三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | |||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
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西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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北斉 550 - 577 |
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唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
晉・東晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人 | |||||
<西晉 詩> |
裴秀 | 韋昭 | 傳玄 | 皇甫諡 | 山濤 |
杜預 | 陸壽 | 李密 | 荀メ | 劉怜 | |
張華 | 程暁 2.詩《嘲熱客》 | 潘岳 | 束ル | 張翰(張季鷹) | |
策靖 | 陸機 | 陸雲 | 王戎 | 阮咸 | |
向秀 | 張協 | 左思 | 左貴嬪 | 張載 | |
孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |
曹リョ(手へんに慮) | 王讃(王正長) | 郭泰機 | 石崇 | 欧陽建 | |
何劭 | |||||
<東晉 詩> 東晉 317− 420 |
劉コン(王+昆) | 廬ェ | 東晋元帝司馬睿 | 王偉 | 謝混 |
郭璞 | 謝 尚 | 曹毘 | 王導 | 陶侃 | |
ユ翼 | 葛洪 | 王洽 | 僧支遁 | 桓温 | |
王猛 | 孫綽 | 王羲之 | 謝安 | 僧 道安 | |
王獻之 | 桃葉 | 王` | 范寧 | 桓玄 | |
呉隠之 | 僧肇 | 僧 慧遠 | 孔琳之 | 陶潜 (陶淵明) | |
廬山諸道人 | 恵遠 | 帛道猷 | 謝道饂 | 趙整 | |
<宋詩> | 451 孝武帝 | 452 南平王鑠 | 453 何承天 | 454 顔延之 | 455 謝靈運 |
456 謝膽 | 457 謝恵連 | 458 謝莊 | 459 鮑照 | 460 鮑令暉 | |
461 呉遇遠 | 462 王微 | 463 王ソウ達 | 464 沈慶之 | 465 陸凱 | |
466 湯惠休 | 467 劉呉 | ||||
<齊詩> | 481 謝眺 | 482 王融 | 483 劉繪 | 484 孔稚圭 | 485 陸厥 |
486 江孝嗣 | |||||
<梁詩> | 501 梁武帝 | 502 簡文帝 | 503 元帝 | 504 沈約 | 505 江淹 |
506 范雲 | 507 任肪 | 508 邱遅 | 509 劉ツ | 510 呉均 | |
511 何遜 | 512 王籍 | 513 劉峻 | 514 劉孝綽 | 515 陶弘景 | |
516 曹景宗 | 517 徐ヒ | 518 虞羲 | 519 衞敬瑜妻王氏 | ||
520 劉キョウ | 文心雕龍(南朝梁の劉キョウが著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期頃) | ||||
<陳詩> | 531 陰鏗 | 532 徐陵 | 533 周弘譲 | 534 周弘正 | 535 江總 |
536 張正見 | 537 何胥 | 538 韋鼎 | 539 陳昭 | ||
<北魏 詩> |
551 劉昶 | 552 常景 | 553 温子昇 | 554 胡叟 | 555 胡太皇 |
556 | |||||
<北齊 詩> |
561 刑邵 | 562 祖テイ | 563 鄭公 | 564 蕭懿 | 565 顔之推 |
566 馮淑妃 | 567 斛律金 | ||||
<北周 詩> |
571 ユ信 | 572 王褒 | |||
<隋> | 581 煬帝 | 582 楊素 | 583 廬思道 | 584 薛道衡 | 585 廬世基 |
586 孫萬壽 | 587 王冑 | 588 尹式 | 589 孔徳紹 | 590 孔紹安 | |
591 陳子良 | 592 王申禮 | 593 呂譲 | 594 明餘慶 | 595 大義公主 |
西晉 | 265 - 316 | 傳玄 | 山濤 | 杜預 | 劉怜 | 張華 | 潘岳 | 束ル | 策靖 | |
張協 | 向秀 | 阮咸 | 王戎 | 陸雲 | 陸機 | 張翰(張季鷹) | ||||
左思 | 張載 | 左貴嬪 | 孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |||
五胡 十六国 301頃 〜 439 南北朝 420〜 589 |
東晋 | 317〜 420 |
元帝 | 王羲之 | 陶淵明(陶潜) | 僧肇 | 謝安 | 石宗 | 葛洪 | |
謝混 | 孫綽 | 王` | 王獻之 | 桃葉 | 桓玄 | 僧 慧遠 | ||||
宋 | 420〜 479 |
謝霊運 | 顔 延之 | 謝恵連 | 謝宣遠 | 劉鑠 | 謝膽 |
永明体 |
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北魏 | 386〜 535 |
鮑照 | 鮑令渾 | 江淹 | 范嘩 | 崔浩 | レキ道元 | 蕭統 | ||
寇謙之 | 崔浩 | |||||||||
齊 | 420〜 479 |
謝兆 | 任 ム | 沈約 | 王融 | |||||
斛律金 | 鍾エ | 江淹 | 竟陵王蕭子良 | 范雲 | 陸厥 | |||||
梁 | 502〜557 | 蕭衍・梁武帝 | 梁の簡文帝 | 范雲 | 何遜 | 王籍 | ||||
王褒 | 徐 陵 | 萸信 | 陸垂 | 蕭チン | ||||||
陳 | 557〜589 | 陳後主 | 陰鏗 | |||||||
隋 | 581〜 618 |
楊 素 | 薛道衡 | 観徳王・楊雄 |
