時代の概略; 漢詩理解のための時代の解説 |
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詩人 時代背景概略 |
元謀 |
藍田 | 北京原人 | |
神話伝説 |
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黄河 |
長江文明 三堆 | 長江下流域 | 北方草原 |
夏 前2205〜前1766 (三皇五帝) 夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘によりその資料の量的変化を待って実在したことが明らかになる。 |
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夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人??の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。 舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は?(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。 禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。 |
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殷 前1020〜前770 殷代(いんだい、?音: Y?n dai)とも。紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、?音: Sh?ng)、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命) |
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周 |
西周 前1020〜前770 周(しゅう、?音: Zh?u、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。 |
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東周 前770〜(前221) |
春秋 前770〜(前403) |
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戦国 前403〜前221 |
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周の平王は西方の犬戎に追われ、前七七〇年、洛邑に遷都した。以後を東周ともいう。東周は、春秋時代と戦国時代に分けられる。 春秋時代は下剋上の時代で、周の封建制が崩れ、斉の桓公・宋の襄公・晋の文公・秦の穆公・楚の荘王ら(春秋の五覇)が興亡を繰り返した。魯では孔子が生まれ、中国思想家の祖となった。この時代の戦乱に由来する故事は多く、斉の宰相管仲の「管鮑の交はり」、越王勾践と呉王夫差の「臥薪嘗胆」「会稽の恥」などが有名である。 前四〇三年、晋が韓・魏・趙に分立し、戦国時代となった。戦国の七雄(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)の抗争の時代で、蘇秦は合従策で秦に対抗する六国同盟を結ばせるが、秦に仕える張儀の連衡策で同盟を破られた。「鶏鳴狗盗」の孟嘗君、「完璧」や「刎頸の交はり」の廉頗・藺相如もこの時代の人である。また、この時代は諸子百家の活躍の時代でもあった。 戦国時代は前三二一年、秦の始皇帝の天下統一によって終わった。 |
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秦 前221〜前206 始皇帝は郡県制を採用し、度量衡などの制度・文物を統一、中央集権国家を建設した。また法 |
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漢 |
前漢 紀元前206年 - 8年 |
諸子 | ||||||||||
孔子 | 老子 | 荘子 | 墨子 | 孟子 | 荀子 | 韓非子 | 孫子 | 列子 | 楊朱 | |
百家 | ||||||||||
陰陽家 | 儒家 | 墨家 | 法家 | 名家 | 道家 | 縦横家 | 雑家 | |||
農家 | 小説家 | 兵家 |
孔子 孟子 |
屈原 宋玉 伯夷 荊軻 楚辞 九歌 屈原 |
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長安郊外の驪山のふもとに建立されている始皇帝像 |
鴻門の会: 咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。
始皇帝 万里の長城増築 |
万里の長城關221所 | 項籍(項羽) |
虞美人 |
