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西晉詩人概略表





■ 三国から六朝、隋、唐の詩人案内
三国時代 魏 220 - 265 呉 222 - 280 蜀 221 - 263
晉  265 - 420 .西晉 265−316
東晉 317 - 420 五胡十六国 304-439
南北朝(439〜589)
西魏 535 - 556
東魏 534 - 550
北斉 550 - 577
唐(とう、618年 -907年)
   初唐の詩人たち   盛唐の詩人たち   中唐の詩人たち   晩唐の詩人たち
    


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晉から五胡十六国、六朝、隋までの(建国時系列)時代の概略と詩人






T
1.西晉265−316 2.代315−376 3.東晉317−420 4.西燕384−394 5.北魏386−534 6.宋420−479
U
@前趙304−347 A成漢304−347 B前涼316―376 C後趙319−351 D前燕337−370
V
E前秦351−394 F後燕384−407 G後秦384−417 H後涼386−403 I西秦385−431
W
J南涼397−414 K南燕398−410 L西涼400−421 M 夏 407−431 N北燕407−436 O北涼397−439

南北朝(439〜589)
宋 420 - 479
北魏 386 - 534
斉 479 - 502
梁 502 - 557
西魏 535 - 556
東魏 534 - 550
陳 557 - 589
北周 556 - 581
北斉 550 - 577
隋 581 - 618




 西晋 265年 - 316年  

裴秀 はいしゅう 224-271 禹貢地域圖      

韋昭 いしょう  ? -273 國語注



傳玄 ふげん 217-278 和班氏 詩一首 玉臺:12篇 傳子

皇甫諡 こうほじ 215-282 帝王世紀



山濤 さんとう 205-283 山濤集

〔七賢〕 

杜預 とよ 222-284 破竹の勢い



陸壽 りくじゅ 不明 三国志を完成させる。

李密 りみつ 224-287 陳情表



荀メ じゅんそう ? -294




劉怜 りゅうれい 211-300〔七賢〕 酒徳頌 戒酒
[巾軍]衣と為す

張華 ちょうか 247-300 博物志



程暁 ていぎょう 不詳 嘲熱客 贈傅休奕


潘岳 はんがく 247-300 西征賦 愁興賦


束ル そくせき 262-300 補亡詩六首



張翰(張季鷹) ちょうか 生没年不詳 雜詩



策靖 さくせい 239年 - 303年 索子 出師頌 月儀帖 草書状

陸機 りくき 261-303 豪士賦 歎逝賦


陸雲 りくうん 262-303 西征賦 登臺賦


王戎 おうじゅう 234-305 三都賦 此必苦李
〔七賢〕

阮咸 げんかん 不詳 (210〜263) 詠懐詩

〔七賢〕

向秀 こうしゅう 不詳 (227〜272) 思旧賦 難?叔夜 養生論 〔七賢〕

張協 ちょうきょう ? - 307 現存僅13首 詠史詩 遊仙詩1首 雜詩11首

左思 さし 250-305 招隠詩 嬌女詩 三都賦 齊都賦

詠懐詩



左貴嬪 さきひん 不詳(?〜300) 花瓶
左思の妹(左芬)

張載 ちょうさい 280〜289 七哀詩 活躍 贈司隸傅 鹹詩

孫楚 そんそ 不詳 - 293年 寄暢散懐 征西官属 劍閣銘 瓜賦

司馬懿 しばい ? -306 讌飲詩



王衍 おうえん 256-311




潘尼 はんに ? -311




郭象 かくしょう ? -311 老子注



曹リョ(手へんに慮) そうりょ 未詳-308 感舊詩、 古詩源。


王讃(王正長) おうさん(おうせいちょう) 290頃在世 (古)雑詩。 古詩源


郭泰機 かくたいき 239-294 答傅咸




石崇 せきそう 249-300 王明君詞




欧陽建 おうようけん 265-300 臨終詩




何劭 かしょう 236-301 遊仙詩 贈張華 雑 詩









    



 西晋 265年 - 316年  

裴秀 はいしゅう 224-271 禹貢地域圖      
裴 秀は、中国三国時代から西晋の政治家・地理学者。魏・西晋に仕えた。字は季彦。本貫は河東郡聞喜県。祖父は裴茂。父は裴潜。子は裴濬・裴?。叔父は裴輯・裴徽・裴綰。弟は裴耽。妻は郭配の娘。 『三国志』の裴潜の伝に引用された『文章叙録』にまとまった記述があり、『晋書』にも独立した伝がある。 子供の頃から学問を好んだ。?丘倹の推挙で曹爽に採り立てられた。244年、父が亡くなると兄弟に財産を分け与え、父の爵位を継承した上で黄門侍郎となった。249年、曹爽が処刑されると免職になったが、その後は司馬昭に採り立てられ散騎常侍に任命された。
裴秀は曹髦(高貴郷公)とも親しく、曹髦に「儒林丈人」と呼ばれ、学問での子弟関係の仲にあったと言われている。曹髦は司馬望・裴秀・王沈・鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。
諸葛誕の反乱鎮圧には、陳泰や鍾会と共に参謀として参加した。
晋の時代には文官として仕え、晋の礼法や官制の制定に功を挙げ、当時としては非常に精巧な地図である『禹貢地域図』十八篇『地域方丈図』などを作った。また彼が考案した製図法「製図六体」は、製図の際の縮尺・距離・方位などの基本方針を定めたもので、中国の地理学史上に多大な貢献をもたらした。

韋昭 いしょう  ? -273 國語注 毛詩答雜問 辯釈名 漢官典職儀式選
中国三国時代の呉の政治家・儒学者・歴史家。字は弘嗣。揚州丹陽郡雲陽県(江蘇省丹陽市)の人。子は韋隆。
『三国志』「呉書」では韋曜と記載されている。これについて、裴松之は注の中で、晋の司馬昭と諱が同じであることを避けるための(避諱)とするが、清の銭大マは、『三国志』では「昭」の名を持つ人物が多数見られ、「薛綜伝」の中には、韋曜と連名で周昭なる人物が挙げられている箇所があることから、元々「韋曜」という名も持っていたのであろうと推測する。
孫亮が即位すると、諸葛恪の推薦を受け太史令となり、華覈や薛瑩らと共に『呉書』の編纂を担当した。孫休には盛沖と共に侍講への就任を望まれたが、政治を専断していた側近の張布に阻止された。
孫皓の代には当初は寵愛を受け、高陵亭侯・侍中・左国史に採り立てられた。
しかし、よく正論を吐き、孫皓の意に沿わぬ言動が重なったため、次第に冷遇されるようになった。『呉書』において孫皓の父孫和の本紀を立てるよう命じられた際、太子で終わった孫和には伝を立てるべきと回答し、これを拒否したことがその一例である。
憂いと病気を理由に辞任を要望したものの、孫皓は医者と薬を送り任務を続行させた。
鳳凰2年(273年)に投獄された。韋昭は『官職訓』・『辯釈名』を献上し赦免を請い、華覈も「韋昭は『呉書』を完成させるためになくてはならない人材だから」と述べて何度も助命嘆願をしたが、結局処刑された。家族は零陵に配流された。
年齢について、華覈が上記の嘆願文中で「年七十になり」と述べていることから、享年は70以上と推定される。
著作には『毛詩答雜問』・『孝経解讃』・『辯釈名』・『呉書』・『洞紀』・『漢官典職儀式選用』・『国語注』がある。『国語注』は現存し、春秋外伝『国語』の注として重要な書物である。

