも現れた。房玄齢の妻慮氏は夫の病気が重くなった時、片目をえぐり出し、再び他人に嫁さない決意を示した。また、楚王の妃の上官氏は夫の死後、耳と鼻を斬り落して再び嫉きないと誓った。また槍州(河北省槍県)の部廉の妻李氏は十八歳で寡婦となった。ある夜男から愛を求められる夢を見て、まだ容色が衰えていないことを知り、刀を抜いて髪を切り落した。これより化粧をやめ、終日髪はぼうぼう顔は垢だらけにしていた。それで郡の長官はその貞節を褒めて彼女の家を「節婦里」と讃えた。その他、戦乱に遭った際、死んでも貞節を守ろうとした女性もいた。江陰(江蘇省江陰県)の県尉の妻薄氏は賊の掠奪にあい、長江に身を投じて死んだので、文士たちは争って節婦を讃える文章を書いて彼女を祭った。また、奉天(駅西省乾県)の村の娘睾伯娘と睾仲娘は、乱兵に迫られたため崖から身を投げて死んだ。官府はこの行為を讃えてこの村を表賞し、長く労役を免除した(以上は『旧唐書』列女伝、『朝野愈載』巻三)。このような類の記録はまだいくらもある。
さて、貞節を守る人は畢克はなはだ少なく、貞節を汚す人の方がきわめて多かったので、唐の中期以後になると、皇帝たちはこうした風潮をしだいに醜いこととして恥じるようになった。それでしばしば封建道徳や貞節を称揚し、官府も常に貞女・節婦にふさわしい行為を表彰し奨励した。文人や儒者の集団もしばしば、「一女は一夫に事う、安んぞ再び天を移す可けんや」(孟郊「去婦」)、「成人して夫婦の縁を結ぶ、その意義には千金の重さがある。もし不幸にして、夫に先立たれたならば、妻は三年の重い喪に服し、堅い決心で志を守るべきだ」(『女論語』)などと宣伝し奨励した。自居易老先生もたびたび婦人の苦しみに同情して、ひと声ふた声嘆息の声をもらしたが、やはり貞節の擁護者であった。彼について次の記録がある。ある女の夫が盗賊に殺された。彼女はこの盗賊の嫁となり、機会を窺って仇を討とうと図った。このことをある人が官府に告げ、彼女を不貞を行ったと告訴した。自居易はこの事件に次のような判決をくだした。「いやしくも彼女は未亡人なのに貞節を失ったならば、仇を討ったとしても何の価値があろうか。夫の仇を討たなくとも非とするに足りないが、婦道を汚したことこそ誠に恥ずべきである」と(『白居易集』巻六六「判」)。こうして、夫の仇を討とうとして夫を殺した賊に身をまかせたこの女性は、自居易からひとしきり叱られたのであった。
やはり士大夫というものは、原則上節婦とか貞節という道徳観を主張したことが分かる。ただ問題は、このようにしても、唐代社会の一般的風潮を徹底的に「矯正する」ことができなかったということである。




