三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
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西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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北斉 550 - 577 |
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唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
頁 |
上の五胡十六国模式図を参照 |
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T |
1.西晉265−316 | 2.代315−376 | 3.東晉317−420 | 4.西燕384−394 | 5.北魏386−534 | 6.宋420−479 |
U |
@前趙304−347 | A成漢304−347 | B前涼316―376 | C後趙319−351 | D前燕337−370 | |
V |
E前秦351−394 | F後燕384−407 | G後秦384−417 | H後涼386−403 | I西秦385−431 | |
W |
J南涼397−414 | K南燕398−410 | L西涼400−421 | M 夏 407−431 | N北燕407−436 | O北涼397−439 |
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
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斉 479 - 502 |
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梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
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隋 581 - 618 |
劉コン(王+昆) | 廬ェ | 東晋元帝司馬睿 | 王偉 | 謝混 |
郭璞 | 謝 尚 | 曹毘 | 王導 | 陶侃 |
ユ翼 | 葛洪 | 王洽 | 僧支遁 | 桓温 |
王猛 | 孫綽 | 王羲之 | 謝安 | 僧 道安 |
王獻之 | 桃葉 | 王` | 范寧 | 桓玄 |
呉隠之 | 僧肇 | 僧 慧遠 | 孔琳之 | 陶潜 (陶淵明) |
廬山諸道人 | 恵遠 | 帛道猷 | 謝道饂 | 趙整 |
晉・東晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人 | |||||
<西晉 詩> |
裴秀 | 韋昭 | 傳玄 | 皇甫諡 | 山濤 |
杜預 | 陸壽 | 李密 | 荀メ | 劉怜 | |
張華 | 程暁 2.詩《嘲熱客》 | 潘岳 | 束ル | 張翰(張季鷹) | |
策靖 | 陸機 | 陸雲 | 王戎 | 阮咸 | |
向秀 | 張協 | 左思 | 左貴嬪 | 張載 | |
孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |
曹リョ(手へんに慮) | 王讃(王正長) | 郭泰機 | 石崇 | 欧陽建 | |
何劭 | |||||
<東晉 詩> 東晉 317− 420 |
劉コン(王+昆) | 廬ェ | 東晋元帝司馬睿 | 王偉 | 謝混 |
郭璞 | 謝 尚 | 曹毘 | 王導 | 陶侃 | |
ユ翼 | 葛洪 | 王洽 | 僧支遁 | 桓温 | |
王猛 | 孫綽 | 王羲之 | 謝安 | 僧 道安 | |
王獻之 | 桃葉 | 王` | 范寧 | 桓玄 | |
呉隠之 | 僧肇 | 僧 慧遠 | 孔琳之 | 陶潜 (陶淵明) | |
廬山諸道人 | 恵遠 | 帛道猷 | 謝道饂 | 趙整 | |
<宋詩> | 451 孝武帝 | 452 南平王鑠 | 453 何承天 | 454 顔延之 | 455 謝靈運 |
456 謝膽 | 457 謝恵連 | 458 謝莊 | 459 鮑照 | 460 鮑令暉 | |
461 呉遇遠 | 462 王微 | 463 王ソウ達 | 464 沈慶之 | 465 陸凱 | |
466 湯惠休 | 467 劉呉 | ||||
<齊詩> | 481 謝眺 | 482 王融 | 483 劉繪 | 484 孔稚圭 | 485 陸厥 |
486 江孝嗣 | |||||
<梁詩> | 501 梁武帝 | 502 簡文帝 | 503 元帝 | 504 沈約 | 505 江淹 |
506 范雲 | 507 任肪 | 508 邱遅 | 509 劉ツ | 510 呉均 | |
511 何遜 | 512 王籍 | 513 劉峻 | 514 劉孝綽 | 515 陶弘景 | |
516 曹景宗 | 517 徐ヒ | 518 虞羲 | 519 衞敬瑜妻王氏 | ||
520 劉キョウ | 文心雕龍(南朝梁の劉キョウが著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期頃) | ||||
<陳詩> | 531 陰鏗 | 532 徐陵 | 533 周弘譲 | 534 周弘正 | 535 江總 |
536 張正見 | 537 何胥 | 538 韋鼎 | 539 陳昭 | ||
<北魏 詩> |
551 劉昶 | 552 常景 | 553 温子昇 | 554 胡叟 | 555 胡太皇 |
556 | |||||
<北齊 詩> |
561 刑邵 | 562 祖テイ | 563 鄭公 | 564 蕭懿 | 565 顔之推 |
566 馮淑妃 | 567 斛律金 | ||||
<北周 詩> |
571 ユ信 | 572 王褒 | |||
<隋> | 581 煬帝 | 582 楊素 | 583 廬思道 | 584 薛道衡 | 585 廬世基 |
586 孫萬壽 | 587 王冑 | 588 尹式 | 589 孔徳紹 | 590 孔紹安 | |
591 陳子良 | 592 王申禮 | 593 呂譲 | 594 明餘慶 | 595 大義公主 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
東晉 317 - 420 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
劉コン(王+昆) | りゅうこん | 270 - 317 | 扶風歌 | 答廬ェ | 重贈廬ェ | ||||
廬ェ | ろじん | 答魏子悌 | 時興詩 | ||||||
東晋元帝司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | 別詩(別罷花枝不共攀) | ||||||
王偉 | おうい | 276 ‐ 322 | 東晋の政治家・軍人 | 中興賦 | |||||
謝混 | しゃこん | 350頃 ‐ 412 | 遊西池 | ||||||
郭璞 | かくはく | 276 - 324 | 爾雅・山海嬌・楚辭注 | ||||||
謝 尚 | しゃしょう | 307 - 357 | 大道曲 (古) | 贈王彪之詩 | 談賦 | 謝尚集》十卷 | |||
曹毘 | そうひ | 320 - 375 | 夜聴擣衣 | 對儒 | 曹毘集十五卷 | ||||
王導 | おうどう | 267 - 330 | 晋代の政治家 | ||||||
陶侃 | とうかん | 256 - 334 | 東晋の武将 | ||||||
ユ翼 | ゆよく | 305 - 345 | 政治家・武将・書家。 | ||||||
葛洪 | かつこう | 323 - 359 | 抱朴子 | 神仙傳 | 隠逸伝 | 肘後備急方 | |||
王洽 | おうごう | 323 - 358 | 章草から草書への発展 | ||||||
僧支遁 | そう しとん | 314 - 366 | 文翰集 全10巻 | ||||||
桓温 | かんおん | 312 - 373 | 東晋の政治家・軍人 | ||||||
王猛 | おうもう | 325 - 375 | 前秦の宰相 | ||||||
孫綽 | そんしゃく | 314 - 371 | 遂初賦 | 天台山賦 | 玄言詩 | ||||
王羲之 | おうぎし | 303 - 379 | 蘭亭集序 | 楽毅論 | 集王聖教序 | 黄庭経 | |||
謝安 | しゃあん | 320 ‐385 | 貴族政治家 | ||||||
僧 道安 | そう どうあん | 312 - 385 | 綜理衆經目録 | ||||||
王獻之 | おうけんし | 344 ‐ 388 | 情人桃葉歌二首 | ||||||
桃葉 | とうよう | 不詳 | 答王團扇歌三首 | ||||||
王` | おうこう | 349 - 400 | |||||||
范寧 | はんねい | 339 - 401 | 春秋穀梁傳注 | ||||||
桓玄 | こうげん | 369 - 405 | 桓楚の初代皇帝、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。 | ||||||
呉隠之 | ごいんし | ? - 413 | 酌貪泉詩 (古) | ||||||
僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | 《肇論》4巻 | ||||||
僧 慧遠 | そう さいえん | 334 - 417 | 法性論 | 沙門不敬王者論 | 大智度論抄 | 釈三報論 | 大乗大義章 | ||
孔琳之 | こうりんし | 365 - 423 | 官僚・書家 | ||||||
陶潜 (陶淵明) | とうせん | 365 - 427 | 帰去来辭 | 桃花源 | |||||
陶淵明集 目次 | |||||||||
廬山諸道人 | ろざんしょどうじん | 400年ころ | 遊石門詩 (古) | ||||||