傳玄 ふげん 217-278 和班氏詩一首 玉臺:12篇 傳子 短歌行

太子少傳箴 明月篇 雜詩 雜言 呉楚歌 車遥遥篇
 中国三国時代から晋にかけての人物。魏・西晋の政治家・文学者・学者。字は休奕。本貫は涼州北地郡霊州県(現在の寧夏回族自治区呉忠市利通区)。祖父は傅燮。父は傅幹。子は傅咸。
若くして父を失い困窮していたが、博学で文章と音楽に長じていた。人柄は剛直で、他人の過失を見逃すことができなかった。州の秀才に挙げられて郎中になり、当時の評判によって著作の官に推挙され、『魏書』の編纂を担当した。その後、司馬昭の参軍(幕僚)となり、さらに温県令・弘農太守・典農校尉などを歴任し、いずれの官でも職務に適い、上書して多くの政治の不備を矯正した。265年、司馬炎が晋王となると、傅玄は散騎常侍に任じられ、爵位を子爵に引き上げられた上で、さらに?馬都尉を加えられた。
同年、司馬炎が即位すると諫官となった。傅玄は上奏して朝廷の綱紀粛正を訴え、司馬炎に賞賛された。まもなく侍中に遷ったが、同僚と諍いを起こしたことを有司に報告されて免官となった。268年、御史中丞に任じられ、269年には太僕になった。当時、水害や辺境の異民族の侵入などが相次ぎ、傅玄はこれに対して上書して意見を述べた。それらのすべてが実行されたわけではなかったが、いつもお褒めの言葉を受けたという。その後、司隷校尉に転じた。
278年、献皇后羊氏が弘訓宮で死去し、葬礼が行われた。旧来の制度では、端門(宮城の正門)の外における司隷校尉の席次は諸卿の上で、しかも別席であるのが決まりであったが、謁者は弘訓宮を宮殿内と見なし、その決まりに従って傅玄を諸卿の下座に置いた。傅玄はこの処置に激怒し、謁者や尚書以下の官を面罵したため、御史中丞の?純の上奏によって免官とされた。まもなく無官のまま死去した。享年62。諡は剛。後に清泉侯を追封された。
傅玄は非常にせっかちな性格で、弾劾の上奏をする際は、日が暮れて翌日回しにされると、正装のまま徹夜して夜明けを待つことがあった。貴族たちは彼を恐れ、これにより朝廷の風紀が改まったという。
『晋書』本伝によると、傅玄は「文集百余巻」の他、『傅子』120巻などの著述を残したが、現存するものはその一部に過ぎない。『三国志』の裴松之注などに残る『傅子』は、傅玄が司馬昭の側近であったことから、曹爽ら反司馬氏の人士を非難する傾向が強い。『傅子』詩歌では楽府の詩が多く、女性の感情を詠んだ作品や宮廷の雅楽の歌詞を手がけている点に特色がある。
『宋書』「楽志」によると、傅玄は西晋の鼓吹曲(軍歌)も作詞した。全22編あり、表題と内容は以下の通りになっている。内容の性質上、国威発揚のために誇張や荒唐無稽な記述、逆に都合の悪い事柄の無視が目立つ。また建国史を謳った前半と違い、後半は過去の鼓吹曲の転用が多い。
社会問題や男女の愛情について詠った樂府体の詩に長ずる。《文選》に一篇、《玉臺新詠》が十二篇の詩を収め、《晉書》巻十七に傳がある。

皇甫諡 こうほじ 215-282 帝王世紀


『史記索隠』では皇甫謐の本名が「誕」であったとしていることから。皇甫謐の解説する。皇甫諡曰(9. 由字仲、陽城槐里人也。堯?舜皆師而學事焉。後隱於沛澤之中、堯乃致天下而讓焉。 由為人據義履方、邪席不坐、邪舊不食、聞堯讓而去。其友?父聞由為堯所讓、以爲?. 己、乃臨池洗耳。池主怒曰、何以?我水

山濤 さんとう 205-283 山濤集

〔七賢〕 
山 濤(さん とう、205年(建安10年) - 283年3月3日(太康4年1月18日))は、後漢末年の三国時代の魏および西晋の文人。字は巨源。司隸河内郡懐県(現在の河南省焦作市武陟県)の人。祖父は山本。父は山曜。子は山該・山淳・山允・山謨・山簡。張春華は従母(父の従姉妹)であり、司馬師・司馬昭・司馬?らの又従兄弟である。唐末の山行章は山濤の後裔と称した。
幼少時に父を亡くしたため、貧窮した生活を送った。老荘思想に耽って?康・阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、?康を朝廷に推薦した時に「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突き付けられた。しかし、?康の刑死の際には息子の行く末を託された事からみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。
曹爽の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿のクーデターで粛清されると再び出仕した。
264年、又従兄弟の司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、?の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹氏一族を?に軟禁していた。山濤は司馬氏の親戚としてその監視を任された。
西晋代になって、吏部尚書・太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。?紹を推挙したり、諸葛京を東宮舎人に推挙したりしている。同年に逝去すると康と諡された。

杜預 とよ 222-284 破竹の勢い


杜 預(と よ、222年 - 284年)は、中国三国時代から西晋時代の政治家・武将・学者。魏・西晋に仕えた。字は元凱。諡は成。慣用的には「どよ」とも読まれてきた。京兆尹杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区)の人。祖父は杜畿。父は杜恕。子は杜錫・杜躋・杜耽・杜尹など。妻は高陸公主(司馬懿の娘)。
傅玄の『傅子』によると、その遠祖は『史記』酷吏列伝で“酷吏”と評された前漢の御史大夫の杜周である。その子で父と同じ御史大夫を務めた杜延年は、父や弟と共に南陽郡の杜衍県(現在の河南省南陽市)から茂陵(現在の陝西省興平市)に移住した。後に杜延年が更に杜陵(現在の陝西省西安市)に移住したため、子孫は代々ここに居住することになった。唐代の詩聖杜甫は彼の子孫に当たる。
杜預は博学で物事に通暁し、興廃の明に長けており、常に「徳は企及を以てすべからず、功を立て言を立つが庶幾(ちか)きなり」と言っていた。祖父が魏の尚書僕射、父が幽州刺史という名門であったが、父は岳父の司馬懿と折り合いが悪く、終には幽死させられた。このため、杜預も長い間不遇をかこっていた。後に義兄の司馬昭が司馬家の当主となると、その妹婿であった杜預は尚書郎となり、父祖の爵位である豊楽亭侯に就いた。

尚書郎に在ること四年にして、参相府軍事に転任する。263年の蜀漢攻略の時は、鎮西長史として従軍した。鍾会がクーデターを起こしたとき、同僚たちは軒並み罰せられたが、杜預は計画に与しなかったのを証明したため処罰を免れた。またケ艾を尊敬していたため、ケ艾を殺した衛?・田続らを厳しく非難している。
賈充らとともに律令の制定に与り、杜預が注解することとなった時、杜預は次のように奏上した。「法とは、墨縄で筋目をつけるが如き存在であって、理を窮め性を尽くす類の書ではありません。ですから、本文は要約され判例は正しく、また省略は許されても単純化は禁ずるのです。判例が解り易く、且つ見易すければ、人々の知るところとなり、罪を犯すのを避けるでしょう。単純化されず犯し難いとすれば、刑罰を執行する回数は減るでしょう。刑の基は簡潔かつ廉直なことにあるのですから、道徳上の立場を明らかにしなければなりません。古の刑法は、鐘鼎に銘せられ金石に刻まれ(明文化することで)濫用を防ぎました。この法を用いる者は、最善の判例とともに裁判の趣旨を明らかにし、墨縄の真直さで在らしめなくてはなりません。」
泰始年間(265年 - 275年)、官吏の貶降と昇進について下問を受けると、次のように述べた。「上古聖代であれば、功績は本人が黙っていても広く詳しく伝わったようです。しかし、今は違います。遠方のことについて、詳しく知ることはできません。人々は心を疑う代わりに耳目を信じ、耳目を疑う代わりに文書を信じます。文書はいよいよ多く、それに従って官による偽造もますます増えます。法令は煩雑になり、文章が飾り立てられるばかりです。優劣を挙げるとすれば、各々監査する官を設けるに越したことはありません。毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、最も優の多い者は抜擢し、劣ばかりならクビにするのです。優が多めで劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多めで優が少ないものは左遷します。」この上奏を遺憾とした司隷校尉の石鑒は、杜預の職を免じた。
その頃、異民族が隴右に来襲し、杜預は安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を授けられた。安西将軍となった石鑒は、敵の勢いが盛んであるのに、杜預へ出撃を命じた。杜預は、相手が勢いに乗じており装備も固く、対して官軍の装備は乏しいことから、春まで進軍を待たなければ十中八九勝算はないと言った。石鑒は激怒して「杜預は恣に城門や官舎を飾りつけている」と上奏したため、杜預は檻車に収監の上で護送されてしまった。杜預の処遇について議は長引いたが、杜預夫人が武帝の叔母であることから、爵位で罪を贖うということで決着が付いた。その後、隴右の情勢は杜預の言葉通りとなり、朝廷では杜預が戦略に明るいと評判になった。
やがて匈奴の劉猛が叛き、并州以西や河東郡・平陽県に威を及ぼすと、杜預は度支尚書に任命されて支援対策に当たった。彼は新兵器を開発させる一方、常平倉の設置や穀物の一定買取、塩の定期輸送で農政を安定させ、その上で税制を整えた。これによって、内外五十余条の地域を救済した。ところが、石鑒の論功行賞が不誠実であるのを糾弾したことから激しい口論となり、杜預と石鑒の両名とも免職され、散侯(爵位はあるが官職がない貴族)となった。
数年後、杜預は再び度支尚書を拝命した。この頃の孟津は渡航が難しく、しばしば船舶の転覆事故が起きた。杜預は上奏して、富平津へ橋を架けることを請うた。朝議では「殷や周の都において、歴代の聖人賢者は橋を作らなかった」との理由で、橋を造る必要はないとした。しかし、杜預は「『舟を造りて橋と為す』とあるでしょう。これはつまり、舟橋を作ったということです」と反論し、架橋に扱ぎ付けた。橋が完成すると、武帝をはじめ百僚が式典に立会い、武帝は「あなたがいなければ、この橋は建てられなかったな」と称えた。杜預は「陛下のご明断がなければ、私は微力も施すことはできませんでした」と答え、帝の面目を保った。咸寧四年(278年)秋、長雨と蝗害が起こると、『晋書』食貨志に農要が多く記載されていることを提言している。このように、杜預の政策は的確で無駄がないことから、朝野は賞賛して「杜武庫」と呼んだ。
咸寧四年(278年)冬、羊?に代わって荊州に赴任した杜預は、呉を討伐する旨を上奏して許された。翌太康元年、杜預率いる晋軍は大挙して呉を攻め、ついにこれを滅ぼす(#呉征討の過程にて詳述)。
凱旋後、杜預はその功績によって当陽県侯に昇格し、食邑は9600戸に及んだ。杜預は「私の家は、代々、官吏の家です。武功は功績になりません」と辞退しようとしたが、許されなかった。その後も江夏・漢口の経営にあたり、住民に大変慕われて「杜父」と呼ばれ、江南では「後世、杜翁に由って叛くこと無かれ。孰れも智名と勇功を識る」と謳われた。
杜預は後世に名を残すことを願っており、常に「高岸を谷と為し、深谷を陵と為さん」と言っていた。そして、自分の勲績を刻んだ碑を二つ造らせ、一つは万山の下へ沈め、もう一つを?山の上に立てた。一方、大功を立てた身として、気をつけなければならなかった。彼がしばしば洛中の貴族要人を饗応するので、人が理由を問うたとき、杜預は「彼らの恨みをかって危害を加えられないためだ」と答えたという。
その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去した。武帝によって、征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、「成」と諡された。『晋書』杜預伝は、その人となりを約して「交わりを結び物を接するに、恭にして礼有り。問うに隠す所無く、人を晦するに倦まず。事において敏にして、言において慎たり」と伝える。