六朝は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝 の宋・斉・梁・陳の総称。 呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を六朝時代 (りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。 六朝文化(222年 - 589年) 江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。 1. 六朝 建業(南京)を都にした王朝 1)最初の南朝 ・呉 2)続いて都とした南朝4国 (1)呉 (2)東晋 (3)宋→斉→梁→陳 2. 六朝文化 特徴、担い手、思想 1)清談 魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、 それが「正始の音」として持て囃された。 2)竹林の七賢 次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。3)老荘思想 その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 (3)東晋の貴族文化 1)詩歌 (1) 詩人 〈魏〉 孔融/阮ウ/応トウ/劉驕^陳琳/王粲/徐幹/曹操/曹丕/曹植/何晏/繆襲/応キョ /ケイ康/阮籍 〈晋〉 応貞/傅玄/孫楚/傅咸/張翰/張載/張協/張華/潘岳/石崇/欧陽建/陸機/陸 雲/左思/潘尼/劉コン/郭璞/許詢/盧ェ/王羲之/孫綽/袁宏/謝混 〈宋〉 陶淵明/謝恵連/謝霊運/袁淑/願延之/鮑照/鮑令暉/謝荘 〈南斉〉 釈恵休/王融/謝眺 (2) 文選 散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明 太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。 2)書 王羲之・王献之の父子。 3)画 顧ガイ之 女史箴図 4)仏教文化 仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインド のガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。 このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気 風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時 代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋 戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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中国で,3世紀初頭から6世紀末におよぶ時代の文化をいう。政治史では後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの分裂時代を魏晋南北朝時代というが,この時期を文化史では六朝時代(文化)と呼びならわす。 六朝とは呉(222年―280年)に始まる晉,東晋(晋を参照)・宋・斉・梁・陳の6王朝をいうが,いずれも長江下流の建業(建康,現在の南京)を首都とした。この時代の華北は五胡十六国や北朝諸王朝が北方や西北方の異民族政権であったのに対し,漢人の6王朝が興亡した江南では,漢代以来の中国の伝統が温存されており,華北から戦乱を嫌って移住してきた貴族・豪族も含めて貴族社会が形成され,貴族が皇帝権力をも左右していた。加えて,江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。文学では陶潜や謝霊運がおり,散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。絵画の顧【がい】之(こがいし),書の王羲之(おうぎし)・王献之父子が有名。宗教では来世救済を説く仏教が盛んとなり,西域から僧侶が北朝に来中して仏典の翻訳に努める一方,中国からは法顕(ほっけん)がインドを訪れた。また,春秋戦国時代の老荘思想に後漢末以来の現世利益を求める民間信仰が加味された道教が成立し,北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された(442年)。一方,儒教では仏教や老荘思想の影響もあって,世俗を超越して論議にふける清談の風潮がうまれた(竹林の七賢など)。仏教の盛行にともなって仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に位置づけられる。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられる。 |
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儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至った。 |
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魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 | ||
仏教の伝来は、後漢代のこととされる。但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しなかった。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至った。そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄、釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承された。慧遠は「沙門不敬王者論」を著して、覇者の桓玄に対抗した。 |
