金・元時代以降の詩人 |
金朝(きんちょう)ともいう、中国北半分を支配した女真族の王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。 金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、国号を楚とさせた。しかし張邦昌は金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。 その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金はこれに対する懲罰を名目として再度の南征を開始し、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。 金と南宋双方での和平派と戦争継続派の勢力後退の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であったが、中国の二分化を元による統一まで継続することとなる。 |
■ 中州集
金朝(1115‐1234)一代の詩人の作品を集めたもの。《中州集》10巻と《中州楽府(がふ)》1巻から成る。この場合の〈楽府〉は,詞をいう。金の元好問が,1233年(天興2),金の滅亡を前にして,王朝の文化を後世に残すために編集したもの。帝王以下,金一代の詩人249人の作品を,それぞれに小伝をつけて採録したもの。銭謙益による明代の詩の集録である《列朝詩集》は,元好問の《中州集》にあやかるものである。
681 | 元好問 1190〜1257 | げんこうもん |
太原秀容の出身。字は裕之、号は遺山。幼時より詩文に長じ、金に仕えて元には応じず、金史編纂のために自ら各地で資料を収集し、後の『金史』編纂で多く利用された。 | 岐陽 |
元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には1635年まで存続したモンゴル人王朝であり、モンゴル帝国の皇帝直轄世襲領である。元朝(げんちょう)とも言う。正式の国号は大元(だいげん)。 中国王朝としての元は、北宋崩壊(1127年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 -1644年)が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。 |
685 | 馬致遠 まーちえん | 生没年未詳。 |
元初の劇作家。大都(北京)の人。号、東籬(とうり)。元曲四大家の一人。王昭君を主題とした雑劇「漢宮秋」で有名。ほかに散曲を集めた「東籬楽府(がふ)」がある。 | 〔越調〕天淨沙 秋思 |
明(みん) 1368年 -1644年 明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。大明と号した。朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。元に対し、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。 |
![]() 紀 頌之 |