『左氏伝』の研究

杜預は種々の経典を広く修め、特に『春秋』の左氏伝を好んだ。彼は、馬の目利きに優れた王済と蓄財を好んだ和?を評して「済に馬癖有り、?に銭癖有り」と言っていたが、武帝から「そなたには何癖があるのだ」と尋ねられ、「臣には左伝癖有り」と答えたとの逸話が残る。

『春秋』の三伝のうち、『春秋左氏伝』は充分に著者左丘明の考えを究めておらず、また『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』は詭弁によって解釈を混乱させていると考えた。そこで『春秋』の微言を交錯させながら『春秋経伝集解』を書き著した。また、諸家の説を参酌考察し、それを『釈例』と名づけた。そして、『盟会図』と『春秋長暦』を書き、独自の学問を作り上げた。

『春秋』の注釈で、君主を弑した(殺した)実行犯の名前が記録されていない場合は君主が悪く、実行犯が記されていれば実行犯である家臣が悪いという説を唱えた。臣下が悪くない事例では、実行犯の名前を記録しなかったという解釈である。また、無道の君主は殺害してもよいということでもあり、渡邉義浩は、司馬昭の曹髦殺害を正当化するための学説だったと推測している[1]。

なお、彼の字「元凱」とは、『春秋左氏伝』文公十八年の条にある??の八人の王子(八元)と帝?の八人の王子(八凱)に由来する。

李密 りみつ 224-287 陳情表 《述理論》十篇 華陽國志
李密(224年-287年)は,字を令伯という,一名として虔ともいう,武陽(今四川彭山)の人である。幼年の時父を喪し,母何氏は改めて嫁す。由に成人になるまで祖母に撫養される。後、李密は以對祖母孝敬甚篤而名揚于?裏。著名な學者である?周に師事する,博覽五經,尤精《春秋左傳》。初め蜀漢に仕え、尚書郎と為す。蜀漢が亡して,晉の武帝に召され、太子洗馬と為す,李密以祖母年老多病、無人供養而力辭。祖母去世後,方出任太子洗馬,遷漢中太守。後免官,卒于家中。
著有《述理論》十篇,不傳世。《陳情表》其生平見載《華陽國志》、《晉書》。
中文名稱:李密   出生地:?為武陽(今四川彭山)    出生逝世日期: 224年―287年   民族:漢族   國籍:蜀漢→西晉
甚好學,師事?周,博覽五經,尤精《春秋左氏傳》,以文學見長,其代表作品有《陳情表》等。

荀メ じゅんそう ? -294






劉怜 りゅうれい 211-300 酒徳頌 戒酒 [巾軍]衣と為す    〔七賢〕
 劉伶(りゅうれい、221? 〜 300?年)は、竹林の七賢の一人。字は伯倫。三国時代の魏および西晋の文人。沛國(江蘇省銅山県の西北)の人。反礼教的で自由奔放な思想を持ち、建威将軍の参軍をつとめたこともあるが、無作為の教化を説いて辞職し、酒びたりの気ままな一生を送った。いつも酒徳利をぶら下げ、鋤を肩にした従僕を従え、「死ねばその場で埋めよ」と言っていたという。著書に『酒徳頌』がある。
世説新語・容止篇に曰く、《劉伶は身長が六尺(140cm)どまりで、容貌はひどく醜くやつれていたが、ゆうゆうとして一切に無頓着であり、肉体を土木のようにみなしていた》また、任誕篇に曰く、《劉伶は二日酔いで咽喉がひどく渇いたので、妻に酒を求めた。妻は酒をすて、酒器を壊し、泣きながらいった。「貴方は余りにも飲みすぎです。養生の道から外れています。どうぞきっぱり酒を断ってください」劉怜は言った。「たいへん結構だ。だが、わしは自分の力では禁酒できないから、ひたすら神に祈り、誓いを立てて断つより他はない。すぐ酒と肉とを調えてくれ」妻はこたえた。「かしこまりました」神前に酒肉を供え、劉伶に願をかけるように促した。劉怜は跪いて祝詞をあげた。「天は劉伶を生みたまい、酒を以って名をなさしむ。一度飲めば一斛、五斗ならば悪酔いざまし。婦人の言は、心してきくべからず」その後すぐ酒を引き寄せ肉を食い、陶然としてすっかり酔っ払ってしまった。》さらに、《劉怜はいつも酒に酔っ払って奔放な振舞いをした。時には衣服を脱ぎ裸になって家の中にいた。ある人がこれを見て誹ると、劉怜は言った。「わしは天地をば家とし、家屋をばわが衣、わが褌と心得ている。諸君はなぜわしの褌の中にはいりこんでくるのだ」》
 『酒徳頌』: 酒徳は酒の功徳、頌は韻文の一種で褒め称える言葉すなわち賛歌である。大人先生という架空の人物に託した作者劉伶の自画像であり、老荘哲学の表白でもある。わが国の大伴旅人の「讃酒歌」などは、この作品の影響を受けたものといわれる。
著書に『酒徳頌』がある。

張華 ちょうか 247-300 博物志


張華(232年−300年),字茂先,范陽方城(今河北固安縣)人。西晉文學家、詩人、政治家。《情詩》5首,描寫夫婦離別思念的心情。還編纂有《博物志》。《隋書・經籍志》?《張華集》10卷,已佚。明代張溥在《漢魏六朝百三家集》收有《張茂先集》。《博物志》有今人范寧校本10卷。
張 華(ちょう か、?音: Zh?ng Hua、232年 - 300年)は、三国時代魏から西晋にかけての政治家。字は茂先。范陽郡方城県(現在の河北省廊坊市固安県)の人。妻は劉放の娘。西晋を代表する名臣であり、八王の乱で疲弊する国家を支えた。前漢の文成侯張良の八世孫にあたる[1]。『晋書』に伝がある。
張華は人材を好み、どんな時でも推薦する事を怠る事は無かった。張華の下に訪問して来た者に対しては、たとえ貧窮・下賤の身分であっても、良い才能を持っていればそれを称賛し、その人が正しい地位に出世できるよう力添えをしてやった。陳寿(後に『三国志』を著述)は 蜀漢滅亡後に不遇をかこっていたが張華によって孝廉に推挙された。文学者の左思は寒門の出身であった事から評価は得られていなかったが、張華がその才能を絶賛すると名声は一気に知れ渡り、洛陽では競って著書の『三都賦』が書き写されるようになった。呉の名将・陸抗の遺児である陸機と陸雲の兄弟も、敵将ながら見事な才能を持つ人物として張華から武帝へ推薦された。他にも、のちに遼西に割拠して前燕の実質的な創始者となる慕容?、涼州に割拠して前涼の実質的な創始者となる張軌、荊州を統括して建国初期の東晋を支える陶侃、前趙の将として秦隴の大乱を平定して大司徒・録尚書事に昇った游子遠など、次世代の俊英たちも若い頃に張華に評価された逸話を各々『晋書』もしくは『十六国春秋』の伝に持つ。

