上代・漢の詩人 |
元謀 |
藍田 | 北京原人 | |
神話伝説 |
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黄河 |
長江文明 三堆 | 長江下流域 | 北方草原 |
夏 前2205〜前1766 (三皇五帝) 夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。夏后ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。従来、伝説とされてきたが、近年、考古学資料の発掘によりその資料の量的変化を待って実在したことが明らかになる。 |
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夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人??の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められた[要出典]。2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという[3][4][5]。 舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は?(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。 禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。 |
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殷 前1020〜前770 殷代(いんだい、?音: Y?n dai)とも。紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)は、古代中国の王朝である。文献には天乙が夏を滅ぼして建立したとされ、考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝である。商(しょう、?音: Sh?ng)、商朝、殷商とも呼ばれる。紀元前11世紀に帝辛の代に周によって滅ぼされた(殷周革命) |
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周 |
西周 前1020〜前770 周(しゅう、?音: Zh?u、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。 |
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東周 前770〜(前221) |
春秋 前770〜(前403) |
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戦国 前403〜前221 |
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周の平王は西方の犬戎に追われ、前七七〇年、洛邑に遷都した。以後を東周ともいう。東周は、春秋時代と戦国時代に分けられる。 春秋時代は下剋上の時代で、周の封建制が崩れ、斉の桓公・宋の襄公・晋の文公・秦の穆公・楚の荘王ら(春秋の五覇)が興亡を繰り返した。魯では孔子が生まれ、中国思想家の祖となった。この時代の戦乱に由来する故事は多く、斉の宰相管仲の「管鮑の交はり」、越王勾践と呉王夫差の「臥薪嘗胆」「会稽の恥」などが有名である。 前四〇三年、晋が韓・魏・趙に分立し、戦国時代となった。戦国の七雄(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)の抗争の時代で、蘇秦は合従策で秦に対抗する六国同盟を結ばせるが、秦に仕える張儀の連衡策で同盟を破られた。「鶏鳴狗盗」の孟嘗君、「完璧」や「刎頸の交はり」の廉頗・藺相如もこの時代の人である。また、この時代は諸子百家の活躍の時代でもあった。 戦国時代は前三二一年、秦の始皇帝の天下統一によって終わった。 |
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秦 前221〜前206 始皇帝は郡県制を採用し、度量衡などの制度・文物を統一、中央集権国家を建設した。また |
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漢 |
前漢 紀元前206年 - 8年 |
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諸子 | |||||||||||
孔子 | 老子 | 荘子 | 墨子 | 孟子 | 荀子 | 韓非子 | 孫子 | 列子 | 楊朱 | ||
百家 | |||||||||||
陰陽家 | 儒家 | 墨家 | 法家 | 名家 | 道家 | 縦横家 | 雑家 | 農家 | 小説家 | 兵家 |
孔子 孟子 |
屈原 宋玉 伯夷 荊軻 楚辞 九歌 屈原 |
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宋玉像 |
戦国七雄 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 |
大夫鐘 | たいふしょう | 前520年ごろ | 祝越王辭 | ||||
呂尚(太公望) | ろしょう(たいこうぼう | 前11世紀ごろ | 六韜 | ||||
管仲 | かんちゅう | 前720-前645 | 管子 | ||||
鮑叔 | ほうしゅく | 管仲と同時代 | |||||
單襄公 | ぜんじょうこう | 前?年 - 前587年 | 国語 | ||||
老子 | ろうし | 前6世紀頃 | |||||
顔回 | がんかい | 483確認 | |||||
仲由(子路) | ちゅうゆう(しろ) | 480確認 | |||||
孔子 | こうし | 前551〜479 | 論語 | 「易・書・詩・春秋」 | |||
列子 | れっし | 前400の前後70年在世 | 列子 | ||||
荘子 | そうし | 前369頃 - 前286頃 | 荘子 | ||||
孟子 | もうし | 前372年 -前289年 | 『孟子』(もうじ) | ||||
墨子 | ぼくし | 前470〜前390頃? | 墨子十大主張 | ||||
荀子 | じゅんし | 前4世紀末 | 荀子 | ||||
楊朱 | よう しゅ | 前370頃? - 前319頃? | 為我説(自愛説) | ||||
屈原 | くつげん | 前340頃〜前278年 | 離騒 | 九歌 | 天問九章 | ||
伯夷 | はくい | 未詳 | 采薇歌 | ||||
宋玉 | そうぎょく | 未詳 | 九弁・楚辞章句 | 高唐賦 | 神女賦 | 対楚王問 | |
韓非子 | かんびし | 前280年? - 前233年 | 韓非子 | ||||
荊軻 | けいか | 未詳-前227 | 易水歌 | ||||
李斯 | りし | 前284年−前208年 | 小篆 | ||||
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | ||
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呂尚 | ろしょう(太公望)(たいこう ぼう) |
前11世紀ごろ | 六韜 | |||||
呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師、後に斉の始祖。 姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている。また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている。 後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、中国には類似するエピソードが多く存在する。 |
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大夫鐘 | たいふしょう | 前520年ごろ | 祝越王辭 | |||||
越王が呉を討って、会稽の恥を雪ぎ、周の元王がから諸侯覇者たることを命ぜられて帰り、祝宴を貼った群集楽を奏じ、大夫鐘が盃を献じて、此の祝詞を述べた。 | |||||||||
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管仲 | かんちゅう | 前720-前645 | 管子 | |||||
鮑叔の推薦により管仲は桓公と面会し、強兵の前に国を富ませることの重要性、そしてそれには民生の安定と規律の徹底が必要だと説き、即日宰相に命じられた。鮑叔は管仲の下の立場に入り、その補佐に回った。管仲は才を存分に発揮できる場所と右腕を得て、その優れた能力を発揮した。 管仲は内政改革に当たり、周代初期以来の古い制度である公田制を廃止し、斉の領土を21郷に分けた。物価安定策、斉の地理を利用した塩・漁業による利益などによって農民・漁民層の生活を安定させた。これらにより民衆は喜んで働き、産業が活性化した。安定した生活は消費を生み、活発な産業は商人を呼び寄せ、商業も活性化した。活発な商業は他国から人を呼び、この中から優れた人材を積極的に登用した。 一方で、五戸を一つの単位としてそれぞれの間で監視の義務を負わせたり、不正に対しては厳罰をもってあたった。これらは高い規律と多くの税収を生んだ。 国内を整備した桓公は魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍曹?は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹?の首を取ってくれよう」と言った。しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。 これらの政策によって増大した国力と信頼を背景に、桓公は覇者への道を歩む。周王室内部の紛争を治め、北上してくる楚を討って周への忠誠を誓わせ、小国を盟下においた。この功績により桓公は、周王室から方伯(周を中心とした四方のうち東を管轄する諸侯の事)に任じられた。 桓公は度々傲慢に傾き、周王朝を蔑ろにしようとするが、管仲はその度毎に諌め、桓公も自らの意に逆らうことであってもその言を受け入れた。曹?の件や燕斉の国境の不利な変更についても、自分では嫌だと思いながらも管仲の言に従った。 後世に管仲の著書とされている『管子』の中の言葉として「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」の言葉がある。まず民生の安定があってこそ政治が行えるという考えだが、管仲が礼節を無視したわけではない。桓公の命令で周王室の内紛を鎮めた時に、喜んだ周の襄王は管仲を賞して上卿にしようとしたが、管仲は「私は陪臣でしかないので、そのような待遇は受けられません」とあくまで固辞した。曹?の一件での意見も同じ理由によるものであった。
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鮑叔 | ほうしゅく | 管仲と同時代 | ||||||
鮑叔は若い頃に管仲と親しく交わっていた。彼は管仲と共に商売を行っていたが、管仲が大損失を出しても商売には時勢があるとして決して咎めず、また、多大な利益を上げても、貧乏な管仲の為にその利益のほとんどを与えていた。鮑叔のこの厚情に管仲は「私を生んだのは父母だが、父母以上に私を知る者は鮑叔である」と大恩を感じていた。この事から後世の人は二人の厚い友情を管鮑の交わりと呼んで大いに称えた。 この後鮑叔は、釐公の子の公子小白に仕えるようになるが、小白の兄の襄公の圧迫を避ける為に、小白と共に?に亡命した。その後、襄公が暗殺されると、斉では後継者争いが起こり、?から戻ってきた小白と公子糾が争ったが、鮑叔の活躍により小白が勝利し斉君となった。 公子糾に味方をした魯から公子糾の臣、管仲と召忽を受け取り桓公に仕えさせようとした。 召忽は公子糾が死んだ事を知り自害するが管仲を仕えさせる事に成功する。 桓公は管仲を宰相として覇者となったが、鮑叔は管仲をよく助けてともに政治にあたった。史記には、人々は桓公を覇者に押し上げた管仲よりも、管仲の力量を見抜き信頼し続けた鮑叔を称えた、とある。 |
