紀頌之の 中國詩人名鑑のサイト五胡十六国 西晉


   五胡十六国 西晉

五胡十六国 U分類


五胡十六国時代(4世紀),



三国時代 魏 220 - 265 呉 222 - 280 蜀 221 - 263
晉  265 - 420 西晉  265 - 316
東晉 317 - 420 五胡十六国 304-439
南北朝(439〜589)
宋 420 - 479
北魏 386 - 534
斉 479 - 502
梁 502 - 557
西魏 535 - 556
東魏 534 - 550
陳 557 - 589
北周 556 - 581
北斉 550 - 577




隋(ずい、581年 -618年)
唐(とう、618年 -907年)
   初唐の詩人たち   盛唐の詩人たち   中唐の詩人たち   晩唐の詩人たち
    





五胡のたてた国, 漢民族の国, 羯, 羌, 氏(テイ), 匈奴, 鮮卑,
十六国, 五胡, 文字,
泗水の戦い(383),
後秦, 後趙, 漢(前趙), 北涼, 夏, 西秦, 南涼, 南燕, 後燕, 前燕, 北燕, 前涼, 西涼, 成漢, 前秦, 後涼,

羌, ?, 羯, 匈奴, 鮮卑, 倭, 新羅, 百済, 高句麗, 東晋, 会稽, 江州, 荊州, 南海, 交趾, 成都, 秦州(苑都), 長安, 洛陽(豫州), 襄国, 青洲, 加羅, 丸都, 竜城, 平城, 夏(統方), 涼州, 張掖, 敦煌, 建康, 南シナ海

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五胡十六国(建国時系列)時代の概略と詩人






T
1.西晉265−316 2.代315−376 3.東晉317−420 4.西燕384−394 5.北魏386−534 6.宋420−479
U
@前趙304−347 A成漢304−347 B前涼316―376 C後趙319−351 D前燕337−370
V
E前秦351−394 F後燕384−407 G後秦384−417 H後涼386−403 I西秦385−431
W
J南涼397−414 K南燕398−410 L西涼400−421 M 夏 407−431 N北燕407−436 O北涼397−439

U-@ 前趙 304−347


中 国 詩 人 と 歴 史
・元謀・藍田・北京原人

・神話伝説(三皇五帝)

・黄河・長江・遼河文明

・夏 ・殷 ・周・西周

前漢
後漢
西晋  T
十六国

 UVW
北魏
西魏
東魏
北周
北斉
唐   (初唐)

唐  (盛唐)
     (中唐) 
     (晩唐)
西夏
 
 
北元
後金

 
満洲
中華民国
中華人民共和国
台湾
建国時の勢力図
匈奴の劉淵が304年に建国。五胡十六国の始まりとなった。311年永嘉の乱で西晋の洛陽を
攻略、さらに316年に西晋を滅ぼした。しかし内紛が続き、329年に部将の石勒に帝位を奪われ
た。それまでを前趙、以後を後趙という。

 かつて漢帝国と対等な勢力をもった匈奴が、武帝以来の圧力を受けて南北に分裂した後、南
匈奴は漢に服属し、後漢・三国時代を通じて華北に定住するようになっていた。しかし、かつての騎
馬民族として能力は維持されており、その多くは傭兵という形で漢民族諸王朝に仕えていた。彼ら
の存在がふたたび脚光を浴びることになったのは晋で起こった八王の乱で、諸王が彼らの武力を利
用しようとして、重く用いるようになったからであった。匈奴の劉淵もその一人だった。

匈奴の再登場
 劉淵は南匈奴の単于の後身で、晋の八王の一人成都王に仕える部将であった劉淵が、八王
の乱の混乱に乗じて独立し、304年に平陽(山西省南部)を都にして漢を建国、即位した(高
祖)。これが、五胡十六国の始まりであった。五胡といわれた北方民族の一つである匈奴が建てた
国であったが、劉淵は漢王室の血筋を受けていることを根拠に、漢王室を再興し、晋王朝を倒す
ことを標榜したので「漢」を国号とした。劉淵は宮廷に漢王朝風の百官を置いて、その統治を見倣
った。
匈奴が建てた「漢」 劉淵の国家は、国号は「漢」というものの、明らかに匈奴を主体とした勢力が
中原の長安を抑えて作った国家であり、その登場は中国史の大きな転換を意味している。これ以
後、華北には五胡と言われる北方遊牧民系の民族が割拠し、漢民族の唐朝は江南に逃れて東
晋を建国する。華北の五胡十六国の始まりとなっただけでなく、三国時代〜南北朝時代へと続く
魏晋南北朝時代の転換点でもあった。
晋を滅ぼす


U-@ 前趙304−347

漢(前趙)



 劉淵は310年に病死し、その子劉和が帝位をついたが、劉淵の弟の劉聡が和を殺害して帝位を奪った。劉聡は晋(西晋)に対する攻勢を強め、311年に晋の都洛陽を攻めて落とし(永嘉の乱)、さらに316年には劉淵の子の劉曜が長安を陥れて、晋を滅ぼした。翌年、晋王室の一人の司馬睿は江南で東晋を建国する。


前趙と後趙

 永嘉の乱で晋から洛陽を奪った劉聡は豪傑であったが、劉和を殺して帝位についた人物だった。因果はめぐり、劉聡の子の劉粲(さん)が立つと大異変が起きた。劉粲は政治を側近の中国人?凖(きじゅん)にまかせて遊宴にふけり、酒ばかり呑んで暮らしていたので、?凖は中国人の復讐の機会と考えたのか、クーデタを起こして劉粲を殺し、劉淵と劉聡の墓を暴くなどの乱暴を働いた。長安にいた劉淵の末子劉曜は羯人の石勒と協力して?凖の一族を皆殺しにし、自ら318年に皇帝の位につき、翌年、国号を趙とした。しかし間もなく、今度は劉曜と石勒が対立、329年に劉曜は石勒によって倒され、石勒が新たに帝位についた。石勒も国号を趙としたが、ややこしいので、劉曜の国を前趙、石勒のそれを後趙といって区別する。




U-A 成漢  304−347



成漢


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成漢(せいかん、?音: Cheng Han、304年 - 347年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。巴?族(?族の一種)[1]の李雄により建国された。当初の国号は大成であったが、李寿の時代に漢に改めた事から、併せて成漢と呼称される。また、後蜀(ごしょく)とも記載される。



歴史
前史
李氏の祖先である李虎(中国語版)は巴西郡宕渠県(現在の四川省渠県)に居住して巴?族を束ねていたが、後漢末に曹操の命により渭水上流の略陽郡臨渭県(現在の甘粛省秦安県の東南)に移住させられた。李虎の子である李慕(中国語版)は東羌猟将に任じられ、曹魏・西晋に臣従した。

296年、?族の斉万年が西晋に反乱を起こすと、連年に渡り飢饉が続いていた事も有り、関中は大いに荒廃した。その為、略陽・天水を初めとした6郡で流民が大量に発生し、李慕の子である李特は兄弟と共にその集団を率いて漢中に南下した。李特はさらに巴蜀(現在の四川省一帯)に入ろうとしたが許可されなかったので、西晋から派遣された侍御史李?を買収し、その許可を取り付けて蜀に移った。この際、李特の勢力は漢族などを合わせて10万人にまで達する強大なものとなっていた。

創設期
趙?の乱
300年11月、益州刺史趙?は大長秋に任じられて中央へ帰還するよう命じられたが、彼は趙王司馬倫に誅殺された皇后賈南風と姻戚関係にあったので、その災禍が及ぶのを大いに恐れた。その為、益州に留まって自立を目論み、李特ら兄弟を厚遇して6郡の流民を自陣営に引き込んだ。新任の益州刺史耿滕が成都に着任すると、趙?は反乱を起こしてこれを殺害し、さらに西夷校尉陳総・?為郡太守李?・?山郡太守霍固らを尽く討ち果たすと、遂に大都督・大将軍・益州牧を自称して太平元年と改元した。李特の弟である李庠は特に趙?に厚遇され、1万の兵を指揮して反乱軍の中核を成していたが、やがてその実力を趙?に警戒されるようになり、301年1月に誅殺された。李特はこれに激怒し、密かに7千の兵を率いて趙?配下の費遠の陣営を夜襲して焼き払い、8・9割の兵を戦死させた。さらに、李特は弟の李流と共に成都を目指して進撃すると、趙?は大いに恐れて逃亡を図るも配下に殺害された。こうして乱は鎮圧され、趙?討伐の功績により李特は宣威将軍・長楽郷侯に任じられ、李流は奮威将軍・武陽侯に任じられた。