また、張華は書籍をこよなく愛し、死去した際には家に余財は無かったが、机や本箱から溢れる程の書物を持っていたという。かつて引っ越しをする際には、書物を30台の車に載せた程であったという。天下の奇書で世の中にめったにないものでも張華は所蔵しており、その為に秘書監摯虞は官書を撰定する際、全て張華の書籍から校定したという。こうしたことから、張華が博物・治聞である事において、当世で並ぶものは誰一人としていなかった。

文学の才にも優れ、『博物誌』10篇を著書として残しており、現存している。「鷦鷯賦」や女性の心境をうたう詩(五言詩)が知られている。また、隋書・経籍志によると張華集10巻があった事が分かっているが、当時既に散逸していたという。張華(232年−300年),字茂先,范陽方城(今河北固安縣)人。西晉文學家、詩人、政治家。《情詩》5首,描寫夫婦離別思念的心情。還編纂有《博物志》。《隋書・經籍志》?《張華集》10卷,已佚。明代張溥在《漢魏六朝百三家集》收有《張茂先集》。《博物志》有今人范寧校本10卷。
張 華(ちょう か、?音: Zh?ng Hua、232年 - 300年)は、三国時代魏から西晋にかけての政治家。字は茂先。范陽郡方城県(現在の河北省廊坊市固安県)の人。妻は劉放の娘。西晋を代表する名臣であり、八王の乱で疲弊する国家を支えた。前漢の文成侯張良の八世孫にあたる[1]。『晋書』に伝がある。
張華は人材を好み、どんな時でも推薦する事を怠る事は無かった。張華の下に訪問して来た者に対しては、たとえ貧窮・下賤の身分であっても、良い才能を持っていればそれを称賛し、その人が正しい地位に出世できるよう力添えをしてやった。陳寿(後に『三国志』を著述)は 蜀漢滅亡後に不遇をかこっていたが張華によって孝廉に推挙された。文学者の左思は寒門の出身であった事から評価は得られていなかったが、張華がその才能を絶賛すると名声は一気に知れ渡り、洛陽では競って著書の『三都賦』が書き写されるようになった。呉の名将・陸抗の遺児である陸機と陸雲の兄弟も、敵将ながら見事な才能を持つ人物として張華から武帝へ推薦された。他にも、のちに遼西に割拠して前燕の実質的な創始者となる慕容?、涼州に割拠して前涼の実質的な創始者となる張軌、荊州を統括して建国初期の東晋を支える陶侃、前趙の将として秦隴の大乱を平定して大司徒・録尚書事に昇った游子遠など、次世代の俊英たちも若い頃に張華に評価された逸話を各々『晋書』もしくは『十六国春秋』の伝に持つ。

また、張華は書籍をこよなく愛し、死去した際には家に余財は無かったが、机や本箱から溢れる程の書物を持っていたという。かつて引っ越しをする際には、書物を30台の車に載せた程であったという。天下の奇書で世の中にめったにないものでも張華は所蔵しており、その為に秘書監摯虞は官書を撰定する際、全て張華の書籍から校定したという。こうしたことから、張華が博物・治聞である事において、当世で並ぶものは誰一人としていなかった。

文学の才にも優れ、『博物誌』10篇を著書として残しており、現存している。「鷦鷯賦」や女性の心境をうたう詩(五言詩)が知られている。また、隋書・経籍志によると張華集10巻があった事が分かっているが、当時既に散逸していたという。

程暁 ていぎょう 生没年不詳 嘲熱客 贈傅休奕

程 暁(てい ぎょう、生没年不詳)は、中国の三国時代の魏の政治家。字は季明(きめい)。祖父は程c。叔父は程武。
文帝の時代に程延と共に領地を与えられて諸侯となる。曹芳の時代に黄門侍郎に任命され、当時校事が勝手気儘に振る舞うのを上奏
して校事を廃止させた。後に汝南郡太守に任命されるが、40歳余りで死去した。気骨のある人物だったらしく、この時代にあって珍しい「嘲
熱客」のよような人物評価の詩を詠っている。
『程暁別伝』によると文章を多く書いたが失われた物が多く、現在ではほとんど残っていないという。

潘岳 はんがく 247-300 西征賦 愁興賦

西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並ん
で西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称さ
れるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。『世説新
語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会っ
た女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけ
ると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになってい
たという。
潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死
を悼む哀傷の詩文を得意とした。愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩
は以降の詩人に大きな影響を与えた。
祖父は安平太守の潘瑾。伯父は後漢の献帝が魏の曹操(太祖
武帝)に魏公と九錫を与えたときに、「冊魏公九錫文」を草した人
物として知られる潘勗である。父は琅邪内史の潘?。
12歳の時に西晋の外戚である楊氏出身の楊肇に才能を認めら
れ、後年には楊氏の女を妻に娶る。
楊氏没落後も、楊氏のライバルであった賈氏の賈謐に才能を惜し
まれ、「賈謐二十四友」として引き立てられた。しかし、この時石崇
とともに賈謐に追従する様はいささか過度であり、「後塵を拝す」の
故事を生んだ。
新たに後ろ盾となった賈氏も、司馬倫のクーデターの際に一族皆
殺しにされた。司馬倫の側近の孫秀は、かつて潘岳の家の召使い
をしていたことがあり、潘岳に虐待されたことを恨んでいた。潘岳は
その後、司馬允がクーデターを起こし失敗した際に、孫秀の讒言で
共謀していたと見なされ、友人の石崇などと共に処刑された。
<文選・賦>
射雉賦
夏侯常侍誄并序
馬?督誄并序
哀永逝文
秋興賦并序
閑居賦
懷舊賦并序
寡婦賦并序
懷舊賦并序
寡婦賦并序
笙賦



<文選・詩>
金谷集作詩
悼亡詩三首
河陽縣作二首
在懷縣作二首
楊荊州誄并序
楊仲武誄并序
夏侯常侍誄并序
馬?督誄并序


<玉臺新詠>
内顧詩二首
巻二-35其一靜居懐所歡
巻二-36其二獨悲安所慕
巻二-悼亡詩二首 又
巻二-37其一荏苒冬春謝
巻二-38其二皎皎窓中月



束ル そくせき 262-300 補亡詩六首


束皙(264〜303)字广微,西晋文学家、文献学家,?平元城
(今河北大名?)人。束皙,祖姓踈,因避??居沙鹿山南,去踈
字足旁,改姓?束。以博学多?、善?文辞而知名。少?游国学,
作《玄居?》,???而奇之,召?掾,升著作佐郎,撰《晋?・
帝?》,??博士。

昔の資料を解読した故事のこと。
「束皙」は中国の晋の時代の人の名前。
「竹簡」は竹に文字を記したもので、紙が発明される前に使われて
いたもの。
古代の王の墓から掘り出され、誰にも読むことのできなかった文字
を束皙が解読したという故事のこと。
太康二年(281年),汲取人不准盗?魏襄王墓(或言安釐王墓),得竹?数10?,皆?科斗文,?魏国史?。因盗墓者??照明,多??断札,文既残缺,不??次,武帝命他和荀?等人校??目整理,他“随疑分?”,皆有??。有《?年》13篇,《国?》3篇,《??》11篇,《穆天子?》5篇,《?春》1篇,《公?段》2篇,《易?》2篇,《大?》2篇,《国?》1篇,《??》19篇等凡75篇。其中7篇??折坏,不能辨?名?。??篇中所言之事,均加注?。由此,汲冢?由他和荀??次后,方?后世所知。事?,?尚?郎。?王??相国,???室,以疾辞不就,??教授?徒,年40而卒。其作品文?幽默,???所??。撰有《五?通?》、《七代通?》、《晋??志》、《三魏人士?》、《?蒙?》等,皆散佚。明人?有《束广微集》。