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單襄公 | ぜんじょうこう | 前?年 - 前587 | 国語 | |||||
襄公(じょうこう、紀元前?年 - 紀元前587年)は、鄭の第13代君主。穆公の子で霊公の弟。穆公の子として生まれる。 霊公元年(前605年)、霊公が卿の子公(公子宋)と子家(公子帰生)に殺されると、鄭の国人たちは霊公の弟である子良(公子去疾(きょしつ)、七穆のひとつ良氏の祖)を立てようとしたが、子良が断ったため、子良の勧めで子良の兄である公子堅を立てて鄭君(以降は襄公と表記)とした。襄公は即位するなり子公の一族である繆氏(ぼくし)を追放しようとしたが、去疾が反対したので取りやめにした。 襄公元年(前604年)、鄭が敵国である宋の賄賂を受け取って宋の華元を釈放したため、楚が怒って鄭に攻撃してきた。そこで鄭は楚との同盟を破って晋と和親した。 襄公5年(前600年)、ふたたび楚が攻撃してきたが、晋の援けによって防ぐことができた。襄公6年(前599年)、卿の子家が卒去したため、国人たちは彼の一族を鄭から追放した。襄公7年(前598年)、鄭は晋と?陵で盟を結んだ。襄公8年(前597年)、鄭と晋が同盟したことを聞いた楚は鄭に侵攻し、鄭を包囲した。3ヶ月後、鄭は降伏し、ふたたび楚の影響下となった。襄公が楚の荘王に平伏して謝ったため、楚の荘王は鄭を許して軍を引いた。その時、鄭を救うべくやって来た晋が河水(黄河)を渡った。すると、それを聞きつけた楚が戻って来て晋を破った(?の戦い)。襄公10年(前595年)、前回の報復として晋が鄭を攻撃した。 襄公11年(前594年)、解揚という者が鄭を攻撃してきた。鄭は彼を捕えて楚に送ったので、楚から手厚い贈り物をもらった。 襄公18年(前587年)、襄公が薨去し、子の沸(ひ)が立って鄭君(悼公)となった。 中国古代の歴史書。春秋時代の左丘明(さきゅうめい)の著書と伝えられるが、戦国時代中期から後期の儒家の一派が記したものであるとされる。 |
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老子 | ろうし | 前6世紀頃 |
老子道徳經八十一篇 | |||||
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 老子道徳経一章は、全八十一章に一貫して流れる老子の思想を総括する最も重要な章である。 |
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顔回 | がんかい | 483確認 | ||||||
顔 回(がん かい、簡体字: ? 回、?音: Yan hui、紀元前521年 - 紀元前481年)は、孔子(孔丘)の弟子。諱は回、字は子淵(しえん)。ゆえに顔淵(がんえん)ともいう。 魯の人。孔門十哲の一人で、随一の秀才。孔子にその将来を嘱望されたが、孔子に先立って没した。顏回は名誉栄達を求めず、ひたすら孔子の教えを理解し実践することを求めた。その暮らしぶりは極めて質素であったという。このことから老荘思想発生の一源流とみなす説もある。 『論語』には顔回への賛辞がいくつか見られる。たとえば孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)や同門の秀才子貢が、「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べたことが記載されている。顔回は孔子から後継者として見なされていた。それだけに早世した時の孔子の落胆は激しく、孔子は「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆した。孔子の門人のうち才能の突出した70余人の学生の『七十子(しちじっし)』のトップに記されている。 |
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仲由(子路) | ちゅうゆう(しろ) | 480確認 | ||||||
子路(しろ、紀元前543年 - 紀元前481年[1])は、孔門十哲の一人である。姓は仲、名は由であるが、『論語』では字の子路をもってしばしば言及される。季路とも呼ばれる。また、二十四孝の一人に選ばれることもある。魯国出身。孔子門下でも武勇を好み、そのためか性格はいささか軽率なところがある反面、質実剛健たる人物であった。『論語』には、性格の軽率さを孔子にとがめられるも、その人物の率直なるを持って愛された姿が記される(「我とともにするは、それ由なるか」)。弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い。 『史記』「孔子世家」と「衛康叔世家」によれば、衛の高官にとりたてられたも、衛の太子??の反乱を諫めたが、しまいには「太子には勇気がない。この高殿を放火すれば、太子はきっと孔?を放逐されるだろう」と言い放ったために、激怒した??の家臣の石乞と于黶が投げた戈で落命した。死の直前、冠の紐を切られた彼は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結びなおしたという。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」にされた(死体を塩漬けにして、長期間晒しものにする刑罰)。これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあったすべての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたと伝えられる。なお、衛に乱があったことを聞いた段階ですでに、孔子は「由は死ぬだろう」と述べたと伝えられる。 |
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孔子 | こうし | 前551〜前479 | 論語 | 「易・書・詩・春秋」 | ||||
本名は孔丘。字は仲尼。魯の昌平郷陬邑の人。父母は不詳。『史記』によると、父は叔梁?、母は顔氏。魯に仕え、委吏・司職吏を歴任した。南宮敬叔の推薦で周の都に赴き、礼について学んだ。このとき老子と対談したともいう。周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。 3000人の弟子がおり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいた[2]。そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。 孔子の死後、儒家は八派に分かれた。その中で孟軻(孟子)は性善説を唱え、孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張し、荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。 孔子の死後、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。 |
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列子 | れっし | 前400の前後70年在世 | 列子 | |||||
『列子』(れっし)は、中国戦国時代の鄭の圃田(現在の河南省鄭州市中牟県)の哲学者列禦寇の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、列禦寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。 『列子』(れっし)は、中国戦国時代の鄭の圃田(現在の河南省鄭州市中牟県)の哲学者列禦寇の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、列禦寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。列禦寇は、先秦の書物に紀元前400年の前後70年に生存したとあるものの、『史記』にはその伝記はなく、その実在を疑う向きもある。『漢書』芸文志に列禦寇の著として『列子』8巻が見える。 『天瑞』、『黄帝』、『周穆王』、『仲尼』、『湯問』、『力命』、『楊朱』、『説符』の8巻、多くの寓言により、道家的思想を伝える。 | |||||||||
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荘子 | そうし | 前369頃 - 前286頃 |
荘子 | |||||
荘子の思想はあるがままの無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うものである。老子との違いは、前者は政治色が濃い姿勢が多々あるが、荘子は徹頭徹尾にわたり俗世間を離れ無為の世界に遊ぶ姿勢で展開される。 軸となる傾向は徹底的に価値や尺度の相対性を説き、逆説を用い日常生活における有用性などの意味や意義にたいして批判的である。 こうした傾向を、脱俗的な超越性から世俗的な視点の相対性をいうものとみれば、従来踏襲されてきた見方であるが、老荘思想を神秘主義思想の応用展開として読むことになる。他方で、それが荘子の意図であったかはもちろん議論の余地があるが、近年の思想研究の影響を受けつつ、また同時代の論理学派との関連に着目して、特権的な視点を設定しない内在的な相対主義こそが荘子の思想の眼目なのであり、世俗を相対化する絶対を置く思想傾向にも批判的であるという解釈もなされている。 荘子の思想を表す代表的な説話として胡蝶の夢がある。「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」。この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れている。 内篇. 〔一〕逍遙遊篇; 〔二〕齊物論篇; 〔三〕養生主篇; 〔四〕人間世篇; 〔五〕徳充符篇; 〔六〕大宗師篇; 〔七〕應帝王篇 外篇. 駢拇篇; 馬蹄篇; ?篋篇; 在宥篇; 天地篇; 天道篇; 天運篇; 刻意篇; 繕性篇; 秋水篇; 至楽篇; 達生篇; 山木篇; 田子方篇; 知北遊篇. 雑篇. 庚桑楚篇; 徐无 .................. |
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孟子 | もうし | 前372年 -前289年 | ||||||
孟子(もうし、簡体字: 孟子、?音: Mengz?、紀元前372年? - 紀元前289年)は、中国戦国時代の儒学者。姓は姫、氏は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)。亜聖(あせい)とも称される。孟子の「子」は先生という意味。孔子の教えを受け継ぎ儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。 あるいはその言行をまとめた書『孟子』(もうし)。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。 人間は生まれながらにして善であるという思想(性善説)である。 当時、墨家の告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため文王や武王のような明君が現れると民は善を好むようになり、幽王や脂、のような暗君が現れると民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」(告子章句上)と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また、性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。 |
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墨子 | ぼくし | 前470〜前390頃? |
墨子 | |||||
