南宋詩人 |
北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 北宋が滅亡した後、欽宗の弟趙構(高宗)は南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。 和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、政局が安定した。 楊億・林逋・寇準・欧陽脩・梅堯臣・蘇舜欽・王安石・蘇軾・黄庭堅・ 陸游・楊万里・范成大・張先・柳永・周邦彦・李清照 |
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詩 五代の詩は繊細な詩風を特徴とするが、詞が隆盛した一方で、詩は概ね低調であった。北宋・真宗期の高級官僚の間では西崑体と呼ばれる詩風が流行した。西崑体の代表としては楊億・銭惟演・劉?といった名前が挙がる。 宋初には他に独自の詩風を持つ詩人も居り、まとめて晩唐派と呼ばれるが、詩風は同じでない。魏野・林逋・寇準といった名前が挙がる。仁宗期に入り、欧陽脩は韓愈に心を寄せて古文復興運動に取り組み、詩に於いても韓愈を手本、梅尭臣・蘇舜欽を同士に新しい詩の流れを生み出した。 神宗期に活躍したのが王安石であり、宋代最高の詩人である蘇軾である。王安石には政治に関する詩が多く、表現に於いては故事・古詩を盛り込みつつも端正な詩風である。当代一の文人である蘇軾の周りには多くの才能ある文人が集まり、黄庭堅・張耒・晁補之・秦観の四人は蘇門四学士と称されたが、中でも黄庭堅が文名・後世に最も大きい影響を与えた。黄庭堅の詩風は多くの追従者を生み、後に江西詩派と呼ぶ流れを生んだ。 華北を失い江南へ押し篭められた激動の時代を代表するのが、陳与義・曾幾・呂本中の三人である。時代を反映し亡国の悲憤を詠んだ歌が多い。杜甫を尊敬した陳与義は杜甫と似た境遇に遭った事で詩も杜甫に近づいたと評される。 孝宗の治世に入り、ある程度の安定を得た南宋で再び詩が全盛期を迎える。代表的なのは范成大・楊万里、そして南宋最高の詩人である陸游である。 陸游は29歳の時に解試(科挙の一次試験)を受けて見事1位で合格したが、そのときの2位が時の宰相秦檜の孫である秦?であったために省試(二次試験)では秦檜により落第させられたという。結局86年という長寿を保ち、現存する詩は9000に及ぶ。 孝宗の治世末から平和な時代が続き、詩を詠む人間の数は大きく増加した。代表が永嘉四霊と江湖派であり、永嘉四霊とは徐照・徐?・翁巻・趙師秀の四人である |
ID |
詩人名 | よみかな | 生没年 | 備考 |
1 | 呂本中 | りょほんちゅう | 1084-1138 | 兵亂後雜詩 |
2 | 陳與義 | ちんよぎ | 1090-1138 | 秋夜・雨過・次韻尹潜感懐・江南春 |
岳飛 | がくひ | 1103〜1141 | ||
8 | 蕭徳藻 | しょうとくそう | 1147在世 | 古梅 |
3 | 曾幾 | そうき | 1084-1166 | 雪作 |
張元幹 | ちょうげんかん | 1091年〜不明 | ||
張孝祥 | ちょうこうしょう | 1132〜1169 | ||
張拭 (ちょうしょく) | 1133 - 1180年 | |||
呂祖謙 (りょそけん) | 1137〜1181 | |||
陸象山(りく しょうざん) | 1139〜1192 | |||
5 | 范成大 | はんせいだい | 1126-1193 | 四時田園雜興・夜歸・宜春苑・臘月村田樂府・催租行 |
7 | 尤茅 | ゆうぼう | 1127-1194 | 落梅 |
陳亮 (ちんりょう) | 1143〜1194 | |||
朱 熹(朱子)(しゅ き) | 1130 - 1200年 | |||
6 | 楊萬里(ようばんり) | 1127〜1206 | ||
辛棄疾(しんきしつ) | 1140 - 1207年 | |||
4 | 陸游(りくゆう) | 1125〜1209 | ||
唐婉(とうえん) | 不詳 | 陸游の妻 母が離縁させる | ||
10 | 徐照 | じょしょう | ? -1211 | 舟上・題伍渓 |
11 | 徐キ (王+幾) | じょき | 1162-1214 | 夏日閑座・馮高 |
杜秉(とへい) | 不詳 | |||
14 | 戴復古 | たいふくこ | 1167〜1248? | 江村晩眺・釣臺・琵琶亭 |
12 | 翁卷 | おうけん | ?-1183-1211-? | 即事言懐・中秋歩月 |
13 | 趙師秀 | ちょうししゅう | ? - 1219 | 約客・和鮑縣尉・薛師石瓜蘆 |
9 | 姜菱 | きょうき | 1155-1221 | 姑蘇懐古・除夜自石湖歸チョウ渓・虞美人草 |
16 | 樂雷發 | がくらいはつ | 1253前後在世活躍 | 烏烏歌 |
15 | 劉克莊 | りゅうこくそう | 1187-1269年 | 戊辰即事・北山作 |
眞山民(しんさんみん) | 1274頃 | |||
17 | 文天祥(ぶんてんしょう) | 1236〜1282 | 正氣歌並序 | |
謝枋得(しゃぼうとく) | 1226〜1289 | |||
18 | 謝コウ (皐+羽)) | しゃこう | 1249-1295 | 冬樹引別玉潜 |
周密(しゅうみつ) | 1232〜1298年 | |||
モンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州(武昌)に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。 しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。 徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。忠臣の鑑と称えられる文天祥も2年以上各地で抵抗戦を続けたが、景炎3年(1278年)に元に捕えられ、獄中で『正気の歌』を詠み、元の至元19年(1282年)に刑死した。 南宋の滅亡時に国に殉じた忠臣は他の王朝に比べてはるかに多かったが、元の統治下で宋の遺民として生き続けた士大夫もおり、『文章軌範』を編纂した謝枋得、『十八史略』を著した曾先之、『資治通鑑音注』(『資治通鑑』の注釈書)を著した胡三省など、文学・史学で名を残した宋の遺民も多い。 |
時代 |
西紀 |
史実 |
詩人名 |
生没年 |
概 略 |
ゆかりの地 |
詩 詞 題 |
ID |
詩人名 | よみかな | 生没年 | 備考 |
岳飛 (がくひ) | 1103〜1141 | |||
張元幹(ちょうげんかん) | 1091年〜不明 | |||
張孝祥(ちょうこうしょう) | 1132〜1169 | |||
張拭 (ちょうしょく) | 1133 - 1180年 | |||
呂祖謙 (りょそけん) | 1137〜1181 | |||
陸象山(りく しょうざん) | 1139〜1192 | |||
陳亮 (ちんりょう) | 1143〜1194 | |||
朱 熹(朱子)(しゅ き) | 1130 - 1200年 | |||
楊萬里(ようばんり) | 1127〜1206 | |||
辛棄疾(しんきしつ) | 1140 - 1207年 | |||
陸游(りくゆう) | 1125〜1209 | |||
唐婉(とうえん) | 不詳 | 陸游の妻 母が離縁させる | ||
杜秉(とへい) | 不詳 | |||
戴復古(たいふくこ) | 1167〜(没年不詳) | |||
劉克莊(りゅうかつそう) | 1187-1269年 | |||
眞山民(しんさんみん) | 1274頃 | |||
文天祥(ぶんてんしょう) | 1236〜1282 | |||
謝枋得(しゃぼうとく) | 1226〜1289 | |||
周密(しゅうみつ) | 1232〜1298年 | |||
![]() 紀 頌之 |