恵遠 | えおん | 334 - 416 | 沙門不敬王者論 | 大乗大義章 | 十誦律』の翻訳 | ||||
帛道猷 | はくどうゆう | 生卒年不詳 | 陵峯采藥觸興爲詩 | ||||||
謝道饂 | しゃどううん | 生卒年不詳 | 登山 | ||||||
趙整 | ちょうせい | ? - 410頃 | 諫歌 |
東晋 317年 - 420年 東晉317−420 | ||||||||||||
劉コン(王+昆) | りゅうこん | 270 - 317 | 扶風歌 (古) | 答廬ェ (古) | 重贈廬ェ (古) | |||||||
劉 ?(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬?討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。 八王の乱には、劉?は司馬?一派掃討の為に兵を挙げ、幽州突騎を率いて河橋へ進軍し、将軍王闡を討ち取った。さらに、司馬?と共に騎兵五千を率いて黄河を渡ると、司馬?配下の大将石超を撃破してその首級を挙げた。劉喬は劉?の父を脅して囚人護送車に乗せ、考城に拠って抵抗したが、劉?らはこれを破って劉喬を南へ退却させた。これにより、劉?は父母を取り戻した。そのまま田徽と共に廩丘に進軍すると東平王司馬楙を破った。さらに劉?は兵を分けて許昌へ進軍すると、許昌の人は戦わずして迎え入れた。この時、司馬越は劉喬の子である劉祐より蕭県の霊璧にて攻撃を受け、進退に窮していたが、劉?は諸軍を統制して司馬越と合流すると、?で劉祐を破ってその首級を挙げた。これにより劉喬の軍勢も散亡した。 306年、司馬?は張方を殺してその首を司馬越に送り、和睦を求めたが、司馬越は拒否した。司馬?配下の呂朗は?陽に駐軍していたが、劉?が張方の首を示すと降伏した。司馬越軍が長安を攻略して恵帝が迎え入れられると、劉?は功績により広武侯に封じられ、食邑二千戸を与えられた。 |
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廬ェ | ろじん | 285 - 351 | 答魏子悌 (古) | 時興詩 (古) | ||||||||
盧 ェ(ろ しん、285年 - 351年)は、西晋から五胡十六国時代にかけての人物。字は子諒。高祖父は後漢の儒学者盧植。曾祖父は魏の司空盧毓。祖父は西晋の衛尉卿盧?。父は西晋の尚書、前趙の東宮太師盧志。本貫は范陽郡?県(現在の河北省保定市?州市)。 東晋朝廷は幾度も盧ェを招聘して散騎中書侍郎に任じたが、段末波に留められていたので、南へ渡る事は出来なかった。 325年12月、段遼が位を継ぐと、盧ェは右長史に取り立てられた。 338年3月、後趙軍が総勢12万の兵で段部へ襲来すると、段部勢力下の漁陽郡・上谷郡・代郡といった諸太守は相継いで降伏し、瞬く間に40を超える城が陥落した。段遼が密雲山へ逃走すると、盧ェは劉羣・崔悦らと共に府庫を封じてから後趙に降伏した。5月、後趙君主石虎が?に帰還すると、中書侍郎に任じられた。その後も重用され、国子祭酒・常侍・侍中を歴任した。 343年、中謁者令申扁は石虎や天王太子石宣から寵愛を受け、朝政の実権を握っていた。その為、彼の権勢は大いに高まり、九卿以下はみな彼に媚び諂ったが、盧ェや侍中鄭系・王謨・崔約ら10人余りだけは対等な関係を崩さなかったという。 盧ェは石氏の下で要職に就いてはいたが、いつもこれを屈辱に思っていたという。その為、常々諸子へ向かって「我が身が没した後は、ただ晋の司空従事中郎のみを称するように。」と述べていた。 349年11月、石鑑が即位すると、中書監に任じられた。 350年1月、冉閔が後趙の皇族を虐殺して魏国を興すと、引き続き中書監に任じられた。 11月、冉閔が10万の兵を率いて後趙皇帝石祗の守る襄国へ侵攻すると、盧ェはこれに従軍した。 351年3月、冉閔は百日余りに渡って襄国を包囲したが、救援に到来した前燕の禦難将軍悦綰・姚弋仲の子姚襄・後趙の相国石?らから挟撃を受けて大敗を喫した。これにより冉魏軍は壊滅し、盧ェもまた戦乱の中で命を落とした。享年67。 盧ェはその生涯で『祭法』を撰し、また『荘子』に注をつけた。その文は集められ、みな世に広まったという[1]。 |
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東晋元帝司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | 別詩(別罷花枝不共攀) | |||||||||
元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。諱は睿、字は景文。宣帝司馬懿の曾孫、琅邪武王司馬?の孫に当たる。また、母方を通して夏侯淵の玄孫でもある。 建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋の元帝である。 しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と?協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年に逆に王敦に反乱を起こされ、?協やほかにも重臣であった戴淵、周らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。 それからほどなくして、48歳で崩御した。 |
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謝 尚 | しゃしょう | 307 - 357 | 大道曲 (古) | 贈王彪之詩 | 談賦 | 謝尚集》十卷 | ||||||
謝尚(308年−357年6月14日),字は仁祖。東晉、陳郡の人,豫章太守謝鯤の子,東晉太傅謝安の從兄である。 音律に精通し,舞蹈を善くし,書法にも工であり,清談を尚とぶ。?江州刺史に任ぜられ、尚書僕射,後進號鎮西將軍,と累宦し散騎常侍に至って,衛將軍,並びに開府儀同三司となる。世稱は謝鎮西とされる。 曾於北伐中に得て傳國玉璽に到り,又た於牛渚採石制の石磬と為し,江表 鍾石之始と為す。 《隋書》には梁有衛將軍と載せられ、《謝尚集》十卷があれども一卷,唐の時に已に五卷に至るまで亡するに至り,今には已に全部亡秩す。 傳りは至今の詩文が有る:樂府《大道曲》は「青陽二三月,柳青桃復紅。車馬不相識,音落?埃中。」とあり、《箏歌》の殘句には「秋風意殊迫」とある。 《贈王彪之詩》の殘句には「長楊蔭清沼。游魚戲鵠g。」とあり、《談賦》の殘句には「斐斐??,若有若無。理玄旨?,辭簡心?。と有る。 ?有表疏《全晉文》?之。 書法 草書を善くし,但し今には已んで傳わらず。宋の蘇軾は曾て謝尚を見過し、手跡並びに《東坡題跋》中に述及する所有り。 |
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王偉 | おうい | 276 ‐ 322 | 中興賦 | |||||||||
字は世将。琅邪郡臨沂の人。王導の従弟にあたる。はじめ太傅掾・参軍をつとめた。武陵県侯に封ぜられた。濮陽太守に任ぜられて赴任した。司馬睿が江左に鎮したとき、郡を捨ててこれに従った。司馬となり、廬江・ハ陽太守に任ぜられた。周馥らを討伐して冠軍将軍となり、石頭に鎮し、丞相軍諮祭酒を領した。建興三年(315)、王敦が陶侃を左遷し、代わりに荊州刺史として遣わされたが、陶侃は離任を拒否したため、入州を強行して陶侃の部下を殺したため人望を失った。のち散騎常侍・左衛将軍を歴任した。司馬睿が即位すると、「中興賦」を捧げた。王敦が叛乱を起こしたとき、諫めるために遣わされたが、阻止できなかった。永昌元年(322)、病没した。 | ||||||||||||
謝混 | しゃこん | 350頃 ‐ 412 | 遊西池 (古) | |||||||||
謝混(4世紀?−412年),字は叔源,小字は益壽という。陳郡の陽夏(今河南太康)の人,謝?幼子,謝安の孫である。東晉の官員、文學家である。晉官に在って尚書僕射に至る,但し、劉毅に依附したことに因して劉裕の誅殺を被る。謝混は年輕の時、美譽有りて就く,長しく文章を寫す。後に晉の孝武帝の女、晉の陵公主を娶り,並びに父親を承襲し蔡縣公の爵位を望む。 謝混は朝廷に在って中書令に任ぜられ、中領軍及び尚書左僕射の領選等に職す。 謝混は在政治上支持するは北府軍將領劉毅であり,劉裕と抗衡し,謝混は堂兄の謝澹と,常に此れ擔憂を為し,因とし逐に謝混を漸跟され疏遠される。義熙八年(412年),劉裕は決定して劉毅勢力を消滅し,遂に謝混下獄して收む,並びに獄中死他を賜り,晉陵公主は被迫し謝家を離る。 劉裕は永初元年(420年)に晉室を接受し禪讓の時,謝混堂?謝晦對劉裕?:「陛下順應天命,登壇之時可惜沒有謝益壽奉上??。」劉裕也很後悔,?:「我也很後悔,這讓後生一?無法看到他的風采!」 |
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曹毘 | そうひ | 320 - 375 | 夜聴擣衣 (玉) | 對儒 | 曹毘集十五卷 | |||||||
字は輔佐、ショウ国の人。若くして文籍を好み、詞賦をよくした。蔡謨は挙げて佐著作郎とした。累遷して光禄勲に至る。曹毘集十五卷がある。 | ||||||||||||
郭璞 | かくはく | 276 - 324 | 贈温僑 (古) | 遊仙詩十四首 | 爾雅・山海嬌・楚辭注 | 江賦/南都賦 | ||||||
六朝時代の東晋の学者,文学者。聞喜 (山西省) の人。字,景純。博学で詩賦をよくし,特に天文,卜筮 (ぼくぜい) の術に長じていた。東晋の元帝に仕えて著作郎などをつとめ,たびたび大事を占った。のち王敦 (おうとん) の記室参軍となり,王敦が謀反を起そうとしたとき,それを占って凶と断じたために殺された。その反俗的な生活と,占卜者としての名声による逸話が『晋書』の伝に多くみえる。『爾雅』『方言』『山海経』『穆天子伝』の注釈をし,詩は『遊仙詩』が,賦は『江賦』が知られる。 | ||||||||||||
王導 | おうどう | 267 - 330 | 晋代の政治家 | |||||||||
