六朝文化と詩人 |
トピックス 六朝文化【りくちょうぶんか】 222年 - 589年 建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思 う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒 教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、 また変化している。 |
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司馬氏の台頭 |
呉軍を撃退し諸葛亮の北伐を防いだ魏の司馬懿は、その軍功と権力から 周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東には公孫氏勢力が独立して いたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを見せたために魏の中央は司 馬懿に対して討伐を命じ、238年、これを滅ぼした。その翌年の239年、倭 の卑弥呼の特使が魏に訪れた(魏志倭人伝)。また、魏は遼東を完全に支 配下に置くことで東の高句麗と国境を接するようになり、のちの244年には武 将・?丘倹が高句麗首都を陥落させている。 239年、曹叡は早世し、養子の曹芳が魏の皇帝となった。曹叡は死去する に際して司馬懿と皇族の曹爽に曹芳の後見を託したが、後に司馬懿は曹 爽とその取り巻きに権力を奪われ、閑職へと追いやられた。これに対して司 馬懿は249年に息子の司馬師らと共にクーデターを起こして曹爽一派を殺 害し、権力を掌握した(高平陵の変)。完全に魏を牛耳った司馬懿だが、旧 主の曹操に倣って帝位の簒奪は行わないまま251年に死去した。 その後の権力は司馬師に受け継がれ、司馬師が死ぬと司馬昭に受け継が れる。この間、255年の?丘倹の乱(?丘倹・文欽の乱)や257年の諸葛誕の 反乱(諸葛誕の乱)などの司馬氏支配の魏中央政府への反乱が何度か 起きるが、司馬氏に対する有効な打撃力とはなり得ず、鎮圧されていった。 諸葛誕の反乱は、魏軍26万と諸葛誕・呉軍20万が1年にわたり激突した大 戦であった。 呉では、孫権が皇太子の孫和と孫和の弟の孫覇の両人をほぼ同等に処遇 したため、立太子を期待する孫覇派と廃太子を防ごうとする孫和派の対立 を招いた。孫権が決断を欠いたため、対立は泥沼化し、吾粲が処刑され、 陸遜が憤死するなど、国力を衰退させた。この問題は、250年、孫和が廃 太子され、七男の孫亮を皇太子に立てることで決着した。孫覇は自害を命 じられ、多くの孫和派と孫覇派の人物が誅殺されたり、追放された(二宮事 件)。 252年に孫権は死去し、孫亮が10歳で皇帝となると、太傅・大将軍の諸葛 恪が呉の政権を握った。諸葛恪は252年に孫権の死後を狙って侵攻してき た魏の胡遵・諸葛誕に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗 に終わり、疫病で多くの兵士が亡くなった。これで落ちた声望を回復するため に国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った 皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺され、孫峻が丞相となり呉 の政権を握った。 孫峻は自分の権勢のためだけに独裁政治を行った。256年に孫峻が病死す ると、孫峻の従弟の孫?が権力を握り、孫峻同様の独裁政治を行った。257 年、魏で諸葛誕の反乱が起きると、諸葛誕と手を結んで魏を攻めるが、失 敗に終わった。孫?の影響力が低下したことを見た孫亮は孫?の排除を図る が、逆に孫?により廃位され、孫権の六男の孫休が代わりに擁立され皇帝と なった。孫休は孫?がクーデターを計画していると聞くと、張布・丁奉らと対策 を練り、孫?を捕らえ、処刑した。 蜀漢では、255年に姜維が魏を攻めて魏の雍州刺史の王経に大勝したが、 256年の段谷の戦いで大敗し、蜀漢の国力を疲弊させた。258年以降、蜀 漢では宦官の黄皓が政治を乱し、皇帝の劉禅は遊び呆けていた。蜀漢を 滅ぼす機会と見た司馬昭は鍾会・ケ艾ら20万の軍勢を派遣して、263年に 成都を開城させ蜀を滅ぼした(蜀漢の滅亡)。 264年、鍾会が姜維と共に益州で独立しようと反乱を起こしたが、失敗し、 混乱の中で鍾会・ケ艾ら魏将や姜維ら蜀将が討たれた。この混乱に乗じて 呉の歩協・陸抗らが羅憲が守る永安城を攻めたが、羅憲は永安城を堅守 し、魏の胡烈が羅憲の援軍に派遣されると、呉軍は撤退した。 蜀の滅亡後に魏に降伏した霍弋は南中都督に任じられ、呉の交州の交阯 郡・九真郡・日南郡を制圧した。 |
西晋による中国統一 | ![]() ![]() |
司馬昭は265年に死去し、息子の司馬炎(武帝)が後を継ぐ。司馬炎は魏の曹奐からの禅譲を受けて、魏が滅び、西晋が建国された。その後、司馬炎はしばらくは内部を固めることに時間をかけた。 264年、呉の皇帝の孫休が病死し、孫晧が皇帝に即位したが、暴政を行い、呉の政治は乱れた。 270年、鮮卑の禿髪樹機能らが西晋に反乱を起こし、西晋の秦州刺史・胡烈や涼州刺史・牽弘を討ち取った。禿髪樹機能の反乱は羌族ら他の民族も参加する大規模なものだったが、277年、西晋の司馬駿・文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び西晋に反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に滅ぼされた。 271年、呉の虞・陶?らは交州の西晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を制圧した。 272年、歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、呉の陸抗がこの反乱を鎮圧した(西陵の戦い)。 279年、西晋の司馬炎は呉に出兵し、280年に呉を滅ぼし、ついに中国統一を実現した。ここをもって三国時代は終わった。 統一後の武帝はまったく堕落し、女色に耽って政治を省みず、上級官僚の間では現実の政治を無視した清談が流行した。さらに武帝は、地方分権を図り一族を地方の王として任命し、大きな権力を与えたため、死後には後継者恵帝が無能なために后一族らと司馬一族による権力争い(八王の乱)が起こった。この乱で国力を消耗した晋は劉淵による漢(前趙)の建国とその侵攻によって晋は統一から30年で崩壊し(永嘉の乱)、再び中国は分裂状態に逆戻りすることとなった。 |
<西晉詩> | 裴秀 | 韋昭 | 傳玄 | 皇甫諡 | 山濤 |
杜預 | 陸壽 | 李密 | 荀メ | 劉怜 | |
張華 | 程暁 2.詩《嘲熱客》 | 潘岳 | 束ル | 張翰(張季鷹) | |
策靖 | 陸機 | 陸雲 | 王戎 | 阮咸 | |
向秀 | 張協 | 左思 | 左貴嬪 | 張載 | |
孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 |
晋 265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
|
東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
西晋 265年 - 316年 | ||||||||
裴秀 | はいしゅう | 224-271 | 禹貢地域圖 | |||||
韋昭 | いしょう | ? -273 | 國語注 | |||||
傳玄 | ふげん | 217-278 | 和班氏 | 詩一首 | 玉臺:12篇 | 傳子 | ||
皇甫諡 | こうほじ | 215-282 | 帝王世紀 | |||||
山濤 | さんとう | 205-283 | 山濤集 | 〔七賢〕 | ||||
杜預 | とよ | 222-284 | 破竹の勢い | |||||
陸壽 | りくじゅ | 不明 | 三国志を完成させる。 | |||||
李密 | りみつ | 224-287 | 陳情表 | |||||
荀メ | じゅんそう | ? -294 | ||||||
劉怜 | りゅうれい | 211-300〔七賢〕 | 酒徳頌 | 戒酒 | [巾軍]衣と為す | |||
張華 | ちょうか | 247-300 | 博物志 | |||||
潘岳 | はんがく | 247-300 | 西征賦 | 愁興賦 | ||||
束ル | そくせき | 262-300 | 補亡詩六首 | |||||
張翰(張季鷹) | ちょうか | 生没年不詳 | 雜詩 | |||||
策靖 | さくせい | 239年 - 303年 | 索子 | 出師頌 | 月儀帖 | 草書状 | ||
陸機 | りくき | 261-303 | 豪士賦 | 歎逝賦 | ||||
陸雲 | りくうん | 262-303 | 西征賦 | 登臺賦 | ||||
王戎 | おうじゅう | 234-305 | 三都賦 | 此必苦李 | 〔七賢〕 | |||
阮咸 | げんかん | 不詳 (210〜263) | 詠懐詩 | 〔七賢〕 | ||||
向秀 | こうしゅう | 不詳 (227〜272) | 思旧賦 | 難?叔夜 | 養生論 | 〔七賢〕 | ||
張協 | ちょうきょう | ? - 307 | 現存僅13首 | 詠史詩 | 遊仙詩1首 | 雜詩11首 | ||
左思 | さし | 250-305 | 招隠詩 | 嬌女詩 | 三都賦 | 齊都賦 | ||
詠懐詩 | ||||||||
左貴嬪 | さきひん | 不詳(?〜300) | 花瓶 | 左思の妹(左芬) | ||||
張載 | ちょうさい | 280〜289 | 七哀詩 | 活躍 | 贈司隸傅 | 鹹詩 | ||
孫楚 | そんそ | 不詳 - 293年 | 寄暢散懐 | 征西官属 | 劍閣銘 | 瓜賦 | ||
司馬懿 | しばい | ? -306 | 讌飲詩 | |||||
王衍 | おうえん | 256-311 | ||||||
潘尼 | はんに | ? -311 | ||||||
郭象 | かくしょう | ? -311 | 老子注 | |||||
六朝は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東 晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。 呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年) を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称 することもある。 六朝文化(222年 - 589年) 江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。 1. 六朝 建業(南京)を都にした王朝 1)最初の南朝 ・呉 2)続いて都とした南朝4国 (1)呉 (2)東晋 (3)宋→斉→梁→陳 2. 六朝文化 特徴、担い手、思想 1)清談 魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清 談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。 2)竹林の七賢 次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。3)老荘思想 その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 (3)東晋の貴族文化 1)詩歌 (1) 詩人 〈魏〉 孔融/阮ウ/応トウ/劉驕^陳琳/王粲/徐幹/曹操/曹丕/曹植/何晏/繆 襲/応キョ/ケイ康/阮籍 〈晋〉 応貞/傅玄/孫楚/傅咸/張翰/張載/張協/張華/潘岳/石崇/欧陽建/ 陸機/陸雲/左思/潘尼/劉コン/郭璞/許詢/盧ェ/王羲之/孫綽/袁宏/謝混 〈宋〉 陶淵明/謝恵連/謝霊運/袁淑/願延之/鮑照/鮑令暉/謝荘 〈南斉〉 釈恵休/王融/謝眺 (2) 文選 散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は 梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。 2)書 王羲之・王献之の父子。 3)画 顧ガイ之 女史箴図 4)仏教文化 仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・ 仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。 このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実 剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など), 南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたとい え,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
西晉 266〜316 | |||||||||
裴秀 | はいしゅう | 224-271 | 禹貢地域圖 | ||||||
韋昭 | いしょう | ? -273 | 國語注 | ||||||
傳玄 | ふげん | 217-278 | 和班氏詩一首 | ||||||
皇甫諡 | こうほじ | 215-282 | 帝王世紀 | ||||||
山濤 | さんとう | 205-283 | 『山濤集』 | 〔七賢〕 | |||||
杜預 | とよ | 126 222-284 | 破竹の勢い | ||||||
陸壽 | りくじゅ | 不明 | 三国志を完成させる。 | ||||||
李密 | りみつ | 224-287 | 陳情表 | ||||||
荀メ | じゅんそう | ? -294 | |||||||
劉怜 | りゅうれい | 211-300 | 酒徳頌戒酒 | [巾軍]衣と為す | 〔七賢〕 | ||||
張華 | ちょうか | 247-300 | 博物志 | ||||||
潘岳 | はんがく | 247-300 | 西征賦 | 愁興賦 | |||||
束ル | そくせき | 262-300 | 補亡詩六首 | ||||||
張翰(張季鷹) | ちょうかん | 生没年不詳 | 雜詩 | ||||||
策靖 | さくせい | 239年 - 303年 | 索子 | 草書状 | 出師頌 | 月儀帖 | |||
陸機 | りくき | 261-303 | 豪士賦 | 歎逝賦 | |||||
陸雲 | りくうん | 262-303 | 西征賦 | 登臺賦 | |||||
王戎 | おうじゅう | 234-305 | 三都賦 | 此必苦李 | 〔七賢〕 | ||||
阮咸 | げんかん | 不詳 (210〜263) | 詠懐詩 | 〔七賢〕 | |||||