愛情,結婚及び貞挽観
四 妾、側室の風習と女性の嫉妬


「妬婦」(嫉妬深い妻)はいつの時代にもいたといえようが、唐代にはこの頬の記事が特別多いようである。房玄齢の夫人はひどいやきもちやきであったといわれろ。太宗が房玄齢に美女を賜ったところ、彼はあえて受けようとしなかった。そこで太宗はその妻を宮中に招き、皇后を通じて「妬まずに生きるのと、妬んで死ぬのと、いずれを選ぶか」と問うた。すると房夫人は「妬んで死ぬ方がよいのです」と答えた。そこで太宗は毒酒を賜ったところ、房夫人は一気に飲みほし恐れる色はなかった。この態度には、皇帝さえも敬服せざるを得なかった(ある記述によると、この話は房夫人ではなく管国公任壊夫人のことであるともいわれる)(『隋唐嘉話』中)。後世の人は、毒酒はじつは酢であったから房夫人は決して死ぬことはなかった、とも言っている。この話から「吃酢」(酢を飲む)という言葉が、やきもちをやく意となって後世に流伝したのであった。また、刺史蓑有敵は病気が重くなったので、ある人に診てもらったところ、その人は「姫妾を二人要って災いを退治すべきだ」と言った。蓑夫人が大いに怒ると、その人はまた「もし妾を入れないと貴女にも不吉なことが起こる」と言った。すると裳夫人は「それなら死んだ方がよい。こんなことは我慢なりません」と答えた(『朝野愈載』巻一)。以上の二人の夫人は、妾に嫉妬するくらいなら死んだ方がましだという人であったといえよう。また、貞元年間に、桂陽(広東省連県)の県令院嵩の妻閣氏という者がおり、嫉妬で有名だった。ある時、阪県令が応接室で客人を接待していた時、家の婦を呼んで余興に歌を唱わせた。夫人の閣氏はそれを聞くと、髪を振り乱し、裸足で腕まくりをし、刀を抜いて入ってきた。客人と婦は驚いて逃げ、夫もベッドの下に隠れた(『朝野食載』巻四)。こうした話は少なくない。唐代に段成式が編纂した『酉陽雑狙』(前集巻八)は、「大暦年間以前、士大夫の妻には嫉妬深いものが多かった」と総括している。してみれば、「妬婦」は唐代の社会風潮であったようである。
一見すると、「妬婦」はただ彼女たち個々人の気性や天性によって生みだされたように見える。しかし、より一歩深く考えると、唐代に発達した多妻制と女性に対する封建道徳の束縛の弱さ、この二つが相まって「妬婦」が大量に生まれる環境を形成したということが分かる。
一夫多妻制は、人類の婚姻関係の中で最も不合理な制度であり、男女関係の不平等を最も体現した制度であった。唐代の一夫多妻制(実際は一夫一妻多姫妾制と称すべきであるが)は特別の発達を見た。唐朝の規定によると、五品官以上で、親王及び一品官までの者は膝(妾より一階級身分の高い側室)を三人から十人持つことができた(『旧唐書』職官志二)。彼らはこれら品位の高い勝以外に妾を無制限に持っていた。また、下級官員や庶民でさえも、法律は姫妾を持つことを広く許していた。唐代の貴族や富豪の家の姫妾・侍婦は、ややもすれば百人単位で数えるほどに達した。このような多妻制が、一人の男が数人から数百人の女性を独占することを可能にし、逆にこれら多くの女性の方はたった一人の異性のほんのわずかな愛情と性関係をめぐって争い、そのごく一部に与るしかない事態を招いたのである。これ以外に男は外で娼妓を買い、花柳界で遊んでいたのは言うまでもない。
こうした情況は、当然にも正妻、姫妾を問わず、夫婦の愛情や性生活に大きな不満を生み出し、人頬の男女関係における嫉妬の本能が刺激されて極限にまで膨脹し、夫婦・妻妾間の鋭い矛盾と衝突を生みだしたのであった。