羅尚との対立
その後、新任の益州刺史羅尚が到来すると、李特は綿竹に入って羅尚を慰労した。だが、羅尚配下の広漢郡太守辛冉らは李特とその一族を全員誅殺するよう進言した。羅尚は容れなかったものの、李特はこれを聞いて心中不安になった。辛冉は趙?討伐の手柄をねつ造して流民の活躍を自分の功績にしようとしたり、流民の資財を奪おうと目論んで関所を設けて財産を調べさせるなどしたので、流民達は大いに恨みを抱いた。

301年3月、朝廷は益州にいる流民達へ郷里に帰還する様、通達を出した。李特は配下の閻式を羅尚の下へ幾度も派遣し、帰郷を秋まで延期するよう求め、さらに賄賂も送ったので一旦は延期は許可された。だが、辛冉と李?らが反対した事により、再度7月までに帰郷するよう通達を出した。当時、大雨が降り続いて帰る手段が無く、まだ穀物も実っていない時期なので食糧も無く、流民達は帰郷命令にどう対処していいか分からなかった。その為、李特兄弟が自分達の為に期限延期を請願していることを知ってこれを頼みとするようになり、李特は綿竹に大きな陣営を築いて行き場のなくなった流民を収容した。辛冉はこれに激怒して街道に立札を掛け、李特兄弟の首に重い懸賞金をかけたが、李特は弟の李驤と共に6郡の流民の豪族も懸賞金の対象に書き加えた。その為、流民達は立札を見ると驚愕し、尽く李特に助けを求め、1月もしないうちにその数は2万を超えた。その後、李特はまたも閻式を派遣し、羅尚から帰郷の期日を延ばす合意を取り付けた。だが、辛冉は要所に囲いを設けて流民を捕らえる準備をしていたので、閻式は綿竹に戻ると李特へ十分に備えをしておくよう告げ、李特はこれに従った。

10月、李特は北営と東営の二つの陣営を築き、李特が北営を、李流が東営を守った。辛冉と李?は羅尚の許可無しに独断で李特討伐の兵を挙げ、広漢都尉曽元・牙門張顕らに3万の兵を与えて北営を奇襲させた。羅尚はこれに憤ったものの、止むを得ず督護田佐を派遣して曽元らを援護させた。だが、李特は十分に備えをしていたので、敵軍の半数が陣に侵入したところで伏兵に襲撃を命じ、敵軍の大半を討ち果たして田佐・曽元・張顕を戦死させた。

李特自立
ここにおいて6郡の流民達は李特を首領に推戴し、行鎮北大将軍に推挙した。李特は辛冉討伐の兵を挙げると、兄の驃騎将軍李輔と弟の驍騎将軍李驤に命じ、広漢を攻撃させて幾度も破った。羅尚は救援の兵を派遣したが、救援軍は李特を恐れて進軍しなかった。敗北を重ねた辛冉は広漢を放棄して江陽へ逃走したので、李特は広漢に入城して拠点とした。その後、李特は羅尚を標的に定めて成都へ軍を進めると、敵軍に連戦連勝した。羅尚は成都を固守して李特らへ講和を試みたが、李特は聞き入れなかった。羅尚は梁州・寧州に救援を求めると共に、都安から?水まで七百里に渡る陣を築いて李特と対峙した。これを受け、南夷校尉李毅は兵5千を羅尚救援の為に派遣した。

302年、長安を統治する河間王司馬?は李特討伐の為、督護衛博を梓潼へ進軍させた。李特は子の李蕩・李雄を派遣して衛博を攻撃させ、撃破して敵軍の大半を殺した。衛博の敗戦を聞いた梓潼郡太守張演は大いに恐れ、城を捨てて逃走した。李蕩は衛博を追撃して巴西を攻め落とし、さらに葭萌まで進んで衛博の残党を尽く降伏させた。羅尚は督護張亀に命じて繁城を攻撃させたが、李特はこれを迎撃して大いに打ち破った。5月、李特は大将軍・大都督・梁益二州諸軍事・益州牧を自称し、西晋と完全に決別した。

8月、朝廷もまた李特討伐の為に広漢郡太守張徴を徳陽へ進軍させると、李特は軍を進めて李蕩と共に張徴を攻撃した。張徴は険阻な地に拠ったので李特は不利に陥ったが、李蕩は救援に駆け付けると死に物狂いで奮戦し、迎え撃って来た張徴の軍を壊滅させて李特を救った。張徴が退却しようとすると、李蕩は水陸の両面からこれを追撃して張徴を殺害した。同時期、李特配下の徳陽郡太守騫碩は巴郡の?江まで軍を進め、この地を占領した。司馬?は梁州刺史許雄を新たに派遣して李特討伐に当たらせたが、李特はこれを破った。

その後、李特は李驤を?橋に駐軍させて羅尚への備えとした。李驤は迎撃に出た羅尚を2度に渡って破り、武器を奪って陣門を焼いた。李流が成都の北に軍を進めると、羅尚配下の張興は李驤に偽装投降を仕掛け、羅尚へ李驤軍の様子を報告した。これを受け、羅尚は精鋭1万人余りを派遣して李驤の陣営を夜襲し、敗れた李驤は将士と共に李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると反攻に転じ、追撃してきた羅尚軍を返り討ちにして大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は10人のうち1、2人に過ぎなかったという。303年1月、李特が羅尚の水軍を破って成都へ侵攻すると、蜀郡太守徐倹は成都少城を挙げて降伏した。李特は少城へ入城すると、年号を建初と定めて正式に自立を宣言した[3]。これが実実上の成漢建国と言われる。羅尚は成都太城に籠城して守りを固めた。

李特敗死
蜀の人々は李特の襲撃を恐れ、相次いで集落ごと李特に臣従した。李特はこれを安撫して彼らの為に食糧を供出したので、軍中は食糧不足に陥り、解消の為に6郡の流民を各集落へ分散させて配置した。各々の集落は表向きは李特に従っていたが裏では羅尚とも通じており、李流・李雄らは蜀の民への警戒を怠らないよう進言したが、李特は容れなかった。羅尚配下の益州兵曹従事任叡は密かに集落へ到来すると、2月10日に共同で李特を攻撃するよう蜀の民と盟約を交わした。さらに、任叡は偽って李特に投降し、羅尚軍の食糧が尽きていると偽りの発言を行って李特を油断させた。

2月、羅尚は大軍を派遣して李特の陣営へ総攻撃を掛けると、これに各集落が一斉に呼応した為、李特は大敗を喫して新繁に退いた。その後、羅尚が再び大軍を率いて攻撃を掛けると、李特は再び大敗して戦死した。李特の死により流民達は大いに動揺したので、李流は李蕩・李雄と共に兵を束ねて赤祖(綿竹の東)まで撤退したので、成都少城を始めとした多くの城を失った。李流はかつて李特が築いた陣営に入ると、自身は東営を守り、李蕩と李雄には北営を守らせた。その後、李特を継いで大将軍・大都督・益州牧を称した。

李流から李雄へ
朝廷は荊州刺史宋岱・建平郡太守孫阜に水軍3万を与えて羅尚を救援させ、宗岱らは徳陽まで進んだ。李蕩と蜀郡太守李?は徳陽郡太守任臧を救援させたが、孫阜は徳陽を攻略して守将の騫碩を捕え、任臧らを?陵に敗走させた。その後、宋岱は?江へ進出した。

3月、羅尚は督護常深を?橋へ侵攻させると、?陵の民である薬紳がこれに呼応して李流を攻撃した。李流は薬紳を撃破すると、そのまま常深の陣を攻め破り、常深の士卒を四散させた。李流不在の隙を突いて羅尚配下の牙門左氾・黄?・何沖が三道から北営を攻撃すると、北営内にいた苻成と隗伯は寝返って呼応した。李流らは軍を転進させると北営に入って左氾らに大勝し、苻成と隗伯は敗走して羅尚の下に奔った。李流は追撃して成都に迫ると、羅尚は閉門して守りを固めた。この時、李特の子である李蕩は傷を負って戦死した。

李流は李特・李蕩が立て続けに戦死した上に、宋岱・孫阜の荊州軍が逼迫していた為、戦意を喪失してしまった。遂に李特の妹婿である李含と謀議し、羅尚へ降伏する事を決断した。李雄と李驤はこれに強く反対したが、李流はこれを認めなず、5月に入ると子の李世らを孫阜軍に人質として派遣した。李雄はこれに強く反発し、李含の子である李離と共謀すると、独断で兵を起こして孫阜軍を攻撃して大勝した。ちょうど宗岱も?江で急死した為、荊州軍は李流討伐を中止して撤退した。李流は自らの判断が誤りであったと認め、以後は李雄に軍事を任せるようになった。

6月、李雄が羅尚軍を攻撃すると羅尚は成都太城を固く守った為、李雄は標的を変えて長江を渡り、?山郡太守陳図を攻撃して殺害した。7月、李流は陣営を移して?城を拠点としたが、城内には食糧が無かったので士卒は飢えに苦しんだ。だが、青城山に拠点を築いていた天師道の教祖范長生は李流に味方して軍糧を供給した為、軍は息を吹き返した。