向秀 | こうしゅう | 不詳 (227〜272) | 思旧賦 | 難?叔夜 | 養生論 | 〔七賢〕 | |||
張協 | ちょうきょう | ? - 307 | 現存僅13首。 | 詠史詩1首 | 遊仙詩1首 | 雜詩11首 | |||
左思 | さし | 250-305 | 詠懐詩 | 招隠詩 | 嬌女詩 | 三都賦 | 齊都賦 | ||
張載 | ちょうさい | 280〜289活躍 | 贈司隸傅 | 鹹詩 | 劍閣 | 銘瓜賦 | |||
左貴嬪 | さきひん | ?〜300 | 花瓶 | 左思の妹(左芬) | |||||
孫楚 | そんそ | 不詳 - 293年 | 寄暢散懐 | ||||||
司馬懿 | しばい | ? -306 | 讌飲詩 | ||||||
王衍 | おうえん | 256-311 | |||||||
潘尼 | はんに | ? -311 | |||||||
郭象 | かくしょう | ? -311 | 老子注 |
中国で,3世紀初頭から6世紀末におよぶ時代の文化をいう。政治史では後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの分裂時代を魏晋南北朝時代というが,この時期を文化史では六朝時代(文化)と呼びならわす。 六朝とは呉(222年―280年)に始まる晉,東晋(晋を参照)・宋・斉・梁・陳の6王朝をいうが,いずれも長江下流の建業(建康,現在の南京)を首都とした。この時代の華北は五胡十六国や北朝諸王朝が北方や西北方の異民族政権であったのに対し,漢人の6王朝が興亡した江南では,漢代以来の中国の伝統が温存されており,華北から戦乱を嫌って移住してきた貴族・豪族も含めて貴族社会が形成され,貴族が皇帝権力をも左右していた。加えて,江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。文学では陶潜や謝霊運がおり,散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。絵画の顧【がい】之(こがいし),書の王羲之(おうぎし)・王献之父子が有名。宗教では来世救済を説く仏教が盛んとなり,西域から僧侶が北朝に来中して仏典の翻訳に努める一方,中国からは法顕(ほっけん)がインドを訪れた。また,春秋戦国時代の老荘思想に後漢末以来の現世利益を求める民間信仰が加味された道教が成立し,北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された(442年)。一方,儒教では仏教や老荘思想の影響もあって,世俗を超越して論議にふける清談の風潮がうまれた(竹林の七賢など)。仏教の盛行にともなって仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に位置づけられる。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられる。 |
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儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至った。 |
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魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 | ||
仏教の伝来は、後漢代のこととされる。但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しなかった。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至った。そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄、釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承された。慧遠は「沙門不敬王者論」を著して、覇者の桓玄に対抗した。 |
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道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備した。この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之である。その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成された。一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する形で行なわれた。 |
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六朝楷書(りくちょうかいしょ)は、中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称。現在の楷書の起源となった書体の一つであり、書道では楷書の書風の一つとしてとらえられている。現代中国では魏楷、北魏楷とも称する。 なお、「六朝」とは本来南朝側に立った時代呼称であるが、書道を含む芸術の分野ではこの時代を「六朝時代」と呼ぶことが多いため、この呼称が使われている。 |
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書風 一般的な楷書体によく似るが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分が多い素朴・雄渾なものである。中には龍門二十品など、楷書体に似ても似つかない書風のものも少なくない。 さらに決まった筆法が存在せず、10個書蹟があれば10通りの書き方が存在するというくらい多彩である。これを分類すると、大きく分けて次の二種類になる。 方筆 起筆や転折(おれ)を角張らせて力強く線を引き、石をごつごつと刻むように書く筆法。六朝楷書の主流である。張猛龍碑のように自然な勢いに任せて大胆に書くものと、高貞碑のように骨太ながら正方形の辞界に収まるように緊密な書き方をするものとがある。 円筆 起筆や転折を丸め、全体的に柔らかい筆致で書く筆法。六朝楷書の一部に見られ、鄭文公碑を筆頭とする鄭道昭の書蹟に代表される書法である。南朝の筆法の影響を指摘する向きもある。 また字体に目立った統一が行われなかったため、異体字が極めて多いのが特徴である。その数はこれだけで一つの字典が出来るほどで、現に清の羅振玉は六朝楷書の異体字のみを集めた『碑別字』という字典を上梓している。 |
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歴史と展開 時代背景 316年に内乱のため著しく国力低下した西晋が、北方異民族に追われて南に逃げ東晋となったことにより、実質的に中国は南北に分断されることになった。西晋の故地にあたる北側では「五胡十六国」と呼ばれる異民族王朝が覇権をめぐって勃興し、南側では東晋が前秦に猛攻をかけられたり、重臣に内乱を起こされたりと不安定な状態ながらも、失地回復を狙っていた。 しかし420年、南側の東晋は努力虚しく禅譲を迫られ、宋が成立。さらに439年に北側で北魏が並みいる他王朝を征し北の覇者となったことによって南北の決裂は決定的なものとなり、本格的に南北朝時代が始まる。北朝と南朝は表向きは末期の頃を除くと大きな衝突を起こすことはなかったが、片や漢民族の土地を乗っ取った異民族、片やその異民族に追われて都落ちした漢民族という立場関係は反目をもたらすに充分で、両者は冷戦にも似た関係にあった。 このため文化的・芸術的な交流もそれほど盛んではなく、書道もある程度まで南北に分かれた状態で発展することになったのである。 発生と淵源 北朝を作った北方異民族は元はモンゴル周辺を本拠とする遊牧民族であって定住する習慣がなく、また漢民族とはまったく異なる統治システムを持っていた。しかし漢民族の故地を手に入れ漢民族的王朝を作り上げたことにより、そのシステムを変更する必要性に迫られた。 そこで彼らがとったのが、漢民族の制度や文化を吸収する漢化政策であった。幸い北朝の領域内には西晋の遺民が取り残されており、彼らが漢民族文化の伝道者となることでその目的が達成されることになった。当然のごとく、漢民族の文字である漢字も彼らによって北朝側に伝えられることになった。 六朝楷書の淵源はこの遺民が伝えた西晋の書蹟にあると見られている。西晋の書は基本こそ隷書であるが、末期の頃は本来横長の隷書が正方形になるなどやや楷書寄りとも取れる書風となっている。南朝では芸術的観点から行書・草書が優先され、そこから楷書に発展するが、北朝では漢字の受容を優先し、これをそのまま発展させて彼らなりの色づけをして六朝楷書としたと見られる。 北魏での隆盛 北朝を統一した北魏は、五胡十六国の頃から漢化政策に積極的な王朝であった。統一後もその路線を取り続け、なかんずく第6代皇帝の孝文帝は平城から漢民族王朝伝統の首都・洛陽に遷都し、姓名や官職名、習俗や言語に至るまで徹底した漢化を進めた。また漢化と人心統一の二つの効果を狙って漢民族の宗教である仏教に深く帰依し、多くの寺院や仏像を建立した。 これに後押しされる形で、六朝楷書が爆発的な発展を遂げることになった。特に書風は漢化政策の影響で、当時既に楷書が一書体として確立していた南朝の書にある程度まで学び、それを彼らなりに消化したことにより、西晋代のスタイルを引きずっていた状態から脱皮して独自の個性が確立されるようになる。 このような書蹟は、紙にあまりなじみのなかった北朝では写経を除いて紙に書かれることは少なく、碑や磨崖、造像記や墓碑などの金石文の形で残され、後世に「北碑」と呼ばれる巨大な書蹟群を造り上げることになった。 この時期、5世紀末から6世紀初頭までの期間が六朝楷書の最盛期であった。 東魏・西魏以降の変容 しかし534年に北魏が帝位争いにより東魏と西魏に分裂し、さらに550年に東魏が北斉へ、556年に西魏が北周へそれぞれ交替する頃になると、六朝楷書を取り巻く状況に変化が生じる。西魏で554年に王羲之・王献之、いわゆる「二王」の法帖が戦利品として持ち込まれるなど、南朝の書蹟である「南帖」やそれに類する書蹟が流入し始め、強い影響を与え始めたのである。 これによって北朝の書家の中には「二王」を手本として六朝楷書をかなり南朝寄りに変容させた書風を確立し、後世の隋や唐の楷書にも似た書蹟をものする者も現れた。従来型の六朝楷書も多くものされている中に混じっての出現ではあったが、この積極的な南朝書法の摂取は、後の南北合一の先駆をなすものであったと言ってよい。 発展的消滅 ここにとどめを刺したのが、581年に北周皇室の外戚であった楊堅が禅譲を受けて隋を建て、中国統一に乗り出したことである。8年後の589年に南朝の陳は隋の猛攻の前にあっさりと滅亡し、中国は約270年ぶりに統一されることになった。 この統一により南北を隔てていた政治的な壁は一気に取り払われ、南北の文化交流が雪崩をうって開始された。以前から垢抜けない自分たちの文化に劣等感を持ち、南朝の文化に憧れていた北朝側の人々はこれを好機と南朝側に急接近し、南北の文化は発展的に融合して行くことになった。特に第2代皇帝・煬帝は南北を貫流する運河を造営しており、この頃までには南北の文化は完全に融合していたと考えられている。 その中で、楷書も融合の対象となった。六朝楷書と同時期、南側でも隷書の走り書きにより成立した行書が整えられて発生した原初的な楷書が、南朝につながる東晋の王羲之や王献之によって行書とともに書道の一書体として定着し、既にその時点で一つの書体として完成されていたからである。 両者は発生経路(南朝=隷書→行書→楷書、北朝=隷書→楷書)も発達経路(南朝=書道の書体として発達、北朝=漢字受容のうちに自然発達)も異なり、それぞれ単独の存在ではあったが、その書風の近似性は融合を招くだけの親和性を充分に持っていた。さらに上記の通り隋以前より南朝の書法は北朝側にある程度知れており、最末期には大きな影響を与えるほどであったため、南北統一により一気に両者の融合が進み、六朝楷書は筆法や書法など技巧面で融合して発展的に消滅することになったのであった。 しかしそのように楷書成立の片棒を担いだ存在でありながら、六朝楷書の過去の書蹟はあくまで「異民族王朝の書蹟」扱いされてこれ以降注目されることがなくなり、忘れられたまま長い眠りにつくことになる。 再評価 六朝楷書がその眠りを覚まされたのは、実に1200年以上も後の清代のことである。康熙帝の時代に儒学の一環として始まった考証学は、考古学や文字学の分野にも進出し、書道にも大きな影響を与えつつあった。 そんな時、18世紀中頃から「北碑」の出土や発見が相次ぐようになる。考証学者たちはこれまで無視されてきた異民族の書蹟のレベルの高さと独特の書風に驚嘆し、多くの学者が研究に身を投じることになった。 なかんずく阮元は「北碑」と「南帖」として北朝・南朝の書蹟を比較して「南北書派論」「北碑南帖論」を唱え、北朝・南朝での書道の発展はまったく別個であり、模刻の連続で誤りが累積した南帖よりも、石に彫られて原形がある程度まで残っている北碑の方が価値があると断じ、これにより北碑の書体である六朝楷書にも折り紙が与えられることになった。さらに包世臣がこれを絶賛、清末の康有為も南北単独発展の説は否定したものの、北碑の優秀性は認めてとどめをさし、六朝楷書の書としての立場は確固たるものとなった。現在では書道や書体研究、特に楷書の学書・研究において、六朝楷書は不可欠の存在とされるまでになっている。 日本での受容 古代における伝来 日本での六朝楷書の受容は、中国側では隋末から唐代初頭に当たる飛鳥時代から奈良時代のごく初期、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられている。 事実、大化2年(646年)の「宇治橋断碑」、「日本三大古碑」として有名な文武天皇4年(700年)の「那須国造碑」、和銅4年(711年)の「多胡碑」などは、六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑である。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書である。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ではあるが、六朝楷書の意が入っているといわれる。 このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっている。流入して来たのは直接的には百済の書法であったが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていた。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わったのである。 一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していた。そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられている。 しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまった。かくして日本での六朝楷書の系譜は一旦途絶えることになる。 近代の再伝来 その後も中国本土で無視されていたこともあって六朝楷書は忘れられたままであったが、最初の伝来から1300年近くが経った明治13年(1880年)、清国公使に随行して来日した考証学者・楊守敬が、日本に流出した文献類を買収するための資金調達用として北碑の拓本を持参したことで再伝来することになった。 これを見る機会に恵まれた日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、これを元に新たな書法を試み始めた。彼らの六朝楷書に対する評価や入れ込み方には根強い異論や反論もあり、「奇怪な書を書く妙な書家」などと陰口をたたかれることもあったが、結果的に彼らの活動は日本の書道界に新風を吹き込み、後世に大きな影響を与えることとなった。 現在では臨書のみならず六朝楷書の筆法を用いた書も多く制作され、また楷書の学書においてもかなりの割合で一度は接することがあるというほどになじみの深い存在となっている。 |
