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女性論005 唐 女性と文学


不定期論文  《唐 女性と文学 1.はじめに 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9606



唐 女性と文学



1.はじめに

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 崇高な文学の殿堂にあって、唐代の女性は輝かしいばかりの異彩を放っていた。
 中国の各時代の女性たちは、しばしば文学の領域でその優れた才能と知恵を発揮してきた。唐代という、この文学が大いに繁栄した時代、とりわけ詩歌が最も隆盛であり、最も普及した時代には、文人墨客が天下のいたるところにおり、三尺の童子さえ書を知らないことを恥としたばかりでなく。髪飾りをつけた女性さえも文を重んじ詩を習う風潮に大いに染まった。
辛文房が、『唐才子伝』の中で、「唐は雅道(書画文学など風雅の道)を士族に奨励したので、名家の御夫人たちもその風に染まった。彼女たちの華麗な表現力と豊かな感情は尚ぶに足る」と言っている通りである。唐代は後宮の妃蹟から名門の貴婦人、金持ちの令嬢、読書人の千女、貧家の娘、さらに尼や女道士、娼優、姫妾、甚だしくは青衣を着た婢に至るまで、よく字を識り書を読み、詩文を巧みに作ることができた。こうして、女性が文章や詩を作る風潮が蔚然として起り一代の気風となったのである。白居易はかつて得意気に、自分の詩はやもめ暮らしの女性や若い娘にまで口ずさまれていると述べたことがある(『旧唐書』白居易伝)。女性たちが詩を習い詩を好むことが随分普及していたことが分かる。

唐代の人々はその著作の中で才女をたいへん褒め讃えており、そこに描かれた女性たちは村の農婦から、女仙人、女幽霊に至るまで皆よく文章や手紙を書き詩をものしない人とてなかった。当時の人々の才女への敬慕は時代の風潮となり、甚だしくは熱狂的といってもよいほどにまで達した。唐の会昌年間のこと、ある婦人が三郷という駅の壁に一首の詩を書いた。それは、私は夫に従って西方の函谷関に行ったが、夫が死んでしまったので空しく帰らねばならない。謝娘(東晋の女流詩人)、衛女(東晋の女流書家)ももう待ってくれてはいない。私は雨となり雲となっても故郷の山に帰ろう、という内容だった。これが思いがけなく評判になって、多くの文士が相い唱和したが、その詩詞の中にこの女性に対する傾倒、思慕の情が溢れていた(『雲渓友議』巻五)。以上の諸例は、詩文を習う気風が当時の女性たちにとって一般的であったことを反映しているばかりでなく、当時の社会が女性たちのこうした風潮を尊重し、また称讃さえしていたことを実感させてくれる。
 まさにこうした風潮によって、唐代には大量の女詩人、才女が生れ、多くの優れた詩文が後世に残されたのである(胡文楷『歴代婦女著作考』上海古籍出版社、一九八五年)。もし、唐代の女性文学にどのような特色があるかといえば、当然、作者たちの共通性‐―−つまり、人数が多く、またあらゆる階層に及んでいたこと、しかも優れた成果をあげた才媛が生れただけでなく、佳作を残した無名の女性たちも少なからずいたことーを指摘しておかなければならない。
 この時代全体の流れに沿うように、唐代の女性の最大の業績も詩詞にあった。詩歌詞曲などというものは、いつの時代にも道学先生たちから見れば、最も人心を乱すもので、女性が極力避けるべき不経の学であった。たしかに、詩詞はロマンチ″タな感情を尊び、最も人々の精神をとき放ち、感情を奔流せしめ易いものである。唐代社会の開放的雰囲気は、女性たちにも詩を読み、詩を作る機会を与えたばかりでなく、彼女たちがその才能を自由に発揮して、あるいは豪放に、あるいは繊細に、あるいは風流に、あるいは清雅に、胸の奥底にある感情を表現したさまざまな風格の詩詞を生み出すことを可能にした。だから、今日それを読む人々に、依然として情趣に溢れ力強く仲び仲びとした精神を惑じさせるのである。