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(1)中国史・女性論 《項羽と虞美人》i紀頌之の漢詩ブログ10252 (2)中国史・女性論 《項羽と虞美人》2.項梁と項羽の挙兵 (3)中国史・女性論 《項羽と虞美人》3.劉邦の人となり 紀頌之の漢詩ブログ10266 (4)中国史・女性論 《項羽と虞美人》4.鴻門の会 ブログ10273 (5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争 漢詩ブログ10287 (6)中国史・女性論 §-2 垓下の戦い 1. 垓下の詩 -@ (7)中国史・女性論 §-2 垓下の戦い 1. 垓下の詩 -A (8)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》2. 虞美人について (9)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》3. 項羽の最後 (10)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》4. 項羽の死にざま (11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》ブログ10336 (U-1)中国史・女性論 《U漢の高祖をめぐる二人の女性》1.)大風の歌と鴻鵠の歌漢詩ブログ10343 (U-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人ブログ10350 (U-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし紀頌之の漢詩ブログ10357 (U-4)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 (U-5)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》5.)威夫人の末路 ブログ10378 (U-6)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》1.)呂太后の専権ブログ10385 (U-7)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 (U-8)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》3.)無為の政治 (U-9)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》1.)家柄・性格の相違 (U-10)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》2.)?殺と「法三章」 (U-11)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》3.)漢中放棄と懐王の弑殺 (U-12)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》4.)将に将たるの器 (U-13)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》5.)劉氏政権の強化と保持 (U-14)中国史・女性論 《§-3 項羽と劉邦の人物評価》6.)死に望んで |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 |
大夫鐘 | たいふしょう | 前520年ごろ | 祝越王辭 | ||||
呂尚(太公望) | ろしょう(たいこうぼう | 前11世紀ごろ | 六韜 | ||||
管仲 | かんちゅう | 前720-前645 | 管子 | ||||
鮑叔 | ほうしゅく | 管仲と同時代 | |||||
單襄公 | ぜんじょうこう | 前?年 - 前587年 | 国語 | ||||
老子 | ろうし | 前6世紀頃 | |||||
顔回 | がんかい | 483確認 | |||||
仲由(子路) | ちゅうゆう(しろ) | 480確認 | |||||
孔子 | こうし | 前551〜479 | 論語 | 「易・書・詩・春秋」 | |||
列子 | れっし | 前400の前後70年在世 | 列子 | ||||
荘子 | そうし | 前369頃 - 前286頃 | 荘子 | ||||
孟子 | もうし | 前372年 -前289年 | 『孟子』(もうじ) | ||||
墨子 | ぼくし | 前470〜前390頃? | 墨子十大主張 | ||||
荀子 | じゅんし | 前4世紀末 | 荀子 | ||||
楊朱 | よう しゅ | 前370頃? - 前319頃? | 為我説(自愛説) | ||||
屈原 | くつげん | 前340頃〜前278年 | 離騒 | 九歌 | 天問九章 | ||
伯夷 | はくい | 未詳 | 采薇歌 | ||||
宋玉 | そうぎょく | 未詳 | 九弁・楚辞章句 | 高唐賦 | 神女賦 | 対楚王問 | |