この一夫多妻制によって生みだされる矛盾に対して、封建道徳の秘訣は女性に嫉妬を戒め、嫉妬を女子の大悪と定め、その上で「七出」の一つ(嫉妬した女性を離婚することが出来る)としたのであいのです」と答えた。そこで太宗は毒酒を賜ったところ、房夫人は一気に飲みほし恐れる色はなかった。この態度には、皇帝さえも敬服せざるを得なかった(ある記述によると、この話は房夫人ではなく管国公任壊夫人のことであるともいわれる)(『隋唐嘉話』中)。後世の人は、毒酒はじつは酢であったから房夫人は決して死ぬことはなかった、とも言っている。この話から「吃酢」(酢を飲む)という言葉が、やきもちをやく意となって後世に流伝したのであった。また、刺史蓑有敵は病気が重くなったので、ある人に診てもらったところ、その人は「姫妾を二人要って災いを退治すべきだ」と言った。蓑夫人が大いに怒ると、その人はまた「もし妾を入れないと貴女にも不吉なことが起こる」と言った。すると裳夫人は「それなら死んだ方がよい。こんなことは我慢なりません」と答えた(『朝野愈載』巻一)。以上の二人の夫人は、妾に嫉妬するくらいなら死んだ方がましだという人であったといえよう。また、貞元年間に、桂陽(広東省連県)の県令院嵩の妻閣氏という者がおり、嫉妬で有名だった。ある時、阪県令が応接室で客人を接待していた時、家の婦を呼んで余興に歌を唱わせた。夫人の閣氏はそれを聞くと、髪を振り乱し、裸足で腕まくりをし、刀を抜いて入ってきた。
客人と婦は驚いて逃げ、夫もベッドの下に隠れた(『朝野食載』巻四)。こうした話は少なくない。唐代に段成式が編纂した『酉陽雑狙』(前集巻八)は、「大暦年間以前、士大夫の妻には嫉妬深いものが多かった」と総括している。してみれば、「妬婦」は唐代の社会風潮であったようである。
一見すると、「妬婦」はただ彼女たち個々人の気性や天性によって生みだされたように見える。
しかし、より一歩深く考えると、唐代に発達した多妻制と女性に対する封建道徳の束縛の弱さ、この二つが相まって「妬婦」が大量に生まれる環境を形成したということが分かる。
一夫多妻制は、人類の婚姻関係の中で最も不合理な制度であり、男女関係の不平等を最も体現した制度であった。唐代の一夫多妻制(実際は一夫一妻多姫妾制と称すべきであるが)は特別の発達を見た。唐朝の規定によると、五品官以上で、親王及び一品官までの者は膝(妾より一階級身分の高い側室)を三人から十人持つことができた(『旧唐書』職官志二)。彼らはこれら品位の高い勝以外に妾を無制限に持っていた。また、下級官員や庶民でさえも、法律は姫妾を持つことを広く許していた。唐代の貴族や富豪の家の姫妾・侍婦は、ややもすれば百人単位で数えるほどに達した。このような多妻制が、一人の男が数人から数百人の女性を独占することを可能にし、逆にこれら多くの女性の方はたった一人の異性のほんのわずかな愛情と性関係をめぐって争い、そのごく一部に与るしかない事態を招いたのである。これ以外に男は外で娼妓を買い、花柳界で遊んでいたのは言うまでもない。
こうした情況は、当然にも正妻、姫妾を問わず、夫婦の愛情や性生活に大きな不満を生み出し、人頬の男女関係における嫉妬の本能が刺激されて極限にまで膨脹し、夫婦・妻妾間の鋭い矛盾と衝突を生みだしたのであった。
この一夫多妻制によって生みだされる矛盾に対して、封建道徳の秘訣は女性に嫉妬を戒め、嫉妬を女子の大悪と定め、その上で「七出」の一つ(嫉妬した女性を離婚することが出来る)としたのであ身分の膿しい姫妾たちは正夫人よりもさらに苦しみ悩んだのであり、彼女たちはより一層古い婚姻制度の被害者であったといえよう。この点については、すでに「姫妾、家妓」(第二章第七節)で詳しく論じた。