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道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備した。この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之である。その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成された。一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する形で行なわれた。 |
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六朝楷書(りくちょうかいしょ)は、中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称。現在の楷書の起源となった書体の一つであり、書道では楷書の書風の一つとしてとらえられている。現代中国では魏楷、北魏楷とも称する。 なお、「六朝」とは本来南朝側に立った時代呼称であるが、書道を含む芸術の分野ではこの時代を「六朝時代」と呼ぶことが多いため、この呼称が使われている。 |
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書風 一般的な楷書体によく似るが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分が多い素朴・雄渾なものである。中には龍門二十品など、楷書体に似ても似つかない書風のものも少なくない。 さらに決まった筆法が存在せず、10個書蹟があれば10通りの書き方が存在するというくらい多彩である。これを分類すると、大きく分けて次の二種類になる。 方筆 起筆や転折(おれ)を角張らせて力強く線を引き、石をごつごつと刻むように書く筆法。六朝楷書の主流である。張猛龍碑のように自然な勢いに任せて大胆に書くものと、高貞碑のように骨太ながら正方形の辞界に収まるように緊密な書き方をするものとがある。 円筆 起筆や転折を丸め、全体的に柔らかい筆致で書く筆法。六朝楷書の一部に見られ、鄭文公碑を筆頭とする鄭道昭の書蹟に代表される書法である。南朝の筆法の影響を指摘する向きもある。 また字体に目立った統一が行われなかったため、異体字が極めて多いのが特徴である。その数はこれだけで一つの字典が出来るほどで、現に清の羅振玉は六朝楷書の異体字のみを集めた『碑別字』という字典を上梓している。 |
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歴史と展開 時代背景 316年に内乱のため著しく国力低下した西晋が、北方異民族に追われて南に逃げ東晋となったことにより、実質的に中国は南北に分断されることになった。西晋の故地にあたる北側では「五胡十六国」と呼ばれる異民族王朝が覇権をめぐって勃興し、南側では東晋が前秦に猛攻をかけられたり、重臣に内乱を起こされたりと不安定な状態ながらも、失地回復を狙っていた。 しかし420年、南側の東晋は努力虚しく禅譲を迫られ、宋が成立。さらに439年に北側で北魏が並みいる他王朝を征し北の覇者となったことによって南北の決裂は決定的なものとなり、本格的に南北朝時代が始まる。北朝と南朝は表向きは末期の頃を除くと大きな衝突を起こすことはなかったが、片や漢民族の土地を乗っ取った異民族、片やその異民族に追われて都落ちした漢民族という立場関係は反目をもたらすに充分で、両者は冷戦にも似た関係にあった。 このため文化的・芸術的な交流もそれほど盛んではなく、書道もある程度まで南北に分かれた状態で発展することになったのである。 発生と淵源 北朝を作った北方異民族は元はモンゴル周辺を本拠とする遊牧民族であって定住する習慣がなく、また漢民族とはまったく異なる統治システムを持っていた。しかし漢民族の故地を手に入れ漢民族的王朝を作り上げたことにより、そのシステムを変更する必要性に迫られた。 そこで彼らがとったのが、漢民族の制度や文化を吸収する漢化政策であった。幸い北朝の領域内には西晋の遺民が取り残されており、彼らが漢民族文化の伝道者となることでその目的が達成されることになった。当然のごとく、漢民族の文字である漢字も彼らによって北朝側に伝えられることになった。 六朝楷書の淵源はこの遺民が伝えた西晋の書蹟にあると見られている。西晋の書は基本こそ隷書であるが、末期の頃は本来横長の隷書が正方形になるなどやや楷書寄りとも取れる書風となっている。南朝では芸術的観点から行書・草書が優先され、そこから楷書に発展するが、北朝では漢字の受容を優先し、これをそのまま発展させて彼らなりの色づけをして六朝楷書としたと見られる。 北魏での隆盛 北朝を統一した北魏は、五胡十六国の頃から漢化政策に積極的な王朝であった。統一後もその路線を取り続け、なかんずく第6代皇帝の孝文帝は平城から漢民族王朝伝統の首都・洛陽に遷都し、姓名や官職名、習俗や言語に至るまで徹底した漢化を進めた。また漢化と人心統一の二つの効果を狙って漢民族の宗教である仏教に深く帰依し、多くの寺院や仏像を建立した。 これに後押しされる形で、六朝楷書が爆発的な発展を遂げることになった。特に書風は漢化政策の影響で、当時既に楷書が一書体として確立していた南朝の書にある程度まで学び、それを彼らなりに消化したことにより、西晋代のスタイルを引きずっていた状態から脱皮して独自の個性が確立されるようになる。 このような書蹟は、紙にあまりなじみのなかった北朝では写経を除いて紙に書かれることは少なく、碑や磨崖、造像記や墓碑などの金石文の形で残され、後世に「北碑」と呼ばれる巨大な書蹟群を造り上げることになった。 この時期、5世紀末から6世紀初頭までの期間が六朝楷書の最盛期であった。 東魏・西魏以降の変容 しかし534年に北魏が帝位争いにより東魏と西魏に分裂し、さらに550年に東魏が北斉へ、556年に西魏が北周へそれぞれ交替する頃になると、六朝楷書を取り巻く状況に変化が生じる。西魏で554年に王羲之・王献之、いわゆる「二王」の法帖が戦利品として持ち込まれるなど、南朝の書蹟である「南帖」やそれに類する書蹟が流入し始め、強い影響を与え始めたのである。 