晋 265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
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東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
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一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。 |
晉(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氏)であったことからこの名がある。 |
晋 265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
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東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
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一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
東晉 317 - 420 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
劉コン(王+昆) | りゅうこん | 270 - 317 | 扶風歌 | 答廬ェ | 重贈廬ェ | ||||
廬ェ | ろじん | 答魏子悌 | 時興詩 | ||||||
東晋元帝司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | 別詩(別罷花枝不共攀) | ||||||
王偉 | おうい | 276 ‐ 322 | 東晋の政治家・軍人 | 中興賦 | |||||
謝混 | しゃこん | 350頃 ‐ 412 | 遊西池 | ||||||
郭璞 | かくはく | 276 - 324 | 爾雅・山海嬌・楚辭注 | ||||||
謝 尚 | しゃしょう | 307 - 357 | 大道曲 (古) |
贈王彪之詩 | 談賦 | 謝尚集》十卷 | |||
曹毘 | そうひ | 320 - 375 | 夜聴擣衣 | 對儒 | 曹毘集十五 卷 |
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王導 | おうどう | 267 - 330 | 晋代の政治 家 |
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陶侃 | とうかん | 256 - 334 | 東晋の武将 | ||||||
ユ翼 | ゆよく | 305 - 345 | 政治家・武将・書家。 | ||||||
葛洪 | かつこう | 323 - 359 | 抱朴子 | 神仙傳 | 隠逸伝 | 肘後備急方 | |||
王洽 | おうごう | 323 - 358 | 章草から草書への発展 | ||||||
僧支遁 | そう しとん | 314 - 366 | 文翰集 全10巻 | ||||||
桓温 | かんおん | 312 - 373 | 東晋の政治家・軍人 | ||||||
王猛 | おうもう | 325 - 375 | 前秦の宰相 | ||||||
孫綽 | そんしゃく | 314 - 371 | 遂初賦 | 天台山賦 | 玄言詩 | ||||
王羲之 | おうぎし | 303 - 379 | 蘭亭集序 | 楽毅論 | 集王聖教序 | 黄庭経 | |||
謝安 | しゃあん | 320 ‐385 | 貴族政治家 | ||||||
僧 道安 | そう どうあん | 312 - 385 | 綜理衆經目録 | ||||||
王獻之 | おうけんし | 344 ‐ 388 | 情人桃葉歌二首 | ||||||
桃葉 | とうよう | 不詳 | 答王團扇歌三首 | ||||||
王` | おうこう | 349 - 400 | |||||||
范寧 | はんねい | 339 - 401 | 春秋穀梁傳注 | ||||||
桓玄 | こうげん | 369 - 405 | 桓楚の初代皇帝、3ヵ月後にクーデターを起こした劉裕の挙兵によって殺さ れた。 |
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呉隠之 | ごいんし | ? - 413 | 酌貪泉詩 (古) | ||||||
僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | 《肇論》4巻 | ||||||
僧 慧遠 | そう さいえん | 334 - 417 | 法性論 | 沙門不敬王者 論 |
大智度論抄 | 釈三報論 | 大乗大義章 | ||
孔琳之 | こうりんし | 365 - 423 | 官僚・書家 | ||||||
陶潜 (陶淵明) | とうせん | 365 - 427 | 帰去来辭 | 桃花源 | |||||
陶淵明集 目次 | |||||||||
廬山諸道人 | ろざんしょどうじん | 400年ころ | 遊石門詩 (古) | ||||||
恵遠 | えおん | 334 - 416 | 沙門不敬王者論 | 大乗大義章 | 十誦律』の翻訳 | ||||
帛道猷 | はくどうゆう | 生卒年不詳 | 陵峯采藥觸興爲詩 | ||||||
謝道饂 | しゃどううん | 生卒年不詳 | 登山 | ||||||
趙整 | ちょうせい | ? - 410頃 | 諫歌 |
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
|
斉 479 - 502 |
|||
梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
|
陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
|
隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記 事 |
作品/記 事 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
宋 420 - 479 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
謝靈運 | しゃれいうん | 385 - 433 | 山居賦 | 1 | |||||
謝恵連 | しゃけいれん | 394 - 433 | 雪賦 | 1 | |||||
謝膽 | しゃたん | ||||||||
羊欣 | ようきん | 370 - 442 | |||||||
王微 | おうび | 415 - 443 | |||||||
劉義慶 | りゅうぎけい | 403 - 444 | 世説新語 | ||||||
范嘩 | はんか | 398 - 445 | 後漢書 | ||||||
寇謙之 | こうけんし | 363 - 448 | |||||||
鮑照 | ほうしょう | 405 - 450 | 蕉城賦 | ||||||
崔浩 | さいこう | 372 - 451 | |||||||
裴松之 | はいしょうし | 372 - 451 | 三国志 注 | ||||||
蕭思和 | しょうしか | 406 - 455 | |||||||
顔延之 | がんえんし | 348 - 456 | 北使洛 | ||||||
謝莊 | しゃそう | 421 - 466 | |||||||
宋武帝 (劉裕) | こうぶてい(りゅうゆう | 420-479 | |||||||
孝武帝 劉駿 | 430 - 464 | 自君之出 矣 |
1 | ||||||
南平王鑠 | なんぺいおうしゃく |
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
|
斉 479 - 502 |
|||
梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
|
隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
齊 479 - 502 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
齊 | 王僧虔 | おうそうけん | 426 - 485 | 齊論書 | 書賦 | ||||
周ギョウ | しゅうぎょう | ? - 485 | |||||||
高允 | こういん | 390 - 487 | 左傳釋 | 公羊釋 | |||||
蕭子良 | しょうしりょう | 459 - 495 | 四部要略 | ||||||
王融 | おうゆう | 468 - 494 | |||||||
謝チョウ | しゃちょう | 464 - 499 | |||||||
祖沖之 | そちゅうし | 429 - 500 | 太明歴 | ||||||
孔稚珪 | こうちけい | 447 - 501 | 北山移文 | ||||||
梁 502 - 557 | |||||||||
梁 | 蕭衍 | しょうえん | 464 - 502 | ||||||
范雲 | はんうん | 451 - 503 | |||||||
江淹 | こうえん | 444 - 505 | |||||||
任肪 | にんぼう | 460 - 509 | 述異記 | 文章縁起 | |||||
沈約 | しんやく | 441 - 513 | 南宋書 | 晉書 | 齊記 | 四聲類譜 | |||
鄭道昭 | ていどうしょう | ? - 516 | |||||||
鐘栄 | しょうえい | 469 - 518 | 詩品 | ||||||
僧祐 | そうゆう4 | 445 - 518 | 弘明集 | ||||||
呉均 | ごきん | 469 - 520 | 續齊諧記 | ||||||
周興嗣 | しゅうこうし | ? - 520 | 千字文 | ||||||
劉キョウ(+思) | りゅうきょう | 465 - 520 | 文心雕龍 | ||||||
王僧孺 | おうそうじゅ | 463 - 522 | 北魏?道元 | ||||||
レキ道元 | れきどうげん | 469?- 527 | 水經 注 | 北魏蕭統 | |||||
蕭統 | しょうとう | 501 - 531 | 文選 | ||||||
顔之推 | がんしすい | ? - 531 | 顔氏家訓 | ||||||
陸杲 | りくこう | 459 - 532 | |||||||
劉遵 | りゅうじゅん | 488 - 535 | |||||||
阮孝緒 | げんこうちょ | 479 - 536 | |||||||
陶弘景 | とうこうけい | 451?- 536 | 真誥 | 本草集注 | |||||
蕭子顕 | しょうしけん | 489 - 537 | 南齊書 | ||||||
劉孝綽 | りゅうこうしゃく | 481 - 539 | |||||||
皇侃 | こうかん | 488 - 545 | 論語義疏 | ||||||
蘇綽 | そしゃく | 498 - 546 | |||||||
オン子昇 | おんししょう | 495 - 547 | |||||||
高歓 | こうかん | 496 - 547 | |||||||
徐チ | じょち | 487 - 549 | |||||||
王イン | おういん | 481 - 549 | |||||||
蕭子雲 | しょうしうん | 487 - 549 | |||||||
ユ肩吾 | ゆけんご | ? - 550 | 書品 | ||||||
僧慧皎 | そうえいこう | 497年 - 554年 | 高僧傳 | ||||||
魏収 | ぎしゅう | 506 - 572 | 北魏書 | ||||||
北周 557 - 581 隋 581 - 618 | |||||||||
北 周 |
顧野王 | こやおう | 519 - 581 | 王篇 | |||||
ユ信 | ゆしん | 513 - 581 | 哀江南賦 | ||||||
王褒 | おうほう | 535-560年頃 | 活躍幼訓 | ||||||
徐陵 | じょりょう | 507 - 583 | 玉臺新詠 | ||||||
王通 | おうつう | 537 - 585 | |||||||
廬思道 | ろしどう | 535 - 586 | 隋州 |
ID | 詩人名 (生歿) / 事項 | よみかな | 作品名 | ||
78 | 元帝 (東晋) 司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | ||
元帝は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王 司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾 がいる。 |
別詩(別罷花枝不共攀) | ||||
建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋の元帝である。 しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と?協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年に逆に王敦に反乱を起こされ、?協やほかにも重臣であった戴淵、周らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。 それからほどなくして、48歳で崩御した。 東晋(とうしん、?音: D?ngjin)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。 |