2. 薛濤と娼妓詩人

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唐代の女性において詩詞の世界で最高の成果をあげたのは、ほかでもなく社会的地位が最も低い娼妓であった。これはなぜなのか。詩詞を作る上で最も忌むべきは、心が束縛されることである。その点、娼妓こそが礼法の束縛を何ら受けないですんだ。文学には豊富な生活休験が必要だが、その点、彼女たちこそ広汎な社交と多面的な社会生活を送っていた。文学を支える柱は感情にあるが、彼女たちの経歴や境遇は、一般の女性に比べて人生に対する遥かに多くの感慨や複雑多様な心情をはぐくんでいた。文学には修養が必要であるが、ただ彼女たちだけが充分な時間を持ち、また生きる必要から発して詩書、筆墨に全力を投じることができ、同時にまた文人墨客との交際から深い影響を受けることができた。以上の諸々の原因によって、披女たちは社会の最下屑に生活しながら、文学の殿堂ではかえって最高位に登りつめることができたのである。
 彼女たちの中で、最も著名であり、最も傑出した詩人は薛濤である。「薩校書」(校書は、秘書官である校書郎)の美名と、彼女が考案した小幅の詩境「蔀濤隻」にまつわる話は、千年もの長きにわたって人々に伝わった佳話である。成都に今ある望江楼公園には、この昔の著名な才女のものといわれる遺跡が少なからずあり、披女を仰ぎ慕う後世の人々が往時をしのぶ所として残されている。
 薛濤、字は洪度、中唐の詩人。彼女はもともと長安の官僚の娘であった。子供の時から驚くほど聡明であり、才智溢れる子だったという。ある時、父が桐の木を指して詩の最初の二句を吟じた。
「庭除(庭の階段)の一古桐、聳ゆる幹は雲中に入る」と。すると彼女はすぐに応じて「枝は迎う 南北の鳥、葉は送る 往来の風」と続けたので、父は驚きいぶかった。後、父が蜀(四川)に任官するのに随いて行ったが、父が死ぬと寄る辺なき孤独の身となった。しかし、詩名は遠方にまで伝わったので、身は楽籍(楽戸の戸籍)に落ちたが、蜀で有名な詩妓となった。彼女はいつも節度使やその賓客たちと同席し、彼らと酒を飲み詩をつくり、詩の応酬をし、冗談を言い合った。彼女の詩は泉の如く湧き、文才は群を抜いていたばかりでなく、応対は敏捷で警句が次々と。ロをついて出た。当時、一群の文人名士たちが争って彼女との詩歌のやりとりを求めてやって来、披女に熱中した。著名な才子元狽、白居易、張結、令狐楚、劉瓜錫、牛僧儒らは、いずれも彼女と詩詞の応酬があり、薛濤の才能をたいへん称讃した。かつて彼女と長年にわたって愛人関係にあった元袱は、詩を作って披女を誉め讃えた。「錦江(成都平原の川)滑脈にして峨眉(四川にある中国四大名山の一)秀で、幻出す文君(卓文君)と蔀濤とを。言語 巧みに倫む鸚鶏の舌、文章 分かち得たり鳳皇の毛」(「蔀濤に寄贈す」)と。
節度使の章皐は彼女の文才が堂々たる士大夫にもひけをとらないので、朝廷に上奏して披女に「校書郎」の官名を賜るよう願った。上奏は許可されなかったものの、「校書」の名はずっと伝えられて、ついに後世娼妓の雅称となった。
 世に抜きんでたこの才女は、宴席での接待、花柳界での生活でその半生を過ごし、多くの才子名士と交わった。しかし、身分は卑賤であり、真の理解者に会えず、晩年は落ちぶれて見る彭もなく、孤独のうちに死んでいった。披女は晩年、女道士の服装をし、成都の涜花渓の傍に往み、終日詩を吟じ修行を続けた。結局、「一杯の浄土もて風流(色恋ざた)を掩う」ということになった。残された詩詞は百余首にとどまるが、詩名は千年の後にまで称えられ伝えられることとなった。藤濤は畢生
の心血と才智とをもって、中国女性文学史上に輝かしい了貝を飾ったのである。
 披女の作晶の中で最も広く知られている「春望詞」を鑑賞しながら、彼女がこの詞に託した悲哀の心、怨恨の情を味わってみよう。