張翰(張季鷹) ちょうか 生没年不詳 雜詩


張翰(ちょう かん、生没年不詳)は、中国の晋代の文人。字は季鷹。本貫は呉郡呉県。
呉の大鴻臚の張儼の子として生まれた。文章を得意とし、任官にこだわらなかったため、当時の人に「江東の歩兵(歩兵校尉だった阮籍のこと)」と称された。賀循に同行して洛陽に入り、斉王司馬冏に召し出されて大司馬東曹掾となった。秋風が立つのを見て、故郷である呉の菰(まもこ)の料理・蓴(ジュンサイ)の吸い物・鱸魚の膾のことを思い出し、「人生は心に満足を得られるのが大切なのだ。どうして数千里の異郷で官につながれて、名利や爵位を求められようか」と言い、故郷への思いを述べた「首丘の賦」(本文は現存せず)を書くと、官を捨てて故郷に帰った。まもなく司馬冏が敗れたため、人々はみな張翰が時機を見ていたと思った。
57歳で死去。生前に書かれた文筆数十篇は当時に通行した。
賀循が任官を受けるため洛陽に向かった。その途中、呉の?門に入ると、船中で琴を弾いていた。張翰は賀循と面識がなかったが、琴の音を聞きつけて語り合い、お互いを知り合って喜んだ。賀循が洛陽に行くというので、自分も用事があると嘘をついて、家人に告げずに同船して出発した。
ある人が「きみは好き勝手に振る舞っているが、死後の名のことは考えないのか」と、張翰に訊ねた。かれは「わたしに死後の名あらしめるのは、いまこのときの一杯の酒に及ばない」と答えた。
張翰は同郷の顧栄と仲が良く、たびたび語り合った。
顧栄が亡くなって葬儀がおこなわれると、張翰は慟哭して感きわまったあまり、霊前の台上にあった顧栄遺愛の琴を取って数曲かき鳴らした。弾き終わると「顧彦先、これを褒めてくださるか」と言ってまた慟哭し、喪主に挨拶もせずに退出した(『晋書』顧栄伝)。
母が死去すると、礼の規定を超えて自らの体を損ねるほどひどく悲しんだ。

策靖 さくせい 239 - 303 索子 出師頌 月儀帖 草書状
西晋の政治家。字は幼安。敦煌の人。張芝の姉の孫。草書をよくし、衛?と並び称され、特に章草に優れた。その書法は韋誕から出た。書跡には『月儀帖』や『出師頌』(すいししょう)などがある

陸機 りくき 261-303 豪士賦 歎逝賦

永安4年(261年)-太安2年(303年))
は、呉・西晋の文学者・政治家・武将。
字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)
の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三
国志演義の登場人物としても有名な陸
遜・陸抗。本籍は呉郡呉(今の江蘇省
蘇州市)。ただし家は呉の都であった建
業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖
父の封地であった華亭(雲間とも。現在
の上海市松江区)等にあったようであ
る。七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘
のように響きわたったという。儒学の教養
を身につけ、礼に外れることは行なわな
かった。同じく著名な弟の陸雲と合わせ
て「二陸」とも呼ばれる。文弱で親しみ
やすい弟に比して、陸機は郷党から畏
れられていたが、洛陽に出て西晋に仕え
てからは、兄弟ともに呉出身の人士のリ
ーダー的存在であった。西晋のみなら
ず、六朝時代を代表する文学者の一
人であり、同時代に活躍した潘岳と共
に、「潘陸」と並び称されている。特に
「文賦(文の賦)」は、中国文学理論の
代表的著作として名高い。また書家とし
ては、彼の「平復帖」(北京故宮博物
院所蔵)が現存する最古の有名書家に
よる真跡とされる。

七尺もの身の丈を持ち、その声は鐘の
ように響きわたったという。幼い頃より並
外れた才能があり、特に文学の才能は
当世随一であったという。また、儒学の
教養を身につけ、礼に外れる行為はしな
かったという。

同じく著名な弟の陸雲と合わせて「二
陸」とも呼ばれ、文弱で親しみ易い弟に
比べて、陸機は郷党から畏れられていた
が、洛陽に出て西晋に仕えてからは、兄
弟ともに呉出身の人士のリーダー的存
在であった。

西晋のみならず、六朝時代を代表する
文学者の一人であり、同時代に活躍し
た潘岳と共に「潘陸」と並び称され、さら
に同郡出身で同時期に入朝した顧栄
(呉の丞相顧雍の孫)と弟の陸雲と共に
「洛陽三俊」と呼び敬われた。特に「文
賦(文の賦)」は、中国文学理論の代
表的著作として名高い。

また、書家としての作品「平復帖」(北
京故宮博物院所蔵)は、現存する最古
の有名書家による真跡とされる。






<古詩源>十首


・短歌行


/隴西行


/猛虎行


/塘上行


/擬明月何皎皎


/擬明月皎夜光


/招隠詩


/贈馮文羆


/爲顧彦先贈婦


/赴洛道中作

陸機(陸子衡) 《文選》に収納された詩文
ID
ジャンル 詩題 備考
1
哀傷 巻十六 歎逝賦并序
2
論文 巻十七 文賦并序
3
公讌 巻二十 皇太子讌玄圃宣猷堂有令賦詩
4
 〃  〃 大將軍讌會被命作詩
5
贈答二 巻二五 答賈長淵并序
6
 〃  〃 於承明作與士龍  〃
7
 〃  〃 贈尚書郎顧?先二首  〃
9
 〃  〃 贈顧交阯公真  〃
10
 〃  〃 贈從兄車騎  〃
11
 〃  〃 答張士然  〃
12
 〃  〃 為顧?先贈婦二首  〃
14
 〃  〃 贈馮文羆  〃
15
 〃  〃 贈弟士龍  〃
16
 行旅  巻二六 赴洛二首  〃
18
 〃  〃 赴洛道中作二首  〃
20
 〃  〃 ?王郎中時從梁陳作  〃

 〃  〃 樂府十七首  〃
21
 〃  〃  猛虎行  〃
22
 〃  〃  君子行  〃
23
 〃  〃  從軍行  〃
24
 〃  〃  豫章行  〃
25
 〃  〃  苦寒行  〃
26
 〃  〃  飲馬長城窟行  〃
27
 〃  〃  門有車馬客行  〃
28
 〃  〃  君子有所思行  〃
29
 〃  〃  齊謳行  〃
30
 〃  〃  長安有狹邪行  〃
31
 〃  〃  長歌行  〃
32
 〃  〃  悲哉行  〃
33
 〃  〃  ?趨行  〃
34
 〃  〃  短歌行  〃
35
 〃  〃 日出東南隅行  〃
36
 〃  〃 前緩聲歌  〃
37
 〃  〃 塘上行  〃
38
 〃  〃 挽歌詩三首  〃
41
 〃  〃 園葵詩  〃

 〃  〃 <擬古詩十二首>  〃
42
 〃  〃 1.   擬行行重行行  〃
43
 〃  〃 2.   擬今日良宴會  〃
44
 〃  〃 3.   擬迢迢牽牛星  〃
45
 〃  〃 4.   擬?江采芙蓉  〃
46
 〃  〃 5.   擬青青河畔草  〃
47
 〃  〃 6.   擬明月何皎皎  〃
48
 〃  〃 7.   擬蘭若生朝陽  〃
49
 〃  〃 8.   擬青青陵上柏  〃
50
 〃  〃 9.   擬東城一何高  〃
51
 〃  〃 10.  擬西北有高樓  〃
52
 〃  〃 11.  擬庭中有奇樹  〃
53
 〃  〃 12.  擬明月皎夜光  〃

陸雲 りくうん 262-303 西征賦 登臺賦

陸雲(りく うん、262年-303年)は、呉・西晋時代の中国の政治家・文学者である。字は士龍。祖父・父がそれぞれ呉の重臣陸遜・陸抗で、陸機の弟である。兄機と共に「ニ陸」と称されるほどの西晋時代きっての文学者であった。6歳で文を能くし生涯に著した文章は349編に及んだという。16歳で呉に出官するも3年後に呉が晋に降服すると、兄と共に郷里に蟄居してしまう。以後10年間は学問に励む生活を送ったのち、兄陸機と共に上洛、晋に出仕する。
温和な性格で、出身地の呉方言をからかわれその度にいきまく負けん気な陸機をなだめている。晋皇族の司馬晏の郎中令、尚書郎、侍御史、太子中舎人、中書侍郎、清河内史などを歴任した。その後八王の乱に巻き込まれ、陸機共々成都王・司馬穎に殺された。
《詩文集》
『陸士龍集』 (10巻) 。/ 大将軍讌會被命作詩/ 爲顧彦先贈婦二首/ 答兄機/ 答張士然