当初は儒学を学ぶも、儒学の仁の思想を差別愛であるとして満足せず、分け隔てなく愛そうという独自の学問を切り開き、墨家集団と呼ばれる学派を築くに至った。 生誕地は魯であると思われる。墨(ぼく)という名前から、墨(すみ)を頻繁に使う工匠、あるいは入れ墨をした囚人であった、などの諸説があるが、詳しいことは全くわかっていない。司馬遷の史記・孟子荀卿列伝における墨子についての記述でも、「蓋し墨子は宋の大夫なり」(恐らく墨子は宋の高官であろう)などと憶測の文章になっている。前漢代から早くも謎多き人物であったようである。かなりの学があったと思われ、卑しい身分の出身では無かった可能性が高い。当時は、学問をするにも書物を読むにも相応の家柄でなければ出来なかったからである。 『墨子』(53篇現存)は墨子本人やその弟子の思想を記した書物。大部分は墨子本人による記述ではなく、その弟子によって編まれたとみられる。一部が散逸しており、元の姿は無い。近年の先秦時代由来の出土文献と比べることで、墨家集団消滅(後述)以来、清代末までほとんど編集の手が加えられてこなかった事が伺える。 |
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荀子 | じゅんし | 前313年? -前238年以降 | 荀子 | |||||
紀元前4世紀末ごろに、趙に生まれる。『史記』によると、50歳で初めて斉に遊学した。 斉の襄王に仕え、斉が諸国から集めた学者たち(稷下の学士)の祭酒(学長職)に任ぜられる。後に、讒言のため斉を去り、楚の宰相春申君に用いられて、蘭陵の令となり、任を辞した後もその地に滞まった。後漢の荀ケ・荀攸はその末裔と言う。 正しい礼を身に着けることを徹底した「性悪説」で知られる。 『荀子』32篇は以下の構成である。 1. 勧学、2. 修身、3. 不苟、4. 栄辱、5. 非相、6. 非十二子、7. 仲尼、8. 儒效、9. 王制、10. 富国、11. 王覇、12. 君道、13. 臣道、14. 致士、15. 議兵、16. 彊国、17. 天論、18. 正論、19. 礼論、20. 楽論、21. 解蔽、22. 正名、23. 性悪、24. 君子、25. 成相、26. 賦、27. 大略、28. 宥坐、29. 子道、30. 法行、31. 哀公、32. 堯問 |
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楊朱 | よう しゅ | 前370頃? - 前319頃? |
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楊 朱(よう しゅ、生没年未詳、紀元前370年頃? - 紀元前319年頃?)は、中国戦国時代の思想家。個人主義的な思想である為我説(自愛説)を主張した。字は子居。 人間の欲望を肯定し、自己満足が自然に従うものであるとした。儒家、墨家に対抗し、異端として孟子などから排撃される。著書は伝わらず、「列子(楊朱篇)」、「荘子」などに学説が断片的であるが記載される。 哲学史の研究においては、西洋で同時代に快楽主義を提唱したエピクロスと比較される。 |
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屈原 | くつげん | 前340頃〜前278年 | 離騒 | 九歌 | 天問 | 九章 | ||
中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じた。 楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚の外交方針について、臣下は二分していた:一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)である。屈原は親斉派の筆頭であった。当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚から嫉妬されて讒言を受け、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。 屈原は秦は信用ならないと必死で説いたが、受け入れられない。屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した(張儀の項を参照)。丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられた。 秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めたが懐王は親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌いぬいた子蘭が着任したため、更に追われて江南へ左遷された。その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。屈原の強烈な愛国の情から出た詩は楚の詩を集めた『楚辞』の中で代表とされ、その中でも代表作とされる『離騒』は後世の愛国の士から愛された。 楚辭目次 楚辭 卷一と楚辭章句 巻一 楚辭 巻二と楚辭章句 巻二 楚辭 巻三と楚辭章句 巻三 楚辭 巻四と楚辭章句 巻四 |
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伯夷 | はくい | 未詳 | 采薇歌 | |||||
伯夷・叔斉 孤竹国の王子。伯夷は父の意を察して弟の叔斉に譲位して出奔した。民衆の存在を無視した行為はあったが、孔子・孟子・司馬遷らからは至徳の賢人として絶賛された。伯夷が長男、叔斉は三男である。父の亜微から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男の仲馮を王に立てた。 流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな! 正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。 戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食む事を恥として周の国から離れ、首陽山(中国語版)に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。死に臨んで、下の詩を残したとされる。
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宋玉 | そうぎょく | 未詳 | 九弁・楚辞章句 | 高唐賦 | 神女賦 | 対楚王問 | ||
戦国時代末の文学者。楚の大夫で,屈原の門下であったといわれるが確かではない。賦の作者で,屈原に次ぐ者として「屈宋」と並称される。『楚辞』に収められる『九弁』『招魂』や,『文選 (もんぜん) 』に収められる『風賦』『高唐賦』『神女賦』『好色賦』『対楚王問』などが残っているが,これも多くは後人の作といわれる。確かに彼の作とされる『九弁』は不遇の士をいたむ憂愁と,俗世間への不平反発をその内容とする。特に旅人の別れの心情を凋落する秋景に託した冒頭の句は有名で,「宋玉悲秋」という言葉まで生み,後世の文学に大きな影響を与えた。 | |||||||||
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韓非子 | かんびし | 前280年? - 前233年 |
全五十五篇、十余万言 | |||||
『韓非子』(かんぴし)は、中国戦国時代の法家である韓非の著書。内容は春秋戦国時代の思想・社会の集大成と分析とも言えるものである。 後世では、蜀漢の丞相の諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓非子を献上している。 荀子の性悪説や天人の分、「後王」思想を韓非が受け継いでおり、韓非思想で決定的役割をもっているといい、その思想上の繋がりは明らかだとしている。したがって内山は荀子の弟子であるという説を積極的に支持している。なお「後王」とは「先王」に対応する言葉で、ここでは内山俊彦の解釈に従って「後世の王」という意味であるとする。一般に儒教は周の政治を理想とするから、「先王」の道を重んじ自然と復古主義的な思想傾向になる。これに対し、荀子は「後王」すなわち後世の王も「先王」の政治を継承し尊重すべきであるが、時代の変化とともに政治の形態も変わるということを論じて、ただ「先王」の道を実践するのではなく、「後王」には後世にふさわしい政治行動があるという考え方である。 |
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荊軻 | けいか | 未詳-前227 | 易水歌 | |||||
戦国時代の刺客。衛の人。燕(えん)の太子丹の命で、秦の亡命将軍樊於期(はんおき)の首と燕の地図を携えて秦の都咸陽に赴き、秦始皇帝の暗殺をはかったが失敗して殺された。 司馬遷は「刺客列伝」の最後で、夏無且と付き合いのあった公孫弘や董仲舒からこの事件の話を聞いたと述べ、荊軻は暗殺は成功しなかったものの、その意思と志の高さにより名を残したのだ、と評価している。またかつて双六のことで騒動となった魯句践が、秦王暗殺事件の話を聞き「彼が刺剣の術を修めていなかったのは、なんとも惜しいことだ。そして、そのような人物を叱り飛ばすとは私も人を見る目が無かった。さぞや私を憎んでいただろう」と嘆いたエピソードも記している。また詩人の陶淵明は「詠荊軻」という詩の中で「すでに荊軻は死んだがその思いは残っている」とうたっている。 一方で、北宋の司馬光は、「荊軻は太子丹の私的に養われた立場から、(自分の)親族を顧みず、一尺八寸程度の匕首で燕を強くし秦を弱めようとした。なんと愚かなことだ」と述べ、さらに揚雄の「君子の道からすれば、荊軻は盗賊の輩にすぎない」などの評価を引用し、彼の行為を批判している |
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李斯 | りし | 前284年−前208年 | 小篆 | 諫逐客書 | ||||
秦代の宰相。字は通古。子は李由(中国語版)ら。法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて、趙高によって処刑された。李斯は役所の便所に住むネズミを見た。便所のネズミは常に人や犬におびえ、汚物を食らっている。また彼は、兵糧庫のネズミを見た。兵糧庫のネズミは粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。彼は「人の才不才などネズミと同じで、場所が全てだ」と嘆息した。そして儒家の荀子の門を叩いた。同門に韓の公子・韓非がおり、共に荀子から学び、秦に入って呂不韋の食客となる。呂不韋からその才能を絶賛され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕え、その近侍になった。秦の統一後、丞相の王綰、御史大夫の馮劫ら重臣は始皇帝に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。また、政治に無用の批判を行う学者達の著書を集めて焚書を行うように進言した。 | |||||||||
百家 |
顔略 | 主な人物 |
陰陽家 | 六家の一つに数えられる思想集団である。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類 に分類されると言う陰陽思想を説いた。代表的な思想家として?衍(すうえん、(鄒衍と表 記する場合もある)や、公孫発などが挙げられる。後、戦国時代末期に五行思想と一体 となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。 |
・鄒衍 ・公孫発 |
儒家 | 学問的側面から儒学、思想的側面からは名教・礼教ともいう。大成者の孔子から、孔 教・孔子教とも呼ぶ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。儒教の経典は 『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)である。漢の武帝の時、賢良文 学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策し た。霊帝の時、諸儒を集めて五経の文字を校訂、太学の門外に石経を立てた。このとき 作られた熹平石経は183年(光和6年)に完成し、『易経』『儀礼』『尚書』『春秋』『公 羊』『魯詩』『論語』の七経からなった。 |
<徳行>:・顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、 言語に宰我・子貢 <政事>:・冉有・子路 <文学>:・子游・子夏 『孝経』の曾参(曾子) 『中庸』の子思 |