春望詞四首 薛濤
其一
花開不同賞,花落不同悲。
欲問相思處,花開花落時。
花開けど同に賞でられず、花落れど同に悲しめず。
相思処を問わんと欲れば、花開き花落る時と。

其二  
?草結同心,將以遺知音。
春愁正斷?,春鳥復哀吟。
草を攬いて同心を結び、将に以て知音に遺らんとす。
春愁 正に断絶し、春鳥 復た哀吟す。

其三
風花日將老,佳期猶渺渺。
不結同心人,空結同心草。
風花 日に将に老いんとし、性期 猶お瀞激たり。
同心の人と結ばれず、空しく同心の草を結ぶ。

其四
那堪花滿枝,翻作兩相思。
玉箸垂朝鏡,春風知不知。
何んぞ堪えん 花 枝に満ちて、翻って作す両相思。
玉筋 朝の鏡に垂れるを、存風は知るや知らずや。

春望詞四首
八、2. 7 薛濤 《春望詞四首 其一 》 kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8866
八、2. 8 薛濤 《春望詞四首 其二 》 kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8872
八、2. 9 薛濤 《春望詞四首 其三 》 kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8878
八、2.10 薛濤 《春望詞四首 其四 》 kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8884

●薛濤の全詩【訳注解説】案内








3. 中唐のころの芸妓詩人

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 唐代の妓女で詩がうまかったのは薛濤一人にとどまらない。詩で名を上げた娼妓はたいへん多く彼女たちは少なからざる名詩とそれにまつわる佳話を残した。

 劉国容は、長安の名妓。才色兼備で詩文を善くした。披女が恋人に贈った書簡に、「歓寝 方く濃かなるに、鶏声の 愛を断つを恨む。恩憐 未だ洽からざるに、馬足 以て情無きを嘆く」という名文句があり、当時の人々は争ってこの句を伝誦した。
 張窃究−−−蜀の詩妓。彼女の詩は清らかで情緒があり、当時の人々から大いに推賞を受けた。その詩「思う所に贈る」は、「君と焉尺なるに長えに離別し、妾が容華をして誰が為に説ばしめんとす。夕べに層なれる城を望めば限は穿たんと欲し、暁に明鏡に臨めば腸は絶たるるに堪えんや」と詠んでいる。

 徐月英−江淮の名妓で詩を善くした。彼女の有名な詩「懐を叙ぶ」は、娼妓の運命を悲しんだもので、その素朴さが人の心を打った。彼女の「妓優」の一節はすでに紹介した(第二章第六節)。彼女の名句「枕前の涙と階前の雨、箇の窓見を隔て滴りて明に到る」は、多くの人々から絶讃を浴びた。

 蔀仙姫−‐一名妓。彼女はかつて回文四時詩(回文は逆からも読める文章)を作り、春夏秋冬の四景を詠んだ。この詩は逆から読むことができ、また内容も清らかで雅やかであった。

 趙鸞鸞―‐−長安の平康里の名妓で、「閉房五詠」と題する詩が今日まで流伝している。繊細で艶かしく、情緒に富んだ詩である。

 王福娘−平康里の妓女。心に想う人が自分を身請けしてくれるかどうか試そうとして、詩を贈った。その詩に「日日 悲傷して未だ図ること有らず、心事を凡夫に話るに瀬し。覆水と同じく応に収得すべきに非ず、只だ間う 仙郎 意有るや無しや」という。なんと聡明にして多情の才女であったことか。
 以上に紹介した人々以外に、平康里の妓女顔令賓、楊莱児、楚児、王蘇蘇、宣城(安徽省宣城県)の名妓史鳳、蜀の成都の名妓灼灼、青州(山東省益都県)の名妓段東美などがいて、いずれもみな詩詞が伝わっている。その他、名は残らなかったが、名句だけが伝わっている妓女もある。
 