王戎 おうじゅう 234-305 三都賦 此必苦李
〔七賢〕
王 戎は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏・晋に仕えた。字は濬沖。徐州琅邪郡臨沂県の人。祖父は王雄。父は王渾。叔父は王乂。従弟は王衍。子は王万・王興・娘。『晋書』に伝がある。 竹林の七賢の1人であり、『世説新語』に数々の逸話がある。
幼い時の神童振りは、曹叡(明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問に訪れたが、王戎は付け届けの類を全て受け取らず、名声を高めた。
王戎の体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼に拘ることはなかった。話し好きで知られ、酒を嗜みながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐に赴く鍾会に相談を持ちかけられた際、道家の言葉を引きながら語った発言は、鍾会の命運を見通したものであったため、識者に評価された。
父の爵位を継いだ後は、司馬昭の招聘を受けて魏・晋で官職を歴任した。司馬昭の死後、司馬炎から吏部黄門・散騎常侍・河東太守・荊州刺史と順番に任じられたが、荊州刺史の時に役人を私的な用事に使ったため、免職となりそうになった。しかし罰金で済まされた。泰始8年(272年)、呉の歩闡が帰順して来た際、軍法違反のため羊?から斬られそうになった。この時も王戎は助かったが、同じく羊?に批判された王衍と共に、羊?の悪口を言い散らした。世人は王氏の威風を憚って、羊コには徳が無いと噂するようになった。
その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。咸寧5年(279年)からの呉侵攻(呉の滅亡 (三国))では、武昌(現在の鄂州市)に侵攻して王濬と共に呉を滅亡に追い込む功績を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人々に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いをかけられた。武帝(司馬炎)はそれを庇っている。
『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで昇ったとしている。光禄大夫・吏部尚書まで官職が昇ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、父に対して親孝行であったため、瞬く間にやつれていった。その様子は劉毅に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は、王戎に薬を与え医者に係らせた。
武帝の没後、外戚の楊駿が実権を握ると太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公の司馬?が勝手な振る舞いをしたため、これを諌めた。王戎は光禄大夫・中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。しかし王戎がそれでも地位を保てたのは、外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。
元康7年(297年)、官位はついに三公である司徒まで昇った。しかし永康元年(300年)、娘婿の裴?に連座し免職となった。その後も、朝廷の要職へ就いたにも関わらず八王の乱の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかった。またそれ故に殺害されることもなかった。
永興2年(305年)没した。子の王万が若死し、王興も庶子であり後継できなかったため、縁戚の者に後を継がせた。

若い頃から文才に優れ、荀寓(荀ケの孫)や杜黙らと親交があった。また光禄大夫の時に、ケ艾の孫のケ千秋を武帝に推挙し、ケ艾の名誉回復にも尽力した。さらに旧呉の石偉という人物を採り立てている。
『世説新語』では幼い時に神童であったが、長じて吝嗇家(ケチな人物)として知られるようになったとされ、相反するような方面での逸話が残されている。例えば「庭の李を売っていたが、李は発芽しないよう種に穴を開けて売られていた」・「甥が結婚する際に着物を用意したが、後で代金を請求した」・「娘が裴?のところへ嫁入りした時、銭数万を贈った。その後、彼女が里帰りしても王戎が不機嫌なので、慌てて銭金を返すと急に笑顔を見せた」等の話がある。実際には、道を究めようとしたが、竹林のメンバーが数人殺されたため、韜晦術の一つとして、吝嗇家になったと思われている。

阮咸 げんかん 不詳 (210〜263) 詠懐詩

〔七賢〕
阮 咸(げん かん、生没年不詳)は、竹林の七賢の一人。字は仲容。三国時代の魏および西晋の文人。陳留郡尉氏県の人。
また、伝説によりこの人が伝えたとされる4弦のリュート属撥弦楽器もその名を冠して「阮咸」と呼ばれる。
魏の武都太守阮熙の子であり、歩兵校尉阮籍の従子に当たる。阮瞻・阮孚の父である。竹林の七賢中では、存命中の事跡が非常に少なく、『世説新語』『晋書』及び唐宋代の類書中に見えるのみである。
その年齢は王戎に比較してやや年長であり、竹林の七賢中で二番目に年少である。若くして叔父の阮籍と共に飲酒宴遊した。散騎侍郎に任じられたが、西晋の時代、山濤が阮咸を吏部郎に推挙した時、武帝(司馬炎)は、その虚浮の談を尊び、飲酒の度が過ぎることを理由に用いなかった。
阮咸は、その人となりが放誕で、礼法に拘らず、当時の儒士に誹謗された。
また、琵琶を善くし、音律に精通していた。そこから、阮咸が亀茲伝来の琵琶を改造した、という説が生まれ、後世にはまた、その琵琶を阮咸と呼んだ。略称は阮。
後に、荀勗に憎まれて、始平太守に出されたので、後人は彼を阮始平と称した。後に長寿によって没した。

向秀 こうしゅう 不詳 (227〜272) 思旧賦 難?叔夜 養生論 〔七賢〕
向 秀(しょう しゅう、生没年未詳)は、竹林の七賢の一人。字は子期。三国時代の魏および西晋の文人。河内郡懐県の人。『晋書』に伝があるほか、『世説新語』「言語篇」注と『太平御覧』巻四〇九に『向秀別伝』なる伝記の逸文が残る。
ケイ康・呂安と親交が深く、ケイ康とともに鍛冶仕事をしたり、呂安とともに野良仕事をしたりするなど富貴を求めず悠々自適の生活を送っていた。ケイ康や呂安は俗習にとらわれずほしいままの態度をとっていたのに対し、向秀は読書を好んだため、二人は向秀をあざ笑っていた。
老荘の道を好み、『荘子』の注釈を作ろうとした。すると?康は「この本にどうしてこれ以上注釈など必要とするだろうか。まさに読む人が楽しみをなすのを邪魔するのみである。」と反対したが、注釈が完成すると世に絶賛され「これを読む者は超然として心に悟り、一時のうちに自ら満足しない者はいなかった」と言われた。呂安は「荘周は死せず。」と賞賛した。
また、『周易』の注を作ったが、こちらは「大義は見るべきものがあるが、『荘子』の注が絶倫であるのには及ばない」といまいちの評判であった。
景元4年に親友の呂安と?康が「官職にもつかず、世間を馬鹿にしておごり高ぶっているような人間は、無用な人間である」というかどで処刑されると、一転して郡の招聘に応じて上計吏となって都に登った。司馬昭がその変節を笑って「君には隠者の志があると聞いていたが、なぜここにいるのかな?」と尋ねると「隠者は気難しいだけで聖王の心に及びません。敬慕するに足りましょうか。」と答えた。その後、散騎侍郎・黄門侍郎・散騎常侍などを歴任し、在職中に死去した。
文学作品に『思旧賦』がある。これは、ある寒い日の夕暮れに昔の住まいを通り過ぎた際、どこからともなく笛の音が聞こえてきたため、?康・呂安と過ごした旧事を思い出し、感傷に堪えず作ったという。

張協 ちょうきょう ? - 307 現存僅13首 詠史詩 遊仙詩1首 雜詩11首
安平郡武邑の出身。字は景陽。夙に俊才として知られ、兄の張載・弟の張亢とは“三張”と並称され、詩名は陸機・潘岳と並称された。秘書郎・中書侍郎を経て河間内史まで進んだが、権臣とは親しまず、八王の乱を避けて隠棲し、叙任を拒んで在野のまま天寿を全うした。
 西晋を代表する詩人として、『詩品』では阮籍・左思・陸機・潘岳と共に上品に位し、その評には「王粲の風あり。潘岳より雄にして左思より靡」とある。『苦雨』が代表作とされる。
《文選》   詠史詩 / 雜詩十首  /  七命八首
《漢魏六朝百三家集?張景陽集》,張協的詩作現存僅13首。詠史詩1首、遊仙詩1首、雜詩11首。他的雜詩似非一時地之作,而多數採用由描繪景象,進而抒情述志的手法。
張協與其兄張載,其弟張亢都以文學著稱,時稱「三張」。?一?「三張」指張華與張載、張協二人。鍾エ《詩品》將他的詩列為上品,稱其:「晉?門郎張協,其源出於王粲,文體華淨,少病累,又巧構形似之言。」其中「巧構形似之言」指其善於?寫景物與景象,使之維妙維肖,此為太康詩人的新手法,後來影響了謝靈運的山水詩。