墨家 | 博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各 地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして 生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨テキ(墨子)がいる。戦国時代に儒家と 並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。 |
・墨子 ・鉅子 ・孟勝 ・田襄子 |
法家 | 法家とは儒家の述べる徳治のような信賞の基準が為政者の恣意であるような統治ではな く、厳格な法という定まった基準によって国家を治めるべしという立場である。秦の孝公に 仕えた商鞅や韓の王族の韓非がよく知られている。商鞅は戦国の七雄に数えられた秦に 仕え、郡県制に見られるような法家思想に立脚した中央集権的な統治体制を整え、秦 の大国化に貢献した。韓非は性悪説に基いた信賞必罰の徹底と法と術(いわば臣下のコ ントロール術)と用いた国家運営(法術思想)を説いた。また、韓非は矛盾や守株待兔と いった説話を用いて儒家を批判したことでも知られている。中国統一を果たした始皇帝 も、宰相として李斯を登用して法家思想による統治を実施した。 |
・管仲 ・子産 ・呉起 ・商鞅 ・申不害 ・慎到 ・韓非 ・李斯 |
名家 | 人間には五感を経由しない超越的認識能力が存在しない以上、自己が獲得した知覚が いかなる位相に属するかを精密に弁別し、位相を異にする認識の混同を避けていく以外 に、残された道はないと訴える。 十四篇あったうち、現在手にすることのできるテキストは六篇しかない。残っている六篇は [跡府篇][指物論][堅白論][白馬論][通変論][名実論]。 |
・公孫竜 ・恵施 ・ケ析、・尹文子 ・公孫竜子、・成公生 ・恵子(恵施)、・黄公 ・毛公 |
道家 | 道家の大家である老子と荘子を合わせて「老荘思想」と呼ぶ。道家の中心思想としてとり わけ魏晋南北朝時代に取りあげられた。老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道 は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にある物として使われる場合もある。 「道」には様々な解釈があり、道家の名は「道」に基づく。。特に魏晋南北朝時代において は政争が激しくなり、高級官僚が身を保つのは非常に困難であった。このため、積極的に 政治に関わることを基本とする儒教よりも、世俗から身を引くことで保身を図る老荘思想 が広く高級官僚(貴族)層に受け入れられた。 『老子』『荘子』『周易』は三玄と呼ばれ、これをもとにした学問は玄学と呼ばれた。玄学は 魏の王弼・何晏、西晋の郭象らが創始した。老荘思想に基づいて哲学的問答を交わす 清談が南朝の貴族の間で流行した。清談は魏の正始の音に始まり、西晋から東晋の竹 林の七賢(?康、阮籍、山濤、向秀、劉伶、阮咸、王戎)が有名である。 |
・老子 ・荘子 |
縦横家 | 巧みな弁舌と奇抜な発想で諸侯を説き伏せ、あわよくば自らが高い地位に昇ろうとする、 そのような行為を弁舌によって行う者が縦横家である。合従策を唱えた蘇秦と連衡策を唱 えた張儀が有名。蘇秦はその弁舌によって同時に六国の宰相を兼ねたとされている。「縦 横家」という言葉も彼らの策の名前に由来する。合従は諸国が連合し秦に対抗する政策 のことで、これは、秦以外の国が秦の東に南北に並んでいること(「縦」=「従」)による。連 衡は秦と同盟し生き残りを図る政策のことで、秦とそれ以外の国が手を組んだ場合、それ らが東西に並ぶことを「横」=「衡」といったことによる。 諸子百家といわれるものにはほかにも各国を説いて回ったものはいるが、それらの多くがそ れぞれの思想に基づく理想を実現するためであったのに対して、いわゆる縦横家にはそのよ うなものはなく、ただそれぞれの国において喜ばれるような政治手法を論じるのが常であっ た。たとえば蘇秦は合従を燕の文公に説いて六国をまとめ、十五年にわたって秦の東進を 止めたが、伝説によると燕を訪れる前に彼は秦に向かっており、そこでは彼は東進して覇を 唱える方法を論じた。彼が秦で認められなかったのは全く秦の都合だけであったという。 |
蘇秦 張儀 鬼谷子 蘇代 陳軫 -「蛇足」の故事で知られる。 公孫衍 ?煖 |
雑家 | 伝統的な四部分類の子部のひとつでもある。儒家、道家、法家、墨家など諸家の説を 取捨、総合、参酌した(百科全書的)学派である。雑家の代表的著作には秦代の呂不 韋『呂氏春秋』と前漢の 劉安『淮南子』があるが、いずれもひとりで書いたものではなく、 多数の学者を集めて著したものである。『呂氏春秋』が儒家の思想を基本に置いて諸家 を折衷しているのに対し[1]、『淮南子』では根幹を道家に置いている[2]。また、道家のうち で『老子』と『荘子』を並称していることも特徴的である。『淮南子』の故事成語から象徴 的なものを引用するのであれば、「鹿を追う者は山を見ず」(一事に熱中すると他の事を 考える余裕がなくなること、利欲に迷うと道理がわからなくなること)の語が、端的に雑家の 思考(大局観の為の思想)成立を表したものといえる。 |
呂不韋 劉安 『呂氏春秋』 『淮南子』 |
農家 | 軍略と政略を説く。兵家の代表的な理論には「孫子の兵法」がある。孫子の兵法は13の 篇からなる書物で今でも各国で研究されている歴史的な理論である。それらは「始計篇」 「作戦篇」「謀攻篇」「軍形篇」「勢篇」「虚実篇」「軍争篇」「九変篇」「行軍篇」「地形 篇」「九地変」「火攻篇」「用間篇」と呼ばれる。 「始計篇」 孫子の兵法の第1章のはじめは「孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の地、 察せざるべからざるなり。」という文から始まる。これは戦争は国にとって深刻な問題であり、 人民の死生や国家の存亡をかけた一大事であることをしっかりと認識すべきと主張し、好 んで行うべきではなく、成り行きで行うべきではないことを暗示している。 下記の5つの要素について彼我の戦争遂行能力を比較してから開戦の決断をするように 主張する。 道(君主と国民の信頼関係) 天(開戦の正当性、自己防衛のための大義名分等の外交的優位性) 地(主戦場での営陣、兵站の優位性) 将(将帥の力) 法(信賞必罰、尚賢の徹底度) これら5つの要素に鑑みて表面的な数によらない本質的な戦力を割り出し、まずは自国が 優位であるかどうかの確認をするよう始計篇では主張している。 |
・孫武(『孫子』、武経七書 ・孫擯(『孫擯兵法』。 ・呉起(『呉子』四十八篇) ・商鞅(『公孫鞅』二十七篇 ・范蠡(『范蠡』二篇) ・文種(『大夫種』二篇) ・ホウ煖(『ホウ煖』三篇) ・李左車(『広武君』一篇) ・韓信(『韓信』三篇) |
前206年 :鴻門の会 |
咸陽占領に関して項羽と劉邦の咸陽城外講和会議。懐王はかって咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していた。咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じた。交戦直前、張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となる。途中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊?・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になった。 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 |
漢 〔前漢〕紀元前206年 - 8年 | |||||||
高帝(劉邦) | かんこうそ | 前247―前195 | 大風歌 | 鴻鵠歌 | |||
項羽 | こうう | 前232-前202 | 垓下歌 | ||||
唐山夫人 | とうざんふじん | 前206頃 |
在世安世房中歌 | ||||
虞美人 | ぐびじん | ||||||
朱虚侯章 | しゅきょこうしょう | 前200−前177 | 耕田歌 | 紫芝歌 | |||
賈誼 | かぎ | 前201−前169 | 新書 | 治安策 | |||
孔安国 | こうあんこく | 未詳 −前140 | |||||
韋孟 | いもう | 前228頃-前156頃 | 諷諫詩 | ||||
烏孫公主(細君) | うそんこうしゅ | 前130年-不詳 | 悲愁歌 | ||||
枚乘 | ばいじょう | 未詳 -前140 | 雜詩九首 | ||||
淮南王劉安 | りゅうあん | 未詳 -前140 | 淮南子 | ||||
司馬相如 | しばそうじょ | 前179年-前117年 | 封禪頌 | 子虚賦 | 上林賦 | ||
卓文君 | たくぶんくん | 前179頃-前117頃 | 白頭吟 | ||||
劉細君 | りゅうさいくん | 前105年烏孫に嫁す。 | 悲愁歌 | ||||
董仲舒 | とうちゅうじょ | 前176―前104 | 春秋繁露 | ||||
司馬遷 | しばせん | 前145―前86 | 史記 | ||||
武帝 (劉徹) | ぶてい | 前156-前87年 | 瓠子歌二首 | 秋風辭 | 李夫人歌 | 柏梁詩 | |
落葉哀?曲 | 蒲梢天馬歌 | ||||||
東方朔 | とうほうさく | 前161頃-前87頃 | 誡子詩 | ||||
李延年 | りえんねん | 前140頃-前87頃 | 歌一首 | ||||
燕刺王旦 | えんしおうたん | 前不詳-前80年 | 歌 | ||||
華容夫人 | かようふじん | 上の妻、同時期 | 歌 | ||||
昭帝 | しょうてい | 前94-前74 | 淋池歌 | ||||
李陵 | りりょう | 不詳-前74 | 與蘇武詩三首 | 別歌 | |||
霍光 | かくこう | 未詳 -前68 | |||||
蘇武 | そぶ | 前142-前60 | 詩四首 | ||||
楊ツ | よう うん | ? - 前54年 | 拊缶歌 | ||||
王昭君 | おう しょうくん | 前1世紀頃 | 怨詩 | ||||
班ショウ、 | はん しょうよ | 生没年不詳 | 怨歌行 | ||||
劉向 | りゅうこう | 前77- 前 6 | 説苑 | 新序 | 烈女傳 | ||
趙飛燕 | ちょう ひえん | ? - 前1年 | 歸風送遠操 | ||||
新 ; 8〜23 | |||||||
揚雄 | ようゆう | 前53- 18 | 法言 | 方言 | 大玄經 | ||
劉キン〔音+欠〕 | りゅうきん | 前53―23 | 七略 | ||||
後漢 ; 24〜220 | |||||||
梁鴻 | りょうこう | 不詳 (後漢) | 五噫歌 | ||||
杜林 | とりん | 前? - 47 | 漆書古文尚書 | ||||
馬援 | ば えん | 前14 - 49 | 武溪深行 | ||||
班彪 | はんぴょう | 3- 54 | 北征賦 | ||||
王充 | おうじゅう | 27 ‐ 90 | 論衡 | ||||
班固 | はん こ | 32 - 92 | 寶鼎詩 | 漢書 | 兩都府 | 白虎通徳論 | |
崔いん〔馬+因〕 | さいいん | 未詳 - 92 | 七依 | ||||
賈逵 | かぎ | 30 - 101 | 左氏傳解詁 | 国語解詁 | |||
班昭 | はんしょう | ? ― 116 | 女誡 | 東征賦 | |||
楊震 | ようしん | 54- 124 | 最古の部首別漢字字典『説文解字』 | ||||
許慎 | きょしん | 58年? - 147年? | 説文解字 | ||||
張衡 | ちょうこう | 78 - 139 | 兩都府 | 四愁詩 | |||
崔援 | さいえん | 77 - 142 | 座右の銘 | ||||
王逸 | おういつ | 生没年不詳 | 楚辭章句 | ||||
陳蕃 | ちんばん | 99年以前 - 168年 | |||||
李膺 | りよう | 110 - 169 | |||||
李尤 | りゆう | 生没年不詳 | 九曲歌 | ||||
後漢末から三國鼎立時代、西晉時代の詩人 | |||||||
(後漢末の詩人) | |||||||
何休 | かきゅう | 129 - 182 | 春秋公羊解詁 | ||||
張角 | ちょうかく | ? - 184 | |||||
蔡ヨウ | さいよう | 132 - 192 | 独断蔡中郎集 | ||||
鄭玄 | ていげん | 127 - 200 | 毛詩 | 鄭?三礼注 | |||