王 導(おう どう、咸寧2年(276年) - 咸康5年7月18日[1](339年9月7日))は、中国の晋代の政治家。字は茂弘。西晋及び東晋に仕え、彼の働きによって琅邪王氏は六朝時代の南朝を代表する名門貴族となった。王覧の孫で王裁の子。王悦・王恬・王洽・王協・王劭・王薈などの父。東晋の大将軍王敦は従兄、書家の王羲之は従甥に当たる。 西晋時代は琅邪王司馬睿に仕え、近い将来に晋が滅びる事を予測し、洛陽から建康に移るように進言し、307年に建康に移った。 永嘉の乱が起こり、劉淵の立てた漢によって西晋は攻撃を受ける。劉淵の後を継いだ劉聡は洛陽を攻め落とし、懐帝は捕らえられ、晋の皇族の大半は殺されてしまう。313年に懐帝が殺されると、長安に落ち延びた司馬?が即位するが劉曜に攻められ、316年に捕らえられ一族もろとも翌年に殺されてしまう。その際江南に逃れており、これらの災難から逃れる事が出来た数少ない皇族の一人である司馬睿は、317年に王導の後見で元帝として即位する。これが東晋の始まりである。 王導は東晋の宰相として、顧栄、賀循、紀瞻、?亮、卞壼、諸葛恢、干宝、郭璞などの人材を元帝に推薦した。「百六掾」と呼ばれるこれら百余人の属官達は、華北から逃れてきた貴族と江南の豪族とで構成されており、王導は利害の異なるこれらの人々を配下に集めることで彼らの対立を取りまとめ、これによって東晋の政権基盤を安定させようと考えた。一方、従兄の王敦に兵を与えて長江中流域を制圧することに成功する。 しかし、元帝は政治・軍事の両面で、琅邪王氏の存在が大きくなることを警戒するようになり、劉隗・?協らを重用して、王導の政治力を排除しようとした。322年、大将軍となっていた王敦は元帝のこのような動きに不満を持ち、劉隗・?協の打倒を名目に武昌で挙兵した(王敦の乱)。この時、首都建康にいた王導は、劉隗により反乱者の同族として処刑されかけるが、周の取りなしにより事なきを得ている。同年、元帝は死去して明帝が即位し、324年、蘇峻らによって王敦の反乱は鎮圧されるが、王導は失脚することなく政治を執り続けた。 325年、明帝が死去し成帝が即位すると、王導は司徒として中書令の?亮と共に政治を任されることになった。成帝の外戚であった?亮は、当時王導をしのぐ権勢を誇り、北来の貴族と江南土着の豪族との間のバランスを重視する王導の政治方針に変えて、厳格な法治主義によって皇帝の権威を強化しようと考えるが、327年、蘇峻が?亮打倒を名目に反乱を起こす事態を招いてしまう(蘇峻の乱)。329年に陶侃、?鑒らによって反乱が鎮圧されると、?亮は中書令を辞して地方に鎮したので、再び王導が単独で政治を執ることになった。 後に?亮は王導の施政が寛厚すぎるとして、挙兵して王導を廃そうと考えたが、?鑒の賛同が得られず挙兵を思いとどまった。ある者がそのことを王導に伝えたが、王導は「自分と?亮は、国家のために喜憂をともにしている。だからもし彼が自分を不義不忠の者として攻めてくるのなら、自分は潔く官を辞して隠居しよう。何も恐れることはない」と語ったという。 339年に64歳で死去し、丞相を追贈された。 後世、東晋の簡文帝が危篤の際に、禅譲を迫ろうとした桓温に対し「諸葛亮や王導のようになれ」と皇帝を補佐した忠臣として引き合いに出したという。 |
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陶侃 | とうかん | 256 - 334 | 東晋の武将 | |||||||||
陶侃(とう かん、259年 - 334年)は、中国の西晋、東晋の武将。字は士行。?陽郡?陽県の人。父は呉の揚武将軍陶丹。母は湛氏。五渓蛮の出身であるとも言われる[1]。東晋黎明期を代表する名将であり、武廟六十四将にも選出されている。 305年、揚州刺史の陳敏は、北方が大乱の最中にあり朝廷には江東を統制する力がないと見て、揚州において挙兵した。さらに、弟の陳恢を江西へ派遣し、武昌を攻撃させ、江南一帯の占拠を目論んだ。劉弘は陶侃を江夏郡太守、鷹揚将軍に任じ、陳恢の迎撃に当たらせた。陶侃の立ち居振る舞いには威厳が備わっていた。また、出発前に母を官舎に招き入れると、郷里の人はこれを栄誉であると称えた。陶侃は軍を進めると、陳恢軍の攻勢を阻んだ。陶侃は陳恢と交戦すると、幾度もこれを討ち破った。さらに、皮初・張光・苗光と共に、長岐において陳敏配下の銭端を破った。陶侃の軍は厳粛であり整然としており、戦利品はすべて士卒に分配し、私腹を肥やすことは無かった。 325年、王敦の乱が平定されると、明帝は同じ過ちを繰り返さない為、一方面で?亮を重用し、?鑒らには王導の権力を抑え込ませた。また、江東の士族を抜擢し、中原と呉の士族の平衡を保った。さらに、荊州・湘州を始め4州の職務を改選し、互いに牽制させた。5月、陶侃は都督荊・雍・益・梁州諸軍事、領護南蛮校尉、征西大将軍、荊州刺史に転任し、その他の職務は元のままであった。荊楚の民でこれを喜ばない者はいなかった。 陶侃は荊州統治において、社会秩序の安定と農業生産の発展を重視した。王敦の乱平定後、荊州は大飢饉となり、庶民の多くは餓死した。陶侃は秋の収穫の時期に米を買い込み、凶作になると値引きして売り出して民を救済した。官民は大いに悦び、みな彼に頼って命を繋いだ。羊?、劉弘も荊州統治時代は農耕の発展に努めて大いに人心を得ていた。陶侃が大いに慕われたのは、彼らの影響も大きかった。その他にも、地盤の強化に努め、需要の増加に応じて荊州は大いに発展を遂げた。 |
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ユ翼 | ゆよく | 305 - 345 | 政治家・武将・書家。 | |||||||||
? 翼(ゆ よく、305年 - 345年8月16日)は、中国東晋の政治家・武将・書家。字は稚恭。潁川郡?陵県(現在の河南省許昌市?陵県)の出身。??の子。?亮・?冰・?文君の弟。?方之・?爰之の父。小?・?征西・?小征西とも。 風儀に優れ、幼くして経綸大略に通ずると評され、杜乂(杜預の孫)も「陳郡では殷浩と並ぶ才名の持ち主」と評した。 ?兄弟の末弟で幼少の頃に兄と共に江南へと避難する。328年の蘇峻の乱の時は兄?亮の配下として百人ほどを率いて石頭城に寄っていたが、抵抗するも敵わず兄共々温?の守る尋陽に敗走した。乱鎮定後は陶侃の参軍、従事中郎と登った後に中央に召喚され、振威将軍・?陽郡太守の後、建威将軍・西陽郡太守に転じた。任地ではよく百姓を労り、喜ばれたという。 後に南蛮校尉・南郡太守・輔国将軍と叙任し仮節を与えられた。339年、?亮が北伐を企図した軍事行動を取っている事を察知した後趙の石虎が機先を制して侵攻してきた際に?安・冉閔らに重要拠点である?城を落とされ、更に石頭城を包囲されたが、奇兵を用いて密かに石頭城への兵糧の補給を成功させ、守将の李陽と共に後趙軍に逆撃を加え辛うじて退けることに成功する。?城の失陥によって?亮の北伐計画は頓挫したが、石頭城防衛の功から?翼は都亭侯の爵位を賜った。 西府軍団領袖 340年に?亮が没すると都督江荊司雍梁益六州諸軍事・安西将軍・荊州刺史となり?亮の西府軍団の後継として武昌に鎮した。?翼は領地の地方都にまで軍令を行き届かせ、数年の内に官府の庫や人民たちの財までも充実させるなど良政を敷いたので、後趙領でも黄河以南の地の人民から支持を得たという。343年に後趙の汝南郡太守である戴開が数千人を伴って投降してきた事を機に、?翼も北伐の大志を抱くようになり、前燕の慕容?と前涼の張駿に使者を送って期が来れば同調して起兵するよう求めた。またこれに伴って領内での賦役を強化するようになり、広州の海道の人を百姓として徒民させた。 康帝(司馬岳)に?翼は北伐を上表し、加えて鎮を対後趙の最前線である襄陽へと移すことへの許可を求め、承認も得ぬうちから六州から牛や驢馬を徴発し始めていたが朝廷に却下され、続いて安陸への移鎮を求めるもこれも却下された。これらの行動を車騎参軍の孫綽に諌められるも聞く耳持たず、夏口へと勝手に軍団を移動させて再度襄陽への移鎮を上表すると、実兄の?冰や桓温、?王司馬無忌らの賛成によって襄陽への移鎮が承認され、都督征討諸軍事(後に征西将軍・南蛮校尉も追加)となり、?翼の代わりに?冰が武昌へと移り、後任に入った。 344年、?翼は桓宣に後趙に占拠されていた樊城の攻略を命じたが、桓宣は丹水の戦いで後趙の李羆の前に大敗を喫し、これに激怒した?翼は桓宣を建威将軍に降格した上で?山へと左遷した。同年中に成漢討伐に周撫と曹?を向かわせたが江陽で李桓に敗れた。また、11月に?冰が亡くなると長子の?方之に襄陽の守備を任せて夏口へと移り、?冰の領兵を自らの指揮下に置き、朝廷からは江州・豫州刺史に任じられたが豫州刺史は辞退し、替わりに楽郷への移鎮の許可を要求したが朝廷に拒否された。 最期 345年、背中の疽からにわかに発病して七月庚午(8月16日)に亡くなった。享年41。朝廷より車騎将軍を追贈され、諡号は粛とされた。亡くなった際の官途は持節・都督江荊司梁雍益寧七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯。死に際して?翼自身は次子である?爰之を後継に望んだが、宰相何充は荊州の戦略的重要性から能力のある人間が当たるべき職務であるとして桓温を後任に据え、?翼の持っていた強大な軍権をほぼそのまま桓温に引き継がせた。 人物 東晋国内では書家としても著名であり「故史従事帖」などの作がある。草隷に優れ、当時においては王羲之と並ぶほどの人気があったという[2]。『書品』では「中之上」に格付けされる。 |
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葛洪 | かつこう | 323 - 359 | 抱朴子 | 神仙傳 | 隠逸伝 | 肘後備急方 | ||||||