左思
さし 250-305 招隠詩 嬌女詩 三都賦 齊都賦
詠懐詩


中国西晋の文学者。臨(りんし)(山東省)の人。字(あざな)は太沖(たいちゅう)。構想10年で書きあげた「三都賦」の人気が洛陽の紙価を高めた故事で知られる。詩では詠史詩にすぐれる。
史書によると、左思は寒門の出身の上、容貌は醜くどもりであったが、学問に励み文章に巧みであったという。

妹の左?が西晋の武帝司馬炎の後宮に入ったので、首都の洛陽に家を移した。魏呉蜀三国の首都を題材にした「三都賦」の執筆を思い立ち、10年の歳月をかけてこれを完成させた。完成当初は世人の批判を浴びたが、当時の文壇の大御所である張華にこれを見せると、張華は班固の「両都賦」や張衡の「二京賦」に匹敵する傑作だと激賞し、無名の左思に名士の手を借りることを勧めた。左思が名士の皇甫謐に序文を書いてもらうと、「三都賦」の名声は大いに高まり、以前批判した者たちも手のひらを返して褒め称えたという[2]。人々が争って「三都賦」を筆写したため、洛陽城内の紙の値段が高騰したという逸話は、後に「洛陽の紙価を高からしむ」の故事となった。左思と同時代の文学者である陸機も、同じく「三都賦」の制作を構想していた。陸機は洛陽に上京すると左思の噂を聞いたが、弟の陸雲に手紙で「田舎者の『三都賦』が出来上がったら、酒瓶の覆いにするのがよかろう」といって、まるで相手にしていなかった。しかし完成した左思の賦を見るや、その出来映えに脱帽し、自身の制作を断念したという。

後に権臣の賈謐の招きに応じ『漢書』を講じた。300年、八王の乱で賈謐が趙王司馬倫に誅殺されると、官職を辞して隠棲し、典籍に没頭した。
303年、河間王司馬?の将軍張方が洛陽で暴虐の限りを尽くすと、左思は家をあげて冀州に避難し、数年後に病没した。
『隋書』経籍志によると、文集2巻(梁代には5巻、目録1巻)が存在していたとあるが散逸した。現存する文学作品としては、上述の「三都賦」のほか、寒門出身として当時の貴族社会への批判を込めた「詠史詩」や「招隠詩」、自分の娘の様子を描いたユニークな内容の「嬌女詩」が代表作とされる。鍾エの『詩品』では最上位の上品に列せられ、劉驍フ力強い詩風を受け継ぎ、諷諭の精神を体得すると評されている。
<文選>
三都賦序 / 蜀都賦 / 呉都賦 / 魏都賦 / 詠史八首  /  招隱詩二首 / 雜詩
<玉臺新詠>
嬌女詩一首

左貴嬪 さきひん 不詳(?〜300) 花瓶
左思の妹(左芬)
  名は芬。字は蘭芝。斉国臨?の人。左思の妹にあたる。泰始八年(272)、選ばれて後宮に入り、修儀となった。のちに貴嬪に進んだ。生まれつき体が弱く、療養のため薄室で暮らした。容姿が醜く、寵愛を受けなかったが、文才にすぐれていた。詔を受けて「離思賦」を作り、楊皇后や万年公主のために賦・頌を作った。

張載 ちょうさい 280〜289 七哀詩 活躍 贈司隸傅 鹹詩
  張載,字孟陽。河北安平人,西晉文學家。?仕曾任佐著作郎、著作郎、記室督、中書侍郎等職。西晉末年八王之亂,託病辭官而終。
張載與其弟張協、張亢都以文學著稱,時稱「三張」。?一?「三張」指張華與張載、張協二人。西晉太康初年,張載到四川看望父親,途中經過劍閣,著《劍閣銘》,先寫劍閣形勢的險要,然後引用史料議論國之存亡是在於コ而不在於險的道理,因此被明人張溥譽為「文章典則」(《張孟陽景陽集題辭》),晉武帝曾派人鐫刻《劍閣銘》於石。
張載今存詩10餘首,包括《七哀詩》2首,此外還有幾篇賦、頌和銘文。其中《濛賦》當時曾受到傅玄的推崇,是張載的成名作。張溥曾把張載和張協兄弟的作品合輯為《張孟陽景陽集》,收在《漢魏六朝百三家集》中。

孫楚 そんそ 不詳 - 293年 寄暢散懐 征西官属 劍閣銘 瓜賦
孫 楚(そん そ、 生年不詳 - 293年)は、中国・三国時代および西晋の政治家、武将。字は子荊。并州太原郡中都県の人。祖父は孫資、父は孫宏(南郡太守)。子に孫衆、孫洵(恂とも)、孫纂。孫に孫盛(洵の子)、孫統・孫綽(纂の子)など。曾孫に孫騰・孫登(統の子)『晋書』に伝がある。
祖父の孫資は魏の重臣である。父の孫宏は同じく魏に仕えて南郡太守になったという。
若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周囲の評判はよくなかった。ただし、同郷の王済とは親しかった。王済は大中正[1]に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」と推薦している。あるとき、孫楚は自分の妻のために王済が衣服を贈ってくれたことに感動し、王済のために詩を作って返答とした。王済は孫楚の詩を賞賛した。
40歳を過ぎてようやく魏に仕え、揚州の対呉の最前線を守る鎮東将軍の石苞の参軍事となる。あるとき、魏の実権を握る司馬昭は呉へ降伏の使者を遣わしたことがあったが、このとき石苞の命令で呉への降伏勧告状を作成した。
西晋が成立すると引き続き仕え、著作郎になった後、驃騎将軍に出世していた石苞の参軍として再び揚州の対呉の最前線に赴いた。孫楚は自身の才能を鼻にかけ、石苞を見下すような態度をとるようになったので、石苞も反発し、孫楚が呉の人間と同調して晋を批判していると弾劾するなど、両者は数年に亘り対立し、司馬炎(武帝)もその仲裁に気苦労したという。呉の丁奉の策略もあって、石苞は洛陽に召還された。また、同郷の郭奕とも対立していたとされる。
その後、征西将軍になっていた旧知の扶風王司馬駿に招かれ、その参軍となった。その後、梁の令となり、衛将軍の司馬に転任した。
あるとき、龍が武庫の井戸の中に現れたという報告があった。群臣達はそれが瑞祥と信じてそろって敬賀したが、孫楚は井戸の中の龍[2]は、英才が用いられていないという意味だと解釈し、奸臣を遠ざけるよう諫言した。
恵帝の初年に馮翊太守となり、元康3年(293年)に死去した。

漱石枕流
『晋書』、『世説新語』俳調編などに、若き日の孫楚の逸話が伝わっている。

孫子荊(孫楚)がまだ仕官する前、王武子(王済)に対して隠遁したいと思い「石を枕にして、川の流れで(口を)漱ぎたい(枕石漱流、そのような自然の中での暮らしの意味)」と言おうとしたところ、うっかり「石で漱ぎ、流れを枕にしたい(漱石枕流)」と言い間違えてしまった。すかさず王武子に「流れを枕にできるか、石で口を漱げるか」と突っ込まれると、孫子荊は「枕を流れにしたいというのは、汚れた俗事から耳を洗いたいからで、石で漱ぐというのは、汚れた歯を磨こうと思ったからだよ」と言い訳し、王武子はこの切り返しを見事と思った。感心する意味で「流石」と呼ぶのは、この故事が元という説があるという。
孫楚の言い訳は、かつて隠者の許由が、帝位を譲ろうとした堯の申し出を断った後、「汚らわしいことを聞いた」と耳を漱いだ故事を踏まえたものといわれている。
また、日本の明治時代の小説家、夏目金之助の号である漱石は、孫楚の故事に由来する。

同じく『世説新語』によると、孫楚は他人に頭を下げることのできない人物だったが、ただ王済には敬服していた。王済に先立たれると、葬儀には遅れて現れたが、棺にすがって慟哭する様に、参列者はみな涙を流した。孫楚は「生前君は私の驢馬の鳴きまねがうまいのをほめておられたから、今生の別れに一つやってみよう」と言い、鳴きまねをしてみせると、それが本物そっくりだったので、参列者達は笑った。孫楚は参列者をにらみつけ、「このような立派な人が先だって、おまえたちのような奴らが生き残るとは」と言ったという

司馬懿 しばい ? -306 讌飲詩


後漢末期から三国時代曹魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。字は仲達(ちゅうたつ)。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。
司馬懿の現存する詩は、『晋書』に収録された「讌飲詩」一首のみである。