9月、李流は重病に罹ると、子の李世を差し置いて李雄を後継者に指名し、間もなく死去した。諸将は遺言に従って李雄を君主とし、李雄は大都督・大将軍・益州牧を自称し、?城を都に定めた。

全盛期
成漢建国
李雄配下の朴泰は羅尚に偽装投降を仕掛け、羅尚配下の隗伯を?城に誘き寄せた。李雄は敵軍が到来したのを見ると、伏せておいた李驤の兵に奇襲を掛けさせ、隗伯を大いに破った。隗伯が敗れて逃走すると、李驤は追撃を掛けて成都少城まで至った。ここで李驤は自軍を羅尚軍に偽装させたので、城内の兵士たちは勘違いして李驤を城内に迎え入れた。羅尚は異変に気づくと、間一髪城を出て成都太城に撤退した。李驤は?為に向かうと?為郡太守襲恢を捕縛して処刑し、この地を押さえて羅尚の輸送路を断った。これにより羅尚軍は食糧が欠乏し、大いに困窮した。12月、李雄が羅尚の守る成都太城を急襲すると、羅尚は牙門張羅を残して夜闇に乗じて逃走した。張羅は間も無く城門を開いて李雄に投降したので、李雄は遂に完全に成都を制圧した。

304年10月、諸将の勧めを受けて李雄は成都王を号して建興と改元した。正式にはこれが成漢の建国とされている。李雄は西晋の法を廃止して簡略化した法を七章定め、各々の臣下に格差をつけて官爵を授けた。

306年6月、丞相范長生が李雄へ尊号を称するよう勧めると、李雄はこれを受けて帝位に昇り、晏平と改元し、国号を大成と定めた。また、尚書令閻式の進言により、漢や晋の制度を参考にして百官制度を定めた。

益州支配の確立
李雄は寧州へ支配圏を伸ばす事を目論み、建寧の夷を誘って寧州城を守る李毅を討伐させた。李毅が病により亡くなると城は陥落し、三千人余りが殺害され、婦女千人余りが成都へと送られた。

307年5月、秦州の流民であるケ定・??等が西晋の支配下にあった漢中を攻撃すると、西晋の梁州刺史張殷は巴西郡太守張燕に討伐を命じた。ケ定・??は李雄に救援を要請すると、李雄は李離らに2万の兵を与えて救援を命じ、李離らは張燕に大勝した。張殷と漢中郡太守杜孟治は城を棄てて逃走し、李離は漢中の民を連れて成都に帰還し、彼らを蜀に移住させた。

309年、梓潼を守っていた李離と閻式が配下の羅羨等に暗殺され、彼らは梓潼ごと羅尚に帰順した。羅尚は配下の向奮を安漢の宜福に送り込み、李雄を圧迫した。11月、李雄は李驤らに梓潼奪還を命じたが、李驤は敗れて李雲と李?が戦死した。310年、巴西を統治していた李国は配下の文碩に暗殺され、文碩もまた羅尚に帰順して巴西を明け渡した。李雄配下の張宝はわざと殺人の罪を犯して梓潼を守る西晋軍の下に逃亡すると、偽りの降伏を行い、西晋の将軍?gらは彼を信じてを腹心とした。その後、梓潼に到来した羅尚の使者を出迎える為に?g等が城を出た時、張宝は城門を閉じて梓潼を奪い取り、?g等は巴西に逃走した。7月、羅尚が亡くなると巴郡は混乱に陥ったので、311年1月には羅尚の死の隙を突いて李驤が?城へ侵攻し、これを陥落させて梓潼郡太守?登を捕らえた。さらに、李驤は李始と共に軍を進めて巴西を攻め落とし、文碩を殺害した。こうして羅尚に奪われた土地を尽く奪還した。李雄はこの報を聞くと大いに喜び、玉衡と改元した。これにより、李雄の益州支配は確立された。

314年2月、梁州を荒らしていた流民の楊虎が漢中を攻め落とすと、漢中ごと成漢に降った。さらに、張咸等が梁州で挙兵して仇池の楊難敵を撃破すると、梁州の地を李雄に明け渡した。こうして漢嘉・?陵・漢中が成漢の支配下に入った。この時期、漢嘉郡の夷王である沖帰、朱提郡の審?、建寧郡の爨?を始めとした少数民族も尽く李雄に帰順した。

318年、成漢の梁州刺史李鳳が巴西で挙兵すると、李雄は自ら?城に入り、李驤に命じて李鳳を討伐させてその首級を挙げた。

皇太子擁立
323年、仇池の楊難敵は前趙の侵攻を恐れて弟の楊堅頭と共に李雄に降伏した。だが、前趙軍が撤兵すると楊難敵は武都を拠点とし、成漢への帰順を拒否した。李雄は中領軍李?等を派遣して白水橋から下弁を攻撃させ、さらに征東将軍李寿を派遣して陰平を攻撃させた。だが、李寿は楊難敵に阻まれて進軍出来ず、李?は四方から攻撃を受けて数千の兵を失って戦死した。李?は兄李蕩の長子であり、李雄は密かに後継ぎに立てようと考えていたので、その死を深く悼んだ。

李驤は越?へ侵攻すると越?郡太守李サを降伏させ、さらに進軍すると寧州刺史王遜を攻めた。王遜は部下の姚岳に全軍を与えて迎え撃たせると、李驤は雨の影響もあって退却したが、姚岳の追撃を受けて瀘水で多数の溺死者を出した。

324年、李雄は李蕩の子李班を太子に立てる事を宣言した。李雄は嫡男である兄の李蕩こそが国家の正統であると常々考えており、李蕩の長子李?が既に戦死している事から、李?の弟の李班を後継に立てたのであった。李雄には子が十人余りいたので、群臣は皆李雄の子を立てるように請うたが、これに従わなかった。

李雄の死
326年、前涼の張駿は使者を成漢へ派遣し、李雄へ向けて帝号を捨てて東晋に称藩するよう勧めた。李雄はこれに一定の理解を示し、以降前涼と使者を往来させるようになった。この後、李雄は中原の地が乱れているのを見て、しばしば東晋へ朝貢して穆帝と天下を分けようと持ち掛けた。

330年10月、大将軍李寿が征南将軍費黒と征東将軍任巳を率いて東晋領の巴東を攻撃し、これを陥落させて巴東郡太守楊謙を建平まで撤退させた。さらに、費黒に別軍を与えて建平を攻撃させ、東晋の巴東監軍?丘奥を宜都まで撤退させた。332年、李寿は再び費黒と邵攀を前鋒として朱提を攻撃した。また、鎮南将軍任回に木落を攻撃させ、寧州兵を分割してそれぞれ援軍として派遣した。333年3月、寧州刺史尹奉は降伏し、李寿は南中の地を併呑した。李雄は李班に命じて寧州の夷を平定させた。

334年6月、李雄は頭に瘍を負って6日後に亡くなった。太子李班が皇位を継承し、李寿が録尚書事となって補佐に当たった。李班は喪に服したので、政事は全て李寿と司徒何点や尚書令王?らが執り行った。

混乱期
李期の簒奪
9月、江陽を鎮守していた李雄の子李越は、李班が後継ぎとされたことを不満に思い、成都に到来すると弟の李期と李班暗殺の計画を謀った。10月、李越は殯宮に入ると、李班を殺害して弟の李期に皇位を継承させた。李期は皇帝に即位すると玉恒と改元した。李期は政権を安定させるため、李班の弟である李都を誅殺した。さらに、李寿を?城に派遣して同じく弟の李?を攻撃させると、李?は城を放棄して東晋に帰順した。335年9月、李班の母の兄である羅演は李期の帝位簒奪を不満に思い、彼を害して李班の子を後継とするよう企んだが、計画は事前に洩れて殺害された。

この時期、李寿は漢中に駐屯する東晋の建威将軍司馬勲を攻撃し、これを討ち破って漢中を陥落させ、守宰を置いて南鄭を守った。

李期は父の代からの旧臣を軽んじており、国家の刑事・政事はごく僅かの側近とのみ協議し、褒賞や刑罰は全てその中で決定された。これにより国家の法律・規律は大いに乱れ、成漢は次第に衰退していった。338年、李期は多くの者を誅戮してその家の婦女や資財を没収する等、その横暴の振る舞いはさらに激しくなった。諫言する者はみな罪を問われたので、人々は禍から逃れるのに必死であった。尚書僕射李載は反乱を企んでいると誣告され、投獄されて病死した。百官は戦線恐々とし、他人と会っても目を合わすだけで言葉を交わさなくなった。

