八月十五日夜禁中独直対月憶元九 白居易
八月十五日夜禁中独直対月憶元九
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)
八月十五日の夜 禁中に独り直し 月に対して元九を憶う
銀台【ぎんだい】 金闕【きんけつ】 夕べ沈沈たり、独宿【どくしゅく】 相思うて 翰林【かんりん】に在り。
三五夜中【さんごやちゅう】 新月の色、二千里外【にせんりがい】 故人【こじん】の心。
渚宮【しょきゅう】の東面には煙波【えんぱ】冷やかならん、浴殿【よくでん】の西頭には鐘漏【しょうろう】深し。
猶【な】お恐る 清光【せいこう】 同じくは見えざるを、江陵は卑湿【ひしつ】にして 秋陰【しゅういん】足る。
八月十五日夜禁中独直対月憶元九 現代語訳と訳註
(本文)
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。
(下し文)
銀台(ぎんだい) 金闕(きんけつ) 夕べ沈沈たり、独宿(どくしゅく) 相思うて 翰林(かんりん)に在り。
三五夜中(さんごやちゅう) 新月の色、二千里外(にせんりがい) 故人(こじん)の心。
渚宮(しょきゅう)の東面には煙波(えんぱ)冷やかならん、浴殿(よくでん)の西頭には鐘漏(しょうろう)深し。
猶(な)お恐る 清光(せいこう) 同じくは見えざるを、江陵は卑湿(ひしつ)にして 秋陰(しゅういん)足る。
(現代語訳)
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
そこ、渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。ここ私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)
銀台金闕夕沈沈、独宿相思在翰林。
宮中のあちこちに聳え立つ銀で作られた翰林院に入る銀台門、金で飾られた樓閣への門が夕闇の内に夜は深深と更けていった。私は一人宿直をしていて君のことを思い続けている、天子の秘書室の中だ。
三五夜中新月色、二千里外故人心。
今宵は8月15月の夜だ、出たばかりの仲秋の明月に対して2千里も離れている親友の君のことが偲ばれる。
渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。
(そこ、)渚の宮の東の方には水面に煙る靄の中で、波が月明かりにに冷たく揺れていることだろう。(ここ)私のいる宮中の浴殿の西側では、時を告げる鐘と水時計の音が静かな深く更けていく中で響いている、西にいる君はそう思っていることだろう。
猶恐清光不同見、江陵卑湿足秋陰。
それでもなお私は恐れているのはこのような清らかな月の光がここで見るのとは違ってはっきり見えないのではないかということだ。君のいる江陵は日常的に湿った空気が蔓延しており、秋の空が曇りがちなのではないだろうか。(巫山の雨で有名なところだろう)
「三五夜中新月色,二千里外故人心。」(三五夜中(さんごやちゅう) 新月の色、二千里外(にせんりがい) 故人(こじん)の心。
(解説)
白居易が「新楽府五十篇」「秦中吟十篇」に集約される諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときで、政事批判の詩は、これまでに先例はあったものの、これだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことであった。タイムリーな時期に発表されてものかどうかはわからないことであり、元?の言動は露骨に近かったから、露骨な策略に貶められたということではなかろうか。
これら詩文をもってただちに、唐代においては比較的言論の自由はあったとみるのは早計であろう。歴史は力関係により作られるもので、批判は陰にこもったものであったはずである。陰に籠もったからこそ詩文として残ったのではなかろうか。いずれにしても、白居易にとって、元?という心許せる同調者がいたときはよかったが、元?が宦官の策略に落ちって左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得なかった。
掲げた詩は元?が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っている。「青門」は青明門のことで、春、東が青で示される五行思想に基づいたもの、塗られていた青門といい、長安の東壁南側にあった。
月夜
今夜?州月、閨中只独看。
遥憐小児女、未解憶長安。
香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。
何時倚虚幌、双照涙痕乾。
今夜 ?州【ふしゅう】の月、閨中【けいちゅう】 只だ独り看【み】るらん。
遥かに憐【あわ】れむ小児女【しょうじじょ】の、未【いま】だ長安を憶【おも】うを解(かい)せざるを。
香霧【こうむ】に雲鬟【うんかん】湿【うるお】い、清輝【せいき】に玉臂【ぎょくひ】寒からん。
何【いず】れの時か虚幌【きょこう】に倚【よ】り、双【とも】に照らされて涙痕【るいこん】乾かん。
さて杜甫の「月夜」は、 白欒天のこの詩にもいうように、「三五夜中新月の色、二千里外故人の心」であって、月色は、山河を隔て、環境を異にしつつも、その色を同じくするものである。だから、それに誘発されて、杜甫は、はるかなる妻の身の上を思うのであり、おなじ月の光にさそわれて、はるかなる妻も、自分を思うであろうことを自分自身に思わせるのであるが、自分の見る月とはいわないで、妻の見る月の色を、はるかに思いやったというところは、この詩人の心が、常に常識を越えて別の次元につき入ろうとしていたこと、そうしてまたその結果、表現としては、緊迫した言葉を常に求めていたこと、つまりみずからもいうように「語の人を驚かさずんば死すとも休まず」とする傾向にあったことを、もとより最も顕著に示す例ではないけれども、なお何がしか示すものである。
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