京鰹は宴を設け、席上で次の二句を詠んだ。「悲しみは生別離より悲しきはなし、山に登り水に臨んで将に帰らんとするを送る」と。そして客人に後の句を続けるように頼んだ。すると席にいた一人の妓女が次のように口ずさんで言った。「武昌 限り無し 新たに栽えられし柳、楊花の 顔を撲ちて飛ぶを見ず」(武昌には新参の美人が山といて、模架のょうに殿方への想いが飛びかっております。それなのに、殿方は気付かれません、の意)と続けて詠み、満座の喝采を浴びた。それで章熾は一万金を彼女に贈り自分の姫妾にした。
 裴思謙が科挙の試験に合格して、平康里に遊んで泊ったところ、一人の妓女が詩を作って祝いに贈った。「銀の虹は斜めに背き明璋を解く、小語 倫声 玉郎を賀う。此れより蘭斎(蘭花と癖香、共に高貴な香料)の貴きを知らず、夜来 新たに惹く 桂枝の香」。

  * 桂枝の香−進士に合格することを古来「娠宮折桂」(月で桂枝を析る)と言った。今夜は蘭僻の香などは忘れて、進士に合格した貴方の「桂枝の香」に惹かれます、という意。

 欧陽聊は太原で一人の妓女と恋をした。別れて以後音信が絶えたのぺ彼女は思いがつのって病気になってしまった。彼女は髪を切り、それに詩を添えて送った。その詩には、「別れし後より容光を滅ずるは、半ばは是れ郎を思い半ばは郎を恨むがため。旧来の雲暫の様を識らんと欲すれば、奴の為に開き取れ鎔金の箱」とあった(以上は『唐才子伝』、『仝唐詩』、『本事詩』、『唐語林』、『開元天宝遺事』、『北里志』、『太平広記』巻二七三等の記載に拠る)。
          






4. 女冠詩人の李冶、魚玄機

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 唐代女性文学を担うもう一つの重要な柱は、寺院や道観といった、清浄の地「方外」(俗世の外)に住む女性、つまり女冠(女道古と尼であった。披女たちには家事の煩わしさや、寒さと飢えの心配もなく、書を読み文を習うに充分な時間と恵まれた条件がそなわっていた。彼女たちの生活は比較的自由かつ気ままであり、常に四方を巡遊し、山水を伴とし、感性を磨き、同時にまた、いつも多くの文人墨客と交わり語らった。こうした特殊な生活が、彼女たちが文学の世界で成果をあげる上で有利な条件を提供した。その他にまた次のような情況もあった。きわめて多くの女道士が、古井戸の中にいて俗世に出ることなど思いも及ばないといった人々ではなく、逆に娼妓に比べてもなお一層色っぽく多情多感な人々だったこと、また、披女たちの身分は娼妓よりは高く、肉体を売って生きるといった必要もなく、異性との交際や恋愛はより平等であり、自由であったことである。こうした理由によって、彼女たちの恋愛詩は往々にして娼妓詩人のそれよりも感情が豊かであり、より情趣があり、より自由奔放でもあった。『唐才千伝』に、彼女たちは「みな俗世を超脱し、心静かに教えを修め、幽かな想いをよく書き記し、自然の風光に心を留めた。これは暇にまかせて各地を逍遥した賜物であり、山水を愛する気持に他ならない。披女たちは名儒犬屑を並べ、美しい詩詞のやりとりができた。しかし、華美なだけで情がなく、人に依存する心を遂になくすることはできなかった。このことだけが珠に瑕であった」とある。この評価はきわめて的確であるが、ただ「珠に瑕」という箇所は必ずしも正しくはない。情がないところでどうしてよい詩が作れるだろうか。おそらくは、この点こそ、逆に彼女たちがよい詩を作‥りえた原因の一つであったのである。