李寿決起
従父の李寿は国家の重鎮であり威名があったので、李期は彼を警戒して李越と共に誅殺を目論んだが、李寿もまた深くこれを警戒して成都へ赴かなかった。李期は李寿の養弟である安北将軍李攸を毒殺し、さらに幾度も中常侍許?を李寿の下へ派遣し、彼の動向を覗った。李寿は先手を打って 1万の兵を率いて?城から成都へと進軍すると、成都にいた李寿の世子である李勢はこれに呼応して城門を開き、李寿を迎え入れた。李寿は成都城を制圧すると、李期の下へ赴き、李越を始めとした佞臣を処刑するよう上奏した。李期はこれを拒む術を知らず、李越らを殺害した。さらに、李寿は任皇太后の命だと偽り、李期を廃して?都県公に落とし、別宮に幽閉した。5月、李期は失意の中で首を吊って自殺した。

その後、李寿は側近と協議し、東晋に称藩するべきか帝位に即くべきかを議論したが、最終的には帝位に昇って漢興と改元し、さらに国号を『成』から『漢』に改めた。

衰退期
李寿の時代
李寿は自らの側近やこれまで不遇を囲っていた者を抜擢すると、従来の公卿や州郡の長官を全て降格し、李雄の代からの旧臣や近親は全て左遷された。9月、僕射任顔は李寿に反乱を起こしたが、失敗して誅殺された。任顔は李雄の妻である任太后の弟であったので、李寿はこれにかこつけて李雄の諸子を尽く誅殺した。339年9月、李寿は病に伏せるようになると、配下の?壮・羅恒・解思明・李演らはしばしば李寿へ、帝号を捨てて東晋へ帰順するよう勧めたが、李寿は怒って李演を殺害し、?壮や解思明にもこれ以上この話をしないよう脅しを掛けた。李寿は漢の武帝や魏の明帝を慕っており、父や兄の業績を軽んじていたので、朝議で先代の政治を話題に出すのが憚られる有様であった。?壮らは父母の勤労を嘲るのを止める様度々進言したが、李寿は取り合わなかった。

後趙の石虎より東晋を共同で攻略する様持ち掛けられると、李寿は大いに喜んでこれに応じ、軍備を整えて軍糧を準備すると、尚書令馬当を六軍都督に任じて仮節を与え、7万の兵を指揮させて長江沿いに進ませた。だが、群臣は東晋討伐に猛反対し、涙を流し叩頭して李寿を諫めたので、李寿は出兵を思いとどまった。

341年12月、李寿は太子の李勢を大将軍・録尚書事に任じた。

即位当初、李寿は李雄に倣って寛大な政治を心掛け、倹約を美徳とした。自身の欲のままに振る舞う事が無く、蜀の民心を掴んだ。だが、後趙への使者として派遣していた李?や王?が?から帰還すると、石虎の威勢や?の賑わい振りを盛んに述べ、石虎が厳しい刑法により良く統治していると伝えた。李寿は石虎に倣おうと思い、臣下に僅かな過失があってもすぐさま厳罰に処すようになった。左僕射蔡興や右僕射李嶷はこれを厳しく諫めたので、李寿に誅殺された。また、李寿は?に比べて成都が充実していないと考え、近くの郡から青年男子を徴発すると、宮室を大いに修築して水を引き入れるなど、奢侈をほしいままにした。大勢の民を労役に充てたので、民衆は疲弊して怨みの声が道に溢れ、10人のうち9人が造反を考える有様であった。

その後、李寿は病に倒れると343年8月に亡くなり、太子の李勢が後を継ぎ、太和と改元した。

李勢の時代
李勢の弟である大将軍・漢王李広は、李勢に子がいないのを理由に皇太弟の地位を求めたが、李勢は認めなかった。馬当と解思明は李広の要求を許すように強く勧めたが、李勢は馬当らと李広が乱を起こそうとしているのではないかと疑い、相国董皎に命じて馬当・解思明を捕らえて斬首して三族を皆殺しにした。李広は臨?侯に落とされ、間もなく自害した。良臣であった解思明と馬当が殺されたので、これ以降綱紀を引き締めたり諫言する者はいなくなった。

346年、太保李奕は李寿の政治が乱れているのを見ると、乱を起こして晋寿で挙兵し、蜀人の多くがこれに従った。李勢は成都城を固く守って防衛し、李奕は城兵により射殺されたので、配下の兵は散亡した。李勢は李奕の死を確認すると、嘉寧と改元した。

この時期、?族(西南方の異民族)が乱を起こすと、成漢軍は争わずに退いたので、成漢の領土は日ごとに縮小していった。加えて凶作にも見舞われ、国力は大いに衰退した。

李勢は驕慢で財宝や女色を愛し、人を殺害してその妻を奪うなど、荒淫にふけって国事を顧みようとしなかった。また、猜疑心が強く、大臣を誅殺して刑の運用を厳しくしたので、民は皆恐れおののいた。父祖以来の旧臣を遠ざけて自らの側近数人を親任し、彼らが政治を牛耳った。李勢自身はいつも禁中に閉じこもり、公卿たちに会うことが少なかった。

成漢滅亡
347年2月、東晋の大司馬桓温が成漢攻略の兵を挙げ、水軍を率いて進撃した。東晋軍が青衣に到達すると、李勢は大軍を率いて迎撃した。さらに、李福や?堅らに数千人を与えて敵軍を阻ませた。3月、桓温が彭模に至ると、李福は従兄の李権らと共に襲撃したが、返り討ちに遭った。その後も李福らは連戦連敗し、軍は散り散りとなって成都城に逃げ戻った。?堅は?為に到達するも桓温と行き違いとなり、急いで引き返したが、桓温は既に成都の十里の地点まで来ており、?堅の軍は戦意喪失して戦わずに自潰した。

李勢は全軍を動員し、?橋において桓温に決戦を挑んだ。李勢は東晋の前鋒を破って参軍?護を討ち死にさせるなど、一時は漢軍の箭矢が桓温の馬前まで届くほどに追い詰めたが、次第に盛り返されて漢軍は敗れた。桓温軍は退かずに攻勢を強めると、漢軍は大いに潰走した。桓温は勝ちに乗じて城下に至ると、火を放って成都太城の諸門を焼き、成漢少城を焼き払った。李勢は夜闇に紛れて東門から脱出すると、?堅と合流して晋寿郡の葭萌城に到った。ケ嵩と?堅が降伏を勧めると、李勢は遂に降伏を決断し、降伏文を桓温の下へ送って桓温の軍門へ赴いた。桓温は李勢と叔父の李福・従兄の李権を始め、親族10人余りを建康へと移した。こうして成漢は滅亡した。李勢は建康に送られて帰義侯とされ、361年に死去した。





U- B前涼 265−316 

前涼(ぜんりょう、?音:Qianliang、301年 - 376年)は、中国の五胡十六国時代に漢族の張軌によって建てられた国。建国年については諸説ある(詳細は後述)。同時代に涼を国号とする国が複数あるため、最初期に建てられたこの国を前涼と呼んで区別している。



建国期

張軌の時代

前涼の創建者張軌は涼州においては名門の家柄であった。その家系は代々孝廉に推挙され、儒学を専攻していたことで著名であり、張軌自身もまたその才能と人望で世間の評判であった。10歳の時に叔父の官位を継いで洛陽へ入ると、やがて太子舎人・散騎常侍など役職を歴任し、朝廷の権力者張華からもその見識を高く評価された。

八王の乱により洛陽が乱れると、張軌は難を避けて涼州に帰ろうと考え、朝廷へ上表して涼州刺史の地位を求めた。彼は公卿大臣からも高評価を得ていたので、301年にこの要求は認められ、涼州刺史・護羌校尉に任じられ、姑臧に赴任した。

当時、涼州では鮮卑の反乱により強盗略奪行為が横行していたが、張軌は着任するとすぐさまこれらの討伐に当たり、その威名は涼州に轟いた。

また、地元の豪族である宋配・陰充・氾?・陰澹らを左右の謀主として抜擢し、涼州9郡の貴族の子弟5百人らを迎え入れるなどし、地位の安定に努めた。また、学校設立を積極的に推し進め、一般の者からも広く人材を抜擢するなど、政務に力を注いだ。また、絹布を基準として銭と交易する制度を定め、銭は大いに流通し、涼州の民はその恩恵を被った。さらに、治所である姑臧城を大規模に改修している。

304年、河間王司馬?・成都王司馬穎らの専横により洛陽が乱れると、張軌は3千の兵を洛陽へ派遣して恵帝の護衛に当たらせた。

305年6月、隴西郡太守韓稚が秦州刺史張輔を殺害して乱を為すと、張軌は中督護軍氾?に討伐を命じ、同時に使者を派遣して韓稚に降伏を諭すと、韓稚は降伏を受け入れた[1]。同年、司馬宋配を派遣して鮮卑の若羅抜能の反乱を鎮圧した。これらにより張軌の威徳はさらに知れ渡った。