一夫一妻多姫妾制

唐朝の規定によると、五品官以上で、親王及び
一品官までの者は膝(妾より一階級身分の高い
側室)を三人から十人持つことができた(『旧唐書』
職官志二)。
彼らはこれら品位の高い勝以外に妾を無制限に持っていた。また、下級官員や庶民でさえも、法律は姫妾を持つことを広く許していた。唐代の貴族や富豪の家の姫妾・侍婦は、ややもすれば百人単位で数えるほどに達した。このような多妻制が、一人の男が数人から数百人の女性を独占することを可能にし、逆にこれら多くの女性の方はたった一人の異性のほんのわずかな愛情と性関係をめぐって争い、そのごく一部に与るしかない事態を招いたのである。これ以外に男は外で娼妓を買い、花柳界で遊んでいたのは言うまでもない。


才色兼備の令嬢崔鶯鶯は、書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、というロマンチックな物語も生れた(元槇『蔦鴬伝』)。これは後世、ながく名作として喧伝されることになる戯曲『西廂記』 の原話である。これは中国古代の恋愛物語の典型ということができる。また、別の話であるが、美しくて聡明な官僚の家の娘無双は、従兄と幼い時から仲良く遊び互いに愛し合っていた。後に無双が家族の罪に連坐し宮中の婢にされると、この従兄は侠客に頼んで彼女を救い出し、二人はめでたく結婚したという話(薛調『劉無双伝』)。名妓李娃は、自分のために金と財産を使い果し、乞食に落ちぶれた某公子を救い、さんざん苦労して彼が名を成すのを助け、二人は白髪になるまで一緒に暮らしたという話(『李娃伝』)。妓女霞小玉は才子の李益を死ぬほど愛したが、李益は途中で心変りして彼女を棄ててしまった。小玉は気持が沈んで病気にかかり、臨終に臨み李益をはげしく恨んで失恋のため死んでしまったという話(蒋防『霍小玉伝』)。唐代には、こうした話以外に、人と神、人と幽霊、人と狐が愛しあう「柳毅伝書」、「蘭橋遇仙」など有名な物語がたくさん生れた。唐代の愛情物語は、中国古代のなかできわだっており、後代の戯曲、小説に題材を提供する宝庫となった。



白居易:
元槇『蔦鴬伝』
『太平広記』:「襲航」(巻五〇)、「桃氏三子」(巻六五)、「閣庚」(巻三二八)、「鄭徳慾」(巻三二四)、「雀書生」(巻三三九)、「睾玉」(巻三四三)、「鄭紹」(巻三四五)
中唐 崔護「人面桃花」
去年今日此門中、
人面桃花相暎紅。
人面祇今何処去、
桃花依旧笑春風。


去年の今日此の門の中【あたり】 
人面桃花 相映じて紅なり。 
人面は 祇だ今何れの処にか去り、 
桃花は旧に依りて春風に笑む。


愛情物語の中ばかりでなく、現実の生活の中でも、当時の労働する女性たちが自由に恋愛し夫婦となることは、どこでもわりに一般的に見られることであった。「妾が家は越水の辺、艇を揺らして江煙に入る。既に同心の侶を覚め、復た同心の蓮を来る」(徐彦伯「採蓮曲」)。あるいは「楊柳青青として 江水平らかに、邸が江上の唱歌の声を聞く。東辺に日出で西辺は雨、遣う是れ無暗(無情)は却って有晴(有情)」(劉禹錫「竹枝詞」)などと詠われている。これらは労働する女性たちの自由な愛情を描いている。彼女たちは長年屋外で働いていたので、男性との交際も比較的多かった。同時にまた、封建道徳観念は稀薄であり、感情は自然で自由奔放であったから、自由な恋愛はわりに多くみられた。一般庶民の家の娘は礼教の影響や束縛を受けることが比較的少なく、自由な男女の結びつきは常に、またどこにでも存在していたのである。たとえば、大暦年間、才女の見栄は隣に住む文士の文茂と常に詩をやりとりして情を通じ、また機会を見つけては情交を重ねた。見栄の母はそれを知り、「才子佳人というものは、往々にしてこんなふうになるものだ」と嘆息したが、ついに二人を結婚させた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」)。この話は、当時の社会には男女の自由な恋愛やひそかな情交があったばかりでなく、こうした関係を父母が許していたことも示している。



女性が恋人と駆落ちするという事件も時々発生した。白居易は次に紹介する詩の中で、庶民の娘の「駆落ち」について書いている。





井底引銀? 白居易 (井底より銀?を引く)白居易(白氏文集 巻四)