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79 | 王羲之 (王逸少) | おうぎし(おういつしょう) | 303年 - 361年 | ||
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。 王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされている。 王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、唐の張懐?の撰『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。 他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などがある。 前出の『書断』には「王羲之、晋帝時、祭北郊更祝版。工人削之、筆入木三分。(大意:東晋の王羲之が祝版(祭文)を書いた。(誤字を消す)職人が木簡を削ってみたところ、あまりの筆圧で木簡には3分ほども筆の墨汁が染みこんでいた)」ともあり、この故事が日本に伝わり日本の書道は入木道とも呼ばれていた(三跡を参照)。 ![]() |
「蘭亭序」(353) 「楽毅論」 「十七帖」 『集王聖教序』 『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』 漢文。書道おもしろサイト 『中國の書家』 http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank02.html 『日本の書家』 http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank01.html |
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王獻之 (王子敬) | おう けんし、(おうしけい) | 344年 - 386年 | |||
王 献之は、中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから世に王大令とも呼ばれる。書道の大家で、父の王羲之とともに二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称される。王羲之の諸子はみな能書家であり、王献之は最年少であるが書の天分に恵まれ、羲之の書より逸気に富んでいるといわれているが、骨格だけは父には及ばないといわれている。王献之の書の特徴の一つとして一筆書(いっぴつしょ)があげられる。一筆書とは中秋帖などに見られる続け書き(連綿)のことで、この書風は王鐸や米?などに影響を与えた]。 | <玉臺新詠> 情人桃葉歌二首 |
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桃葉 | とうよう | 不詳 | |||
《王獻之情人桃葉歌二首》 其一 桃葉復桃葉,渡江不用楫。 但渡無所苦,我自迎接汝。 其二 桃葉復桃葉,桃葉連桃根。 相憐兩樂事,獨使我殷勤。 |
左の詩は、王獻之が愛妾”桃葉”のために詠った桃葉渡しは、今に至るも人に艶称されるという。 右の三首は應縣志に答えた歌と伝えられているものである。 |
《桃葉答王團扇歌三首》 其一 七寶畫團扇,粲爛明月光。 與郎卻暄暑,相憶莫相忘。? 其二 青青林中竹,可作白團扇。 動搖郎玉手,因風託方便。 其三 團扇復團扇,持許自障面。 憔悴無復理,羞與郎相見。 |
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80陶淵明(陶潜) | |||||
80 | 陶淵明(陶潜) 365〜427 | とうえんめい | |||
中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。尋陽柴桑(現在の江西省九江市柴桑区)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。 陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙郡公の陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌郡太守となったというが、詳しい事は不明である。母方の祖父には孟嘉がいる。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単家)」と呼ばれる下級士族の出身であった。 陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕える。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した。 以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「尋陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする、411年、住まいを南村に移すも、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う、という事があった。この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。427年、死去。享年63。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。 無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている。 <文学作品> 現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。その中でも「田園詩」と呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現として高い評価を得た。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」などが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはまる。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものであった。陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点がある。陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として、梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」のような一部の愛好者を獲得していた。一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴がある。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾エが紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、?にして実は腴なり」[11]のように高い評価が確立するようになる。 陶淵明には詩のほかにも、辞賦・散文に12篇の作品がある。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特に有名である。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩人」としての代表的側面が描かれた作品である。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクションであり東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などがある。 |
桃花源記 五柳先生。 責子 無弦琴 《文選》 始作鎮軍參軍經曲阿作 辛丑歳七月赴假還江陵夜行塗口 挽歌詩 雜詩二首 詠貧士詩 讀山海經詩 擬古詩 歸去來并序 歸園田居五首・其一(少無適俗韻) 歸園田居五首・其二(野外罕人事) 歸園田居五首・其三(種豆南山下) 歸園田居五首・其四(久去山澤游) 歸園田居五首・其五(悵恨獨策還) 飮酒二十首・序(余闍初ヌ歡) 飮酒二十首・其一(衰榮無定在) 飮酒二十首・其二(積善云有報) 飮酒二十首・其三(道喪向千載) 飮酒二十首・其五(結廬在人境) 飮酒二十首・其七(秋菊有佳色) 飮酒二十首・其八(松在東園) 飮酒二十首・其九 (C晨聞叩門) 飮酒二十首・其十一(顏生稱爲仁) 飮酒二十首・其十五(貧居乏人工) 飮酒二十首・其十六(少年罕人事) 桃花源記(晉太元中,武陵人捕魚爲業) 桃花源詩(贏氏亂天紀) 詠荊軻(燕丹善養士) 雜詩十二首・其一(人生無根蒂) 雜詩十二首・其二(白日淪西阿) 雜詩十二首・其三(榮華難久居) 雜詩十二首・其四(丈夫志四海) 雜詩十二首・其五(憶我少壯時) 雜詩十二首・其六(昔聞長者言) 雜詩十二首・其七(日月不肯遲) 形影~序(貴賤賢愚) 形贈影(天地長不沒) 影答形(存生不可言) 挽歌詩・其一(有生必有死) 挽歌詩・其三(荒草何茫茫) 己酉歳九月九日(靡靡秋已夕) 諸人共游周家墓柏下(今日天氣佳) 游斜川(開歳倏五日) 擬古九首・其四(迢迢百尺樓) 擬古九首・其八(少時壯且氏j 五柳先生傳(先生不知何許人) 責子(白髮被兩鬢) 九日闍潤@序(余闍処、重九之名) 九日闍潤i世短意常多) 始作鎮軍參軍經曲阿作(弱齡寄事外) 四時(春水滿四澤) 和郭主簿(藹藹堂前林) ![]() |
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81 | 僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | ||
魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 僧肇は、鳩摩羅什に師事し31歳で夭逝した天才仏教僧であった。解空第一と称され、竜樹の空の思想を中国で初めて老荘の格義を超えて理解したといわれる。著述にはインド仏教の空の思想を表現するために老荘の用語を使われ 、曇鸞大師に多大な影響を与えたことは『論註』で唯一「肇公」として固有名詞を挙げておられたり『維摩経』からの引文や「老荘」への言及からも推察される。 『肇論』涅槃無名論に、 天地與我同根。萬物與我一體。 (天地我と同根、万物我と一体。) と、ある語は有名で禅などでよく使われる。『荘子』斉物論に「天地我と並び生ず。而して万物と我とを一と為す(天地与我並生,而万物与我為一)」からのものであろう。 |
《肇論》4巻 |
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | 西晉 265 - 316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
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斉 479 - 502 |
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梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
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隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三 国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、 江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは 対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 |
また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。 |
西晉 | 265 - 316 | 傳玄 | 山濤 | 杜預 | 劉怜 | 張華 | 潘岳 | 束ル | 策靖 | |
張協 | 向秀 | 阮咸 | 王戎 | 陸雲 | 陸機 | 張翰(張季鷹) | ||||
左思 | 張載 | 左貴嬪 | 孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |||
五胡 十六国 301頃 〜 439 南北朝 420〜 589 |
東晋 | 317〜 420 |
元帝 | 王羲之 | 陶淵明(陶潜) | 僧肇 | 謝安 | 石宗 | 葛洪 | |
謝混 | 孫綽 | 王` | 王獻之 | 桃葉 | 桓玄 | 僧 慧遠 | ||||
宋 | 420〜 479 |
謝霊運 | 顔 延之 | 謝恵連 | 謝宣遠 | 劉鑠 | 謝膽 |
永明体 |
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北魏 | 386〜 535 |
鮑照 | 鮑令渾 | 江淹 | 范嘩 | 崔浩 | レキ道元 | 蕭統 | ||
寇謙之 | 崔浩 | |||||||||
齊 | 420〜 479 |
謝兆 | 任 ム | 沈約 | 王融 | |||||
斛律金 | 鍾エ | 江淹 | 竟陵王蕭子良 | 范雲 | 陸厥 | |||||
梁 | 502〜557 | 蕭衍・梁武帝 | 梁の簡文帝 | 范雲 | 何遜 | 王籍 | ||||
王褒 | 徐 陵 | 萸信 | 陸垂 | 蕭チン | ||||||
陳 | 557〜589 | 陳後主 | 陰鏗 | |||||||
隋 | 581〜 618 |
楊 素 | 薛道衡 | 観徳王・楊雄 |
DI | 詩人名 / 事項 | (生歿) | よみかな | 生没年/作品名 | |||
90.2 | 謝混 (謝叔源) | しゃこん | ?−412年 | ||||
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謝混(?−412年),字は叔源という,小字は益壽で,陳郡陽夏(今の河南省太康)の人である。東晉の名士である。 官員であり,太保の謝安の孫である。會稽?史であった謝?の第三子である。晉の孝武帝司馬曜の婿である。 謝混の 出身は陳郡における謝氏一族である,年輕時に頗に美譽が有り,文章寫を善くし,官を累して尚書左僕射に至る,爵 に襲われ蔡縣公に望み,並びに晉陵公主を娶り妻と為す。 |
遊西池 | |||||