この時期、張軌は安西将軍・安楽郷侯に任じられ、食邑千戸を加えられた。

308年2月、張軌は中風を患って会話が不自由となったので、息子の張茂に州事を代行させるようになった。

涼州の豪族である張越は密かに張軌から刺史の地位を奪い取ろうと謀り、兄の酒泉郡太守張鎮・尚書侍郎曹?と共に水面下で画策した。そして、長安や洛陽へ使者を派遣し、張軌が重病であることを訴えて新しい涼州刺史を派遣するよう上表すると共に、張軌の免官を呼びかける旨の檄文を各郡へ送った。だが。張軌の長史王融・参軍孟暢らは逆に張越らの討伐を呼びかける檄文を近隣の地に回し、さらに張軌は長子の中督護張寔に張越らの討伐を命じた。張寔は南進すると曹?を敗走させ、張鎮は降伏して張寔に謝罪した。

朝廷は張越らの上表を認めようとしていたが、長安を鎮守する南陽王司馬模や武威郡太守張?らは張軌が貶められていると訴え、刺史交代を思いとどまるよう請願した。懐帝はこれらを認め、詔を下して張軌を慰労すると共に、曹?らの討伐を命じた。張軌はこの詔書を受け取ると、州内に大赦を下すと共に、張寔に尹員・宋配らを率いさせて再び曹?討伐を命じた。張寔は破羌において曹?と交戦すると、これを破って曹?を討ち取った。曹?戦死を知った張越は大いに恐れて逃走し、涼州の騒動は鎮まった。

308年4月、趙・魏の地を荒らしまわっていた王弥が洛陽へ襲来すると、張軌は北宮純・張纂・馬魴・陰浚らに洛陽救援を命じた。北宮純らは涼州軍を率いて王弥を撃破し、さらに河東に進出してきた漢(前趙)の撫軍将軍劉聡を破った。洛陽では彼らは救国の英雄として称えられ、懐帝もまた張軌の忠誠を称賛した。

当時、中国は全国各地で乱が発生しており、諸侯の多くは朝廷の命を軽んじていたが、張軌はしばしば使者を派遣して朝貢を行い、兵士・租税・武具・土地の名産費などを朝廷へ送り届けたので、大いに称賛を受けた。また、漢軍の攻勢により洛陽の物資・食糧が不足すると、即座に朝廷へ馬5百匹・布3万匹を献上するなど、貢献を絶やす事はなかった。彼は生涯に渡って晋朝には忠義を尽くしていた。

310年11月、漢の軍勢が洛陽に襲来すると、張軌は再び北宮純・張斐・郭敷らに精鋭5千を与えて洛陽を救援させた。だが、洛陽は持ちこたえられず陥落し、懐帝を始め皇室・官吏も捕虜となってしまった。これにより、河南から涼州へ避難する者が相次ぐようになったので、張軌は武威郡を分割して武興郡を置き、さらに西平郡を分けて晋興郡を置き、避難民を居住させた。

312年9月、宋配・左督護陰預を派遣して対抗勢力の秦州刺史裴苞を討ち、張寔を派遣して西平で乱を為していた王淑・麹儒らを誅殺した。

313年、懐帝が殺害されると、長安を守る秦王司馬?(後の愍帝)がその位を継いだ。漢の中山王劉曜が北地を侵略して長安に迫ると、張軌は参軍麹陶を派遣して長安を防衛させた。

314年2月、愍帝より詔が下り、西平郡公に封じられた。この時期、既に老齢に差し掛かっていた事から、子の張寔を副刺史に任じた。

5月、張軌は病に倒れ、間もなく亡くなった。子の張寔が後を継いだ。

張寔の時代

10月、愍帝より詔が下り、持節・都督涼州諸軍事・西中郎将・涼州刺史・領護羌校尉に任じられ、西平公に封じられ、父を継ぐことを認められた。

315年10月、前涼国内において『皇帝行璽』と刻まれた印璽を見つかり、群臣はみな張寔が皇帝に昇る兆しとして喜んだが、張寔は臣下の持つ物ではないとして、愍帝の下へ送り届けた。

316年4月、張寔は国中に命を下し、官吏・百姓の中で張寔自身の過失を指摘した者に布絹・羊・筐?・穀物を与えると宣言した。

同年、張寔は督護王該を長安へ派遣し、地方の珍品・名馬・経史・書物といった諸郡の貢物を献上した。8月、漢(前趙)の中山公劉曜が長安に襲来すると、張寔は救援の為に再び王該を派遣した。愍帝は張寔の忠誠を称賛し、都督陝西諸軍事に任じた。

この時、度重なる劉曜軍の侵攻により長安は完全に孤立しており、食料不足となった長安では人同士が食らい合い、多くの死者が出る有様であった。11月、愍帝は遂に前趙に降伏すると、その前夜に前涼へ使者を派遣して詔書を届けさせ、琅邪王司馬睿を助けて共に国難に立ち向かうよう張寔へ告げた。

317年1月、張寔は前趙征伐の兵を興し、太府司馬韓璞・滅寇将軍田斉・撫戎将軍張?・前鋒督護陰預に歩騎1万を率いさせ、東へ派遣した。韓璞は南安にまで軍を進めたが、諸々の羌族により進路を阻まれ、百日余りに渡って対峙した。張?が救援に到来すると、挟撃して敵軍を大破したが、これ以上進軍を継続出来る状態では無く、やむなく引き返した。

愍帝が崩御したという報が届くと、張寔は天下に檄文を送って司馬睿を天子に推戴するよう呼びかけ、さらに建康へ使者を派遣し、司馬睿へ尊位に即くよう勧めた。司馬睿は同年の内に即位して太興と改元したが、張寔は引き続き西晋の年号である建興を用い、東晋の年号を奉じなかった。その意図は不明であるが、東晋への従属を拒んで自立を宣言する行為とも取れる。

319年1月、上?に割拠する南陽王司馬保は晋王を自称して自立し、さらに前涼へ使者を派遣して張寔を征西大将軍・儀同三司に任じた。318年頃より司馬保は安定郡太守焦嵩・討虜将軍陳安らと対立し、幾度も攻撃を受けるようになり、張寔は軽車将軍竇濤・韓璞・宋毅らに幾度も救援させていた。司馬保は前趙からも攻撃を受けると、進退窮まって張寔のいる涼州へ逃走しようとした。だが、張寔は宗室の中でも声望がある司馬保を迎え入れる事で、人心が自分から移ってしまうことを恐れ、配下の陰監を派遣して司馬保の到来を阻んだ。間もなく司馬保が亡くなると、彼の配下の者はみな逃走し、涼州に身を寄せる者が1万人余りに及んだ。

320年、天梯山に住む劉弘は邪道の術に長け、庶民を惑わして千人余りの信者を集めており、張寔の周囲にも彼を崇拝する者がいた。劉弘は自らの信者である帳下閻渉・牙門の趙?と結託し、張寔を殺して自ら君主になろうとした。閻渉らは凶器を懐に隠して張寔の屋敷に侵入すると、張寔は就寝中に襲撃を受けて殺害された。張寔の子である張駿はまだ幼かったので、弟の張茂が後を継いで平西将軍・涼州牧の任を受けた。張茂は劉弘を姑臧城の市街に引きずり出して車裂きの刑に処し、張寔殺害の実行犯である閻渉及びその徒党数百人余りを誅殺した。

張茂の時代

322年12月、張茂は韓璞を派遣して隴西・南安を攻略し、秦州を設置した。

323年8月、前趙の皇帝劉曜が28万の兵を率いて涼州へ襲来し、将軍劉咸が冀城の韓璞を攻撃し、呼延寔が桑壁の寧羌護軍陰鑒を攻撃した。さらに、自らは2河上に駐軍して百里余りに及ぶ陣を築いた。これにより、張茂が配置した黄河沿いの守備兵は恐れ慄き、潰走してしまった。さらに、?楷・石jらは県令を追放して県城ごと劉曜に呼応したので、河西は大いに震撼した。張茂は自ら出兵して石頭に拠り、参軍陳珍を平虜将軍に任じて韓璞の救援に向かわせた。陳珍は?・羌の衆を徴発して劉曜に対峙すると、これを撃破して南安を奪還した。その後、張茂は劉曜へ使者を送り、自ら劉曜の臣下と称して馬・牛・羊や珍宝を献上した。これにより、劉曜は軍を撤退させ、張茂を侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雑夷匈奴諸軍事・太師・涼州牧に任じ、さらに涼王に封じ、九錫を与えた。こうして名目上は前趙の藩国となった。

涼州の豪族賈模は張寔の妻の弟に当たり、西土を圧倒する程の権勢を有していた。その為、張茂は彼を招き寄せて誅殺した。これにより、権勢を持つ豪族は声を潜めて隠居するようになり、張茂の威厳は涼州に広く行き渡るようになった。