葛 洪(かつ こう、283年(太康4年) - 343年(建元元年))は、西晋・東晋時代の道教研究家・著述家。 字は稚川で、号は抱朴子、葛仙翁とも呼ばれる。後漢以来の名門の家に生まれたが父が13歳の時になくなると、薪売りなどで生活を立てるようになる。16歳ではじめて『孝経』『論語』『易経』『詩経』を読み、その他史書や百家の説を広く読み暗誦するよう心がけた。そのころ神仙思想に興味をもつようになったが、それは従祖(父の従兄弟)の葛仙公とその弟子の鄭隠の影響という。鄭隠には弟子入りし、馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから『太清丹経』『九鼎丹経』『金液丹経』と経典には書いていない口訣を授けられた。 20歳の時に張昌の乱で江南地方が侵略されようとしたため、葛洪は義軍をおこしその功により伏波将軍に任じられた。襄陽へ行き広州刺史となった?含に仕え、属官として兵を募集するために広州へ赴き何年か滞在した。南海郡太守だった鮑?に師事し、その娘と結婚したのもその頃である。鮑?からは主に尸解法(自分の死体から抜け出して仙人となる方法)を伝えられたと思われる。 317年頃、郷里に帰り神仙思想と煉丹術の理論書である『抱朴子』を著した。同じ年に東晋の元帝から関中侯に任命された。晩年になって、丹薬をつくるために、辰砂の出るベトナム方面に赴任しようとして家族を連れて広東まで行くが、そこで刺史から無理に止められ広東の羅浮山に入って金丹を練ったり著述を続けた。羅浮山で死ぬが、後世の人は尸解したと伝える。著作としては『神仙伝』『隠逸伝』『肘後備急方』など多数がある。 |
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王洽 | おうごう | 323 - 358 | 章草から草書への発展 | |||||||||
王 洽(おう こう、323年 - 358年)は、東晋の政治家。字は敬和。丞相王導の三男であり、領軍を務めた[1]。書家としても知られる[2]。子に王c・王a。孫に南朝宋の太保王弘・王虞・王柳・王孺・王曇首・王朗・王練ら。 官職は、散騎から、中書郎、中軍長史、司徒左長史、建武将軍、呉郡内史、領軍を歴任。さらに穆帝は中書令に任ずる考えであったが、これは固辞した。 書家としては、章草から草書への発展で知られ、同世代の親族の王羲之からも高く評価されている[2]。 |
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僧支遁 | そう しとん | 314 - 366 | 文翰集 全10巻 | |||||||||
支遁(しとん、314年 - 366年)は、東晋の僧。格義仏教の代表的人物。字は道林。号は支y。本姓は関氏。陳留郡浚儀県(現在の河南省開封市祥符区)の出身。 父祖の代からの仏教徒であり、幼い頃に已に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住んでいたが、25歳で出家した。『道行般若経』などの教理研究に専心した。また、老荘思想や清談にも精通しており、『荘子』「逍遥遊篇」に注釈を加え、独自の見解を述べている。 その後、呉郡呉県の支山寺に入ったが、王羲之の要請によって会稽郡山陰県の霊嘉寺に移った。以後も、各地で仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていた。哀帝の招きにより、都の建康に出て、東安寺で『道行般若経』を講ずるなどした。王羲之のほか、孫綽・許詢・謝安・劉恢らの東晋一流の文人らと交遊した。 東晋の太和元年(366年)、会稽郡?県石城山の栖光寺で病死した。 著作 彼の著作としては、「即色遊玄論」「聖不弁知論」「道行旨帰」「学道誡」「釈朦論」「切悟章」「弁三乗論」等を残したと、梁の慧皎の『高僧伝』(巻4、本伝)では伝えている。また、彼の文集として「文翰集」10巻があったという。 |
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桓温 | かんおん | 312 - 373 | 東晋の政治家・軍人 | |||||||||
桓 温(かん おん、312年 - 373年)は、東晋の政治家・軍人。字は元子。ショウ国竜亢県(現在の安徽省蚌埠市懐遠県)の人。父は宣城郡太守桓彝。母は孔憲。後漢の儒学者桓栄の後裔であるという。東晋の将軍として、成漢を滅ぼし、洛陽を奪還するなどの大功を挙げた。東晋を牛耳るようになると禅譲を目論んだが、周囲の反対に逢い失敗した。 東晋を牛耳った桓温だがその治世には後世から一定の評価がなされており、400年に東晋から後秦へ寝返った韋華が東晋の現状を問う秦主・姚興に対して「刑網は峻急にして、風俗は奢宕す。桓温、謝安以後、未だ寛猛の中を見ず」と桓温と謝安の執政時代と比べながら現状を非難している[10]。 逸話 倹約家であり、酒宴の時でも供え物用のたらいに茶果を乗せて出すだけであった。しかし、朝廷を凌駕する立場になると、次第に分不相応の大きな望みを抱くようになったという。 自分の容姿風貌を司馬懿や劉?に似ていると自負しており、ある者が王敦に例えると大いに気分を害した。桓温が第一次北伐から帰還した時、かつて劉?の伎女であった老いた奴隷を引き連れてきた。彼女は桓温に会うなり、突然涙を流した。桓温がその理由を聞くと「あなた様が劉司空(劉?)に似ておられたからです。」と答えた。桓温は大いに喜び、衣冠を整えると再度彼女を呼び寄せた。彼女は「改めて見てみますと、唇はよく似ていますが少し薄く、眼もよく似ていますが少し小さく、鬚もよく似ていますが少し赤く、体格もよく似ていますが少し背が低く、声もよく似ていますが少し甲高いです。」と言った。これを聞いた桓温は衣冠を脱ぎ捨てて横になってしまい、その後数日間に渡り落胆の様子を見せたという。 蜀を攻めて三峡に入った時、空に掲げられているかのように急峻な山壁が目に飛び込んできた。それを見た桓温は突然すさまじい勢いで駆け出すと、思わずため息をついて「忠臣となるからには、孝子になることは出来ない。どうすれば良いのであろうな。」と言ったという[11]。 第二次北伐の際、桓温が金城を通過した時、若い頃に見た柳が生い茂って大きく成長していた。桓温は「木ですらこのように栄えているのに、どうして人間は堪えられないというのか!」と大いに嘆き、枝を手にとって涙を流した。 第二次北伐の際、桓温が北の国境を越えると、側近と共に平乗楼に昇って中原を望見した。桓温は「あの神州(中国の美称)がこのように廃墟と化してしまったのか。王夷甫(王衍)らの責任に他ならぬ。」と嘆いた。袁宏は「国家の命運というものには興廃があり、誰の過ちでもないでしょう。」と反論した。桓温は厳しい表情になり、周囲の人々へ「聞く所によると、劉景升(劉表)は千斤の大牛を飼っていた。普通の牛の10倍の豆を食べたが、重い荷物を遠くまで運ばせると1頭の痩せた雌牛にも劣ったという。魏武(曹操)が荊州に入ると、兵士たちにその大牛を食べさせたそうだ。」と言い、暗に袁宏を大牛に例えたので、人々は青ざめた。 桓温が荊州刺史であった時、江漢地区で善政を敷こうと思い、百姓に酷刑を科すのは良くないと考えていた。ある令史が杖刑を受けたが、木棒でただ官服を擦っただけだった。桓式は桓温へ「先ほど我は官署の門前を通り、受刑の様子を見ていたが、木棒を雲を払うように振り上げ、振り降ろす時は地面をかすめるだけだった。」と、遠回しに刑が意味をなしていない事を告げた。桓温は逆に「我はまた打つ力が強くなったのかと心配したぞ。」と言った。 王cはかつて桓温へ「箕子と比干は事の進め方については異なっているが、意図は全て同じである。汝はどちらを肯定してどちらを否定するかね。」と問うた。桓温は「いずれも同様に仁の人と称されており、両者とも管仲に見做すことが出来る。」と答えた。 ある時、桓温は横になって親しい幕僚たちに「このまま世に知られずにひっそりと過ごしていては、文景(司馬昭と司馬師の事。魏の政権を掌握した)に笑われてしまうな。」と言うと、その場の人達は何も言葉を返せなかった。桓温は枕を押さえて起き上がると「美名を後世に流す事は出来んのに、悪名を万世に残すことも出来んというのか!」と言った。ただし、 『資治通鑑』や『十八史略』では「美名を後世に流す事は出来ぬならば、悪名を万世に残すべし」と記載されている。 晩年、桓温は王敦の墓前を通りかかると、墓を見て「良い人である、良い人である。」と言っていたという。桓温はかつては王敦を嫌っており、その心の移り替わりを示していると思われる。 ある人が桓温に向けて、謝安と王坦之のどちらが優れているかを尋ねた。桓温は答えようとしたが、すぐに考え直して「汝は人から聞いた話を吹聴するのが好きなようだが、我が汝に教える事は何もない。」と返答した[12]。 諺 「竹馬の友」と言う言葉は、殷浩が失脚したときに「殷浩と我は子供の頃、竹馬で遊んでおったが、いつも我が乗り捨てた竹馬に殷浩が乗って遊んでおった。」と桓温が言ったというのが原典である[13]。この話では現在の「とても仲が良い幼馴染」という意味とは逆で、互いの上下関係を示している。また竹馬(ちくば)は「タケウマ」の事ではなく、切った竹を馬に見立てて乗馬の真似事をする遊びのことである。 「断腸」という言葉について、桓温が蜀に入る際、1人の兵士が猿の子供を捕らえ、それを追いかけてきた母猿は百里余り追いかけた後で死に、その腹を割いてみると悲しみのあまり腸がねじ切れていた。桓温は怒ってこの兵士を罷免したという逸話がある[14]。 |
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王猛 | おうもう | 325 - 375 | 前秦の宰相 | |||||||||