謝膽 (謝宣遠) | しゃたん | 387−421 | |||||
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母の劉 氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて「喜霽詩」を 作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。初め桓偉の参 軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。時に弟の晦は右衛将軍として権遇は甚だ重く、賓客は輻輳してそ の門に至る。瞻は、かくの如き富貴権遇を門戸の福に非ずとし、「吾はこれを見るに忍びず」と言った。しか し、劉裕が宋王朝を始めるにあたり、晦はついに佐命の功を建てたので、瞻は益々憂えおそれ、たまたま疾 を獲たが療(なお)そうとはせず、まもなく卒した。随志には、文集三巻。 |
《文選》所収の謝宣遠詩 九日從宋公戲馬臺集送孔令詩 王撫軍?西陽集別作詩 張子房詩 答靈運 於安城答靈運 |
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宋武帝 (劉裕) | こうぶてい (りゅうゆう) | 420-479 | |||||
劉 裕(りゅう ゆう)は、南朝の宋の初代皇帝。廟号は高祖、諡号は武帝。字は徳輿。幼名は寄奴。徐州彭城郡彭城県綏輿里(現在の江蘇省徐州市銅山区)が本籍であるが、実質は南徐州晋陵郡丹徒県京口里(現在の江蘇省鎮江市丹徒区)。ほかの宋王朝と区別するために、劉裕の建てた宋は後世の史家により劉宋と称されている。 出自と幼少・青年期 劉裕は漢の高祖劉邦の弟である楚国の元王劉交の子孫を自称していたが、元来は東晋の下級官吏の出身であり、実際の出自は不明である。ただし北朝人の魏収が編纂した『魏書』島夷劉裕伝によると、楚の項羽の一族は、項羽が自害して劉邦に帰順した項羽の従父(叔父)の項伯と、最初から劉邦に従軍した項它、項襄などが劉邦の計らいによって劉姓を賜り、列侯になり、劉裕はその項姓劉氏の後裔と述べている[1]。また、本籍地が2つあるのはこの時代珍しくなく、曾祖父の劉混の時代に華北の戦乱を避けて綏輿里から京口に移ったためとも伝わる。 生母は産後の肥立ちが悪化し、劉裕が産まれてから産熱で亡くなった。劉裕が生まれた夜、不思議な光が部屋を照らし、父親の劉翹はこのことを不思議に思い、劉裕に奇奴という幼名を名付けたという。困窮した幼少時代であったとされ、父は幼い劉裕のために乳母を雇う金にも事欠き、劉裕は口減らしに父に絞め殺されかけたこともあったという。また、別の説では見かねた義理の姉が代わりに劉裕へ乳を与えていたというエピソードも残っており、そこから幼名を寄奴に改めたとされている。 父も劉裕が10歳の時に死去、わずかに有していた田での耕作や草履を商い生計を立てていた。劉道憐・劉道規は異母弟、隣接する彭城県安上里に住した東晋の左将軍で東興県侯の劉懐粛、劉懐慎兄弟は母方の従兄弟に当たる[注釈 1]。 成長した劉裕は気性が大変激しく、しかしその一方で器量も大きく、身分不相応な大望を持っていたという[2]。学問には全く興味を示さず知っている文字は4つか5つほどしかなく、好きなものは博打(樗蒲)という無頼の徒も同然だった[2]。 東晋時代 399年、五斗米道の信者を中心に起こった孫恩及び盧循の乱において、劉裕は北府軍の下級将校として数10人の兵卒を率いて数千の敵兵を相手にして戦い、兵卒が全員討ち死にしてしまうと単独で敵軍を蹴散らして勝利を収めるという剛勇を見せた[3]。また劉裕は劉牢之の北府軍団に従い戦功を立て、軍規の乱れが目に付く北府軍団の中で劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた上、上官の劉牢之からも上級の将軍として取り立てられ、孫恩軍が建康から撤退した際にはこれを徹底的に追撃して海辺に駆逐して再起不能にならしめた[3]。 ところが402年、西府軍団を率いる桓玄が首都の救援の名目で建業を制圧した。この際、劉牢之は桓玄に味方したが劉裕はそれを懸命に諌めるも聞き入れられず[4]、桓玄が司馬道子らを殺害して実権を握ったため、これを後悔した劉牢之は江北に逃れてともに再起を図ろうと劉裕を誘ったが、劉牢之の度重なる裏切りに愛想を尽かした劉裕は「貴公は強卒10万を率いる将軍であった時には投降し、今朝野の人望を失って刃向かうとはわけのわからぬ事です」と述べて拒絶した[5]。劉牢之は孤立して最期には自殺し[5]、劉牢之を失った北府軍団は解体され、劉裕も桓玄の支配に属することになる。 403年10月、桓玄が安帝を廃して禅譲を受け、国名を楚として自ら皇帝を称した[5](桓楚)。この際、桓玄は劉裕を高く評価し、そのための酒宴を何度も開いて慇懃丁寧に応対し、贈与品も手厚くした[6]。しかし桓玄の妻だけは劉裕を恐れて殺害する事を夫に薦めていた[6]。 404年2月、劉裕は劉毅・諸葛長民らを同志として、桓玄打倒の反乱を起こした。広陵の桓玄の軍勢を数10名の壮士を率いて夜明けに急襲し、敵は朝食を食らっていた時だったためにそのまま斬り捨てることができた[7]。劉裕はここで兵を募って軍を編成するとすぐ長江を渡って建康に向かい、各地に檄を飛ばした[7]。この時の劉裕軍はそれでもわずかに1700名という寡兵であったが、桓玄はなすところも無く敗れて舟で長江から江陵に逃走し、幽閉していた安帝を連れて再度東下したが、攻め上ってくる劉裕軍に蹴散らされて江陵も失い、5月に蜀に逃げる桓玄を討ち取った[7]。そして劉裕は桓玄に追放されていた安帝を復位させることに成功した[8]。 こうして東晋を復興させた功臣として発言力を獲得した劉裕は腹心の劉穆之の献策に従い、宰相となって独裁的な権力を掌握、さらに自らの立場をより強固なものとするため、劉毅・諸葛長民及び司馬休之・文思父子ら反対派に対して容赦ない粛清を行った。国内の反対派を粛清する一方、410年より北伐を開始する。同年に南燕を、413年に後蜀を、417年には後秦も滅亡させ、一時的ではあるが洛陽・長安を奪還した。後秦と同盟国の北魏の3万の軍勢をわずか2700名で撃破した記録がある[注釈 2]。これらの功績により劉裕は相国に任じられ、宋王に封じられた。これらの遠征に関しては漢人の民族意識を満足させ、自らの人望をさらに高める事が目的だったとされている[8]。 即位後 418年、劉裕は安帝を殺害、東晋最後の皇帝となる恭帝を擁立する。禅譲を計画した劉裕は、420年に恭帝から禅譲を受けて皇帝に即位し宋を建国、後顧の憂いを断つため恭帝を殺害した[9]。また、東晋の皇室一族を殺戮した。禅譲後に旧皇帝を殺すようになったのは、劉裕からである。なお、極度の障害児だった安帝をわざわざ殺して聡明といわれた恭帝を擁立したのは、劉裕が「昌明(孝武帝)の後、なお二帝あり」という予言を気にしたためという[8]。 土地政策においては、東晋で地方勢力が跋扈した教訓により、地方豪族の抑制政策を実施した。具体的には、東晋時代の404年に京口の大地主の?逵(?協の孫)を石頭という所で殺害し、?氏の広大な土地と財産を貧民に分配した。その後、余姚虞氏の虞亮も殺害している。劉裕は大地主を解体すると同時に戸籍の整備を行った。また、東晋時代に分裂の元となった北府と西府をそれぞれ皇族が治めるよう定めた。 このように宋の基盤を確固たるものとした武帝であるが、即位後わずか3年で60歳で死去し、長子である劉義符が即位した。徐羨之・傅亮・檀道済・謝晦らが後事を託された。 『後漢書』の作者范曄、『三国志』の注釈を行った裴松之、五胡十六国時代や南北朝時代を代表する詩人の陶淵明も劉裕に仕えていた。また、『世説新語』の撰者の臨川康王劉義慶は劉裕の甥にあたる。 評価 桓玄は「風骨、常ならず、けだし人傑なり」「やがて朕が中原を平らげる時、役立つのはあいつ(劉裕)だ」と評した[6]。桓玄の妻は「劉裕の歩きぶりは龍か虎のよう、目つきも尋常ではなく、他人の下に甘んじているような人物ではとてもとても思えませぬ。今のうちに始末なさらなければ」と警戒していた[6]。 |
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孝武帝 (劉駿) | こうぶてい(りゅうしゅん) | 430-464 | 自君之出矣 | ||||
孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。 430年8月、文帝(劉義隆)の三男として生まれた。436年9月、武陵王に封じられた。439年、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。440年、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。444年、撫軍将軍の号を受けた。445年、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。448年、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。450年、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。451年2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南?州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。 453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。 459年4月、異母弟の劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。 在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、宋の衰退の端緒となった。 464年閏5月、玉燭殿で死去した。 |
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南平王鑠 (劉鑠) | なんぺいおうしゃく(りゅうしゃく) | 431-453 | 白紵曲 (古) |
擬行行重行行 (古) | |||
劉 鑠(りゅう しゃく、431年 - 453年)は、南朝宋の皇族。南平穆王。文帝劉義隆の四男。字は休玄。 劉義隆と呉淑儀のあいだの子として生まれた。439年(元嘉16年)8月、南平王に封じられた。440年(元嘉17年)12月、都督湘州諸軍事・ 冠軍将軍・湘州刺史に任じられたが赴任せず、石頭に駐屯した。445年(元嘉22年)1月、使持節・都督南豫豫司雍秦并六州諸軍事・南 豫州刺史に転じた。6月、南豫州が廃止されて寿陽を治所とする豫州に統合されると、劉鑠は豫州刺史となった。まもなく安蛮校尉を兼ねた。 450年(元嘉27年)2月、平西将軍の号に進んだ。 北魏の太武帝が大軍を率いて陳郡や潁川郡に進攻し、汝南郡の懸瓠城を包囲した。魏軍は昼夜を分かたず懸瓠城を攻め立てたが、宋の 行汝南郡太守の陳憲が城を固守し、40日あまりも攻防を繰り広げた。劉鑠が安蛮司馬の劉康祖と寧朔将軍の臧質を派遣して懸瓠城を救 援すると、魏軍は攻城具を焼いて敗走した。 宋が大軍を発して北伐し、劉鑠は中兵参軍の胡盛之を派遣して汝南に進出させ、到坦之(梁坦とも)を派遣して上蔡に進出させ、長社に向 かわせた。北魏の長社戍主の魯爽が城を棄てて逃走し、到坦之は長社を陥落させた。到坦之は幢主の王陽児・張略らを派遣して小索に拠 らせた。北魏の豫州刺史の僕蘭が大索から2000の兵を率いて王陽児を攻撃すると、王陽児は僕蘭を撃退した。到坦之らが大索に向けて進 軍し、?陽の鄭徳玄・張和が起兵して到坦之に呼応すると、僕蘭は虎牢に撤退した。到坦之は王陽児らと合流し、大索を確保すると、虎牢に 向けて進軍した。劉鑠はまた安蛮司馬の劉康祖を派遣して到坦之の後詰めとした。北魏の永昌王拓跋仁が虎牢を救援すると、到坦之は敗 れた。拓跋仁は勝利に乗じて進軍し、尉氏の河港で劉康祖と遭遇すると、劉康祖は敗れて戦死した。拓跋仁は進軍して寿陽を脅かして通過 し、東から太武帝の本軍と長江北岸で合流した。 451年(元嘉28年)夏、北魏の荊州刺史魯爽と弟の魯秀らが、部下を率いて劉鑠のもとを訪れて降伏した。この年の7月、劉鑠の生母の呉 淑儀が死去したため、劉鑠は建康に帰還した。葬儀を終えると寿陽にもどり、豫州刺史に復任した。ときに江夏王劉義恭が南?州刺史をつとめ て、??に駐屯していたが、その母が死去したため、建康にもどった。当時南?州の地は荒廃していたことから、文帝は南?州を廃止して南徐州に 統合し、別に淮南都督を置いて??に駐屯させ、その任に劉鑠を当てようとした。しかし劉鑠は散騎常侍・撫軍将軍の位を受け、兵を率いて石 頭に駐屯した。 453年(元嘉30年)2月、劉劭が文帝を殺害して即位すると、劉鑠はその下で中軍将軍となった。武陵王劉駿が劉劭を討つべく起兵すると、 劉鑠は劉劭により使持節・都督南?徐?青冀幽六州諸軍事・征北将軍・開府儀同三司・南?州刺史に任じられた。柳元景が劉駿の軍の先 鋒として新亭に進軍してくると、劉劭は自ら柳元景を攻撃し、劉鑠は劉劭に随行した。4月、江夏王劉義恭が劉駿のもとに逃亡すると、劉鑠は 劉劭の命を受けて東府を守備し、侍中・驃騎将軍・録尚書事となった。劉劭は蒋侯神(蒋?、字は子文)の神像を宮中に入れて、劉駿を呪 詛したが、その策文は劉鑠が作らされた。5月、孝武帝劉駿の軍が宮中に入ると、劉鑠は始興王劉濬とともに孝武帝に降伏し、劉濬は処刑さ れた。劉鑠は孝武帝に迎えられて、侍中・司空に任じられた。文帝の喪が明けていないことを理由に侍中の位を辞退した。 7月、劉鑠は孝武帝により毒殺された。享年は23。侍中・司徒の位を追贈された。 書籍・文集 南平王鑠集》.書名, 南平王鑠集., 隋書經籍志. 内容, 宋《南平王鑠集》五卷(梁有宋《竟陵王鑠集》二十卷,《建平王休度集》 |
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91 | 謝霊運 (謝康樂) | しゃれいう ん |
385〜433 | ||||