これによって北朝の書家の中には「二王」を手本として六朝楷書をかなり南朝寄りに変容させた書風を確立し、後世の隋や唐の楷書にも似た書蹟をものする者も現れた。従来型の六朝楷書も多くものされている中に混じっての出現ではあったが、この積極的な南朝書法の摂取は、後の南北合一の先駆をなすものであったと言ってよい。 発展的消滅 ここにとどめを刺したのが、581年に北周皇室の外戚であった楊堅が禅譲を受けて隋を建て、中国統一に乗り出したことである。8年後の589年に南朝の陳は隋の猛攻の前にあっさりと滅亡し、中国は約270年ぶりに統一されることになった。 この統一により南北を隔てていた政治的な壁は一気に取り払われ、南北の文化交流が雪崩をうって開始された。以前から垢抜けない自分たちの文化に劣等感を持ち、南朝の文化に憧れていた北朝側の人々はこれを好機と南朝側に急接近し、南北の文化は発展的に融合して行くことになった。特に第2代皇帝・煬帝は南北を貫流する運河を造営しており、この頃までには南北の文化は完全に融合していたと考えられている。 その中で、楷書も融合の対象となった。六朝楷書と同時期、南側でも隷書の走り書きにより成立した行書が整えられて発生した原初的な楷書が、南朝につながる東晋の王羲之や王献之によって行書とともに書道の一書体として定着し、既にその時点で一つの書体として完成されていたからである。 両者は発生経路(南朝=隷書→行書→楷書、北朝=隷書→楷書)も発達経路(南朝=書道の書体として発達、北朝=漢字受容のうちに自然発達)も異なり、それぞれ単独の存在ではあったが、その書風の近似性は融合を招くだけの親和性を充分に持っていた。さらに上記の通り隋以前より南朝の書法は北朝側にある程度知れており、最末期には大きな影響を与えるほどであったため、南北統一により一気に両者の融合が進み、六朝楷書は筆法や書法など技巧面で融合して発展的に消滅することになったのであった。 しかしそのように楷書成立の片棒を担いだ存在でありながら、六朝楷書の過去の書蹟はあくまで「異民族王朝の書蹟」扱いされてこれ以降注目されることがなくなり、忘れられたまま長い眠りにつくことになる。 再評価 六朝楷書がその眠りを覚まされたのは、実に1200年以上も後の清代のことである。康熙帝の時代に儒学の一環として始まった考証学は、考古学や文字学の分野にも進出し、書道にも大きな影響を与えつつあった。 そんな時、18世紀中頃から「北碑」の出土や発見が相次ぐようになる。考証学者たちはこれまで無視されてきた異民族の書蹟のレベルの高さと独特の書風に驚嘆し、多くの学者が研究に身を投じることになった。 なかんずく阮元は「北碑」と「南帖」として北朝・南朝の書蹟を比較して「南北書派論」「北碑南帖論」を唱え、北朝・南朝での書道の発展はまったく別個であり、模刻の連続で誤りが累積した南帖よりも、石に彫られて原形がある程度まで残っている北碑の方が価値があると断じ、これにより北碑の書体である六朝楷書にも折り紙が与えられることになった。さらに包世臣がこれを絶賛、清末の康有為も南北単独発展の説は否定したものの、北碑の優秀性は認めてとどめをさし、六朝楷書の書としての立場は確固たるものとなった。現在では書道や書体研究、特に楷書の学書・研究において、六朝楷書は不可欠の存在とされるまでになっている。 日本での受容 古代における伝来 日本での六朝楷書の受容は、中国側では隋末から唐代初頭に当たる飛鳥時代から奈良時代のごく初期、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられている。 事実、大化2年(646年)の「宇治橋断碑」、「日本三大古碑」として有名な文武天皇4年(700年)の「那須国造碑」、和銅4年(711年)の「多胡碑」などは、六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑である。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書である。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ではあるが、六朝楷書の意が入っているといわれる。 このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっている。流入して来たのは直接的には百済の書法であったが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていた。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わったのである。 一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していた。そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられている。 しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまった。かくして日本での六朝楷書の系譜は一旦途絶えることになる。 近代の再伝来 その後も中国本土で無視されていたこともあって六朝楷書は忘れられたままであったが、最初の伝来から1300年近くが経った明治13年(1880年)、清国公使に随行して来日した考証学者・楊守敬が、日本に流出した文献類を買収するための資金調達用として北碑の拓本を持参したことで再伝来することになった。 これを見る機会に恵まれた日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、これを元に新たな書法を試み始めた。彼らの六朝楷書に対する評価や入れ込み方には根強い異論や反論もあり、「奇怪な書を書く妙な書家」などと陰口をたたかれることもあったが、結果的に彼らの活動は日本の書道界に新風を吹き込み、後世に大きな影響を与えることとなった。 現在では臨書のみならず六朝楷書の筆法を用いた書も多く制作され、また楷書の学書においてもかなりの割合で一度は接することがあるというほどになじみの深い存在となっている。 |