趙起 | ちょうき | 未詳 - 201 | 毛詩注 | ||||
孔融 | こうゆう | 153 - 208 | 建安七子 | ||||
荀悦 | じゅんえつ | 148 - 209 | 申鑑 | ||||
周密 | しゅうみつ | 175 - 210 | |||||
周瑜 | しゅうゆ | 175-210 | |||||
阮ウ〔王+禹〕 | げんう | 未詳- 212 | 建安七子 | ||||
ホウ統〔广+龍〕 | ほうとう | 179 - 214 | |||||
魯蕭 | ろしょう | 172 - 217 | |||||
徐幹 | じょかん | 170 - 217 | 建安七子 | 中論 | 室思一首 | 情詩一首 | |
王粲 | おうさん | 177 - 217 | 建安七子 | 登樓賦 | |||
陳琳 | ちんりん | ? - 217 | 建安七子 | ||||
應チョウ〔王+易〕 | おうちょう | ? - 217 | 建安七子 | ||||
劉 | りゅうてい | ? - 217 | 建安七子 | ||||
關羽 | かんう | ? - 219 | |||||
仲長統 | ちゅう ちょうとう | 180 - 220 | 昌言 | ||||
魏・武帝(曹操) | ぶてい・そうそう | 155 - 220 |
漢の文化人、詩人 | |||||||||
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | |||||
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高帝 | かんこうそ | 前247―前195 | 大風歌 | 鴻鵠歌 | ||||
k-022 | 前漢の初代皇帝。在位、前206〜前195。字(あざな)は季。廟号(びょうごう)は高祖。沛(はい)県(江蘇省)の 人。始皇帝没後の前209年、陳勝・呉広の乱を機に挙兵。前202年、項羽を垓下の戦いに破って天下を統一、 長安を都として漢朝を創始 |
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項羽 | こうう | 前232-前202 | 垓下歌 | |||||
k-023 | 中国、秦末の武将。宿遷(江蘇省)の人。名は籍。叔父項梁とともに兵を挙げ、漢の高祖(劉邦)と協力して秦 を倒し、楚王となった。のち、劉邦と天下を争うが、垓下(がいか)の戦いに敗れ、烏江(うこう)で自殺。謡曲。五 番目物。唐の烏江の野辺の草刈り男の前に、項羽の霊が現れ、回向を頼み、激戦の模様を語る。 |
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虞美人 | ぐびじん | 未詳〜前202 | 虞美人歌 (漢兵已略地) | |||||
k-024 | 秦末から楚漢戦争期の女性。項羽の愛人。正確な名前ははっきりしておらず、「虞」は姓である(『漢書』)とも 名である(『史記』)ともいわれ、「美人」も後宮での役職名であるともその容姿を表現したものであるともいわれ る。 |
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唐山夫人 | とうざんふじん | 前206頃 在世 | 安世房中歌十七首 訳注解説ブログ:紀頌之の漢詩ブログ | |||||
k-025 |
(紀元前206頃在世)姓は唐山,漢高祖劉邦の寵姫。高帝の宮人で名は未詳、生歿についても詳らかでない。漢時 代女性詩人漢詩第一人者であった。 安世房中歌というのは、郊廟の祭祀に用いる雅楽で、唐山夫人の所作。 房中歌としたのは、詩経の周南・召南の詩を王后国君・国君夫人が「房中楽歌」としたのにならって作ったもの。 恵帝の時に名をあらためて「安世楽」とした。 |
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朱虚侯章(劉章 | しゅきょこうしょう | 前200−前177 | 耕田歌 | 紫芝歌 | ||||
k-026 | 劉 章(りゅう しょう、紀元前200年 - 紀元前177年)は、前漢前期の皇族。斉王劉肥(悼恵王)の次子で、劉邦(高 祖)の孫。斉王劉襄(哀王)は兄。城陽王に封じられ、諡号は景王。城陽共王劉喜の父。紀元前180年、呂雉が死 亡すると、呂氏の帝位簒奪の動きを知り、劉章は兄の劉襄の下に使者を送って反乱を起こさせた。そして、自身はこ れに呼応する形で周勃、陳平らと共に長安でクーデターを起こし、呂産、呂更始ら呂氏一門をことごとく誅殺した。その 後、代王劉恒が長安に入り、皇帝に即位した(文帝)。 このクーデターにおける劉章の功績は大きなものであった。決行直前に劉章は周勃らの重臣と、成功の暁には劉襄が 皇帝に、劉章が斉王あるいは趙王になるとの密約を交わしていたとされるが、斉王家の外戚・駟鈞ら駟氏一族に野心 家が多く、呂氏の二の舞になりかねないことを理由に取り止めとなり、文帝が擁立されることになった。 |
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賈誼 | かぎ | 前201−前169 | 新書 | 治安策 | 弔屈原文 | |||
k-027 | 賈 誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)中国・前漢時代の政治思想家・文章家。後漢の賈逵はその後裔に あたる。洛陽の出身。18歳にして詩経・書経を論じ、文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。当時、河南郡 守であった呉公はその才能を愛し、招いて門下におく。文帝が即位し、呉公が李斯と同郷で治績をあげていることを聞 き廷尉に任命されるに際して、賈誼が年少でありながらも諸家の書に通じていることを上申したために、博士として抜擢 された。賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令の下るたびに真っ先に意見を具申することができたの で、その年のうちに太中大夫に昇進する。漢の制度に関して、儒学と五行説にもとづいて「正朔を改め、服色をかえ、 法度を制し、礼楽を興す」べきことを主張した。そうした賈誼を、文帝はさらに公卿にしようとしたが、前178年、それを嫉 んだ丞相絳侯周勃・東陽侯張相如・馮敬等の讒言により、長沙王の太傅として左遷させられてしまう。 任地に赴く途中、屈原を弔った賦が『文選』にも収録されている「弔屈原文」である。3年余りにもわたる左遷生活であ ったが、前174年、文帝は賈誼のことを思い出し、長安に召して鬼神のことを問う。その答えが上意にかなうものだったた め、ふたたび信任され、もっともかわいがっていた末子 梁の懐王の太傅となった。 |
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孔安國 | こうあんこく | ? -前140 | 古文尚書 | 古文孝經傳 | ||||
k-028 | 孔 安国(こう あんこく、生没年未詳)は、前漢代の学者。字は子国。孔子10世の孫。父は孔忠。兄は孔武。漢の 武帝の時に諫議大夫に任ぜられ、博士となり、臨淮の太守へと進む。景帝時代の末年に、魯の共王が宮殿拡張の ために孔子の宅をこわし、壁の中から『尚書』『礼記』『論語』『孝経』の古いテキスト数百編を発見。それらは蝌蚪文 字で当時読める者がいなかったのを、安国は今文の尚書より堯典・禹貢・洪範・微子など16篇多いことを知る。そこで 在来の今文に対し「古文」の学が起こる。 安国は「古文」を都尉朝・司馬遷・倪寛に伝え、都尉朝から庸生・胡常・徐敖へと相伝し、徐敖は王?・塗ツに伝え、 塗ツの弟子に賈徽・桑欽があり、賈徽は賈逵・許慎へと伝えた。この学流はさらに河間の献王が発見した「周官」「尚 書」などの古文テキストと交流したらしい。 |
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韋孟 | いもう | 前228頃-前156頃 | 諷諫詩 | 徙家於鄒 | ||||
k-029 | 韋孟,彭城の人(江蘇省銅山縣),西漢初期楚元王劉交、其子夷王劉郢、其孫楚王劉戊三代諸侯王の太傅とし て仕える。楚王の劉戊は荒淫で無道な人物であったため,韋孟は「徙家於鄒」,即ち今の鄒城市,耕讀して本を書 く。「諷諫詩」は劉戊に対して書かれた詩である。この詩は漢書巻73・韋賢傳、文選に収められている。 |
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烏孫公主(細君 | うそんこうしゅ | 前130年-不詳 | 悲愁歌 | |||||
k-030 | 烏孫公主とは、漢の武帝の時、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系の民族の国家・烏孫国に嫁した漢の皇室の 女性で、名は(劉)細君という。江都王・劉建の 娘で、武帝の従孫になる。塞外の民族や部族、諸侯との和親を図 るための政略結婚の当事者。なお、王昭君が匈奴に嫁いだのは、この劉細君の婚姻の七十余年後になる。ともに漢 王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。 政略婚《§-1烏孫王に嫁いだ細君》2.最涯の地烏孫に嫁いだ細君 漢文委員会kanbun紀頌之漢詩ブログ10595 |
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枚乘 | ばいじょう | ? -前140 | 七發 | 雑詩九首 訳注解説 紀頌之ブログ | ||||
k-031 | 枚乘 ( ばいじよう ).枚乗(?-前140)。前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした 遊説の徒である。 呉王劉?の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌め た。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。 景帝が即位すると、御史大夫晁錯が漢の制度を定めると共に諸侯王を抑える政策を行った。景帝前3年(紀元 前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げ た。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させ ることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。 反乱の後、枚乗は有名になり、景帝は彼を弘農郡都尉に任命した。しかし大国の賓客となって英俊たちと遊説 し、望むものを得る事ができていた彼は役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となっ た。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。 梁王劉武が死亡すると、枚乗は故郷の淮陰に帰った。その後、武帝が即位すると、皇太子時代から枚乗の名 を聞いていた武帝は、老年の枚乗を安車蒲輪(座って乗れて揺れの少ない馬車)で召し出したが、枚乗はその 途上で死亡した。子の枚皋も賦に優れ、武帝に仕えて多くの賦を残した。 なお、『文選』に枚乗の作品である「七発」が収録されている。枚乘が最もその本領を発揮したものであり、「七 発」八首で、「七」なる文体を後世に流行せしめるに至った辞賦の別体である。 古逸 民童謡・樂府 古詩十九首 |
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淮南王劉安 | わいなんおうりゅうあん | ? -前122 | 淮南子 | |||||