324年5月、張茂は病に倒れ、間もなくこの世を去った。張駿が後を継いだ。

全盛期

張駿の時代

張駿は使持節・大都督・大将軍・涼州牧・領護羌校尉・西平公となり、領内に大赦を下した。前趙から使者が到来し、張駿を上大将軍・涼州牧・涼王に任じた。前涼は前趙に従属してはいたものの、引き続き西晋の元号である建興12年(西晋自体は建興5年に崩壊している)を称し、さらに東晋とも関係を保っていた。

324年12月、枹罕を統治していた辛晏は張駿に従うのを拒み、枹罕ごと反旗を翻したが、翌年2月には降伏した。

326年12月、前趙の襲来を恐れ、将軍宋輯・魏纂に将兵を率いさせて隴西・南安の民2千家余りを姑臧に移した。また、成漢と修好を結ぶ為に使者を成都へ派遣し、これ以降も使者を往来させるようになった。また、333年には成漢の藩国を称している。

327年5月、前趙が後趙に大敗したとの報が入ると、張駿は前趙より受けた官爵を廃し、武威郡太守竇濤・金城郡太守張?・武興郡太守辛岩・揚烈将軍宋輯・韓璞らに前趙の秦州諸郡を攻略するよう命じた。劉曜は子の南陽王劉胤を派遣して迎撃を命じ、狄道城に駐屯させた。7月、韓璞・辛岩は沃干嶺において劉胤と対峙した。10月、70日余りに渡って対峙するうちに軍糧が底を尽き、韓璞は辛岩を派遣して金城から食糧を輸送させようとした。劉胤は冠軍将軍呼延那奚に兵三千を与えて糧道を絶たせ、劉胤自らは騎兵3千率いて沃干嶺を襲撃して辛岩を破った。さらに韓璞の陣営に逼迫すると、韓璞軍は潰走してしまった。劉胤は勝ちに乗じて追撃し、河を渡ると令居を攻略し、さらに振武まで進出した。河西の民は大いに動揺し、張?・辛晏は数万の兵を従えて前趙に降伏した。こうして張駿は河南の地を失陥した。

330年5月、前趙が滅亡すると、張駿は軍を派遣して再び河南の地を支配下に入れ、狄道まで至った所で武街・石門・候和・?川・甘松に五屯護軍を置き、後趙との国境とした。6月、後趙が鴻臚孟毅を派遣し、張駿を征西大将軍・涼州牧に任じ、九錫[4]を加えた。張駿は長史馬?を使者として入貢させ、後趙の臣を称した。

333年、東晋へ使者を派遣し表を奉じた。東晋からもまた使者が到来するようになり、張駿は東晋の臣を称したものの、未だに西晋の元号を継続し、その統治には服さなかった。334年2月、東晋朝廷は張駿を大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事に任じる印綬を授けた。この時期、梁州・涼州の交通が開けるようになったので、前涼は毎年東晋朝廷へ使者を送るようになった。

335年12月、張駿は西胡校尉・沙州刺史楊宣に兵を与えて西域へ派遣し、流沙を越えて亀茲・?善を討伐させた。配下の将軍張植が軍の前峰となって進軍すると、向かうところの国々はみな降伏し、姑臧へ朝貢するようになった。12月、?善王元孟が娘を献上してくると、これを美人と称し、賓遐観を建てて住まわせた。また、焉耆・車師前部・于?王は共に使者を派遣して方物を貢いできた。

339年10月、右長史任処を領国子祭酒に任じ、辟雍・明堂を建立させ、礼を行わせた。

340年10月、後趙君主石虎は前涼へ軍を侵攻させると、張駿は将軍謝艾に迎撃を命じた。謝艾は出撃すると河西において大戦を繰り広げ、後趙軍を撃破した。

345年12月、西域にある焉耆へ侵攻し、これを降した。

この年、張駿は武威を始めとした11郡をもって涼州とし、興晋を始めとする8郡をもって河州とし、敦煌を始めとする3郡[11]と西域都護・戊己校尉・玉門大護軍の3営をもって沙州とした。張駿自身は大都督・大将軍・仮涼王・督摂三州と称し、車服・旌旗は全て君王を模した様式とした。百官を設置すると、官号や府邸もまた君王に擬し、名称だけは区?した。始めて祭酒・郎中・大夫・舎人・謁者などの官を置き、官僚はみな張駿に対して臣を名乗った。

346年5月、張駿は病に罹り、やがてこの世を去った。

張重華の時代

6月、群臣は張重華に後を継がせ、使持節・大都督・大将軍・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・仮涼王を称させた。張重華は領内に大赦を下した。貧窮な者を憐れみ、租税を軽減し、関税を除き、園囿を省いた。さらに、後趙君主石虎に使者を派遣して表を奉じ、従属する姿勢を示した。

同年、張駿の死を好機と見た石虎は、涼州刺史麻秋・将軍王擢・孫伏都らを前涼へ侵攻させた。王擢は武街を攻略して護軍曹権・胡宣を捕らえ、七千家を超える民を雍州へ強制移住させた。さらに、麻秋・孫伏都は金城を攻略し、太守張沖を降伏させた。涼州は大混乱に陥り、前涼の民は恐怖におののいた。張重華は国内の兵を総動員し、征南将軍裴恒を総大将にして後趙軍を迎撃させた。裴恒は出撃すると、広武まで進んで砦を築いたものの、敵の勢いを恐れて戦おうとしなかった。

張重華は主簿謝艾を中堅将軍に任じ、五千の兵卒を与えて麻秋の迎撃を命じた。謝艾が兵を率いて振武から出陣すると、迎え撃って来た後趙軍を散々に打ち破り、将軍?毋安を始めとして五千を超える首級を挙げた。これにより後趙軍は退却した。

その後、金城・大夏は再び麻秋の攻略を受けて陥落した。

347年4月、麻秋が8万の兵を率いて枹罕へ襲来すると、守将である寧戎校尉常據は城を固守した。麻秋は幾重にも城を包囲し、雲梯を揃えて地下道を掘り、四方八方から同時に攻めたが、城中の将兵はこれをうまく御し、麻秋軍数万を討ち取った。

石虎は将軍劉渾に2万の兵を与え、麻秋の援軍として派遣した。晋昌郡太守郎坦は後趙に寝返ろうと目論み、麻秋と内通して後趙兵千人余りを城の西北の一角へ引き入れた。常據は諸将を指揮してこれを拒み、白兵戦を繰り広げて敵軍を退却させた。さらに、攻城戦の道具も焼き払い、後趙軍を大夏まで退却させた。

石虎は征西将軍石寧に并州・司州の兵2万余りを与えて麻秋の後続とし、前涼征伐を継続させた。これを聞くと、前涼の将軍宋秦は2万戸を率いて降伏した。張重華は謝艾を使持節・軍師将軍に任じ、3万の兵を与えて臨河まで進軍させた。麻秋は3千の精鋭兵に命じて突撃させたが、謝艾は別将張瑁を別道から麻秋軍の背後へ回り込ませ、奇襲を仕掛けた。これにより軍は混乱して後退し、謝艾は勢いに乗って麻秋軍を大いに破り、杜勲・汲魚の2将を討ち取って1万3千の兵を捕らえた。麻秋自身は単騎で大夏まで逃げ帰った。

5月、麻秋・石寧らが再び襲来し、12万の軍勢で河南へ駐屯した。劉寧・王擢は晋興・広武・武街を攻略し、洪池嶺を越えて曲柳まで進撃した。張重華は将軍牛旋に迎撃を命じたが、牛旋は枹罕まで退いて交戦しようとしなかったので、姑臧の民は大いに動揺した。張重華は謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に、索遐を軍正将軍に任じ、2万の軍勢を与えて敵軍を防がせた。謝艾らは出撃すると敵軍の侵攻を阻み、その間に別将の楊康が沙阜において劉寧を撃破し、金城まで退却させた。

7月、石虎は孫伏都・劉渾の両将に2万の兵を与え、麻秋と合流させた。麻秋らは進軍して河を渡ると、金城の北へ長最城を築いた。謝艾は神鳥に陣を布くと、迎え撃って来た王擢を打ち破り、敵軍を河南まで押し返した。8月、謝艾はさらに進撃して麻秋と交戦し、これを撃破した。遂に麻秋は金城まで撤退した。その後、斯骨真が1万を超える集落を従えて反乱を起こすと、謝艾は姑臧へ帰還する途上であったが、すぐさま討伐に向かった。そして尽くを平定すると、千人余りを斬首して2千8百の兵を捕えた。また、牛・羊併せて10万頭余りを奪った。

9月、麻秋はまたも前涼へ侵攻すると、将軍張瑁を撃破し、3千人余りの首級を挙げた。枹罕護軍李逵は大いに恐れ、7千の兵を従えて麻秋に降伏した。これにより、黄河以南の?族・羌族は尽く後趙の傘下に入った。