韓非子 | かんびし | 前280年? - 前233年 | 韓非子 | ||||
荊軻 | けいか | 未詳-前227 | 易水歌 | ||||
李斯 | りし | 前284年−前208年 | 小篆 | ||||
秦 前221〜前206 |
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漢 |
前漢 紀元前206年 - 8年 |
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新 8年 〜 23年 | |||
後漢 25年 〜 220年 |
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魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 | |
王昭君ものがたり | 王昭君 高祖(劉邦) 枚乘 東方朔 漢-武帝(劉徹) 劉細君 李陵 蘇武 |
卓文君 楊雄 班彪 |
■ 80年 | 班固(32 - 92)「漢書」 | |
■ 90年 | 王充(27-90)「論衡」 | |
■ 101年 | 賈逵(30-101)「左氏傳解詁」「国語解詁 | |
■ 116年 | 班昭(未詳班固の妹) 「女誡」班固の「東征賦」の加筆。 | |
■ 139年 | 張衡(78-139)「兩京賦」、天文歴算、地震計発明。 | |
■ 142年 | 崔援(77-142)「座右銘」 | |
■ 145年 | 王逸(90-145)「楚辭章句」 | |
■ 175年 | 蔡ヨウ(132-192)嘉平石經、「独断」「蔡中郎集」 | |
■ 182年 | 何休(129-182)「春秋公羊解詁」 | |
■ 184年 | 張角(?-184) ら黄巾賊により、”黄巾の乱” おこり、群雄割拠して天下衰乱。 |
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが建安七子と呼ばれる文学者たちである。 孔融・陳琳・徐幹・王粲・応チョウ・劉驕E阮ウら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。 それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の3人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。 |
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また、繁欽・路粋・何晏・応?・蔡?・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。 | |
官渡の役 (200) | |
官渡の戦いは、中国後漢末期の200年に官渡に於いて曹操と袁紹との間で行われた戦い。赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを決定付ける重要な戦いと見做される。 狭義では戦役終盤に官渡で行われた戦いのみを指すが、広義では袁紹と曹操の一連の抗争を含む大きな戦役を指す。 |
■ 209年 | 荀悦(148-209)「申鑑」前漢を扱った編年史『漢紀』の編者。荀悦は『漢紀』30篇を完成させた。 『漢紀』は『左伝』と同じ編年体で前漢406年間の歴史を記したものである。 |
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■ 212年 | 阮禹(? -212)建安七士の一人。字(あざな)は元瑜。蔡?の弟子。河南陳留の人。曹操に仕え、官は司空軍謀祭酒。文事をつかさどり、戦事の檄文(げきぶん)を作った | |
■ 216年 | 曹操、魏王を稱す。 | |
■ 217年 | 徐幹(170-217)「中論」。2巻後漢末期の政治家・文人。 字は偉長。 青州北海郡劇県の出身。 建安七子の一人。 | |
王粲(177-217)字を仲宣といい、山陽郡高平県の人である。 曾祖父の王襲、祖父の王暢はどちらも漢代に三公となった。 | ||
陳琳( -217)陳 琳は、中国後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。徐州広陵郡射陽県の出身。 はじめ何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図り諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの前、袁紹が中原全土に配した曹操打倒の檄文を書いた。 | ||
應チョウ〔王+易〕( -217)応チョウは、中国後漢末期の政治家・文人。字は徳l。豫州汝南郡南頓県の人。建安七子の一人。父は応c。弟は応?。伯父は応劭。伯祖父は応奉。 曹操に召し出されて丞相掾属に任ぜられた。後に曹操の三男曹植の庶子を経て、五官中郎将文学となる。しかし217年、華北で流行した疫病により死去した | ||
