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花間集


● 花間集




●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝眺・臾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注







五代十国・宋詩  花間集

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花間派は、作品が五代の詞集『花間集』に収録された詞家を指す。代表人物に温庭イン・韋荘・張泌らがいる。
一般に花間派は、唐代の温庭?に起源を持ち、五代の時の後蜀で繁栄したとされる。
厳格な意味で言えば一派をなす訳ではないが、一般に花間派とは、この種の文学形式が民間歌曲を経て文人の創作へと到るものを指す中間形態である。



花間集,五代十国詩,宋詩 詩集について

  唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。 三国演義風に云うと、天下大勢,合久必分というわけである。この間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。
  その十国のなかに後蜀(大蜀=蜀。大は美称)という国があり、そこの趙崇祚が編集した詞集が『花間集』である。


  『花間集』とは、唐末・開成元年(836年)から後晋・天福五年(940)までの晩唐五代の詞人の作品を集めた填詞集名である。編者が後蜀なので、蜀人のものが多い。全十巻構成(流布本によって多少動きがある)、各巻五十首(巻六は五十一首、巻九は、四十九首)で、計五百首になり、温庭外十七家、五百首が集録されている。その内、温庭のものがトップに位置し、 最多数(一割強:六十六首)であり、詞集全体の方向性も打ち出しており、極言すれば、(とりわけ巻一、巻二等は、)温庭集(?)とも謂えるものになっている。他の詞人は、 掲載詞数から云えば、温庭に次いでは 孫光憲が多く、更に顧夐、韋莊と、ここまでが目立った詞数である。引き続いて、李洵、牛、毛文錫、毛煕震、張泌、和凝、薛昭蘊、歐陽炯、魏承斑、皇甫松、牛希濟、閻選、尹鶚、鹿虔yi3となっている。掲載順次で云えば、温庭、皇甫松、韋莊、薛昭蘊、牛、張泌…となり、些か異なってくる。

欧陽烱
  編集の傾向は、歐陽炯がその序文でも「…則有綺筵公子,繍幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦;擧繊纖之玉指,拍按香檀。不無C絶之詞,用助嬌態」と述べているとおり、殆どが男女間の情事、春恨を謳っているものからなっている。それは、近体詩の荘重な表現形式では盛りきれないものであるが、同時に、文人≒知識人≒君子≒指導階級が触れてはならない世界であった。可憐なものから過激で濃艶なものまで、多様な作風が集められている。実際、顧夐など、その作風があまりにも濃艶なため、彼は自己の栄達後に、自作詞集を集めさせて焼却処分をしたという例もある。そのような(前出・顧夐や和凝の)過激すぎる作品は、さすがに編輯の段階で落とされている。


  内容については、形式的には、宋代の詞よりも小令が多く、短いものが主流である。当然詞牌、詞調も傾向が決まってくる。概括して言えば、宋詞に比べて短く、詞調も単純なものが多く、宋詞に比べて変化に乏しい。詞牌をみれば、例えば、菩薩蠻、浣溪沙、更漏子など、填詞の勃興期のものということがよく分かる形式のものが多い。表現内容は、婉約の詞語を多用し、口語も使った表現で、男女の間に起きることを採りあげてうたっている。

  『花間集』は、その多くが情愛の詞である。この一派を花間詞派という。花間詞派や南唐詞派(南唐中主・李m、南唐後主・李U)、馮延巳などの流れを受け継ぎ、宋代になって大成された詞の本流とも謂える大きな流れがあるが、これらの詞を婉約詞(派)という。本サイトでは「香残詞」という婉約詞集の頁を作り、幅広く婉約詞を集めている。


  『花間集』が後世に与えた影響は大きく、詞といえば花間詞派等のからの婉約詞を意味するような雰囲気になり、日本語で「小唄、端唄」などと訳されたのも、ここから来ている。なお、『花間集』という名の由来は、或いは「花の間」≒「女性の近く」、或いは序文を著した歐陽炯の「賀明朝」から来ているのかも知れない。








李太白集(李白全集)