井底引銀?、銀瓶欲上糸縄絶。
石上磨玉簪、玉簪欲成中央折。
瓶沈簪折知奈何、似妾今朝与君別。
憶昔在家為女時、人言挙動有殊姿。
嬋娟両鬢秋蝉翼、宛転双蛾遠山色。
笑随戯伴後園中、此時与君未相識。
妾弄青梅憑短牆、君騎白馬傍垂楊。
牆頭馬上遥相顧、一見知君?断腸。

知君断腸共君語、君指南山松柏樹。
感君松栢化為心、暗合双鬢逐君去。
到君家舎五六年、君家大人頻有君。
聘則為妻奔是妾、不堪主祀奉蘋?。
終知君家不可住、其奈出門無去処。
豈無父母在高堂、亦有情親満故郷。
潜来更不通消息、今日悲羞帰不得。
為君一日恩、誤妾百年身。
寄言癡小人家女、慎勿将身軽許人。

(井底より銀?を引く)
井の底より銀?を引きあぐに、銀桝は上らんと欲で糸縄絶つ。
石の上にて玉くつわ簪を磨くも、玉簪は成らんと欲て中央より折れたり。
研沈み簪折れる 知らず奈何せん、妾 今朝君と別れるに似たり。
憶うに昔家に在りて女為りし時、人言う 挙動に殊姿有りと。
嬋娟な両鬢は秋蝉の翼、宛転った双蛾は遠山の色。
笑いで戯伴に随う後園の中、此の時君と末だ相い識らず。
妾は青梅を弄びて短塔に憑りかかり、君は白馬に騎って垂楊に傍う。
墻頭と馬上とで遥かに相い顧み、一見して君が即ち断腸たるを知る。

君の断腸たるを知りて君と共に語り、君は南山の松柏の樹(雄大にして常緑なる巨木のたとえ)を指さす。
君が松柏を化して心と為す(わが心は松柏の如く四時変ることがない)に感じ、闇かに双鬟(少女の髪型)を合して君を逐うて去る。
君が家に到りて舎ること五、六年、君が家の大人頻りに言有り(小言をいう)。
「聘すれば(礼をもって迎えたならば)則ち妻と為り 奔すれば(出奔して来たならば)是れ妾、
主祀(祭りの主宰)として蘋?(供物とするヨモギ科の草)を奉ずるに堪えず」と。
終に君が家の住まる可からざるを知るも、其れ門を出でて去く処無きを奈んせん。
豈 父母の高堂に在る無からんや、亦た親情(肉親)の故郷に満つる有り。
潜かに来れば更に消息を通ぜず、今日 悲しみ羞じて帰り得ず。
君が一日の恩の為に、妾が百年の身を誤る。
言を痴小なる人家の女に寄す、「慎んで身を将て軽しく人に許すこと勿れ」と。


白居易は詩を書いて世の人々を戒めたのであるが、こうした駆落ちは決して例外的なことではなく、また結婚も必ずしも両家の家長の承認を得なければならないものでもなかったことが分かる。官僚の家の女子の自由恋愛は比較的困難であったが、元?が自分の経験に基づいて書いた『鴬鴬伝』や、陳玄祐の『離魂記』、薛調の『劉無双伝』などの小説が世に出現したことは、彼女たちの中にも崔鶯鴬のような、封建道徳への反逆者たちが出現していたことを示している。六朝以来、儒教的恋愛観は嫌気があり、そこに、北方文化との融合があって、自由な恋愛が広がったのである。(この時期の自由恋愛の風潮は、中國のみならず、日本を含めた世界的なものである。)

要するに、唐代の女性たちの愛を追求する想いは、決して封建道徳というのはこの頃は成熟していなくて、完全に圧殺されはしなかったし、彼女たちの勇気に人々は感嘆の声を上げたのである。

唐代の女性の恋愛観は社会全体の価値観の影響を全面的に受けて、相手に「文才」があることをとても重んじた。小説はもちろん現実の世界においても、女性が愛する対象はたいてい風流才子であった。「我は悦ぶ 子の容艶を、子は傾く 我が文章に」(李白「情人に別れしひとに代りで」)、「娘は才を愛し、男は色を重んじる」(『零小玉伝』)というように、女は男の才能を愛し、男は女の容色を重んずるというのが、唐代の男女の典型的な恋愛観であった。ここから、後世の小説や戯曲の中の「才子佳人」という恋愛パターンが形成されたのである。