劉( -217)劉 驍ヘ、中国後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。?州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)の人。漢の宗族の劉梁の孫。 | ||
■ 219年 | 劉備、漢中王を称す。 | |
■ 220年 | 曹操歿。魏王曹丕獻帝を廃止、文帝につく。漢滅亡。 | |
■ 221年 | 劉備、蜀漢の昭烈帝となる。 | |
■ 229年 | 孫権、大帝となる。此の年から、265年まで、三國鼎立となり、戦乱は続く。老荘的隠遁思想が大流行し、「清談の風」が起こる。 |
李延年 張 角 蔡 邑 趙 壹 禰 衡 関 羽 班u、 梁 鴻 |
022 | 高帝 | かんこうそ | 前247―前195 | |
023 | 項羽 | こうう | 前232-前202 | |
024 | 虞美人 | ぐびじん | 未詳 (項羽と同時期) | |
025 | 唐山夫人 | とうざんふじん | 前206頃 在世 | |
026 | 朱虚侯章 | しゅきょこうしょう | 前200−前177 | |
027 | 孔安国 | こうあんこく | 未詳 - 前140 | |
028 | 賈誼 | かぎ | 未詳 - 前140 | |
029 | 韋孟 | いもう | 前228−前156 | |
030 | 烏孫公主(劉細君) | うそんこうしゅ | 前130 ‐ 不詳 | |
031 | 枚乘 | ばいじょう | 未詳 -前140 | |
032 | 淮南王劉安 | わいなんおう・りゅうあん | 未詳 -前140 | |
033 | 司馬相如 | しばそうじょ | 前179年-前117年 | |
034 | 卓文君 | たくぶんくん | 前179頃-前117頃 | |
035 | 劉細君 | りゅうさいくん | 前105年烏孫に嫁す。 | |
036 | 董仲舒 | とうちゅうじょ | 前176―前104 | |
037 | 司馬遷 | しばせん | 前145―前86 | |
038 | 武帝 (劉徹) | ぶてい | 前156-前87年 | |
039 | 東方朔 | とうほうさく | 前161頃-前87頃 | |
040 | 李延年 | りえんねん | 前140頃-前87頃 | |
041 | 燕刺王旦 | えんしおうたん | 前不詳-前80年 | |
042 | 華容夫人 | かようふじん | 上の妻、同時期 | |
043 | 昭帝 | しょうてい | 前94-前74 | |
044 | 李陵 | りりょう | 前 不詳-前74 | |
045 | 霍光 | かくこう | 未詳 -前68 | |
046 | 蘇武 | そぶ | 前142-前60 | |
047 | 楊ツ | よう うん | ? - 前54年 | |
048 | 王昭君 | おう しょうくん | 前1世紀頃 | |
049 | 班ショウ、 | はん しょうよ | 生没年不詳 | |
050 | 劉向 | りゅうこう | 前77- 前 6 | |
051 | 趙飛燕 | ちょう ひえん | ? - 前1年 | |
新 | ||||
s-01 | 揚雄 | |||
s-02 | 劉欽 | |||
gk-001 | 梁鴻 | りょうこう | 不詳 後漢 | |
gk-00 | 馬援 | ば えん | 前14 - 49 | |
gk-00 | 班固 | はん こ | 32 - 92 | |
gk-00 | 張衡 | ちょう こう | 78 - 139 | |
gk-00 | 李尤 | り ゆう | 生没年不詳 | |
gk-00 | ||||
gk-00 | 蔡ヨウ | さいよう | 133-192 | |
gk-00 | 秦嘉 | しんか | 147頃在世 | |
gk-00 | 孔融 | こうゆう | 153-208 | |
gk-00 | 辛延年 | しんえんねん | 不詳 後漢で活躍 | |
gk-00 | 宋子侯 | そうしこう | 不明 | |
gk-00 | 蘇伯玉妻 ○ | そはくぎょくつま | 不明 | |
gk-00 | 竇玄妻 | とうげんのつま | 後漢に在世 | |
gk-00 | 蔡エン(蔡文姫) | さいえん | 162-239 | |
gk-00 | 諸葛亮 | しょかつりょう | 181-234 |
三国時代への道 | ||
1. |
官渡の役 (200) | |
2. |
赤壁の戦い(208) | |
3. |
建安文学の文学者 | |
4. |
桃園の誓い | |
5. |
黄巾の乱の終焉 | |
6. |
劉備の苦悩 | |
7. |
何進の優勢、十常侍の劣勢 | |
8. |
曹操の台頭 |
上記とともに 三曹七賢 |
69 | 70 | 73 | 74 | 75 | 76 | 77 | ||
張華 | 張協 | 潘岳 | 左思 | 陸機 | 陸雲 | 潘尼 | ||
郭璞 | 劉焜 |