東晋・南朝宋の詩人・文学者。字は宣明。本貫は陳郡陽夏県。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠 じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。 六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東 晋の名将である。父の謝?(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康 楽とも呼ばれる。族弟の謝恵連の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では南斉の謝?とあわせて「三謝」とも呼 ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に反逆をされて捕らえら れ刑死した。 406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。少帝の時 代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、在職1年で辞職、郷里の会 稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも交流し、多くの優れた詩作 を残した。 424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。その後、侍中 に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、再び郷里に帰っ た。 再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に任ぜられる が、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道中で脱走を計 画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。享年48。 <著 作> 『文選』には、右に示す通り、代表作である「登池上樓」「石壁精舎還湖中作」「於南山往北山経湖中瞻眺」など の作品が、39首と2番目に多く採用されている(最多は陸機の52首)。 謝靈運詩は60数首、訳注解説している。 謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と共に、 法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成させ、竺道生に よって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」などを著した。 また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同名の注 釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの疑問が提出さ れており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用され、僧肇の注釈書と類 似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は謝霊運の著作である可能性が 高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたものではないため、今後これらを総合的に検証 し直す必要性が望まれている。 もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして不遜な 態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒然草』第108段 に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交りを許さざりき」とあるよう に、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる. ![]() |
山居賦 東陽谿中贈答 《文選》 述祖コ詩二首 九日從宋公戲馬臺集送孔令詩 鄰里相送方山詩 從遊京口北固應詔 ?出西射堂 登池上樓 遊南亭 遊赤石進帆海 石壁精舍還湖中作 登石門最高頂 於南山往北山經湖中瞻眺 從斤竹澗越嶺溪行 廬陵王墓下作 還舊園作見顏范二中書 登臨海?初發彊中作與從弟惠連見羊何共和之 酬從弟惠連 永初三年七月十六日之郡初發都 過始寧墅 富春渚 七里P 登江中孤嶼 初去郡 初發石首城 道路憶山中 入彭蠡湖口 入華子崗是麻源第三谷 樂府 會吟行 南樓中望所遲客 田南樹園激流植援 齋中讀書 石門新營所住四面高山迴溪石P脩竹茂林詩 <擬魏太子?中集詩八首并序> 序 1. 魏太子 2. 王粲 3. 陳琳 4. 徐幹 5. 劉 6. 應? 7. 阮? 8. 平原侯植 |
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謝恵連 | しゃ けいれ ん |
407年 - 433年 | |||||
謝 恵連(謝惠連、しゃ けいれん、397年もしくは407年 - 433年)は、南朝宋の文学者。本貫は陳郡陽夏県。詩 人としては、族兄の謝霊運の「大謝」に対し、「小謝」と併称され、後世では南斉の謝?とあわせて「三謝」とも呼ばれ る。 謝方明の子として生まれた。幼くして聡明で、10歳で文章を作ることができたといわれる。何長瑜に学問の手ほどき を受けた。恵連は遊び好きで父の方明には評価されなかったが、族兄の謝霊運は恵連の文才を高く評価し、彼や 何長瑜や荀雍・羊?之らとともに詩文の集いを開き、山水に遊んだ。世間は彼らを「四友」と呼んだ。恵連は本州に 主簿として召されたが、就任しなかった。会稽郡吏の杜徳霊と男色関係にあり、父の喪中にもかかわらず、彼に五言 詩十数首を贈った。これが世間に知られたため、恵連は罪に問われて遠地に流され、官界で栄達することができなか った。尚書僕射の殷景仁は謝恵連の文才を愛していたので、彼を弁護して「臣が小児のとき、世にこの文(詩)があ るのを見ました。論者がこれを謝恵連のものとするのは間違いです」と文帝に言上し、文帝は「もしそのとおりならば、 すぐに取り立ててやるべきだ」と言った。430年(元嘉7年)、彭城王劉義康の下で司徒法曹参軍となった。ときに劉義 康の治める東府城の堀の中から古い墓が発見され、これを改葬することとなり、恵連が祭文を作ったが、その文章の たいへん美しいことで知られた。また「雪賦」を作り、やはり格調高い美文で知られた。433年(元嘉10年)、死去し た。男子はなかった。 |
《文選》 雪賦 泛湖歸出樓中翫月 秋懷 西陵遇風獻康樂 七月七日夜詠牛女 擣衣 《玉臺新詠》 七月七日夜詠牛女 擣衣 代古 |
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范 曄 (范蔚宗) | はん よう | 398年 - 445年 | |||||
魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽 県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。 范曄は士族の家に生まれた。祖先の范?は西晋の雍州刺史、曾祖父の范汪は東晋の安北将軍・徐?二州刺史・ 武興県侯、祖父の范寧は臨淮郡太守・豫章郡太守、父の范泰は宋の侍中・光禄大夫となり、死後は車騎将軍 を追贈されている。范汪は「博覧強記にして、道理に通ず」とあり、『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻などを著 している。范寧は『春秋穀梁伝集解』12巻を著し、范泰も『古今善言』24巻を著したという。范曄は兄の范昂、范 ロ、范晏と末弟の范広淵がいた。 范曄は名門の生まれであったが、妾の生んだ庶子であった。范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚に 当たって傷ついてしまったため、「磚」が范曄の小字となった。若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章に巧みで音 律にも通じていた。420年、劉裕が東晋の禅譲を受けて宋を建国すると、范曄は劉裕の子、彭城王劉義康の冠軍 参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎な どを歴任した。 432年、范曄は劉義康の母の葬儀の最中、宴席を開いたことから劉義康の怒りを買い、宣城郡太守(現在の安徽 省)に左遷された。宣城在任中、志を得ずにいることから、それまでの史家たちが編纂した『後漢書』の記述を整理 し、自ら『後漢書』を編纂した。数年後に許されて長沙王劉義欣の鎮軍長史・寧朔将軍、始興王劉濬の後軍長 史・南下?郡太守、さらに太子・事などを歴任した。 当時、劉義康は文帝の弟として宰相の位にいて、内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝の文帝を凌いでい た。440年、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。 445年、散騎侍郎の孔熙先は劉義康の復権と擁立を謀り、范曄にも謀議の参加を誘った。当初、范曄は孔熙先 を軽んじていたため、謀議に荷担することを望まなかったが、結局は孔熙先らの謀議に加わった。11月、丹陽尹徐湛 之の告発により孔熙先らの計画は発覚し、范曄は自身を含む一家全員が処刑された。享年48。末弟の范広淵も 兄に連座されて処刑された。 范曄の文章は、筆勢は奔放であり、言葉が美しく固まり精錬して、駢文の句法をよく備えており、「博して経史にかか わり、よい文章で、隷書、音律を分かっている。」の贊がある。 『後漢書』 范曄が左遷された時期の作。既にあった7種の『後漢書』を収集して、袁宏の書いた『後漢紀』を参考 にし、現存する『後漢書』とした。 |
樂遊應詔詩 | ||||||
92 | 顔 延之(顔延年) | がん えんし | 384年- 456年 | ||||
中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武 帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼 ばれる。 顔延之(がん えんし、384年 - 456年)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本貫は琅邪郡臨沂県。宋 の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され 「顔謝」とも呼ばれる。 顔延之は曾祖父に東晋の右光禄大夫顔含を持つなど、門閥貴族の家柄に生まれたが、父親を幼少の頃に失った ことから没落し、家は貧しかったという。顔延之は読書を好み、目にしない書物はなく、詩文の美しさは当時に卓越し ていたが、酒に酔うと細かい礼法を無視した振る舞いをし、30になっても独身であった。顔延之の妹は劉裕(のちの宋 の武帝)の腹心劉穆之の息子の妻であり、劉穆之も顔家と代々のよしみで、顔延之の才能の評判も聞いていた。 このため劉穆之は彼を仕官させようと思い、その前に会っておこうとしたが、顔延之は会いに行こうとしなかった。後に 後将軍劉柳の行参軍となる。415年(義熙11年)、劉柳が江州刺史となると、その功曹として治所の尋陽(現在の 江西省九江市)に赴任し、当地に隠棲していた陶淵明と知り合い、年齢を超えて親しく交際した。後年陶淵明が死 去すると、顔延之は「陶徴士誄」を著しその死を悼んでいる。 416年、劉裕が後秦征服の遠征を起こして西晋の旧都洛陽を回復すると、朝廷では彼に宋公の爵位を授けること となり、顔延之は勅使として洛陽に赴いた。この道中に作った詩2首は、重臣の謝晦と傅亮の賞賛を浴びた。420 年、宋が建国されると、顔延之は太子舎人に任じられた。 |
赭白馬賦并序 應詔讌曲水作詩 皇太子釋奠會作詩 秋胡詩 五君詠五首 阮?兵 ?中散 劉參軍 阮始平 向常侍 應詔觀北湖田收 車駕幸京口侍遊蒜山作 車駕幸京口三月三日侍遊曲阿後湖作 拜陵廟作 北使洛 還至梁城作 始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作 北使洛 還至梁城作 始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作 宋郊祀歌二首 三月三日曲水詩序 陽給事誄并序 陶?士誄并序 宋文皇帝元皇后哀策文 祭屈原文 |
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93 | 鮑照 | ほうしょう | 412頃-466 | ||||
六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。南北朝時代、宋の詩人。字は明遠。本籍地はもと上党郡(現在の山西省長治市)、後に東海郡(現在の 江蘇省漣水県、または山東省?城県)に移る。最後の官職である「前軍参軍」にちなみ、後世「鮑参軍」と呼ばれる。宋の文帝の元嘉年間を代表する 詩人として、同時期に活躍した謝霊運・顔延之と併称して「元嘉三大家」の1人に数えられる。妹の鮑令暉も詩人として知られる。元嘉年間の三大詩 人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得意とし、それに仮託し て寒門出身ゆえの人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用い、風景や自らの感慨を力 強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判されることもあったが、後世の唐代の 詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは ?開府、俊逸なるは 鮑参軍」(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称 えている。 |
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玉臺新詠 巻四 4.雜詩九首其一 翫月城西門廨中 5.雜詩九首其二 代京?篇 6.雜詩九首其三 擬樂府白頭吟 7.雜詩九首其四 採桑詩 8.雜詩九首其五 夢還詩 9.雜詩九首其六 擬古 10.雜詩九首其七 詠双燕 11.雜詩九首其八(一)贈故人馬子喬二首寒灰?更然 12.雜詩九首其八(二)贈故人馬子喬 二首双劒將?離 |
文選掲載分 賦己卷十一遊覽蕪城賦 賦 卷十四鳥獸下舞鶴賦 詩乙卷二十一詠史詠史 詩 卷二十一遊覽行藥至城東橋 卷二十七行旅下還都道中作 樂府下 1.東武吟 2.出自薊北門行 3.結客少年場行 4.東門行 5.苦熱行 6.白頭吟 7.放歌行 8.升天行 卷三十雜詩下數詩 〃 〃翫月城西門解中詩 卷三十一雜擬下擬古三首 學劉公幹體 代君子有所思 |
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宋孝武帝・劉駿(そうこうぶてい・りゅうしゅん) | 430年―464年 | ||||||
453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、 新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。 459年4月、異母弟の劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。 在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を 殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘 いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、宋の衰退の端緒となった。 464年閏5月、玉燭殿で死去した。 |