王 猛(おう もう、325年 - 375年)は五胡十六国時代前秦の宰相。字は景略。北海郡劇県(現在の山東省?坊市昌楽県)の出身。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。気性が強く信念を曲げず、直言を憚らなかった。清廉で物静かであり、善悪を見極めるのに長けていた。少しでも恩を受けると必ずそれに報いたが、他者から怨みを受けた時も必ずそれに報いたという。 業績 王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、?族の力を抑えて民族間の融和を図った。軍事面でも李儼討伐や苻柳らの反乱鎮圧で功績を挙げ、前燕討伐に当たっては総大将を任され、6万の軍で敵軍40万を破り前燕を滅ぼした。王猛は重農主義への転換、官僚機構と法制の整備により国制を確立し、五胡十六国随一の強国を築き上げ、この時代ではまれにみる平和な世を築き上げた。王猛はのちに唐代の史館が選んだ中国史上六十四名将の一人に選出された(武廟六十四将)。 ある時、麻思という人物が母が亡くなったので、葬儀のために故郷の広平へ戻りたいと請うた。王猛は「速やかに準備をされるように。暮れまでには、卿の為に符を出しておこう。」と言い、麻思が関所を出る頃、先々の郡県は既に符を受け取っていた。その令行禁整により、業務が留滞しない様は全てこのようであった。 王猛が?の統治に当たった際、民はみな「はからずも今日、太原王(慕容恪)の治世が甦るとは、思いもよらなかった。」と喜び合った。それを聞いて、王猛は嘆息した。「慕容玄恭(慕容恪、玄恭は字)はまことに、一代の奇士であった。古き良き時代の遺愛を持っていた。」と述べ、太牢を設けて慕容恪を祀ったという。 369年10月、前燕の散騎侍郎??が使者としてやって来た。王猛と??は古くからの知り合いであり、昔の話を語り合った。??は前燕の朝政が乱れており反対に前秦が良く治まっていたので、密かに王猛に付き従おうと考えた。その為、王猛が東方の事情について尋ねると、??は国家の機密を多く漏らした。370年12月、王猛は官僚を集めて宴を開いた。その中で前燕からの使者の話題が出ると,王猛は「人心が一つになっていないのだ。以前、梁?が長安に到来した時、自らの朝廷を美化するばかりであった。楽嵩はただ桓温の軍隊が強盛である事を言い立てるばかりであった。??に至っては密かに自国の弊害を告げる有様だ。」と言った。参軍馮誕は「今話された3人はみな前秦の臣下となっておりますが、その策略を任用するとしたら、誰から先に考慮されますか。」と問うと、王猛は「??は僅かな征兆を洞察する事が出来る(腐敗する前燕を見限って前秦に付いた事を指す)。優先すべきだ。」と答えた。馮誕は「漢の高祖とは逆に丁公(丁固)を称賛して季布を誅殺すべきということですか(劉邦は項羽から寝返った丁公を誅し、項羽に忠を尽くした季布を賞した)。」と言うと、王猛は大いに笑ったという。 かつて前燕皇帝慕容儁は、夢で襲われたという理由で石虎の屍を探し求め、百金の懸賞金を掛けると、?に住む李菟という女性がその在り処を密告した。慕容儁は屍を引き出すと罵倒して遺体を辱め、その罪状を数え上げて屍を川へ投げ捨てた。後にこの話を聞いた王猛は李菟を誅殺したという。 |
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孫綽 | そんしゃく | 314 - 371 | 遂初賦 | 天台山賦 | 玄言詩 | |||||||
六朝時代の東晋の文学者。太原中都 (山西省) の人。字,興公。官は廷尉卿から著作郎に進んだ。文才をもって当時名が高く,特にその『天台山賦』は,魏,晋時代の代表的辞賦として名高い。また好んで老荘の気風を説く「玄言詩」をつくった。 儒家の古典である《論語》や《周易》にたいして,老子流の解釈がほどこされるとともに,儒家の聖人が〈無〉の体得者である道家的聖人として,あらたな意味づけをあたえられた。とくに王弼は,聖人を〈無〉を体得しながら,しかも喜怒哀楽の情によって万物に感応するものと考えたが,これは東晋の孫綽(そんしやく)の〈喩道論〉が,仏は道を体得しながらしかも衆生に感応して教え導くもの,と説くことにそのまま通じ,玄学的理解は,儒家と道家の一致だけではなく,儒仏道三教一致論の理論的基礎をも用意したといえる。何晏や王弼の学風は,かれらが正始時代(240‐248)に活躍したところから〈正始の音〉とか〈正始の風〉とかよばれて後世の清談家たちから慕われたが,その一方,西晋の裴?(はいき)の〈崇有論〉や東晋の王坦之の〈廃荘論〉はかれらの哲学的立場を批判し,また東晋の范寧(はんねい)の〈王弼何晏論〉は,仁義礼楽の破壊者として2人の罪をそしった。 |
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王羲之 | おうぎし | 303 - 379 | 蘭亭集序 | 楽毅論 | 集王聖教序 | 黄庭経 | ||||||
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。 王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされている。 王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、唐の張懐?の撰『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。 他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などがある。 前出の『書断』には「王羲之、晋帝時、祭北郊更祝版。工人削之、筆入木三分。(大意:東晋の王羲之が祝版(祭文)を書いた。(誤字を消す)職人が木簡を削ってみたところ、あまりの筆圧で木簡には3分ほども筆の墨汁が染みこんでいた)」ともあり、この故事が日本に伝わり日本の書道は入木道とも呼ばれていた(三跡を参照)。 漢文・書道おもしろサイト : http://kanshiomoshirost.ken-shin.net/ 『中國の書家』 : http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank02.html 『日本の書家』 : http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank01.htm |
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謝安 | しゃあん | 320 ‐ 385 | 貴族政治家 | |||||||||
謝 安(しゃ あん、Xie ?n、大興3年(320年) - 太元10年8月22日(385年10月12日))は、中国東晋の貴族政治家。字は安石。本貫は陳郡陽夏県。桓温の簒奪の阻止、?水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。謝?の三男で謝奕・謝拠の弟、謝万・謝石・謝鉄の兄。謝尚の従弟。子に謝?。 名族・陽夏謝氏に生まれ、大いに将来を期待されていたが、若い頃は出仕せずに王羲之と交流を深め、清談に耽り、悠々と暮らしていた。360年、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。やがて桓温から離れて中央に戻り侍中、吏部尚書に就任した。 当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の死後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。桓温の死後の373年に尚書僕射となり、東晋の政権を握る。 383年、華北を統一した前秦の苻堅は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の謝玄らに軍を預けてこれを大破した(?水の戦い)。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と囲碁を打っていた。対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。 この功績により、陳郡謝氏は琅邪王氏と同格の最高の家格とされ、謝安は太保となった。更に謝安はこの勢いを駆って北伐を計画していたが、皇族の権力者司馬道子に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒してのことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。 385年、65歳で病死。死後、太傅の官と廬陵郡公の爵位が追贈された。子の謝?と孫の謝混も引き続き東晋に仕えた。 |
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僧 道安 | そう どうあん | 312 - 385 | 綜理衆經目録 | |||||||||
釈 道安(しゃく どうあん、314年 - 385年)は、五胡十六国時代の僧であり、中国仏教の基礎を築いた。 本姓は衛氏で、常山郡扶柳県の生まれ。12歳で出家した後、仏図澄の弟子となる。師の没後、五胡の君主が乱立して混乱の極地にあった華北で居所を転々としながらも、彼のもとには次第に門弟が集まり、数百人規模の弟子を率いるまでになった。その後、襄陽に移ると、東晋の孝武帝も含めて四方から寄進が集まり、また門弟子も数千人規模となり、彼が住む檀渓寺は盛況を極めた。 前秦の建元15年(379年)2月、前秦が襄陽を攻略し、高名な釈道安を言わば政治顧問とするために長安へと連れ去った。長安に移った後も、彼は苻堅の庇護のもと、経典の研究に打ち込み、多数の経序を後世に残した。また、西域で名を馳せていた鳩摩羅什を中国に招くよう、苻堅に建言したのは道安であった。苻堅の東晋遠征に対しては他の群臣と共に強く諌めて反対した。そして383年の?水の戦いで苻堅が東晋に大敗して前秦が滅亡し、また、直後に道安自身も長安で亡くなってしまうので、彼の生前に実現することはなかった。鳩摩羅什が長安に渡来して、大々的に訳経事業を始めるのは、次の後秦になってからのことである。なお、死没時期は苻堅の死の直前と伝わる。道安は弥勒信仰を持っており、隠士の王嘉(『拾遺記』著者)や弟子たちと弥勒像の前で誓願を立て、兜率天への上生を願っていた。釈道安の功績は、大別して、以下の仏・法・僧の三宝すべてにわたっている。 苻堅は襄陽を落として道安を長安に招いた時、「朕は10万の軍を用いて襄陽を取ったが、ただ1人半を得た」と述べた。1人とは道安であり、半人は東晋の歴史家であった習鑿歯の事である。苻堅は道安を信任して通例を破って皇帝専用の車に道安を同乗させる特権を与え政治顧問にするなど優遇した。 今日でも、日本も含めて漢字文化圏の仏教教団では、出家した者は受戒の師によって戒名(法名)を付けてもらう決まりとなっている。この時、在家の姓を捨てて、出家者はすべて釈氏を名乗る。 この、出家者は釈氏と名乗るという制度を始めたのが、釈道安である。道安以前の中国の仏教界では、その中国伝来の当初から、受戒の師の姓を受け継ぐのが慣習となっていた。インド・西域からの渡来僧は、その出身地を姓として名乗ることが通例であったので、中国人の出家が許可された後、新たな出家者は、師の姓に従って、竺(インド)・安(パルティア)・康(サマルカンド)・支(大月氏)などの姓を名乗った。支遁や竺道生らがその代表である。 それに対して道安の場合、仏図澄の弟子であれば、同門の竺僧朗のように、竺姓を名乗ることになったはずである。しかし道安は竺姓を名乗らず、釈氏を名乗った。彼は「大師の本は釈迦より尊きなし」と述べたという。これは、釈迦の教えである仏教の信者であることを端的に表すとともに、意識的にも、直接の師僧の弟子としての自覚よりも、仏弟子としての自覚をより重視すべきことを標榜したものであった。 そして、次第に道安の意見は中国仏教界において支持されるようになり、やがて全ての出家者は、釈氏を名乗るようになったのである。 本記事でもその意義を認め、単に道安のみではなく釈道安として項を立てている。また、後の時代に道安という同名の僧がいるため、混同を避けるために釈道安と呼ばれることが多いことにもよる。 |