五胡十六国時代 304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による華北の統一までを指す。五胡十六国は、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。なお十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづくものであり、実際の国数は16国を超える。後漢末期から北方遊牧民族の華北移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、永嘉の乱として爆発させた。
元帝(東晋) 王羲之 陶淵明(陶潜) 僧肇 |
南北朝 北魏〜陳 386〜589 |
傅 玄(傳 休奕) |
孫楚 | ||||||
王 籍 | 陸垂 | 蕭陳 |
謝霊運 顔延之 鮑 照 謝 兆 蘇小小 鮑令暉 孔稚珪 任 ム 刑 邵 沈 約 斛律金 王 融 鍾 エ 蕭衍梁武帝 何 遜 范 雲 |
五胡十六 国 301頃〜 439 南北朝 420〜 589 |
東晋 | 317〜 420 |
元帝 | 王羲之 | 陶淵明(陶潜) | 僧肇 | 傳玄 | 石宗 | ||
宋 | 420〜 479 |
謝霊運 | 顔 延之 | 謝恵連 | 謝宣遠 | 劉鑠 | 永明体 |
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北魏 | 386〜 535 |
鮑照 | 鮑令渾 | 江淹 | 范嘩 | |||||
齊 | 420〜 479 |
謝兆 | 任 ム | 沈約 | 王融 | |||||
斛律金 | 鍾エ | 江淹 | 竟陵王蕭子良 | 范雲 | ||||||
梁 | 502〜557 | 蕭衍・梁武帝 | 梁の簡文帝 | 范雲 | 何遜 | 王籍 | ||||
王褒 | 徐 陵 | 萸信 | 陸垂 | 蕭チン | ||||||
陳 | 557〜589 | 陳後主 | 陰鏗 | |||||||
隋 | 581〜 618 |
楊 素 | 薛道衡 | 観徳王・楊雄 |
楊素 薛道衡 観徳王・楊雄 |
初唐 618年〜712までの約100年。 初唐の詩人たち
前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈?期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。
魏徴 上官儀 王勃 盧照鄰 駱賓王 劉廷芝・劉希夷 楊炯 陳子昴 上官婉兒 宋之問 沈栓期 |
盛唐 712〜765 玄宗皇帝の時代 盛唐の詩人たち
唐代の最盛期を反映し、多くの優れた詩人を輩出した時期である。修辞と内容が調和した詩風は、それまでの中国詩歌の到達点を示している。代表的詩人には、中国詩歌史上でも最高の存在とされる李白と杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがいる。
張若虚 包融 王翰 蘇廷 僧一行 張説 張九齢 賀知章 張旭 王之渙 孟浩然 李祈 崔 楊貴妃 王維 李白 諸光羲 崔敏童 王昌齢 嚴武 高適 裴迪 荊叔 賈至 崔敏童 崔國輔 杜甫岑參 常建 張敬忠 崔惠童 樓穎 皎然 薛業 顔眞卿 |
中唐 766〜835 中唐の詩人たち
中唐期では、平易な表現を重んじた白居易・元槇らの「元白体」が現れた一方、個性的で難解な表現を愛用する韓愈・李賀などの一派も存在するなど、詩風は前代よりも多様化する傾向を見せ、それぞれが多彩な性格を持つ詩壇を形成した。また韓愈・柳宗元らにより、六朝以来主流となっていた「四六駢儷体」と呼ばれる修辞主義的な文体を改め、漢代以前の達意を重んじる文体を範とする、新たな文体の創出が提唱された(「古文復興運動」)。韓愈らの試みは次の宋代の文学者に引き継がれ、後世、彼ら古文運動の主導者を「唐宋八大家」と総称する。
○ 中唐の詩人たち
張謂 錢起 靈一 朱放 劉長卿 戴叔倫 司空曙 楊巨源 耿夷 陸羽 顧況 盧綸 孟郊 武元衡 崔護 李賀 權コ輿 柳宗元 李益 元槇 白居易・白楽天 劉禹錫 韓愈 張継 張籍 韋應物 賈島 李紳 李渉・李渤 薛瑩 薛濤 |
晩唐 836〜907 晩唐の詩人たち
晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭均・韋荘・韓癒がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。
○ 晩唐の詩人たち
牛嬌 杜牧 張湖 許渾 李商隠 温庭均 陸龜蒙 皮日休 鄭畋 黄巣 劉綺莊 唐彦謙 趙瑕 陳陶 張喬 于武陵 高胼 聶夷中 曹松 魚玄機 杜荀鶴 羅隱 韋荘 秦韜玉 汪遵 |
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岳飛 呂祖謙 張蝕 陸象山 朱熹(朱子) 陸游 唐婉 辛棄疾 戴復古 周密 陳亮 杜秉 張元幹 張孝祥 眞山民 楊萬里 劉克莊 文天祥 謝枋得 |
北宋 960〜1127 林逋 蘇舜欽 柳永 晏殊 欧陽脩 曾鞏 司馬光 王安石 蘇洵 富弼(ふひつ 蘇軾(蘇東坡) 蘇轍 宋江 孫覿 張元幹 |
馬致遠 |
太祖・朱元璋 高 啓 于 謙 方孝孺 文 嘉 王陽明 海瑞 劉基 |
呉偉業 顧炎武 和申 洪秀全 譚嗣同 張之洞 黄遵憲 孫 文 梁啓超 秋 瑾 魯迅 老舎 毛沢東 |
![]() 紀 頌之 |