<玉臺新詠> 丁督護歌二首・其一 丁督護歌二首・其二 擬徐幹詩 |
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陸厥 | りくけつ | 472年−499年 | |||||
南朝齊詩人。字韓卿,呉郡呉、江蘇省蘇州の人。 | <玉臺新詠> 中山王孺子妾歌 李夫人及貴人歌一首 |
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齊の竟陵王蕭子良 | しょう しりょう | 460年 - 494年 | |||||
南朝の斉の武帝の第2子である。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。南斉代第一の文人であ り、経典や史書、老荘にも通じてしたが、仏典を最も好んで、文恵太子らと共に仏教教理に通暁していた。永明中(483年 - 493年)に司徒・尚書令に任ぜられると、鶏籠山の邸に移り、当時一流の文人らを鶏籠山の西邸に招いた。中でも著名な蕭衍・ 沈約・謝眺・王融・蕭深・范雲・任ム・陸?の8人は、「竟陵八友」と称せられる。 常に邸内で斎戒し、朝臣や衆僧を集めた。また、一生涯にわたって厳重に斎戒を守ることを誓願して「浄住子」と自称した。邸内 には、古物を蒐集して、広く天下の文章の集録を行なったため、「道俗の盛んなること、江左に未だあらざるところ」と評せられた。 文人学者らには『四部要略』1000巻を抄録させ、名僧たちには『経唄新声』を撰述させた。 また、竟陵王自身の仏教信仰を記した書物として『浄住子浄住法門』がある。 |
浄住子浄住法門 | ||||||
謝眺 謝玄暉 | |||||||
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝眺・C王融・D蕭沈・E范雲・F任ム・G陸游) | |||||||
江 淹 (江文通) | こう えん | 444年 - 505年 | |||||
南北朝時代の文学者。 字は文通。 本貫は済陽郡考城県(現在の河南省商丘市民権県)。下級士族の出身 だったが,文才と機敏で慎重な処世により,南朝の宋・斉・梁3朝に仕えて,高官の地位に達した。詩人としては,沈 約(しんやく)とともに梁初を代表する。ことに模擬の詩を得意とし,歴代の著名な詩人の作風を巧みに模した〈雑体 詩〉30首は,《文選(もんぜん)》にも収められてよく知られる。ほかに感傷的な美文〈別賦〉〈恨賦〉も彼の文学の一 面を示す。《江淹集》9巻はほぼ原形のまま伝わる。 代表的な作品としては、「恨みの賦」「別れの賦」や「雑体詩」30首が挙げられる。 前2者は、賦という事物を羅列的に描写する叙事を本領とする文体で、恨みや別れの思いといった情感を様々な角 度から描写するというものである。このような情感の描写に主眼を置く叙情賦は、六朝時代の他の文学者の作品に も一定数存在しているが、その中でも江淹の2編は代表的な作品と目されている。 後者は漢から宋までの代表的な詩人30人を選び、彼らの代表作の文体を模倣した連作詩で、一種のパスティーシ ュである。このような歴史上あるいは同時代の文学者の作品を模倣した擬古詩・模擬詩というジャンルは、江淹以 前の多くの詩人たちによって制作されているが、いずれも単発的なものであり、江淹のように歴代の詩人の文体を網 羅的に模倣するという行為はそれ以前には見られない。 また江淹には「雑体詩」以外にも、「阮公に効(なら)う詩」15首や「魏の文帝に学ぶ」という模擬詩があり、現存する 詩約100首のうち半数近くがこれらで占められている。さらにその模擬詩は、 「文通は詩体総雑、?(模)擬に善し」(梁の鍾エ『詩品』) 「擬古は惟(こ)れ江文通 最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康楽に擬すれば康楽に似、左思に擬すれば左思 に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。独り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」(南宋の厳羽『滄浪詩話』) などと評されるように、同時代および後世の人々によって高く評価されている。このように模擬詩というジャンルを自ら の詩創作の主体とする行為も、他の詩人には見られない独特のものである。 江淹は「雑体詩」に序文を著しているが、要約するとそこには、 「当世の人々は自らの狭い了見によって文学作品に毀誉褒貶を加えているが、実際にはどの作品にも独自の良いと ころがあるのである。その文体を真似することによって、作品の個性を明らかにしてみたい」 という趣旨が書かれている。このように江淹は歴代の詩人たちの特徴や個性を明らかにするため、文学批評の一種と してこれらの詩を創作したことを表明している。 「江淹(江郎)才尽く」 江淹のエピソードとして最も有名なものは、彼の文才が晩年に枯渇したという「江淹(江郎)才尽」である。 梁の鍾エの『詩品』によると「江淹が宣城郡太守を辞任し、首都建康への帰路の途中、夢に郭璞を名乗る美丈夫 が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆を彼に返したと ころ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」とされている。 唐の李延寿の『南史』では「夢に西晋の詩人張協が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江淹が懐 にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒り、錦を丘遅に与 えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」とやや異なる話を伝える。これらのエピソードにもとづき、後世、 文人の文才が枯渇することを意味する「江淹(江郎)才尽く」という成語が生まれた。 |
恨賦 別賦 從冠軍建平王登廬山香爐峰 雜體詩三十首 1.古〈離別〉 2.李都尉〈從軍〉陵 3.班?、〈詠扇〉 4.魏文帝〈遊宴〉曹丕 5.陳思王〈贈友〉曹植 6.劉文學〈感遇〉 7.王侍中〈懷コ〉粲 8.?中散〈言志〉康 9.阮?兵〈詠懷〉籍 10.張司空〈離情〉華 11.潘?門〈悼亡〉岳 12.陸平原〈羈宦〉機 13.左記室〈詠史〉思 14.張?門〈苦雨〉協 15.劉太尉〈傷亂〉? 16.盧中郎〈感交〉ェ 17.郭弘農〈遊仙〉璞 18.張廷尉〈雜述〉綽 19.許?君〈自序〉詢 20.殷東陽〈興矚〉仲文 21.謝僕射〈遊覽〉混 22.陶?君〈田居〉潛 23.謝臨川〈遊山〉靈運 24.顏特進〈侍宴〉延之 25.謝法曹〈贈別〉惠連 26.王?君〈養疾〉微 27.袁太尉〈從駕〉淑 28.謝光祿〈郊遊〉莊 29.鮑參軍〈戎行〉昭 30.休上人〈別怨〉 |
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95 | 鮑令暉 。 | ほうれいこ ん |
生卒年不詳 | ||||
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生ま れる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもと で前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有 的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。 |
其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 | ||||||
玉臺新詠 巻四 雜詩六首 21 巻四-21 雜詩六首其四 4. 古意贈今人 21 巻四-21 雜詩六首其五 5.1. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(明月何皎皎) 22 巻四-22 5.2. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(君子將遙役) |
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96 | F任 ム | (じん ぼう) | 460年- 508年 | ||||
中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子 良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけ た。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。 |
『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 「出郡傳舍哭范僕射」 「贈郭桐廬出溪口見候余既未至郭仍進村維舟久之郭生方至」 |
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97 | A沈約 | (しんやく) | 441年- 513年 | ||||
南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南 の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕え た。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁 の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁の うちに死去したという。 |
二十一史・宋書 | ||||||
玉臺新詠巻五-7 登高望春 玉臺新詠巻五-8 昭君辭 玉臺新詠巻五-9 少年新婚爲之詠 玉臺新詠巻五-10 携手曲 玉臺新詠巻五-11 有所思 玉臺新詠巻五-12 夜夜曲 玉臺新詠巻五-13 詠春 玉臺新詠巻五-14 詠桃 玉臺新詠巻五-15 詠月 玉臺新詠巻五-16 詠? (次の四首 三言五言の雜言体) 玉臺新詠巻五-17六憶詩四首其一 憶來時 玉臺新詠巻五-18 六憶詩四首其二 憶坐時 玉臺新詠巻五-19 六憶詩四首其三 憶食時 玉臺新詠巻五-20 六憶詩四首其四 憶眠時 玉臺新詠巻五-21 領邊? 玉臺新詠巻五-22 脚下履 玉臺新詠巻五-23 擬河邊草 玉臺新詠巻五-24 擬三婦 玉臺新詠巻五-25 古意 玉臺新詠巻五-26 夢見美人 玉臺新詠巻五-27 効古 玉臺新詠巻五-28 初春 玉臺新詠巻五-29 悼往 |
文選掲載分 沈約(沈休文) 公讌巻二十 「應詔樂遊苑餞呂僧珍詩」 祖餞巻二十一「別范安成詩」 詠史巻二十二「鍾山詩應西陽王教」 〃巻二十二「宿東園」 〃巻二十二「遊沈道士館」 行旅巻二十七「早發定山」 行旅巻二十七「新安江水至清淺深見底貽京邑遊 好」 〃巻二十七「和謝宣城」 〃巻二十七「應王中丞思遠詠月」 雜詩下巻三十「和謝宣城」o 〃巻三十「應王中丞思遠詠月」 〃巻三十「冬節後至丞相第詣世子車中」 〃巻三十「學省愁臥」 〃巻三十「詠湖中鴈」 〃巻三十「三月三日率爾成篇」 |
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98 | C王融 | おうゆう | 467年- 493年 | ||||
南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅 邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数 えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 |
三月三日曲水詩序 | ||||||
99 | 蘇小小 | そしょうしょ う |
未詳 | ||||
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭 塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。 |
歌一首 | ||||||
100 | 孔稚珪 | こうちけい | 447〜501 | ||||
会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋 律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守と され、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 |
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101 | 刑邵 | (けいしょ う) |
496〜561 | ||||
北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。 |
思公子(綺羅日減帶) | ||||||
102 | 斛律金 |
(こくりつき ん) |
488年- 567年 | ||||
中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知 ったと言われる。 |
敕勒 五噫歌 | ||||||
103 | 鍾エ | (しょうえ い) |
469〜518 | ||||
字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。 梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 |
『詩品』 | ||||||
104 | @蕭衍 梁武帝 464〜502〜549 | (しょうえ ん) |
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南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の 高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵 王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。 |
河中之水歌 遊女曲(氛?蘭麝體芳滑) 子夜歌(朝日照綺錢) | ||||||
105 | E范雲 (范顔龍) | はんうん | 451- 503 | ||||