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薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》

浣溪沙八首其五

(浣溪紗八首 其の五:元宵節の時に知り合って、親の目を盗んで、月一回のお参りに、寒食・清明節と逢瀬を重ねた。才色兼備の令嬢崔鶯鶯はと書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、それは悲恋に終わったと詠う)

簾下三間出寺牆,滿街垂楊拷A長,嫩紅輕翠間濃粧。

元宵節で、知り合って、寒食の時に逢瀬を約束をしてここにきた、簾を下して、三つ時をすごして、寺の西廂の土塀の牆を出でいくと,街には楊柳が垂れ高濃くして、春の盛り、陰を長くしている,まだお幼顏の頬を赤く染めている翡翠の飾りも軽く揺れている、化粧を直して濃い化粧に変わっている。

瞥地見時猶可可,卻來閑處暗思量,如今情事隔仙?。

人目を忍んで、ちらっと垣間見ることの逢瀬をなお続けていたが悲恋に終わり、今は却ってここに来て見るとそこは寂しい所でしかなく、思いを巡らすけれどうまくいかなかったことはいろいろありそうだ、今になってみればあの逢瀬は仙郷での出来事のように遠いものになってしまった。


改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》

『浣溪沙八首』 現代語訳と訳註

(本文)

浣溪沙八首其五
簾下三間出寺牆,滿街垂楊拷A長,嫩紅輕翠間濃粧。
瞥地見時猶可可,卻來閑處暗思量,如今情事隔仙?。

(下し文)

《巻三34浣溪紗八首 其五》
其五
簾下 三間 寺牆を出づ,街に滿る楊を垂れ拷A長くす,嫩紅【どんこう】輕翠【けいすい】 濃粧を間にす。
瞥地 見時 猶お可可とし,卻って來る 閑處 思量を暗くす,如今 情事 仙?を隔つ。

 改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》

(現代語訳)

(浣溪紗八首 其の五:元宵節の時に知り合って、親の目を盗んで、月一回のお参りに、寒食・清明節と逢瀬を重ねた。才色兼備の令嬢崔鶯鶯はと書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、それは悲恋に終わったと詠う)
元宵節で、知り合って、寒食の時に逢瀬を約束をしてここにきた、簾を下して、三つ時をすごして、寺の西廂の土塀の牆を出でいくと,街には楊柳が垂れ高濃くして、春の盛り、陰を長くしている,まだお幼顏の頬を赤く染めている翡翠の飾りも軽く揺れている、化粧を直して濃い化粧に変わっている。
人目を忍んで、ちらっと垣間見ることの逢瀬をなお続けていたが悲恋に終わり、今は却ってここに来て見るとそこは寂しい所でしかなく、思いを巡らすけれどうまくいかなかったことはいろいろありそうだ、今になってみればあの逢瀬は仙郷での出来事のように遠いものになってしまった。

(訳注) 改訂版)-4.薛昭蘊131《巻三34浣溪紗八首 其五》

浣溪紗八首 其五

(浣溪紗八首 其の五:元宵節の時に知り合って、親の目を盗んで、月一回のお参りに、寒食・清明節と逢瀬を重ねた。才色兼備の令嬢崔鶯鶯はと書生の張君瑞とたまたま元宵節で出会って愛しあい、封建道徳の束縛と母親の反対を押しのけて西廂(西の棟)でこっそりと会っては情交を結んだ、それは悲恋に終わったと詠う)