李白集校注

巻一 巻二 巻三 巻四 巻五 巻六 巻七 巻八 巻九
巻十 巻十一 巻十二 巻十三 巻十四 巻十五 巻十六 巻十七 巻十八
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杜詩詳注

(杜詩詳注・杜少陵集)

巻一〜巻五・・巻六〜巻十・・巻十一〜巻十五・・巻十六〜巻二十・・巻二一〜巻二五


集註杜工部詩 全十巻 

 巻一   巻二   巻三   巻四   巻五 
 巻六  巻七  巻八  巻九  巻十



玉臺新詠 全十巻 

 巻一   巻二   巻三   巻四   巻五 
 巻六  巻七  巻八  巻九  巻十

『玉台新詠』(玉臺新詠、ぎょくだいしんえい)は、中国の南北朝時代に編纂された詩集。『玉臺新詠集』ともいう。全10巻。陳の徐陵の撰。ただし実際には、梁の簡文帝が皇太子(東宮)時代に徐陵に命じて編纂したものといわれる。漢代以来の「艶詩」や、当時流行した「宮体詩」(「宮体」とは「東宮の詩体」の意味)と呼ばれる、男女の情愛をうたった艶麗な詩を中心に収録する。

題   名 著 者 出版社 年代
玉台新詠集 (上) 鈴木虎雄 岩波文庫 1953
玉台新詠集 (中) 鈴木虎雄 岩波文庫 1955
玉台新詠集 (下) 鈴木虎雄 岩波文庫 1956
新釈漢文大系60玉台新詠 上 内田泉之助     明治書院 1974
新釈漢文大系61玉台新詠 下 内田泉之助     明治書院 1975
玉台新詠索引―附玉台新詠箋註 小尾郊一・高志真夫編 山本書店 1976
中国の古典25 玉台新詠 石川忠久 学習研究社 1986

「古詩源」は清代の学者沈徳潜の著した中国古代の詩歌拾遺集である。帝王の時代から隋の時代に至る古詩976篇を集めている。古詩を集めたものとしては、すでに古くから「文選」や「玉台新詠」などがあり、そのほかにも楽府歌辞を集めたものなどがあったが、沈徳潜は自分なりの考えに基づいてコンパクトな詩集を作ったのである。
古詩という言葉には、唐以前の古い時代の詩という意味と、唐代に確立された近体詩に比較した古体の詩という意味とがある。古詩源に取り上げられているものはすべて隋以前のものであるから、時代も古く詩体も古体によっていることはいうまでもない。
古詩には楽府歌辞のように楽器を伴って歌われたものと、古詩十九首のようにもっぱら吟詠されたものとがある。古詩源はそのいずれをも取り上げている。
帝王の時代から秦までの古い時代に属するものを「古逸」と題して最初の部分に納めている。上古の時代の詩の中には、孔子によって詩経に治められたもの三百篇がある。

韓昌黎詩集


韓昌黎文集校注




李商隠詩歌集解




● 花間集



花間集 序文



花間集


花間集序花間集序 
                                 作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
 
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春?以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,?霞醴則
穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。

楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,?幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖
纖之玉指,拍按香檀。

不無清?之辭,用助嬌?之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而
不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越?。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。


在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代?飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無
愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織?泉底,獨殊機杼之功。


廣會?賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命
題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為?唱,乃命之為《花間集》。

庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
                                             時大蜀廣政三年夏四月日序。
   

(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春?以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,?霞醴則穆王心醉。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。


楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。


競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,?幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。

不無清?之辭,用助嬌?之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越?。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。


在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代?飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織?泉底,獨殊機杼之功。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては?飛卿庭?の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)

蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。


廣會?賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為?唱,乃命之為《花間集》。
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。


庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。

時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。


花間集序花間集序 訳注解説
《花間集序 (1)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5177
《花間集序 (2)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5182
《花間集序 (3)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5187
《花間集序 (4)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5192
《花間集序 (5)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5197

武徳郡節度判官 歐陽炯 とは
○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。
○欧陽烱(896-971)  五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。
益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。