k-032 | 劉 安(りゅう あん、紀元前179年 - 紀元前122年)は、中国前漢時代の皇族(淮南王)、学者である。『淮南子』の 主著者。後世、劉安に関する多くの伝説が生まれた。 景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、景帝が派遣した丞相の張釈 之に「私が王の軍勢を率いて、指揮を執りとうございます」と述べて、自身が淮南王の軍勢を指揮して反乱軍に加担し ないように手配をしたため、劉安は呉楚七国の乱に巻き込まれずに未遂に終わった。 しかし、劉安は以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。劉安は景帝を継いだ武帝の匈奴 討伐に反対で、武帝の徴兵策に消極的にしか応じていなかった。これが武帝の政策に逆らうものとして2県の所領を削 減されたことで、劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害し、一 族はことごとく処刑された。 劉安の著書『淮南子』の「泰族訓」には「桀紂を王とはしない。湯武を放伐したとはしない」という記述がある。これは殷 周革命を肯定する孟子の説と同様である。続く文章でも君主の無道を武力で諫めることの正統性を主張していた。 劉安は学問を愛し、書や琴を好んだ。多くの食客を抱え、方術の士を招いたという。彼らとともに道家・儒家・法家・陰 陽家のなどの諸説・思想を収集して編纂し、内書21篇、中書8篇、外書23篇を著して「鴻烈」と命名した。そのうちの 内書が今日『淮南子』として知られる。 |
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司馬相如 | しばそうじょ | 前179-前117 | 子虚賦 | 上林賦 | 封禅賦 | |||
k-033 | 司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。 字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。 賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。景帝の 同母弟の梁の孝王は景帝のもとを訪ねてきた際に、自分のもとにいる鄒陽・枚乗・荘忌(『漢書』では劉荘の諱を避け て厳忌)などの当時の一流の文人・学者を連れて来ていた。司馬相如は彼等と出会い、孝王の客になろうと思いたっ た。そして、病を理由として官を辞して、景帝のもとを去り、梁へと向かった。司馬相如は梁で孝王の歓迎を受け、孝王 の援助を受けて、先に述べたような文人などと共に住むことが許された。なお、梁にいた期間に司馬相如の代表作であ る「子虚の賦」が書かれた。 |
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卓文君 | たくぶんくん | 前2世紀ころ | 白頭吟 | |||||
k-034 | 前漢の人。生没年不詳。蜀(四川省)の臨?(りんぎよう)の富豪卓王孫の娘。若くして夫に死別し,実家に帰っていた が,そこで文人司馬相如(しばしようじよ)と知りあい,愛しあうようになった。楚調の詩〈琴歌〉2首は,司馬相如が琴の 調べに乗せて卓文君の心を引いたといわれるものだが,後人の擬作といわれている。卓文君は恋に生きた中国古代の 情熱的な女性の典型として知られる。 紀元前144年に孝王が死んだため、司馬相如は故郷の成都に帰った。しかし、実家はすでに貧しくなっており、普通に 生活するだけでも困難であった。こういった状況に対して、司馬相如の友人で臨?県(四川省??市)の県令を務めてい た王吉は、臨?県に来るように言った。友の勧めに従って、司馬相如は臨?県に赴いた。 そして、王吉は臨?県きっての大富豪である卓王孫の家での宴会に司馬相如を連れて行った。宴もたけなわとなったこ ろ、王吉は司馬相如に琴を披露するように頼んだ。司馬相如は見事に琴を弾き、宴会に参加していた人たちを魅了し た。ところで、卓王孫には夫に先立たれたために実家に戻ってきた卓文君という娘がいた。卓文君は司馬相如の奏でる 琴の音に魅了され、司馬相如に惚れてしまった。すると、卓文君のもとに司馬相如からのラブレターが届いた。 卓文君はこのラブレターに感激し、家をこっそり抜け出して、司馬相如と駆け落ちしてしまう。卓王孫はこのことに激怒 し、娘には一切財産を分けないと言った。そこで、卓文君は自分の所有物を売り払い、臨?の街に酒場を開いた。そこ で、卓文君は自らホステスとして働き、司馬相如は上半身裸で召使いのようにして働いた。卓王孫は自分の娘がこの ような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の 際の嫁入り道具を与えた。これで、司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入 れて、地主となった。 |
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劉細君 | りゅうさいくん | 前105 烏孫に嫁 | 悲愁歌 | |||||
k-035 | 字:前漢・武帝の時の江都王・劉建の娘。前105年、公主として西域の烏孫国(天山山脈の北)の王に嫁がさ れ、「悲愁歌」を作って身の悲しさを述べた。烏孫公主とも言う。王昭君の事と共に有名。 |
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董仲舒 | とうちゅうじょ | 前176-前104 | 春秋繁露 | 賢良対策 | 『董仲舒百二十三篇』 | |||
k-036 | 漢の武帝に五経博士の設置などを提唱し、儒学の官学化を実現した儒学者。 とうちゅうじょ。 漢の景帝、武帝時代 の儒学者。 河北省の出身で、若くして儒家となり、賢良として中央官庁に推挙されて、武帝の諮問に応え、五経博 士の設置を提言し、実現させた。その思想の最大の特徴は「災異説」。『春秋』学の一派である公羊学を修め、景帝 の世に博士になる。武帝の建元元年に行った賢良対策の中で、儒家以外の諸子百家を排斥して儒学を国家教学と して据えるよう献策し、嘉納される。以降、政治的重要な地位を得るためには儒学的教養を身につけることが、必須と なる。また、郡国に太学を置くことを上奏し、結果五経博士が置かれ、博士がそれぞれの専門とする経学を教授する こととなった、と伝えられる。清廉潔白な人柄で、徳高く、ただ学問の究理にのみ人生を費やした。博士時代は部屋に 帷を下ろして講義を行い、3年の間、庭に現れなかったという。弟子の数も非常に多く、新参者の弟子は、兄弟子から 講義を受け、師である董仲舒の顔を知らない者までいた。司馬遷もまた、董仲舒から教えを受けているとされる。 |
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東方朔 | とうほうさく | 前154年-前92年 | 答客難 | 神異経 | ||||
k-039 | 東方 朔(とうほう さく、紀元前154年-紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県 (現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子 がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。詩仙として有名な李白 は彼のことを「世人不識東方朔、大?金門是謫仙」といって彼を褒め称えた。 |
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司馬遷 | しば せん | 前145―前86 | 史記 | |||||
k-037 | 司馬 遷(前145/135年? ? 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。 姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制 定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、 『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』か ら出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形 式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸(「詩」 「書」「礼」「楽」「易」「春秋」に大別する文化的伝統)を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、 これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。 |
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武帝 (劉徹) | ぶてい | 前156-前87年 | 瓠子歌二首 | 秋風辭 | 李夫人歌 | 柏梁詩 | ||
落葉哀?曲 | 蒲梢天馬歌 | ||||||||
k-038 | 前漢第7代の皇帝。在位、前141〜前87。廟号(びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曾孫。儒教を公認 し、中央集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。呉楚七国の乱により有力な封 王が倒れたことで、武帝は中央集権への移行を目指した。諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封 建するのを許し、これは推恩の令と呼ばれる。これにより諸侯王の領土は細分化された。 また、郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用した。これは各地方郷里の有力者とその地方の太守が話し 合って当地の才能のある人物を推挙するもので、武帝は特に儒教の教養を身につけた人物を登用した また董仲舒の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした。 |
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李延年 | りえんねん | 生没年不詳 | 歌 | |||||
k-040 | 李 延年(り えんねん、生没年不詳)は、前漢の人物で、武帝に仕えた楽人。中山の人。妹は武帝の寵姫李夫人。 兄弟に将軍となった李広利がいる。父母や兄弟はみな楽人であった。李延年は宮刑を受けて宦官となり、皇帝の飼い 犬の世話をしていた。 李延年は歌舞を得意とし、司馬相如らが作った詩に新たな曲を作るごとに、聴く者を感動させた。 その後、妹が武帝に寵愛され、彼女は李夫人と呼ばれるようになった。李夫人は男子を産んだが早死にした。その後、 李延年は協律都尉に任命されて二千石の印綬を帯び、武帝と寝起きを共にするほど寵愛された。 李夫人の産んだ子、劉?は昌邑王に封じられた。また李夫人の兄の李広利は将軍となり、大宛、匈奴と戦った。李延 年の弟の季は後宮の女性と姦淫した。李夫人の死後、李延年への寵愛も衰え、武帝は李延年や兄弟、宗族を誅 殺した。
外戚傳上』「孝武李夫人,本以倡進。初,夫人兄延年性知音,善歌舞,武帝愛之。毎爲新聲變曲,聞者莫不 感動。延年侍上起舞,歌曰:『北方有佳人,絶世而獨立,一顧傾人城,再顧傾人國。寧不知傾城與傾國,佳 人難再得。』上嘆息曰:『善。世豈有此人乎。』平陽主因言延年有女弟,上乃召見之,實妙麗善舞。由是得 幸。」 |
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燕刺王旦 | えんしおうたん | ? - 前80年 | 詩 | |||||
k-041 | 武帝の夫人李姫の子で、燕王に封ぜられた。旦は武帝の子で且つ長子でありながら位に即けず、少子立って昭帝と なったのを憤り廃立を謀り、事あらわれて、同志みな誌に伏した。時に紀元前80年(元鳳元年)である。旦、命のきわ まったことを知って自ら絞って死んだ。死の前に歌ったのがこの詩である。 時に華容夫人も起って舞い、次出の詩を歌った。 いずれもその死後の城下の惨状を想像して詠じたもの、漢書・巻六三・武五子伝に見える。
《漢書》曰:“燕剌王旦,武帝第四子也。昭帝時,謀事不成,妖祥數見。燕倉知其謀,告之,由是發覺。王憂 懣,置酒萬載宮,會賓客群臣妃妾坐飲。王自歌,華容夫人起舞,坐者皆泣。王遂自殺。” 歸空城兮狗不吠,?不鳴,術何廣廣兮,固知國中之無人。 (??前80年),西?宗室、藩王,?武帝??第三子,广陵?王?胥同母兄,母李?。元狩六年(前117年),?旦 与??、?胥同日册封,?旦?燕王。征和二年(前91年),巫?之?爆?,太子?据兵?自?。 燕刺王旦・昭帝 《詩》 漢詩 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 2786 |
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華容夫人 | かようふじん | ? - 前80年 | 起舞歌 | |||||