天地開闢 日月重光


遭遇際会 畢力遐方


将掃逋穢 還過故郷


粛清万里 総斉八荒


告成帰老 待罪舞陽


王衍 おうえん 256-311



王 衍(おう えん、256年 - 311年4月)は、中国西晋の政治家・武将。字は夷甫。本貫は琅邪郡臨沂県。父は平北将軍王乂。子は王玄。族弟に王敦と王導。従兄に竹林の七賢で有名な王戎、弟に王澄と王?がいる。
魏晋の時代、何晏と阮籍は老荘思想を信奉して「天地万物は無が本にあり、無こそ万物を生み出し、陰陽もまた無より生まれ、賢者は無により徳を成すのだ。無とは最も貴い境地にある」と唱えた。これが清談の基本思想となり、この考えは次第に流行するようになった。王衍は特に彼らを評価しており、自ら清談の第一人者となった。王衍の清談は見事で、えもいわれぬ品の良さや名句を吐いて相手をやりこめ、人をみな心服させたので「口中の雌黄」(雌黄とは硫黄と砒素を混ぜた土絵具で、当時の黄色の紙に書いた文字に誤りがあれば雌黄で塗り消したため)と評されたという。
王衍は才気に溢れて容貌にも優れ、聡明で鋭敏な様はさながら神人のようであったという。また、常に自らを子貢に比肩していた。彼の名声は甚だ振るい、世の人は彼に傾慕した。玄理にも巧みであり、特に「老子」・「荘子」をよく議論した。朝廷高官や在野の士も彼を仰ぎ見るようになり、「一世龍門」と呼び敬われた。しかしながら、彼は派手で勝手気ままに振る舞い、清談のような空論ばかりを好み、政務については俗事とみなして疎かにした。朝廷の士大夫も彼の振る舞いに追従したので、次第に世の気風は衰えていったという。
また、王衍は弟の王澄と共に人物評価をよく行い、人々は王氏の評価を人物を判断する基準としたという。
297年、尚書裴?は当時の風俗が放蕩であり、儒教が尊ばれていないことを深く憂いて『崇有論』を著し、清談による儒教軽視の弊害を広く訴えたが、王衍は全くこれに全く動じず、側近と共に裴?の意見に反論した。ただその一方で、裴?の才覚については高く評価し、尊重していたという。
王衍は後に北軍中候・中領軍・尚書令を歴任した。
石勒は晋の重臣たちを幕下に引き出すと、晋がなぜ凋落したのかを問うた。王衍は進み出て晋朝廷の衰退の原因を詳細に話し、晋滅亡は必然であったと述べ、媚び諂って石勒に帝位に即くよう勧めた。他の群臣はみな斬り殺されたが、王衍は夜中に戸外へ連れ出され、壁を押し倒してその下敷きになって圧殺された。王衍は死の直前に「ああ、我らは古人に及びもつかぬ。もし、虚無の清談にうつつを抜かさず、力を合わせて国家のために尽くしたならばら、今日のような事態に陥りはしなかったであろう」と慟哭したという。享年56であった。

王衍の死からわずか2ヶ月後の6月、漢軍の侵攻により洛陽は陥落して西晋は事実上滅亡した。

潘尼 はんに ? -311



字は正叔。潘岳の弟。太康年間(280〜289)に秀才に挙げられ、太子舎人・尚書郎・著作郎などを歴任した。趙王の簒奪で致仕帰郷したが、斉王が挙兵するとその参軍となり、乱後に安昌公とされた。後に中書令まで進んだが、八王の乱の中ではまったくの無力であり、永嘉の洛陽陥落で郷里に逃げる途中に病死した。潘尼(約250〜約311),西晉文學家。字正叔。?陽中牟(今屬河南)人。潘岳?。少有才,與潘岳?以文章知名。性格恬淡,不喜交遊,專心著述。太康年間,舉秀才。?任尚書郎、著作郎、中書令。永嘉年間任太常卿。洛陽被劉聰攻破之前,潘尼攜家還?,中途病卒。《隋書 經籍志》載 晉太常卿《潘尼集》十卷,今不存。明人張溥輯有《潘太常集》1卷,見《漢魏六朝百三家集》。
《潘太常集》1卷,漢魏六朝百三家集
《文選》 贈河陽  贈侍御史王元?   贈陸機出爲呉王郎中令

郭象 かくしょう ? -311 老子注


郭 象(かく しょう、252年 - 312年)は、中国、西晋期の人物。字は子玄。河南の人。

老荘思想を好み、清談をよくした。王衍は郭象の清談を「懸河の水があふれるがごとく、次から次へ注がれ枯れることがない」と評され、「懸河の弁」の由来ともなった。後に辟召されて司徒掾となり、しばらくして黄門侍郎となった。その後司馬越が招聘して太傅主簿とした。高官となった郭象は一転して権勢を誇示するようになり、かつての清談をしていた頃の清廉さを捨て去ったという。永嘉の末年に没した。

『荘子』に注したことで知られる。何晏・王弼などの玄学を襲い、発展させた思想であるが、彼らの「無を以て本と為す」貴無の論調とは一線を画しており、「独化」「自得」などといった語に象徴されるように道のあるべき流れに従って「おのずと生まれた」有なるものを崇める姿勢を見せた。また、人間の道徳観念は生得的に備わる(「仁義は自ら是れ人の惰性なり」)ものであるとも説いた。

史書の記載するところによれば「郭象は軽薄な人間であり、向秀の『荘子』注が世に知られていないことをいいことに、これに若干の加除を行った上で、自分の著作と偽って『荘子』注を著した」という。これの真偽については古来議論があるが、余嘉錫『世説新語箋疏』では「向秀の注が残っていないのでもはや検証のしようがない」と述べている。

曹リョ(手へんに
慮)
そうりょ 未詳-308 感舊詩、


字は顔遠(曹顔遠そうがんえん)。礁国(安徽省)。孝行の心に厚く、官に就いて仁政があった。惠帝の末年、?城太守となり、後高密王簡の征南司馬に遷り、流人王囿などと戦って殺された。古詩源。

王讃 おうさん 290頃在世 (古)雑詩。


字は正長(王正長おうせいちょう)、義陽(河南省)の人。博学にして俊才、官は散騎侍郎となって卒した。古詩源

郭泰機 かくたいき 239-294 答傅咸


字は不明。カナンの人。家は寒素で、推薦あれど、抜擢を受けなかった。少ない現存の詩も推薦をしてもらえなかった恨みを、比喩によってその情を詠っている。文選、古詩源

  石崇 せきそう 249-300 王明君詞




字は季倫(石季倫)、渤海南皮(河北省) の人。晋に仕えて荊州刺史に進んだ。航海の商客によって巨富を得、洛陽の西北に豪壮な別荘を営み、金谷園と称した。播岳などの文人と共に貿謎に仕えた。また貴族王憧・羊瑛の徒と豪曹な生活を営んだが、後に賈謐が誅せられるに及んで免官となった。
崇には緑珠という莫娘があったが、これを孫秀に与えなかったために怨みを買って、一門皆殺される不幸にあった。詩を善くし「王明君辞」は最も著名である。(文選)

  欧陽建 おうようけん 265-300 臨終詩




字は堅石(欧陽堅石、おうようけんせき)、石崇の甥で、冀州(河北省)の人。才藻は美しくゆたかで、名を九州にほしいままにし、時の諺に、「樹海に赫々たるは、欧陽堅石」という。官に仕え、馮?太守となり、甚だ評判がよかった。時に、趙王倫は権を専らにした。かれは、それを匡正すべく、直々諌めたが、聞き入れられぬので、楚王偉を立てようと考えた。それからは、倫と堅石との間に隙を生じた。堅石は播岳と共に、陰に、推南王允に、倫を誅するように勧めたが、事か洩れ、允は殺され、、堅石も、その母・妻も、皆、倫にとらえられて、斬られた。延が、刑に臨む時作った詩と文は、甚だ哀しくいたましい。(文選)臨終詩

  何劭 かしょう 236-301 遊仙詩 贈張華 雑 詩


字は敬祖(何敬祖、かけいそ)、陳国の陽夏(河南省)の人。武帝とは同年であり、幼い頃からの親交で、即位後はよく用いられ、侍中尚書にまで進んだ。次の惠帝が即位してから、左僕射に遷された。何劭は博学で善く文を作り、近代の事を陳説するに、これを掌に掃すがごとくであった。かれの性が辞書なのは、父の風を受けたものであり、優遊自足、権勢を貪らず、故に、諸王がこもごも争う時、かれはその間に交わり遊び、誰からも怨まれず、害せられなかった。著述には、筍粲や王弼の伝があり、また、奏議などの文章もあって、並びに世に行なわれた。(文選)遊仙詩、贈張華、雑 詩