 李冶と魚玄機は、蔀濤とならぶ唐代の著名な女冠詩人であり、両者とも優れた多くの詩を後世に残した。
 李冶、字は季蘭。人々から「女の詩豪」と称された。彼女はだいたい盛唐の開元・天宝頃の人で、容姿はきわめて美しく、幼い時から詩を上手に詠み琴をよく弾いたという。五、六歳の頃、薔薇を詠んだ詩一首を作ったところ、その中に「時を経て未だ架却さず(薔薇を這わすませ垣をしない)、心緒乱れて縦横」という佳句があった。「未架」は「未嫁(未だ嫁さず)」に通じるので、父はそれを見て不機嫌になり、フ』の子はあまりにませすぎている。おそ・らく道をふみはずした女になるだろう」と言った。後、まことに父の言葉どおりに彼女は女道士となり、自由奔放な生活と文学に生涯をかける道を歩みはじめた。彼女は非常に多くの文人墨客j‐‐−たとえば隠士の陸羽、僧の咬然、文士の閣伯釣、劉長卿などと親しい友となり、常に集っては遊び、詩や書簡のやりとりをした。彼女が閣伯均らに与えた情緒纏綿たる詩をみると、交友関係にはただの親しい友人ばかりではなく、彼女が恋した愛人もいた上うである。
 彼女の詩人としての名声は宮中に伝わり、天宝年間、皇帝から宮中に入るように命ぜられた。彼女は感慨にふけって詩をつくり、自分の詩名が九重(宮中)にまで達したのは、自分の青春時代がすでに終ったことだと慨嘆した。宮中に入ってから、彼女は最大級の礼遇を受け、たくさんの褒美をヅえられて故郷に帰された。徳宗の時、彼女は叛乱将軍朱流と于紙のやりとりをしていたということで死刑に処せられた。哀れなことに、この一代の才女もついに政治の波浪に呑み込まれてしまったのである。
 彼女の詩は誠実で、また情緒もあり、恋愛詩である「相思怨」に、その特微を読みとることができる。
  「人は道う 海の水は深しと、相思の半ばにも抵ばず。海の水には尚お涯有るも、相思は激に  畔焦し。琴を携えて高楼に上れば、楼は虚しく月華満つ。相思の曲を弾著けば、弦も腸も一時に断たる」
 この詩から、彼女の抜群の才能を読みとることができるばかりでなく、またこの詩人は激しい多情多恨のなかに、深い悲哀の心を秘めていたこともわかる。もし、李冶が「形気(外形と内面の気)すでに雄にして、詩意また蕩(奔放)なり」(『唐才子伝』巻ことするなら、次の魚玄機は、李冶に比べてさらに豪爽であり、率直であり、自由奔放であった。















5. 女冠詩人の李冶、魚玄機 (2) 