k-042 | 漢武帝四子燕王旦夫人である。燕王が謀事発覚したおり心を痛めた。酒會を催し賓客もあつまて,宴席に於いて燕 王旦が歌い,これにあわせて華容夫人が舞いそしてうたった。歌がおわり,燕王はじがいした。華容夫人も亦た殉死し た。華容夫人は「歌」としたが,後世『起舞歌』と称した。『起舞歌』為漢武帝四子燕王旦夫人。燕王謀立事發,心 中憂懣,置酒會賓客,席間自歌,華容夫人起舞續歌。歌畢,燕王自盡身亡,華容夫人亦從之而死。華容夫 人所歌者,後人稱為〈起舞歌〉 巫蠱の乱で長兄の戻太子劉拠及びその一族が誅滅された時の事を詠って、自分たちの死後のことに喩えたものであ ろう。
華容夫人 漢詩 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 2781 |
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昭帝 (劉弗陵) | しょうてい | 前94年−前74年 | 淋地歌 | |||||
k-043 | 昭帝(しょうてい)は前漢の第8代皇帝。 (前94年−前74年)劉弗陵。西漢第八位皇帝(前87年?前74年在 位),漢武帝幼子,謚號孝昭皇帝。 紀元前91年 巫蠱の乱で長兄の戻太子劉拠及びその一族が誅滅されると、武帝は新たな後継者を指名する必要に迫られた。し かし各地に冊封された武帝の皇子達(昭帝の異母兄)は早世または言動に問題があるなど適任者がなく、幼少の末 子である劉弗陵が皇太子に立てられた。その際、母である趙氏は呂雉のような外戚の専横を未然に防ぐ目的で、武 帝の命で殺害されている。 紀元前87年 武帝の崩御により僅か8歳の劉弗陵が即位する。政務は武帝が生前に昭帝の後見を依頼していた大司馬大将軍 の霍光、左将軍の上官桀、車騎将軍の金日?により政務が輔弼され、間もなく金日?が死去すると霍光と上官桀 の両者による後見が行われた。当初は良好な関係にあった両者であるが、徐々に霍光に権力が集中し、一方で上官 桀の孫娘が昭帝の皇后として入内(上官氏)すると、関係は悪化し、霍光に不満を持つ武帝以来の旧臣で御史大 夫の桑弘羊と昭帝の即位に不満を抱く昭帝の異母兄・燕王劉旦が上官桀派になったことで朝廷は不安定なものとな った。 上官桀派は、昭帝を廃立し燕王を皇帝に擁立しようとするも失敗、紀元前80年までに処刑、若しくは自殺に追い込 まれ、以降は霍光が輔政の任にあたり、その子弟がこれを補佐するという体制が宣帝の時代の初期まで続くこととな る。 武帝の夫人李姫の子で、燕王に封ぜられた。燕刺王旦は武帝の子で且つ長子でありながら位に即けず、少子立っ て昭帝となったのを憤り廃立を謀り、事あらわれて、同志みな誌に伏した。時に紀元前80年(元鳳元年)である。燕刺 王旦、命のきわまったことを知って自ら絞って死んだ。死の前に歌ったのがこの詩である。 時に華容夫人も起って舞い、上記の詩を歌った。 いずれもその死後の城下の惨状を想像して詠じたもの
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李陵 | りりょう | ? - 紀元前74年 | 與蘇武詩三首 | |||||
k-044 | 李 陵(り りょう、? - 紀元前74年)は、中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながらも捕虜となったことで敵に寝 返ったと誤解された悲運の将軍。字は少卿。 祖父の李広は文帝・景帝・武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であり、父の李当戸は武帝の寵臣であった 韓嫣を殴打した剛直の士であった。父の李当戸は彼が生まれる数か月前に早世し、李陵は李当戸の遺腹の子であ る。 紀元前99年(天漢2年)、騎都尉に任命された李陵は武帝の命により弐師将軍李広利の軍を助けるために五千の 歩兵を率いて出陣した。しかし合流前に単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し戦闘に入る。李陵軍は獅子奮迅の 働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。そのことを 部下の陳歩楽を遣わして、武帝に報告させた。だが、さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏した。 李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、郎中に任命されていた陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決し た。群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えた が、武帝は李広利を誹るものとして司馬遷を投獄し、後に宮刑に処した。 李陵の才能と人柄を気に入った且?侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくしてから武 帝は後悔し、李陵の残部に褒美を与え、公孫敖に命じて李陵を迎える。しかしこの計画は失敗した。逆に公孫敖は匈 奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた。武帝は激怒し、李陵の妻子をはじめ、祖母・生 母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹(李敢の子)一家らをまとめて皆殺しにした。隴西では李氏のことを恥じたという。 しかし実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであった。 漢の使者からこのことを聞いて李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。そのため大閼氏(且? 侯単于の母)は怒って李陵を殺害しようと計画した。且?侯単于は李陵を北方に匿った。大閼氏の死後、李陵は内地 に戻り、後に且?侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は単于からのたっての頼みで匈奴の右校王となり、 数々の武勲を立て、紀元前74年に没した。 匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単 于によって処刑されている。 かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とと もに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けている。 |
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霍光 | かくこう | ? - 前68 | ||||||
k-045 | 霍 光(かく こう、? - 地節2年3月8日(紀元前68年4月21日)、Huo Gu?ng)は、前漢の政治家。昭帝・宣帝の2代 を補佐し政治を取り仕切った。霍仲孺の子で霍去病の異母弟、霍禹の父、上官皇后の祖父。字は子孟。 武帝の皇后衛子夫の甥にあたる名将霍去病の異母弟という縁で出仕し、武帝の信任が厚く霍去病の死後も順調に 出世した。紀元前87年に武帝が亡くなるとき、まだ8歳の幼い皇帝(昭帝)の補佐が出来る人物は霍光以外に居ない と思い、霍光を大司馬大将軍に任じて金日?(きんじつてい)・上官桀と共にこれを補佐させた。 しかし、のちに霍光と上官桀は対立するようになった。上官桀は昭帝の兄であるのに帝位につけなかったことを恨みに思 っていた燕王劉旦、霍光と財政政策などで対立していた桑弘羊らと謀を巡らせて、昭帝に霍光を廃することを讒言した が、昭帝は取り合わなかった。そのため兵を伏せ、霍光を討ち昭帝を廃する企てを起こしたが、事は露見、燕王は自殺 し、上官桀らは誅殺された。上官桀の一族で生き残ったのは皇后上官氏(母が霍光の娘)のみであった。 昭帝が成人してからも霍光への信任は厚く、治世13年の間すべて政治を霍光に取り仕切らせた。 紀元前74年、子のないまま昭帝が亡くなると、霍光は昌邑王劉賀を帝位につけた。しかし行いが酷いとしてわずか27 日で廃し、代わりに武帝の曾孫の宣帝が帝位についた。霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されて いたが、紀元前68年に亡くなった。 武帝亡き後の漢の政治を速やかにまとめた霍光の功績は大であったが、彼自身はひたすら身を慎み、僭越な振る舞 いや専横を避け、徒に目だって身を滅ぼすことはなかった。しかし一族は霍光の威勢を恃んで傲慢であり、宣帝の皇后 許平君を毒殺して代わりに一族の娘を皇后に立てるなど、暴慢な振る舞いが目立った。彼らは霍光ほどの人望も無か ったことから、霍光亡きあとは宣帝に実権を奪われた上、最後には謀反を計画したため、宣帝の勅命により子の霍禹は 腰斬に処され、その生母や姉妹など一族皆殺しに処された(上官皇后はこのときも無事に済んだ)。 |
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蘇武 | そぶ | ? -前60 | 留別妻一首 | 別詩 | 詩四首 | |||
k-046 | 前漢の武将。杜陵(とりょう)(陝西(せんせい)省)の人。字(あざな)は子卿(しけい)。匈奴(きょうど)に使節として 行き、19年間抑留されたが、節を守りとおして帰国した。 天漢元年(紀元前100年)、蘇武は中郎将として匈奴への使者に任じられる。副使は張勝で、常恵らが付き従った。 そのころ、単于の下にいる漢の降将虞常が、匈奴の?王と共謀して、同じく匈奴に降って重用されていた衛律を殺し、 単于の母を脅迫して漢に帰ろうと画策した。両名は張勝にこの話を持ちかけ、張勝はこれを許し援助した。しかし虞 常・?王は失敗して単于がこの件を知り、蘇武を尋問しようとした。蘇武は自決を図ったが衛律の手当てによって一命を 取り留めた。単于は彼を脅して匈奴に帰順させようとしたが、蘇武が拒んだため、常恵らと共に抑留された。 彼は穴倉に飲食物も無く捨て置かれたが、雪を齧り節の飾りについている毛を食べて生き長らえた。やがて、蘇武は北 海(現在のバイカル湖)のほとりに移されたが、匈奴から「オスの羊が乳を出したら帰してやる」と言われてしまう。彼はそこ で、野鼠の穴を掘り、草の実を食うなどの辛酸をなめたが、単于の弟に気に入られて援助を受けて生き長らえ、匈奴 に屈することがなかった。 ある時、蘇武とかつて共に侍中を務めた仲であり、今では匈奴に降って厚遇されていた李陵が降伏するよう説得してき たが、蘇武は屈しなかった。それからというもの、李陵は陰ながら蘇武を援助し続けた。 匈奴は漢に対して蘇武は死んだと言っていたが、抑留19年目、漢の武帝が亡くなり、昭帝が匈奴と和親し使節を派 遣した時に、常恵によって蘇武が生存していることが発覚し、そこでようやく単于から帰国の許可が出た。宣帝擁立に 関与し、関内侯の位を賜り、張安世の薦めにより右曹・典属国に返り咲いた。神爵2年(紀元前60年)、蘇武は80歳 余りの高齢で亡くなった。 |
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李陵 | りりょう | 未詳- 前74年 | 與蘇武詩二首 | 詠懷詩 十首 | 與蘇武詩 | 別歌 | ||