10月、東晋の侍御史兪帰が涼州へ到来し、張重華を侍中・大都督・隴右関中諸軍事・大将軍・涼州刺史に任じ、西平公に封じる旨を告げた。これにより、張重華の官爵は自称ではなく、正式なものとなった。だが、張重華は涼王の爵位を望んでおり、兪帰が姑臧へ到着した折に詔を貰うよう要請したが、認められなかった。

348年、張重華は強敵を立て続けに破ったことから、次第に政務を怠るようになり、賓客に接することも少なくなった。張重華はしばしば左右の寵臣へ銭帛を下賜し、また群小なる者との賭博や遊戯を好んだ。これにより、政治は荒廃するようになった。

352年11月、後趙の西中郎将王擢は隴上に屯していたが、前秦の丞相苻雄に敗れたので、衆を率いて前涼に亡命してきた。張重華は彼を甚だ厚遇し、征虜将軍・秦州刺史に任じて仮節を与えた。

353年2月、張弘・宋脩に歩騎1万5千を与えて王擢に合流させ、共に前秦を討伐させた。苻雄・衛大将軍苻菁が龍黎においてこれを迎え撃ち、前涼軍は大敗を喫して1万2千を失い、張弘・宋脩は捕らえられて長安へ送られた。王擢は秦州を放棄して姑臧に撤退した。5月、張重華はまた王擢に2万の兵を与え、前秦領の上?へ侵攻させた。秦州の郡県は多くが王擢に呼応し、王擢は苻願を撃破して長安まで撤退させた。

その後、張重華は東晋へ使者を派遣して戦勝報告を行った。7月、東晋より使者が到来し、張重華を涼州牧に任じた。

10月、張重華は病を患うようになると、当時まだ10歳であった子の張耀霊を世子に立て、領内へ大赦を下した。

張重華の庶兄である長寧侯張祚は、武芸に秀でて政治の才能を有していたが、密かに国を乱そうと考えていた。その為、張重華の寵臣であった趙長・尉緝らと結びつきを強め、異性兄弟となった。都尉常據は張祚を危険視して朝廷の外へ出すよう勧めたが、張重華は激怒して取り合わなかった。

また、張重華は功臣である謝艾を寵遇していたが、側近はこれを疎ましく思って讒言を繰り返したので、張重華は彼を酒泉郡太守に左遷してしまった。謝艾は張重華へ上疎し「長寧侯祚と趙長らは将に乱を為すでしょう。これを放逐すべきです。」と述べたが、聞き入れられなかった。

11月、張重華の病はさらに篤くなった。張重華は謝艾を呼び戻そうと思い、衛将軍・監中外諸軍事に任じて張耀霊の輔政を命じる勅書を自ら書いたが、張祚・趙長がこれを秘匿して発表しなかった。間もなく張重華は平章殿においてこの世を去った。張耀霊が後を継ぎ、大司馬・大将軍・護羌校尉・涼州刺史・涼州牧・西平公を称した。趙長らは張重華の遺詔を捏造し、張祚を使持節・都督中外諸軍事・撫軍大将軍に任じて、張耀霊の輔政を委ねた。

内訌・衰退期

張祚の時代

12月、右長史趙長らは、幼い張耀霊に代わって張祚を立てる事を建議した。張重華の母である馬氏はこれを認め、張耀霊は廃されて涼寧侯に降格となり、代わって張祚が大都督・大将軍・涼州牧・涼公となった。

張祚は即位して以降、淫暴となって道徳にも従わなくなり、閤内にいる?・妾や、張駿・張重華の子女で嫁いでいない者を尽く犯したという。

354年1月、尉緝・趙長らの勧めに従い、謙光殿において王位に即いた。百官を配置し、年号を建興42年から和平元年と改元した。文武百官には爵一級を加え、歴代君主に王号を追諡し、子の張泰和を太子に立てた。また、功臣である謝艾を殺害した。尚書馬岌は王位に即く事に反対して固く諫めると、張祚は彼を処罰して罷免した。さらに郎中丁其が諫言すると、激怒して斬り殺した。

同年、将軍和昊に兵を与えて南山に割拠する驪?戎の討伐を命じたが、和昊は大敗して帰還した。

3月、東晋の太尉桓温が前秦へ侵攻すると、張祚は桓温が前涼まで襲来するのではないかと恐れ、敦煌に遷都しようと考えた。だが、桓温が撤退した事により取りやめた。また王擢が桓温に協力して反抗するのではないかと憂慮し、密かに人を派遣して王擢を暗殺させようとしたが、事前に発覚してしまい失敗した。10月、平東将軍秦州刺史牛覇・司兵張芳に兵3千を与えて王擢を討伐させた。11月、牛覇らはこれを破り、王擢を前秦へ敗走させた。

355年7月、河州刺史張?は枹罕において強大な兵力を有しており、張祚はこれを疎ましく思っていた。その為、枹罕の守備を張掖郡太守索孚に交代するよう命じ、側近の将軍易揣・張玲には密かに張?討伐を命じた。張?はこれを察知すると、索孚を殺害して張祚討伐の兵を挙げ、州郡に檄を飛ばして張耀霊の復位を呼びかけた。この時、易揣・張玲の軍は河を渡り始めていたが、張?は頃合いを見計らって奇襲し、これを撃ち破った。易揣らは単騎で逃亡を図ったが、張?は追撃を仕掛けた。この事実が姑臧に届くと、城内は大混乱に陥った。

8月、驃騎将軍宋混は1万人余りの兵を纏め上げると、張?に呼応して姑臧へ進軍した。張?らが張耀霊の復位を掲げている事を知ると、張祚は配下の楊秋胡を派遣して張耀霊を殺害させた。9月、宋混が姑臧に逼迫すると、張?の弟である張?と子の張嵩は数百人をかき集め、城内から宋混に呼応した。これにより張祚の衆は四散してしまい、張?らは城門を開いて宋混軍を迎え入れた。張祚の側近であった領軍将軍趙長・張?らは禍を恐れて宋混側に寝返り、張祚を廃して張玄?を主に立てると宣言し、罪を免れようとした。宋混らが入殿を果たすと、張祚は万秋閣へ逃れようとしたが、厨士徐黒により殺された。宋混らは張祚を晒し首にして内外に示し、その屍を道端に曝した。趙長らもまた兵を率いて入殿してきた将軍易揣らに殺害された。張祚は庶人の礼で葬られ、2人の子も処刑された。

張玄?の時代

宋混・張?らは張玄?を正式に君主に立て、和平の元号を廃してまた西晋の元号である建興43年と号した。その後、張?が姑臧に到着すると、張玄?を推戴して使持節・大都督・大将軍・涼王とし、自らは衛将軍・使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公・行大将軍事となり、また宋混を尚書僕射として役人の任官・免官を委ねた。

同月、隴西の人である李儼は張玄?は張?の命に従わず、豪族の彭姚を殺害すると、東晋の元号である永和を用いて隴西において自立した。すると、多くの民がこれを歓迎し、李儼の下に集った。張玄?・張?は李儼討伐の為に兵を挙げ、将軍牛覇を派遣した。だが、西平の人である衛?が郡ごと反乱を起こし、進軍途上の牛覇を攻撃した。これにより、牛覇の軍は潰えてしまい、単騎逃げ帰った。その後、張?は弟の張?に大軍を与えて衛?を討たせ、これを破った。同時期、西平の人である田旋は酒泉郡太守馬基を擁立し、張?に背いて衛?に呼応した。張?は彼らの反乱を知ると、司馬張姚・王国に兵2千を与えて討伐に向かわせた。張姚らは馬基を破り、馬基・田旋の首級を挙げて姑臧へ送った。

356年1月、前秦の征東大将軍・晋王苻柳が参軍閻負・梁殊を使者として前涼へ派遣し、脅しをかけて降伏するよう説いた。張?は大いに恐れ、張玄?に命じて前秦へ使者を派遣させ、藩国となる旨を告げさせた。これにより前涼は前秦の従属化に入り、張玄?は前秦より爵位を授かった。

張?は猜疑心が強く苛虐な性格であり、賞罰はすべて自らの好みで行い、綱紀などなかった。その為、次第に人心は離れていった。また、彼は張玄?を廃立して自ら王に即位しようと目論んでいたという。

359年6月、輔国将軍宋混は忠硬な性格であったので、張?はその存在を恐れて誅殺を目論んだが、宋混はこれを事前に察知し、2千余りの兵を従えて挙兵した。張?は兵を率いて出撃したが、宋混はこれを破ると、張?の部下は戦意喪失してみな降伏し、張?と弟の張?は自殺した。宋混は彼らの一族をみな処刑すると、張玄?へ入見した。張玄?は宋混を使持節・都督中外諸軍事・驃騎大将軍・酒泉郡侯に任じ、張?に代わって輔政を委ねた。361年4月、宋混は病に倒れてやがて亡くなると、弟の宋澄が代わって輔政の任に就いた。