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 魚玄機、字は幼微、またの字は尢磨A長安の人。およそ晩唐に生きた人で、一般の平民か、あるいは下層官吏の家庭の出身だと考えられる。彼女は幼い時から詩をよくし、またたいへん美しかった。成年に達して李億の妾(側室)になったが、正妻の嫉妬が激しくうとまれた。後、身の置き所がなくなったのか、それともまたこのような抑圧的な生活に我慢ができず、この束縛をつき破ろうと願ったためか分からないが、結局、彼女は出家し戌宜観の女道士になった。この不幸な結婚生活は、詩の中で薄情な男に対する怨みの気持を表白させろ『ことになった。「無価(高価)の宝を求むるは易く、有心の郎を得るは難し」(「鄙女に贈る」)などと。しかし、彼女は心の火を消し去って、清浄で寡欲になったわけでは決してなかった。いやむしろ逆に、「自ら能く宋玉を窺う、何ぞ必ずしも王昌を恨まん」(同土)などと人胆に恋愛論を書いて、率直に封建道徳に対して挑戦を行った。彼女は過去の苫悩の生活を袖うつもりであったのか、それとも昔の束縛に対する反抗と報復の気持であったのか、いずれにしろ出家後は、勇敢にも一切をかえりみず自由と愛情を追い求め、束縛のない生活を送ったのである。彼女の美貌と詩才は多くの風流人士を引きつけた。彼らは着飾っては馬を走らせ、酒を持参し、彼女のところに通った。これら異性の友達は、ある者は彼女と筆硯の交りをし、またある者は彼女と枕を重ねる仲になった。彼女の李節、温庭?、李近仁に対する恋慕の気持は、詩の中にはっきり表れている。惜しいことに、この多情の才女は、最後には多情多恨によって命を落すことになる。彼女は女童の縁梱が自分の愛人と関係したと疑って、この女童を打ち殺してしまった。事件が発覚した後、都の長官によって死刑に処せられた。当時、多くの官僚、士大夫や彼女と交際のあった人、またその名声を慕う人々が、彼女のために恩赦を願ったが、ついに彼女の命を救うことはできなかった。惜しいことに、この紅顔の才女は二十五歳で刑場の露と消えたのである。
  * 宋玉は戦国時代の楚の詩人、美男子として名高い。王昌は伝説上の美人莫愁の初恋の人であったが、彼女を裏切った。薄情者のたとえに引かれる。

 この類い稀れな女性が作る詩の題材は比較的広く、詩の風格もそれぞれに異なり、豪爽にして堂々たる男性的なものもあれば、清雅にして道家風の超俗的なものもあり、また哀怨の情を纏綿と綴った女性的なものもあった。これらはまさに様々な要素が重なり合った彼女の生活と心情を反映している。試みに次の詩を読んでみよう。

遣懷
閑散身無事,風光獨自遊。
斷雲江上月,解纜海中舟。
琴弄蕭梁寺,詩吟?亮樓。
叢篁堪作伴,片石好為儔。
燕雀徒為貴,金銀誌不求。
滿杯春酒香C對月夜窗幽。
繞砌澄清沼,抽簪映細流。
臥牀書冊遍,半醉起梳頭。
懐を遣る
閑散 身に事無く、風光濁り自ら遊ぶ。
雲を断つ 江上の月、纜を解く 海中の舟。
琴は蕭梁の寺に弄し、詩は庚亮の樓に吟ず。
叢篁 伴を作すに堪え、片石 儔を為すに好し。
燕雀 徒に 貴と為し、金銀 志として 求めず。
杯に満せば 春酒 緑なり、月に封して 夜窗 幽なり。
砌を繞って 清沼 澄み、簪を抽いて 細流に映す。
臥牀 書冊偏く、半酔 起って 梳頭す。

※ 蕭梁寺は梁の蕭祈の建衣した寺、庚亮楼は東晋の大臣庚亮の建てた楼。
遣懷 魚玄機  ]唐五代詞・宋詩Gs-102-38-#1  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2057


 魚玄機は唐代第一級の女性詩人というにふさわしい。つまり、数百人の男性詩人と比べても全く遜色がない。そこで彼女はかつて、「自ら恨む 羅衣の詩句を掩うを、頭を挙げて空しく羨む 榜中の名」(「崇真観南楼に遊び、新及第の題名の処を胆る」)と詠じ、自分が女であって男とともに金榜(科挙の合格発表者の掲示板)に名を掲げられて、その才華を示すことができないのを慨嘆した(以上の記述出典は、『唐才子伝』、『三水小碩』、『全唐詩』、『唐詩紀事』、『太平広記』巻二七一、二七三、一三〇など)。 土記の人以外で、詩詞を後世に残した女性の出家者としては洛陽の女道士元淳、慈光寺の尼海印などがいる。彼女たちの境遇や経歴はもはや分からない。残された詩詞から、その聡明さとすぐれた才能を知りうるだけである。