k-047 | 中国前漢代の軍人。匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍。司馬遷が宮刑に処さ れる原因を作った人物である。字は少卿。 李陵の才能と人柄を気に入った且?侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。しばらくして から武帝は後悔し、李陵の残部に褒美を与え、公孫敖に命じて李陵を迎える。しかしこの計画は失敗した。逆 に公孫敖は匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていることを聞いた。武帝は激怒し、李陵の妻 子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹(李敢の子)一家らをまとめて皆殺しにした。隴西で は李氏のことを恥じたという。しかし実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将 軍のことであった。 漢の使者からこのことを聞いて李陵は一族の非業の死に嘆き悲しみ、その李緒を自ら殺害した。そのため大閼 氏(且?侯単于の母)は怒って李陵を殺害しようと計画した。且?侯単于は李陵を北方に匿った。大閼氏の死後、 李陵は内地に戻り、後に且?侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。彼は単于からのたっての頼みで匈奴 の右校王となり、数々の武勲を立て、紀元前74年に没した。 匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に、別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓 邪単于によって処刑されている。 かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて 李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けてい る。 |
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楊ツ | よううん | ? - 前54年 | 拊缶歌 | |||||
k-048 | 楊 ツ(よう うん、? - 紀元前54年)は、前漢の人。字は子幼。華陰の人。丞相楊敞の子。司馬遷の外孫。 略歴 [編集]. 丞相楊敞と、司馬遷の娘の間の子。外祖父司馬遷の『史記』を読み、『春秋』を修めた。また『史記』は楊ツ によって広く流布するようになった。丞相楊敞と、司馬遷の娘の間の子。外祖父司馬遷の『史記』を読み、『春秋』を 修めた。また『史記』は楊ツによって広く流布するようになった。 楊敞の後継ぎである、異母兄の安平侯楊忠の任子で郎となり、常侍騎となった。才能を称えられ、優れた人物や儒 者と交流し、朝廷でも有名になって左曹に抜擢された。 地節4年(紀元前66年)、霍禹らの反乱の際、いち早くそれを知った楊ツは侍中金安上を通して宣帝に告げたため、 反乱は失敗に終わった。その功績で楊ツは平通侯に封じられ、中郎将となった。 楊ツは列侯となると父の遺産を親族に分け与え、後に継母の遺産を受け取ると継母の一族に分け与えるなど、財産 を軽んじて義を重んじた。 当時、郎官の慣例では、自費で消耗品などを入れないと休暇が取れなかった。そのため貧しい者は病気であっても正 規に認められた休暇を使うしかなかったし、富豪は金を出して仕事をせずに遊び、金で良い部署を得ようとする者さえい た。楊ツはこの慣例を止めさせ、大司農から消耗品費を取るようにして休暇は法令どおり執行させた。また郎や謁者に 罪過があれば罷免し、有能であれば推薦するようになったため、請託や汚職が無くなった。この功績で楊ツは神爵元 年(紀元前61年)に諸吏光禄勲に抜擢され、宣帝の側で用いられるようになった。 楊ツは清廉で郎官からは公平だと称えられていたが、一方で自分の功績や能力を誇り、また好んで人の隠し事を暴 き、自分と対立する者を陥れようとしたので、恨む者が多かった。そんな時、太僕の戴長楽が弾劾された時、戴長楽は 楊ツが自分を陥れようとしたと思い、楊ツが皇帝を誹謗する言を述べていると訴えた。死罪は免れたが楊ツ、戴長楽 共に罷免され、爵位も失い庶人とされた(五鳳2年(紀元前56年))。 地位を失った楊ツは治産に務め娯楽に興じたが、一年余り後、彼の才能を惜しんだ友人の孫会宗が書を与え彼の行 動を戒めた。しかし楊ツはそれを否定する書を送り、また兄の子である安平侯楊譚から「罪のあった杜延年も御史大 夫となっていますからまた用いられる日が来ます」と言われると「今の皇帝は力を尽くすに足る相手ではない」と言うなど の行いが告発された。廷尉によって大逆不道と処断され、腰斬の刑に処せられた。 妻子は酒泉郡に移され、安平侯楊譚も彼を諌めなかったことで爵位を奪われた。孫会宗や衛尉韋玄成、京兆尹張 敞などの友人は罷免された。 |
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王昭君 | おうしょうくん | 生没年未詳【前33) | 昭君怨 | |||||
k-049 | 中国、前漢の元帝の宮女。名は(しょう)。昭君は字(あざな)。のちに明妃(めいひ)・明君ともよばれる。匈奴との 和親政策のため呼韓邪単于に嫁がせられた。その哀話は、戯曲「漢宮秋」などや、人物画「明妃出塞図」の題 材となった。 嫁いだ呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若?単于の妻にな って二女を儲けた。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文 化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされた。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に 習い息子の復株累若?単于の妻になった。そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻に なったとの記述がある。 こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まった。 王昭君ものがたり 王昭君の墓の位置は数ヵ所以上が伝えられるが、『通典』巻179 州郡・単于府・金河條に記される(昭君墓の 位置に関する最も早い文献中の記述)、現在の内モンゴル自治区のフフホト市にあるものが有名である。陵墓 の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備され、また敷地内には匈奴博物館などがあり、 観光スポットとして人気が高い。 王昭君の墓は盛唐以降、「青塚(青冢)」(せいちょう)と呼ばれ、李白は「生きては黄金を乏(か)き枉(ま)げて 図画(ずが)せられ(画工に賄賂を贈らなかったがために醜く描かれ)、死しては青塚を留めて人をして嗟(なげ) かしむ」(「王昭君 二首 その一」)と歌い、杜甫は「一たび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に 嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれ の弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)」(「詠懐古跡 五首 その三」)と詠んだ。白居易や張?らは 青塚を詩題とする作品を為し、かくて王昭君墓を表現する固有名詞となった[1]。敦煌発見のペリオ将来「王昭 君変文」(絵を用いた講釈の台本)にも「墳高數尺号青塚」の表現が見え、「青塚」の表現が広く一般に定着し ていたことが知れる。 「青塚」の名は、『太平寰宇記』巻38 振武軍・金河県條に「青冢、県の西北に在り。漢の王昭君、此に葬らる。 其の上、草の色、常に青く、故に青冢と曰ふ。」とあり、また漢・蔡?撰『琴操』(散逸。実際は南北朝期の偽作) 「胡中、白草多きも、此の冢独(ひと)り青し。」とある様に、「一面の白沙白草の胡地に、王昭君の墓所のみ青 草が生い茂る」ことに由来し、この伝説は、「王昭君の魂魄の再生復活をその青草に期待し、願望したもの」で ある。 |
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班u、 | はん しょうよ | 前1世紀頃 | 怨歌行 | 擣素賦 | ||||
k-050 | 班 ul(はん しょうよ、生没年不詳)は、中国前漢の成帝の側室。 班况の娘で、班固や班超の大おばに当たる女 性。 ulとは女官の名称で「?、」とも書く。 成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、太后(許平君)を長信宮に供養することを理由に退いた。長信 宮に世を避けたulは、悲しんで「怨歌行」を作る。その詩は『文選』『玉台新詠』『楽府詩集』『古詩源』などに載せ られる。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。晋の陸機や唐の王維、王昌齢「西宮春 怨・長信秋詞」などがそれである[1]。『漢書』外戚伝・顔師古注に、彼女の伝がある。 ただし、班ulの甥の子である班固の記した『漢書』外戚伝には、班ulの「自傷賦」は載せているが、「怨歌行」に ついては記すところがない。また劉?『文心雕龍・明詩』では、前漢には五言詩は存在せず、班ulの詩といわれている ものは後世のものではないかと疑っている。『文選』の李善注によると、「怨歌行」は本来無関係な詩であったのを班u lに仮託したものだという。 班ulの詩とされるものには、ほかに『古文苑』に載せる「擣素賦」があるが、これも真作かどうか疑わしい。 |
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劉向 | りゅうこう | 前77-前6 | 説苑 | 新序 | 烈女傳 | |||
k-051 | 劉 向(りゅう きょう、?音: Liu Xiang、紀元前77年(元鳳4年) - 紀元前6年(建平元年))は、前漢の学者、政治 家。はじめの名は更生、字は子政。多数の著作者で知られる。劉邦の末弟である楚元王劉交の玄孫。陽城侯・劉 徳の第2子で、兄に劉安民が、弟(名は不詳)の息子に劉慶忌がいる。前漢の宗室の身分である。元服すると、宣帝 に仕え、文章の才を見込まれて抜擢された。父・劉徳が淮南で手に入れた書物によって自身が錬丹術に挑戦したが 失敗、弾劾されて投獄されたが兄の陽城侯・劉安民の取りなしやその才能を惜しまれたこともあって再び出仕した。そ の後、蕭望之・周堪らと力を合わせて職務に励み、外戚の許氏や宦官の弘恭らの弊害を説く上書をしたところ、誣告 とされて蕭望之は自殺、周堪らは左遷、劉向は投獄の後に免職となった。やがて、長兄の劉安民が嗣子なくして没し たために、陽城侯を継いだという。 10数年後、成帝の世になると弘恭らは失脚、そこでまた任用された。この時に、名を向に改めた。それから宮中蔵書の 校勘を担当することになった。この頃、外戚の王氏が権力を握っていたので『列女伝』など著作をはじめとして、文章を 奏上することによって何度も主上を諫めた。主上も諫言をもっともだと思っていたが、周囲の圧力のためにそれらを活か すことができず、劉向は30年あまりも重用されることなく72歳でこの世を去った。なお、紅侯の劉?は第3子である。 |
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趙飛燕 | ちょうひえん | ? - 前1年 | 歸風送遠操 | |||||
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趙 飛燕(ちょう ひえん、? - 紀元前1年)は、前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。 正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常に簡単なものであるが、稗史においては美貌をもって記述されて おり、優れた容姿を表現する環肥燕?の燕痩が示すのが趙飛燕である(環とは楊貴妃のこと、幼名・玉環による)。 その出生は卑賤であり、幼少時に長安にたどり着き、号を飛燕とし歌舞の研鑽を積み、その美貌が成帝の目にとまり 後宮に迎えられた。後宮では成帝の寵愛を受け、さらに妹の趙合徳が昭儀として入宮されることも実現している。成帝 は趙飛燕を皇后とすることを計画する。太后の強い反対を受けるが、前18年12月に許皇后を廃立し、前16年に立 后が実現した。 前7年、成帝が崩御すると事態が一変する。成帝が急死したことによりその死因に疑問の声が上がり、妹の趙合徳が 自殺に追い込まれている。こうした危機を迎えた趙飛燕であるが、自らの子がなかったため哀帝の即位を支持、これに より哀帝が即位すると皇太后としての地位が与えられた。しかし前1年に哀帝が崩御し平帝が即位すると、支持基盤を 失った趙飛燕は、王莽により宗室を乱したと断罪され、皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、さらに庶人に落とさ れ、間もなく自殺した。 |
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k-052 |
新 |
ID | 詩人名 / 事項 | よみかな | 作品名 |
![]() 紀 頌之 |