唐の元?(げんしん)の伝奇小説《鶯鶯伝》を題材とし,書生の張?と崔鶯鶯の恋愛を描くが,《鶯鶯伝》では破局におわる2人の愛情が,めでたく成就するよう話の筋が改められている。のちの元代の演劇である〈雑劇〉の代表作,王実甫の《西廂記》に大きな影響をあたえた。
・春まだ寒い時期、染め付けた布地を水にさらした後、河原に干す。春になると谷間の美しい光景となる。「浣溪沙」は、寒食、清明節、春の河原に、色とりどりの万幕を張って行楽を楽しむ様子が布地を晒し、乾かす光景と似ているために、春の行楽の恋模様を詠うものである。多くの階層の歌があるが、妃嬪・宮人・妓優のものがほとんどである。

・『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、FFF/7FFの詞形をとる。韋荘の浣渓抄の解説参照。

『花間集』には薛昭蘊の作が八首収められている。
(改訂版)浣溪紗八首 其一
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、7FF/7FFの詞形をとる。
紅蓼渡頭秋正雨、印沙?跡自成行、整鬟飄袖野風香。
不語含?深浦裏、幾迴愁?棹?郎、?歸帆盡水茫茫。
○●●○○△●、●△○●●○△、●○○●●△○。
△●○○△●●、△△○●●○○、●○△●●○○。
双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で、FFF/7FFの詞形をとる。
(改訂版)浣溪沙八首其二
鈿匣菱花錦帶垂,靜臨蘭檻卸頭時,約鬟低珥等歸期。
茂茂艸青湘渚闊,夢餘空有漏依依,二年終日損芳菲。
△●○○●●○、●△○●●○○、●○○●●○○。
●●●○○●●、△○△●●△△、●○○●●○△。
(改訂版)浣溪紗八首 其三
粉上依稀有?痕、郡庭花落欲?昏、遠情深恨與誰論。
記得去年寒食日、延秋門外卓金輪、日斜人散暗消魂。
●●△○●●○、●○○●●○○、●○△●△○△。
●●●○○●●、△○○●●○○、●○○●●○○。
(改訂版)《巻三33浣溪紗八首 其四》
握手河橋柳似金、蜂鬚輕惹百花心、尓覧鮪v寄清琴。
意滿便同春水滿、情深還似酒盃深、楚煙湘月兩??。
●●○○●●○、○○△●●○○、●△○△●○○。
●●△○○●●、○△○●●○△、●○○●●○○。

改訂版)浣溪紗八首 其五
簾下三間出寺牆、滿街垂楊拷A長、嫩紅輕翠間濃粧。
瞥地見時猶可可、卻來閑處暗思量、如今情事隔仙?。
○●△△●●○、●○○○●○△、●○△●△○○。
●●●○△●●、●△○●●△△、△○○●●○○。

簾下三間出寺牆,滿街垂楊拷A長,嫩紅輕翠間濃粧。

元宵節で、知り合って、寒食の時に逢瀬を約束をしてここにきた、簾を下して、三つ時をすごして、寺の西廂の土塀の牆を出でいくと,街には楊柳が垂れ高濃くして、春の盛り、陰を長くしている,まだお幼顏の頬を赤く染めている翡翠の飾りも軽く揺れている、化粧を直して濃い化粧に変わっている。
・三間 @柱の三区間。A昼間の午前、正午、午後。B季節の三季。春、夏、秋。
・嫩 1 発芽して最初に出る葉。双子葉植物で2枚出る。《季 春》2 人間の幼少のころ。また、物事の初め。「栴檀(せんだん)は―より芳(かんば)し」3 名香の一。伽羅(きゃら)で香味は苦甘。羅国。ふたばあおい双葉葵。
・出寺牆 当時の娘、妃嬪、など、深窓の中に暮らし、外出する自由はなかった。外出が許されるのは、正月十五日の元宵節や、寒食清明、あるいは寺社参りなど、特別な日に限られていた。しかも一人での外出など許されなかった。
封建的な時代には、若い女性は自由に外出できなかったので、未婚の若い男女が出会う機会はあまりない。ただ、元宵節の日は、花提灯を観賞するという口実で遊びに出かけ、相手を探すことができた。若い男女にとって元宵節の期間は、恋人に出会うための「恋人節」であった。