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王獻之 | おうけんし | 344 ‐ 388 | 情人桃葉歌二首 | |||||||||
王 献之は、中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから世に王大令とも呼ばれる。書道の大家で、父の王羲之とともに二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称される。王羲之の諸子はみな能書家であり、王献之は最年少であるが書の天分に恵まれ、羲之の書より逸気に富んでいるといわれているが、骨格だけは父には及ばないといわれている。王献之の書の特徴の一つとして一筆書(いっぴつしょ)があげられる。一筆書とは中秋帖などに見られる続け書き(連綿)のことで、この書風は王鐸や米?などに影響を与えた]。<玉臺新詠>情人桃葉歌二首 | ||||||||||||
《王獻之情人桃葉歌二首》 其一 桃葉復桃葉,渡江不用楫。 但渡無所苦,我自迎接汝。 其二 桃葉復桃葉,桃葉連桃根。 相憐兩樂事,獨使我殷勤。 |
写真は桃葉渡と言われる所 左の詩は、王獻之が愛妾”桃葉”の ために詠った桃葉渡しは、今に至るも 人に艶称されるという。 右の三首は王獻之に答えた歌と伝え られているものである。 |
《桃葉答王團扇歌三首》 其一 七寶畫團扇,粲爛明月光。 與郎卻暄暑,相憶莫相忘。? 其二 青青林中竹,可作白團扇。 動搖郎玉手,因風託方便。 其三 團扇復團扇,持許自障面。 憔悴無復理,羞與郎相見。 |
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桃葉 | とうよう | 不詳 | 答王團扇歌三首 | |||||||||
愛人桃葉に対する王献之の思いに注目。 愛人桃葉に「桃葉よ」と2回呼びかける。2回呼びかけるのは、3回、5回、10回呼びかけるのと同じ。何度も何度も呼びかける。それはなぜ。理由は2つ。 1つは愛人桃葉が愛しいから。もう1つは愛人桃葉を心配しているから。江向こうにいる愛人桃葉は、江が荒れ狂い、楫で舟を漕ぎ、王献之のいるこちらへ来ることができぬ。 愛しく、心配するのは、王献之だけではない。愛人桃葉も同じ。桃葉の思いが判る王献之は、思いを口にする。「こちらへ来ることだけだ。お前が来れぬなら、私が迎えに行く。心配することは何もない。安心して待っていろ」。 愛人桃葉に対する王献之の思いを、荒れ狂う江を設定し、優しく力強く語りかける一途な思い。 |
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王` | おうこう | 349 - 400 | ||||||||||
字は元琳。琅邪郡臨沂の人。王導の孫にあたる。はじめ桓温の掾、ついで主簿をつとめ、桓温に重んじられた。桓温に従って袁真を討ち、東亭侯に封ぜられた。給事黄門郎となった。謝氏と婚姻を通じたが、のち絶交。謝安の死後、侍中に進み、尚書僕射に転じて吏部を領した。学問・文才によって孝武帝に寵愛された。隆安二年(398)、衛将軍に進んだ。王恭が挙兵したとき、司馬道子に建康北郊を守るよう命ぜられ、王恭の軍をはばんだ。乱が平定されると、散騎常侍を加えられた。四年(400)、病のため解職された。書に巧みで、とくに行書をよくした。「大手筆」と称された。「伯遠帖」。 | ||||||||||||
范寧 | はんねい | 339 - 401 | 春秋穀梁傳注 | |||||||||
范 寧(范 ィ、はん ねい、生没年不詳)は、中国の東晋の儒学者・官僚・教育家。字は武子。本貫は南陽郡順陽県。范汪の子として生まれた。若くして学問につとめ、広く書物を渉猟した。会稽王司馬cが輔政の任につくと、范寧を招聘しようとしたが、桓温に反対されて中止された。桓温は范汪を憎んでいたことから、桓温の在世中は、范寧兄弟は官位につくことができなかった。桓温の死後、余杭県令を初任とした。県では学校を興し、儒教に基づく教化につとめた。県令に在職すること6年、臨淮郡太守に転出し、陽遂郷侯に封じられた。ほどなく建康に召還されて中書侍郎に任じられた。新廟の造営にあたって、辟雍や明堂の制度について経伝の典拠をつけて奏上した。孝武帝は文学を好んだため、范寧は帝に気に入られて、朝廷に疑議があったときには、諮問を受けた。朝士を指弾するにあたっても、直言をはばからなかった。 范寧の甥の王国宝は会稽王司馬道子に媚びへつらっており、范寧の非難を恐れて排斥しようとしていた。范寧は自ら豫章郡太守の任を求めた。孝武帝は翻意を促したが、范寧が強く願い出たため受け入れた。范寧は時政を論じて、土断の実行や小規模の郡県の統合を上奏した。また16歳以上を全丁とし、13歳から15歳を半丁としていた当時の制度を改めて、20歳以上を全丁とし、16歳から19歳を半丁とするよう求めて、孝武帝に聞き入れられた。 范寧は豫章郡で庠序を開設し、交州から磬石を求め、郡の四姓の子弟を学生として五経を読ませるなど、教育に力を入れた。しかし江州刺史の王凝之の弾劾を受け、罪に問われた。子の范泰はこのとき天門郡太守の任にあったが、官を棄てて父のために訴えた。孝武帝は范寧の教育における業績を思って判決を下しかねていたが、大赦にあって、免官で決着させた。 免官後の范寧は丹陽郡に隠居して、経学にいそしんだ。後に家で死去した。享年は63。著書に『春秋穀梁伝集解』があった。 |
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桓玄 | こうげん | 369 - 405 | 桓楚の初代皇帝、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。 | |||||||||
桓 玄(かん げん)は、桓楚の初代皇帝。東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となるが、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺された。 家妓の馬氏を母として、桓温の庶子かつ末子として生まれたが、その才能を愛されて後継とされた。父の死後は叔父の桓沖の後見を受けた。若い頃から博学で知られ、23歳の時に太子洗馬となるが、父が東晋の簒奪を目論んだ人物だったことから罷免され、しばらく無官の時期を過ごした。その後義興郡(現在の江蘇省南部)太守となるが「父は九州の伯と為り、兒は五湖の長と為る(父は(東晋)全土の覇者となったのに、息子の自分はただの五湖(太湖)の長程度か)」と嘆息して辞任した。 当時の東晋は、安帝を擁立した叔父の会稽王司馬道子・元顕父子が政治を壟断し、朝野からの非難が高まっていた。隆安2年(398年)、北府軍団の長として京口に鎮していた王恭が司馬道子打倒の兵を挙げると、当時広州刺史であった桓玄は荊州刺史の殷仲堪らと共にこれに呼応した。挙兵自体は王恭の配下の武将で、実際に北府軍団を指揮していた劉牢之の裏切りにより、王恭が敗死したことから失敗に終わる。しかし桓玄自身はこれを利用して江州刺史となるなど自分の勢力拡大に成功、翌隆安3年(399年)には殷仲堪と雍州刺史の楊?期を殺し荊州・雍州を制圧、かつて父が支配していた西府軍団を掌握し、長江中流域を制覇した。この頃に一時期ではあるが、田園詩人として有名な陶淵明が桓玄の幕僚を勤めている。 同年、司馬道子らの圧政に対して、五斗米道系の道士・孫恩に率いられた民衆の反乱が起きた(孫恩の乱)。反乱自体は劉牢之が率いる北府軍団の活躍により元興元年(402年)に鎮圧されたが、この混乱を好機とみた桓玄は、軍団を率いて長江を下り首都建康に迫った。一方の司馬道子父子は劉牢之に勅書を出し桓玄の討伐を命じたが、劉牢之は桓玄に寝返り、建康に入った桓玄は司馬道子父子らを殺害、総百揆・侍中・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・揚州牧などの称号を手に入れた。この時、今まで併用されていた竹簡や布の公文書を廃して全て紙製の公文書に統一したといわれている。 さらに桓玄は劉牢之から北府軍団の実権を奪い、これに怒った劉牢之は桓玄を討とうとしたが、度重なる寝返りを行ったことから劉裕らの部下に見放され、逃亡した後自殺した。こうして東晋の実権を掌握した桓玄は、 元興3年(403年)12月、安帝より帝位の禅譲を受ける形で皇帝に即位、国号を楚とし、元号を永始と定めた。 しかし、わずか3ヵ月後の永始2年(404年)2月、かつての劉牢之配下の武将であった劉裕が桓玄打倒のクーデターを起こし、徐羨之・諸葛長民・檀道済・劉毅らも劉裕に呼応、敗れた桓玄は建康を脱出して西へ逃れたところを、子の桓昇とともに益州都護の馮遷によって殺害された。 |
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呉隠之 | ごいんし | ? - 413 | 酌貪泉詩 (古) | |||||||||