9月、右司馬張?は宋澄の専政を妬み、挙兵して宋澄を誅殺し、宋氏一族を誅滅した。張玄?は張?と叔父の張天錫に輔政を委ねた。張?は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、馬氏と密通し、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患った。その為、張天錫は腹心である郭増・劉粛・趙白駒と共謀し、張?暗殺を目論んだ。

11月、張天錫は兵400を伴って入朝すると、張?を暗殺しようとしたが失敗した。その為、張?は反攻に転じると三百余りの兵を率いて宮門を攻撃したが、張天錫が屋へ登って張?の罪を大声で喧伝すると、張?の兵はみな逃散してしまった。張?は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。張玄?は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄?はまだ幼くその性格は仁弱であったので、張?が誅殺されて以降は張天錫が政治を専断するようになった。

12月、建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。東晋より詔が降り、張玄?は大都督・隴右諸軍事・涼州刺史・護羌校尉・西平公となった。

363年8月、張玄?の母である郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張欽らはみな誅殺された。同月、右将軍劉粛らが張天錫へ自立を勧めると、張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄?を殺害させた。その後、張天錫は張玄?が急死したと宣言し、張天錫自らが即位した。

滅亡期

張天錫の時代

張天錫は自ら使持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公・涼王[23]を号し、東晋に使者を派遣してその命を請うた。364年2月、東晋より詔が下り、張天錫は大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史に任じられ、西平公に封じられた。6月、前秦君主苻堅は大鴻臚を使者として前涼に派遣し、張天錫は大将軍・涼州牧・西平公に任じられた。366年10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。

張天錫は即位して以降、音楽や酒・女に溺れて政治を省みる事が無かった。また、驕り昂って夜遅くまで遊び惚けていた。

365年1月、張天錫は元日にも関わらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。

367年3月、張天錫は隴西に割拠する李儼討伐の兵を挙げると、前将軍楊?を金城に進ませ、征東将軍常據を左南に進ませ、游撃将軍張統を白土に進ませ、張天錫自らは3万を率いて倉松に拠った。

4月、張天錫は大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯すると、李儼は恐れて枹罕まで後退すると、前秦へ使者を派遣して救援を請うた。苻堅は前将軍楊安・輔国将軍王猛に李儼救援を命じた。王猛・楊安が枹罕へ進むと、楊?は大敗を喫して1万7千の兵を失った。その後、枹罕城下において張天錫は王猛と睨み合いの状態となった。王猛は張天錫へ書簡を送って撤退を進めると、張天錫はこれに応じて軍を撤退させた。その後、王猛は李儼を捕らえて枹罕を陥落させた。当時、前秦は強盛であり、これ以降も毎年のように侵攻を受けて、兵を動かさない年はなかったという。

370年、東晋より再び使者が到来し、張天錫は都督隴右関中諸軍事・大将軍・涼州牧に任じられ、西平公に封じられた。

371年4月、苻堅は以前捕らえていた陰拠と兵士5千を前涼に返還し、梁殊・閻負に送らせた。この時、王猛は張天錫へ書を送って威圧し、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は大いに恐れ、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。

12月、張天錫は苻堅が前涼征伐に来るのではないかと疑い、東晋へ使者を派遣して大司馬桓温に書を献じ、372年の夏[25]に上?に集結して共に前秦を討つ事を誓い合った。

373年1月、世子の張大懐を廃嫡して高昌公に封じ、寵愛していた焦氏の子である張大豫を代わって世子に立てた。

梁景・劉粛はともに豪族の家柄であり、幼少期より張天錫と親しかった。また、張天錫が張?を誅殺した時、劉粛・梁景は大いに勲功を挙げたので、張天錫の養子に迎え入れられた。これにより衆人はみな大いに憤怒したという。従兄弟である従事中郎張憲はこれを頑なに諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。

376年7月、苻堅は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与え、前秦征伐を命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統に命じ、三州の兵をもって後続とした。また、閻負・梁殊を前涼に派遣し、張天錫へ長安に入朝するよう勧めさせた。だが、張天錫は使者二人を殺害すると、龍驤将軍馬建[26]に2万の兵を与えて前秦軍を迎え撃たせた。

8月、梁熙・姚萇・王統・李弁は清石津から河を渡って河会城へ侵攻すると、河会城を守る驍烈将軍梁済は前秦へ降伏した。苟萇は石城津から渡河すると、梁熙らと共に纒縮城を攻め、これもまた陥落した。馬建は大いに恐れ、清塞まで撤退した。張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。

苟萇は姚萇に兵3千を与えて先鋒とすると、馬建は1万の兵を率いて姚萇らを防いだが、大敗を喫して前秦へ降伏してしまった。これにより、他の前涼兵は逃散してしまった。さらに、苟萇が洪池に進むと、常據は迎え撃つも敗れて戦死し、さらに軍司席仂もまた戦死した。前秦軍は清塞へ進むと、張天錫は司兵趙充哲・中衛将軍史景に勇軍5万を与えて迎撃させたが、赤岸において趙充哲は姚萇に敗北を喫した。これにより3万8千の兵を失って趙充哲は戦死し、史景もまた陣没した。張天錫は大いに恐れ、自ら城を出撃したが、留守となった城内で反乱が起こったので、やむなく数千騎を率いて姑臧へ撤退した。前秦軍が姑臧まで進軍すると、張天錫は降伏を決断し、自らを縛り上げて棺を伴い、苟萇の軍門に降った。苟萇はその戒めを解いて棺材を焼き払うと、張天錫を長安へ送還した。これにより、涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。こうして前涼は滅亡した。9月、張天錫は長安に到着すると、帰義侯に封じられ、前秦の臣下となった。

383年11月、苻堅が?水の戦いで大敗を喫すると、これに従軍していた張天錫は陣営を脱出して東晋へ逃れた。彼は国を失って捕虜となったことから、東晋の朝士より謗られ、やがて精神を病んで生気を失い、406年にこの世を去った。

張天錫の世子の張大豫は前秦滅亡後は河西に逃れ、再起を図って呂光と涼州を争ったが、敗れて殺された。

建国年について

前涼の歴代君主は、その治世において明確に独立を標榜する事がほぼ無いに等しかった。基本的に西晋・東晋の臣下としての立場を貫き、時には前趙・後趙・前秦といった中原を支配していた王朝にも従属し、半独立国または属国のような立場にあった。形式的には他国に服属しながらも実質的には独立しているという微妙な国家体制が築かれており、何をもって建国と定義づけるのかが非常に難しい為、その成立時期については諸説ある。

一般的には301年に張軌が涼州刺史として姑臧に着任した事をもって前涼の建国としているが、張軌は一貫して西晋の臣下の立場を貫いており、官爵を自称する事も一切無く、与えられた爵位も西平公に過ぎない。ただ、張氏の涼州統治が張軌の涼州着任から始まった事を重要視し、建国年と定義づけられる事が多い。
317年には東晋が樹立したが、張寔は東晋の年号を奉じずに西晋の年号である建興を引き続き使用した。これは東晋の臣下としての立場を否定し、独立勢力であることを示したともとれるので、これをもって建国年とする事もある。ただ、張寔は司馬睿の皇帝即位にも協力しており、東晋との関係が断絶していたわけでは無い。
320年に張茂が永元という独自の年号を立てた事をもって建国年とする説もある。ただ、この年号は宋代の?穎が著した『運暦図』など一部書物に記載があるのみであり、晋書・資治通鑑・十六国春秋ではいずれも西晋の年号である建興を継続して使用している事になっており、事実であるかは不明である。
323年には前趙に称藩し、張茂は涼王に封じられている。前趙からの封号とはいえ、前涼君主が王位を得るのはこれが初である。ただ、東晋とも引き続き関係を保っている。
張駿の時代になると、群臣より王と称されるのが半ば慣例化するようになり、345年には仮涼王を自称した。東晋に配慮して仮としているものの、王位を自称するのは前涼政権において初の事である。張駿は車服・旌旗を全て君王を模した様式とし、百官を設置するなど、国家としての制度を整備している。
354年1月には張祚は正式に涼王を自称し、建興から独自の年号である和平と改めた。厳密な定義でいうならば、この年が前涼の建国となる。ただ、355年9月に張祚が死んで張玄?が後を継ぐと、和平から再び西晋の元号である建興に改めており、完全な独立状態は2年に満たず終焉した。また、361年には建興から東晋の年号である升平と改め、東晋の臣下としての立場を明確にしている。ただ、滅亡まで涼王の称号は廃さなかったともいわれる。


U- C後趙 319−351 




U- D前燕 337−370