瞥地見時猶可可,卻來閑處暗思量,如今情事隔仙?。

人目を忍んで、ちらっと垣間見ることの逢瀬をなお続けていたが悲恋に終わり、今は却ってここに来て見るとそこは寂しい所でしかなく、思いを巡らすけれどうまくいかなかったことはいろいろありそうだ、今になってみればあの逢瀬は仙郷での出来事のように遠いものになってしまった。
・瞥地 うつむいてちらりと垣間見ること。よって、正視するに到らずちらりと見る程度の境涯ということ。瞥地見時は「瞥見地時」とよむ。
・猶可可 その後もかわいそうであり、あわれでもあることが続いている。
・暗思量 思いを巡らすけれど悪い様に考えてしまうというほどの意。 思量:@意志と局量。A思いを巡らす。種々に考える。元?《和樂天夢亡友劉太白同遊二首》元? 君詩昨日到通州,萬里知君一夢劉。 閑坐思量小來事,只應元是夢中游。 老來東郡複西州,行處生塵為喪劉。B思慮の量度。
・如今 当世,現今,今ごろ,現在.◇'?在'は時間的にごく短くてもかなり長くてもよいが,'如今'は過去のある時期と比べた現在のかなり幅のある時間を言う


和樂天夢亡友劉太白同遊二首 其一(唐?元?)

  七絶句 押尤韻  顯示自動注?

題注:元和十三年作於通州,時為通州司馬。白居易原唱為《夢亡友劉太白同游章敬寺》,次韻唱和。白詩云:"十五年前哭老劉",劉卒於貞元二十年,故當元和十三年作。劉太白:指劉敦質,參本卷《和樂天劉家花》注。
君詩昨日到通州,萬里知君一夢劉。閑坐思量小來事,?應元是夢中遊。

○?應元 ?:同"祇",僅。元:本來,原來,後作原。清顧炎武《日知?》卷三二:"元者,本也。本官曰元官,本籍曰元籍,本來曰元來。唐宋人多此語,後人以'原'字代之。"
唐の元?(げんしん)《会真記(鶯鶯伝)》にもとづく金代の語り物《董西廂》を歌劇に改編したもので,山西省隅の名刹を舞台に展開される,旅の書生と亡き宰相の令嬢の波乱にみちた恋愛をつづる。作者は語り物が設定した封建礼教に対する自由結婚の抗争というテーマに添いつつ,登場人物たちの性格を的確に強調し,礼教の権化たる宰相未亡人と人間性を代弁する小間使いを両極に配しつつ,その間に恋の当事者を介在させ,彼ら相異なる四つの性格の対比が生む多様な波乱を,雅俗語を巧みに使い分ける洗練された筆致で描く。











薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。
醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して?州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。

今、花間集に侍郎とあり、また、その中に収められた十八首の詞の中、八首の浣渓沙があることから推量して薛昭蘊は紹緯と同じ人物であろうといぅ説が考えられるといわれている。晩年に?州(渓州に同じであろう、広西に属する)に配せられているが、全唐詩の薛紹緯の条には天復中(唐末の年号、901−903)に渓州司馬に貶せられたといぅひおそらくこの頃に貶せられたであろう。なお、北夢瑣言では薛澄州と呼んでいる。澄州もまた広西に属する。また、全唐詩に河東の人とあるのは、おそらく薛氏の出身地を言うのであろう。

歴代詩余の詞人姓氏では前局に編入して蜀に仕えて侍郎となったごとく記している。この説に従ってかれが韋荘と同じく蜀に仕えて侍郎となったとしている伝記も見受けられるが、紹澄が紹緯と同一人であるとすると上記の経歴と矛盾を生ずる。王国維は紹緯と薛昭蘊とを兄弟と見て、一門に浣溪沙詞を好んだものがあったと解しているが、この説よりも上にのべた同一人と見る説の方がよいようだ。花間集において温庭?、皇甫松、韋荘についで薛昭蘊を並べているのも、唐王朝に仕えた人物を先に置いたためであろう。両者を同一人としておいた。