字は処黙。濮陽郡?城の人。容姿が美しく、談論をよくし、文史に通じ、清廉で孝行なことで名声があった。韓康伯に引き立てられて、輔国功曹に任ぜられ、参征虜軍事に転じた。桓温に賞されて晋陵太守に累進し、中書侍郎・御史中丞・著作郎に上った。元興元年(402)、広州刺史に任ぜられた。赴任途中に貪泉を過ぎ、そこで水を飲み、詩を賦して志を明らかにした。それが「酌貪泉賦詩」である。州にあってもますます清廉で、時弊を改めるのに力を尽くした。三年(404)、盧循が広州を攻めたが、百日にわたって守り通した。城が破れて捕らえられたが、のちに釈放された。京師にもどって、度支尚書となり、中領軍に進んだ。 | ||||||||||||
僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | 《肇論》4巻 | |||||||||
魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。肇法師はインド仏教を中国へパーリー語、サンスクリット語を手で写す作業をともなう中国語に訳した北京生まれの人である。12歳には文字得度し老子、荘子などの道教に通じた。 著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 |
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僧 慧遠 | そう さいえん | 334 - 417 | 法性論 | 沙門不敬王者論 | 大智度論抄 | 釈三報論 | 大乗大義章 | |||||
慧遠(えおん、334年(咸和9年) - 416年9月13日(義熙12年8月6日))は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。 雁門郡楼煩県(山西省忻州市寧武県)出身の人である。21歳の頃に釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、荊州上明寺に移った。 その後、尋陽郡柴桑県に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後30年余り、慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。 401年(隆安5年)に、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただした。その書簡集が『大乗大義章』である。 402年(元興元年)、慧遠は同志123名とともに、廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立てる。これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれることとなる。ただし、慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏とは異なり、『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。 さらに、当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対して、仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたのが『沙門不敬王者論』である。 持戒堅固な慧遠は戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳及び普及に尽力した。 <著書> 法性論、釈三報論、大智度論抄、沙門不敬王者論、大乗大義章 |
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孔琳之 | こうりんし | 365 - 423 | 官僚・書家 | |||||||||
孔琳之(こう りんし、369年 - 423年)は、東晋から南朝宋にかけての官僚・書家。字は彦琳。本貫は会稽郡。 孔?の子として生まれた。文章を好み、音律を解し、楽器を演奏し、囲碁を打つことができ、特に草書と隷書を得意とした。会稽郡により主簿に任命されたが、就任しなかった。後に会稽国常侍として召された。402年(元興元年)、桓玄が政権を掌握して太尉となると、琳之はその下で西閤祭酒となった。桓玄が銭貨を廃止して穀物や布帛で代用させる政策を打ち出すと、琳之はこれに反対論を述べた。また桓玄が肉刑の復活についての議論を起こすと、琳之はやはりこれに反対した。桓玄におもねらなかったため、重用されず、楚の員外散騎侍郎にとどまった。母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、司徒左西掾となったが、父の孔?が致仕すると自ら辞職した。司馬休之が会稽国内史・後将軍となると、琳之はその下で後軍長史となった。父が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、太尉主簿となった。尚書左丞・揚州治中従事史・尚書吏部郎を歴任した。 410年(義熙6年)、劉裕が平西将軍を兼ねると、琳之はその下で平西長史となった。琅邪王司馬徳文の下で大司馬従事中郎となった。さらに劉裕の下で平北長史や征西長史を歴任し、侍中に転じた。宋が建てられると、宋の侍中に任じられた。呉興郡太守として出向したが、公務上の失敗により免官された。 421年(永初2年)、御史中丞となった。法に対して厳正で剛直であり、尚書令の徐羨之を弾劾してみせたことで、官僚たちに恐れられた。さらに揚州大中正を兼ね、祠部尚書に転じた。423年(景平元年)、死去した。享年は55。太常の位を追贈された。 子の孔ゲイは揚州治中従事史に上った。 |
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陶潜 (陶淵明) | とうせん | 365 - 427 | 帰去来辭 | 桃花源 | ||||||||
中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。尋陽柴桑(現在の江西省九江市柴桑区)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。 陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙郡公の陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌郡太守となったというが、詳しい事は不明である。母方の祖父には孟嘉がいる。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単家)」と呼ばれる下級士族の出身であった。 陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕える。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した。 以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「尋陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする、411年、住まいを南村に移すも、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う、という事があった。この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。427年、死去。享年63。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。 無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている。 <文学作品> 現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。その中でも「田園詩」と呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現として高い評価を得た。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」などが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはまる。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものであった。陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点がある。陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として、梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」のような一部の愛好者を獲得していた。一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴がある。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾エが紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、?にして実は腴なり」[11]のように高い評価が確立するようになる。 陶淵明には詩のほかにも、辞賦・散文に12篇の作品がある。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特に有名である。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩人」としての代表的側面が描かれた作品である。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクションであり東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などがある。 |
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廬山諸道人 | ろざんしょどうじん | 400年ころ | 遊石門詩 (古) | |||||||||
江西省にある廬山の諸々の僧侶、道人とは智度論に「道を得る者を名付けて道人という。ほかに出家していまだ道を得ざるものをもまた、道人という。」 | ||||||||||||
恵遠 | えおん | 334 - 416 | 沙門不敬王者論 | 大乗大義章 | 十誦律』の翻訳 | |||||||
慧遠(えおん、334年(咸和9年) - 416年9月13日(義熙12年8月6日))は、中国の東晋、廬山に住んだ高僧。隋代、浄影寺の慧遠と区別して廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏。中国仏教界の中心的人物の一人である。 生涯 雁門郡楼煩県(山西省忻州市寧武県)出身の人である。21歳の頃に釈道安の元で出家した。道安に随って各地を転々としたが、襄陽に住した時に前秦の苻堅が侵攻し、道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南下し、荊州上明寺に移った。 その後、尋陽郡柴桑県に至って廬山に入り、西林寺、のち東林寺に住した。それ以後30年余り、慧遠は一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。 401年(隆安5年)に、鳩摩羅什が関中に入り国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、新出の経典についての疑問点等をただした。その書簡集が『大乗大義章』である。 402年(元興元年)、慧遠は同志123名とともに、廬山山中・般若台の阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立てる。これによって、慧遠は白蓮社の祖と仰がれることとなる。ただし、慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏とは異なり、『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。 さらに、当時、廬山を含む長江中流域の覇者であった桓玄に対して、仏法は王法に従属しないことを正面きって説いたのが『沙門不敬王者論』である。 持戒堅固な慧遠は戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳及び普及に尽力した。 |
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帛道猷 | はくどうゆう | 生卒年不詳 | 陵峯采藥觸興爲詩 | |||||||||
帛道猷,東晉高僧。生卒年不詳,孝武帝時在世。本姓馮,山陰(今浙江紹興)人,少習儒業,以篇牘著稱于時,後于本籍若邪山中出家。先依道生于廬山,道生寂後至臨川。繼住浙江新昌沃州山禪院,與名僧道壹同時且齊名,劉宋文帝、孝武帝均極尊崇。道猷素性率真淡泊,雅好林泉丘壑,曾經遍遊兩浙名山勝水,皆有題詠。詩多散佚,人稱其詩"有濠上之風"。現存詩一首。 | ||||||||||||
謝道饂 | しゃどううん | 生卒年不詳 | 登山 | |||||||||
謝道?(又作謝道蘊),字令姜(生卒年不詳),東晉時人,是宰相謝安的姪女,安西將軍謝奕的女兒,名將謝玄的長?,也是著名書法家王羲之的兒子王凝之的妻子。 詠絮之才 謝道?留下來的事蹟不多,其中最著名的故事,記載在《世?新語》中:謝安在一個雪天和子?們討論可用何物比?飛雪。謝安的?子謝朗?道「撒鹽空中差可擬」,道?則?:「未若柳絮因風起」,因其比?精妙而受到?人的稱許。也因為這個著名的故事,?與漢代的班昭、蔡?等人成為中國古代才女的代表人,而「詠絮之才」也成為後來人稱許有文才的女性的常用的詞語,這段事蹟亦為《三字經》「蔡文?,能辨琴。謝道?,能詠吟。」所提及,亦有時人比之為竹林七賢。 婚姻 謝道?嫁王凝之為妻,婚姻並不幸福。《晉書・列女傳・王凝之妻謝氏》:「(謝道?)初適凝之,還,甚不樂。安曰:『王郎,逸少子,不惡,汝何恨也?』答曰:『一門叔父,有阿大(謝尚)、中郎(謝據);群從兄弟復有『封、胡、羯、末』,不意天壤之中乃有王郎!』」封是指謝韶,胡是謝朗,羯是謝玄,末是謝川,都是謝家兄弟的小字。謝道?抱怨?謝家兄弟都這麼有名氣,為什麼單單出了王凝之這個庸才?! 姐弟之間 謝道?為謝家傑出人物,謝玄非常敬重?。道?出嫁之後,對弟弟要求依然非常嚴苛,曾痛言責問他道:「?怎麼還是不長進,是俗事費心還是天賦有限?」謝玄曾寫信與?道「此二日東行,游?園中,已極有任家湖形模也。?相矚此,亦有所散。」此文被收入《全晉文》中,為謝玄少數幾篇留下來的文字之一。 捉刀殺敵 在孫恩之亂時,丈夫王凝之為會稽?史,但守備不力,出逃未遂為敵軍所捕,被殺。謝道?聽聞敵至,舉措自若,拿刀出門殺敵數人才被抓。孫恩因感其節義,故赦免道?及其族人。王凝之死後,道?在會稽獨居,終生未改嫁。 |
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趙整 | ちょうせい | ? - 410頃 | 諫歌 | |||||||||
趙 整(ちょう せい、生没年不詳)は、五胡十六国時代前秦の人物。字は文業。趙正とも記載される。略陽郡清水県の出身[1]。 18歳の時に苻堅に仕え、著作郎に任じられた。 その後、黄門侍郎・武威郡太守に昇進した。 374年、冠軍将軍慕容垂の夫人は苻堅より寵愛を受けており、後庭において苻堅は夫人を輦に乗せて戯れていた。これを見た趙整は『不見雀来入燕室、但見浮雲蔽白日(雀が燕室に入ってくるのは見えずとも、浮雲が白日を蔽っているのは見える)』と歌った。これを聞いた苻堅は様子を改めて趙整に謝罪し、夫人に輦から降りるよう命じた。 後に秘書侍郎に任じられた。 同年12月、ある人が明光殿に侵入すると、大声を上げて「甲申・乙酉の年(384年・385年)、魚羊が人を食う。悲しいかな。残るものはないであろう!」と言った。苻堅はこの者を捕らえるよう命じたが、すぐにその姿は見えなくなった。これを受け、趙整は秘書監朱?と共に諸々の鮮卑を誅殺するよう固く請うた(魚と羊を合わせると鮮となる)が、苻堅は聞き入れなかった。果たして苻堅は384年に鮮卑の反乱に遭い、翌年には命を落とすこととなった。 378年9月、苻堅は群臣と共に酒宴を催すと、朱?を酒正とし、酔いつぶれる限界まで飲み続けるよう群臣へ命じた。これを見た趙整は《酒徳之歌》を作り『地列酒泉、天垂酒池、杜康妙識、儀狄先知。紂喪殷邦、桀傾夏国、由此言之、前危後則(地は酒泉を列し、天は酒池を垂れる。杜康はこれに精通し、儀狄はこれを先んじて知る(いずれも始めて酒を造ったとされる人物)。紂は殷邦を失い、桀は夏国を傾けた。これより考えると、前に危きがあれば後は則るであろう)』と戒めた。苻堅はこれに大いに喜び、趙整に命じてこれを酒戒の書とし、自らが群臣と宴を行う際も礼飲するのみに留めた。 380年、苻堅は三原・九?・武都・?・雍にいる?人15万戸を分けて各地方に散居させ、諸々の宗親にこれを領させた。これを聞いた趙整は宴の席で傍に侍ると、琴を演奏して歌いながら『阿得脂,阿得脂,博労舅父是仇綏,尾長翼短不能飛。遠徙種人留鮮卑,一旦緩急當語誰!(種人(?人)を遠くへ移して鮮卑を留めていては、一旦事態が急変した時に誰を頼みとしましょうか)』と述べ、この措置を喪乱流離の象であると訴えた。苻堅はこれに笑みを浮かべたが、従う事はなかった。 苻堅は治世末年になると、鮮卑らを寵遇して惑わされ、政治を怠るようになった。趙整はまた琴を奏でながら歌って『昔聞孟津河、千里作一曲、此水本自清、是誰攪令濁(昔、孟津河に聞くに、千里は一曲をなして曰く「この水はもともと自ずから清きに誰が乱して濁させるか」)』と諌めた。苻堅はこれを聞いて振る舞いを改めて「これは朕のことであるか」と言った。また、歌って「北園有一棗、布葉垂重蔭、外雖饒棘刺、内実有赤心(北の園に一つの棗あり、葉を布いて重陰を垂る。外においては棘刺が饒いと雖も、内においては真に赤心があり)」と言うと、苻堅は笑って「まさに趙文業であるな」と感嘆した。その機転が利いてこれを素早く言葉にし、戯れる様はいずれもこのようなものだった。 後に関中では仏法が盛んである事から、苻堅へ出家したいと求めたが、苻堅は彼を惜しんで許さなかった。 385年に苻堅が死すと、趙整はその志を遂げて出家し、名を道整と改めると『我生何以晩、泥?一何早、歸命釋迦文、今来授大道(我は晩をもってどうして生まれたか。泥?を全うするのにどうして早いであろうか。釈迦文に命を帰し、今来して大道を授かる)』という頌を作った。 趙整は前秦に仕えていた頃に国史の編纂に参画しており、前秦滅亡後もその著述を続け、商の地に隠遁した後に『南』を著作した。その後、商洛山に隠居すると経律に専ら励んだ。国史の著述も引き続き行い、馮翊出身である車頻から経費の援助を受け、『始』を著作した。 東晋の雍州刺史?恢は趙整の風尚(気高いさま)を敬い、同遊を迫ったという。 その後、襄陽において亡くなった。このとき60歳余りであったという。 趙整の死後、宋の梁州刺史吉翰は車頻に命じて書の編纂を引き継がせ、432年に初めて451年には完成し、全三巻となった。 人物 もともと鬚が生えておらず、体は痩せこけていた。また、妻・妾はいたものの子がいなかった。その為、当時の人々は彼を宦官だと見なしていたという[2]。 聡明で物事に通じており、その学問は朝廷・地方に並ぶものがおらず、主君へは幾諫(穏やかに諫める事)を好み、発言を避けるようなことはなかった。 博聞にして記憶力があり、文章をよく作った。直言を好み、苻堅へ上書・面諫すること50回以上に及んだ。 また、仏教を崇拝しており、当時ほとんど漢語になっていなかった経典の訳出に励み、その普及に大いに貢献したという。 |
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