南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び 梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏 に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その 清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 |
別詩 「贈張徐州稷」 「古意贈王中書」 <文選> 贈張徐州稷 古意贈王中書 效古 |
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106 | 何遜 | (かそん) | 未詳〜518 | ||||
何 遜(か そん、467年? -518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼 少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮 であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚 として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、 寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方 で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみな されている。 |
<玉臺新詠> 巻五-54日夕望江贈魚司馬 巻五-55輕薄篇 巻五-56詠照鏡 巻五-57閨怨 巻五-58詠七夕 巻五-59詠舞妓 巻五-60看新婦 巻五-61詠倡家 巻五-62詠白?嘲別者 巻五-63學青青河邊草 巻五-64嘲劉諮議孝綽 |
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107 | 王籍 | おうせき | 502〜519 | ||||
南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対 句はあまりに有名です。 |
入若耶渓 | ||||||
108 | G陸垂 | (りくすい) | 470 - 526 | ||||
陸?(りく すい、470年 - 526年)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は佐公。本貫は 呉郡呉県。斉の太常卿の陸慧曉の子として生まれた。若くして学問にはげみ、文章を得意とした。17歳のとき、揚州の秀才に挙 げられた。竟陵王蕭子良が鶏籠山に西邸を開いて当時の優れた文人たちを集めると、陸?はこれに参加した。議曹従事参軍とし て召され、廬陵王法曹行参軍に転じた。 梁の天監初年、安成王蕭秀の下で右軍外兵参軍となり、主簿に転じた。臨川王蕭宏の下に転じて、驃騎東曹掾をつとめた。 武帝の命により「新漏刻銘」の刻字を選び、その文章の美しいことで知られた。太子中舎人に転じ、東宮の書記を管掌した。また 武帝の命により「石闕銘記」を作って奏上した。太子庶子・国子博士に転じたが、母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が 明けると、中書侍郎となり、給事黄門侍郎・揚州別駕従事史をつとめた。病のために解任を願い出て、鴻臚卿に転じた。入朝し て吏部郎となり、参選事をつとめた。 晋安王蕭綱の下に転じて雲麾長史・尋陽郡太守・行江州府州事として出向した。公の事件のためにひとたび免官され、中書侍 郎・司徒司馬・太子中庶子・廷尉卿を歴任した。再び太子中庶子となり、給事中・揚州大中正の任を加えられた。また中庶 子・中正のまま国子博士に任じられた。さらに中正のまま太常卿を代行した。526年(普通7年)、死去した。享年は57。文集20 巻があり、当時に通行した。 |
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109 | D蕭チン | (しょうち ん) |
480年 - 531年 | ||||
南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は彦瑜。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。 宋の太中大夫の蕭恵訓の子として生まれた。数歳のときに従伯父の蕭恵開が「必ずやわが一族を興さん」と言ってかれの背中を 撫でた。蕭?は若くして賢明で理解が早く、弁論の才能があった。斉の太学博士を初任とした。王倹が楽遊苑で宴会を開いたと き、蕭?は虎皮の靴を履き、桃の枝を鞭として、王倹に面会して語り合い、気に入られた。王倹が丹陽尹となると、蕭?は召し出さ れて主簿となった。南徐州の秀才として挙げられ、諸官を歴任して司徒記室となった。 491年(永明9年)、斉が北魏と講和すると、蕭?は命を受けて北魏の都の平城におもむいた。帰国すると、通直散騎侍郎となっ た。北魏の使者の李道固が来朝すると、武帝が宴会を開いた。蕭?が道固に酒を勧めたところ、道固は「公庭に私礼なく、勧めを 受けることはできません」と言って受けなかった。そこで蕭?は「『詩経』に『我が公田に雨ふり、ついに我が私田に及ぶ』と言っていま す」と答えた。座にいる者はみな感服し、道固は蕭?の酒を受けた。 蕭?は司徒右長史に転じた。晋熙王長史・行南徐州事として出向した。建康に召還されて少府卿・尚書左丞を兼ねた。 東昏侯が即位すると、即位時に祖廟に拝礼する儀礼の典拠が議論された。蕭?は『詩経』周頌の烈文篇や閔予小子篇に即位 時の朝廟の典拠があると主張し、かれの意見が採用された。蕭衍が建康を制圧すると、蕭?は驃騎諮議として召し出され、録事 を兼ね、給事黄門侍郎に転じた。蕭衍が梁公となると、蕭?は御史中丞となった。 502年(天監元年)、梁の武帝(蕭衍)が即位すると、蕭?は太子庶子に転じ、宣城郡太守として出向した。建康に召還されて衛 尉卿となり、まもなく員外散騎常侍に転じた。504年(天監3年)、太子中庶子・散騎常侍に任じられた。510年(天監9年)、寧 遠将軍・平西長史・江夏郡太守として出向した。 かつて蕭?が宣城郡太守であったとき、北魏の僧が南に渡ってきて、ひょうたんの中に『漢書』の序伝を入れてもたらした。僧は「三 輔の旧老が代々伝えたもので、班固の真本である」と主張した。蕭?が強く求めてこれを入手すると、その書は当時伝わっていたも のとは多くの異同があり、紙や墨もまた古く、文字の多くは龍挙の例のごとくで隷書でも篆書でもなかったため、蕭?はこれを秘蔵し た。蕭?が江夏郡に赴任するにあたって、この書を?陽王蕭範に与えると、蕭範は昭明太子に献上した。 まもなく蕭?は安西長史・南郡太守に転じた。母が死去すると、官を去って喪に服したが、さらに父の死去が続いた。喪が明けると 信武将軍・護軍長史として再起し、まもなく貞毅将軍・太尉長史となった。信威将軍・東陽郡太守として出向し、呉興郡太守に 転じた。呉興郡に項羽の廟があり、現地の民は憤王と呼んで、霊験高いとされていた。呉興郡は郡庁の中に憤王の神座を設け て、以前の太守たちはみな庁内の祠を拝むようになっていた。蕭?が呉興郡に赴任すると、庁内の神座を廟に帰した。牛を殺して 祟りを避ける風習を禁止し、干し肉を肉に代えた。 520年(普通元年)、召還されて宗正卿となり、左民尚書に転じ、南徐州大中正・太子右衛率を兼ねた。度支尚書・左驍騎将 軍・領軍将軍に転じ、秘書監・後軍将軍となり、侍中に転じた。 武帝は西邸にいたころから蕭?と親しくつきあっており、朝に宴会を開くごとに、蕭?のことを「宗老」と呼んで尊敬を示した。蕭?はつ ねづね「少壮のころは音律・書・酒の3つを好んでいました。歳をとって以来、音律と酒はやめてしまったものの、ただ書籍については 衰えません」と言っていた。 528年(大通2年)、金紫光禄大夫となり、特進を加えられた。529年(中大通元年)、雲麾将軍・晋陵郡太守とされたが、病の ために自ら辞職し、侍中・特進・金紫光禄大夫の位を受けた。531年(中大通3年)2月乙卯、死去した。享年は52。本官に加 えて雲麾将軍の位を追贈された。諡は平子といった。 |
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110.00 | 簡文帝(蕭綱) | かんぶんて い |
503―551 | ||||
南朝梁の第2代皇帝。姓は蕭、諱は綱。武帝蕭衍の三男。 503年(天監2年)10月、蕭綱は武帝と丁貴嬪のあいだの子として、建康の顕陽殿で生まれ た。506年(天監5年)、晋安王に封ぜられた。 509年(天監8年)、雲麾将軍となり、領石頭戍事を兼ねた。510年(天監9年)、宣毅将軍・ 南?州刺史に転じた。513年(天監12年)、入朝して宣恵将軍・丹陽尹となった。514年(天監 13年)、南蛮校尉・荊州刺史として出向した。515年(天監14年)、雲麾将軍・江州刺史に 転じた。518年(天監17年)、建康に召還されて西中郎将・領石頭戍事となり、まもなく再び 宣恵将軍・丹陽尹に転じ、侍中の任を加えられた。520年(普通元年)、益州刺史とされた が、赴任しないうちに雲麾将軍・南徐州刺史に転じた。523年(普通4年)、平西将軍・寧蛮 校尉・雍州刺史に転じた。524年(普通5年)、安北将軍に進んだ。526年(普通7年)、生母 の丁貴嬪が死去したため、官を辞して喪に服した。しかし武帝の意向により、無官のままでもと の任を代行した。530年(中大通2年)、建康に召還され、驃騎将軍・揚州刺史として出向し た。 531年(中大通3年)、兄の昭明太子蕭統の死により皇太子に立てられた。東宮を修繕してい たため、東府に居住した。532年(中大通4年)、東宮に移転した。548年(太清2年)、侯景の 乱が起こり、建康が包囲された。549年(太清3年)3月、建康が陥落し、蕭綱は侯景の監視 下に置かれることとなった。 |
梁の簡文帝 巻七-15聖製樂府三首其一1. ?歌篇十八韻 巻七-16聖製樂府三首其二2. 蜀國弦歌篇十韻 巻七-17聖製樂府三首其三3. 妾薄命篇十韻 巻七-18代樂府三首其一1. 新成安樂? 巻七-19代樂府三首其二2. 雙桐生空井 巻七-20代樂府三首其三3. 楚妃歎 巻七-21和湘東王吹曲三首其一1. 洛陽道 巻七-22和湘東王吹曲三首其二2. 折楊柳 巻七-23和湘東王吹曲三首其三3. 紫?馬 巻七-24雍州十曲抄三首其一1. 南湖 巻七-25雍州十曲抄三首其二2. 北渚 巻七-26雍州十曲抄三首其三3. 大堤 巻七-27同?肩吾四詠二首其一1. 蓮舟買荷度 巻七-28同?肩吾四詠二首其二2. 照流看落釵 巻七-29和湘東王三韻二首其一1. 春宵 巻七-30和湘東王三韻二首其二2. 冬曉 巻七-31戲作謝惠連體十三韻 巻七-32倡婦怨情十二韻 巻七-33和徐?事見?人作?具 巻七-34戲贈麗人 巻七-35秋閨夜思 巻七-36和湘東王名士ス傾城 巻七-37從頓?還城 巻七-38詠人棄妾 巻七-39執筆戲書 巻七-40?歌曲 巻七-41怨詩 巻七-42擬沈隱侯夜夜曲 巻七-43七夕 巻七-44同劉諮議詠春雪 巻七-45?景出行 巻七-46賦樂府得大垂手 巻七-47賦樂器名得箜篌 巻七-48詠舞 巻七-49春閨情 巻七-50詠?閨 巻七-51率爾成詠 巻七-52美人晨妝 巻七-53賦得當? 巻七-54林下妓 巻七-55擬落日窗中坐 巻七-56詠美人觀畫 巻七-57?童 巻七-58代秋胡婦閨怨 巻七-59車中見美人 巻七-60代舊?有怨 巻七-61登顏園故閣 巻七-62戲作?詩 巻七-63夜游栢齋 巻七-64和劉上? 巻七-65詠?棲烏 巻七-66寒宵三韻 巻七-67詠秋夜 巻七-68同蕭長史看妓 巻七-69和湘東王夜夢應令 巻七-70曉思 巻七-71閨妾寄征人 |
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110 | 萸信 513年-581年 | (ゆしん) | 513年-581年 | ||||
中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。萸肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡 文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をは じめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 |
寄王琳 秋夜望単飛雁 |
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111 | 王褒 | (おうほ う) |
513〜576 | ||||
琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王 とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 |
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112 | 徐 陵 | (じょりょう) | 507年- 583年 | ||||
中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信 父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱に より、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられ た。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。 |
『玉台新詠』序文 | ||||||
玉-001-#1 玉臺新詠集序?§1-1〈徐陵〉 玉-001-#2 玉臺新詠集序?§1-2〈徐陵〉 玉-001-#3 玉臺新詠集序?§1-3〈徐陵〉 玉-001-#4 玉臺新詠集序?§2-1〈徐陵〉 玉-001-#5 玉臺新詠集序?§2-2〈徐陵〉 玉-001-#6 玉臺新詠集序?§2-3〈徐陵〉 玉-001-#7 玉臺新詠集序?§2-4〈徐陵〉 玉-001-#8 玉臺新詠集序?§2-5〈徐陵〉 玉-009 玉臺新詠集序?§3-1〈徐陵〉 玉-010 玉臺新詠集序?§3-2〈徐陵〉 玉-011 玉臺新詠集序?§3-3〈徐陵〉 玉-012 玉臺新詠集序?§4-1〈徐陵〉 玉-013 玉臺新詠集序?§4-2〈徐陵〉 玉-014 玉臺新詠集序?§4-3〈徐陵〉 玉臺新詠序の字解集 |
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陳後主 | 陳叔宝 | こうしゅ | 553年―604年 | ||||
後主は、南朝陳の第5代(最後)の皇帝。姓は陳、諱は叔宝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。 禎明2年(588年)10月、大陸の統一を目指した隋の文帝は、次男の晋王楊広を総大将とする総勢51万8000の軍を侵攻させた。翌禎明3年(589年)の元日には隋軍が大挙して長江を渡り国都建康に迫った。後主は「犬羊のごとき者ども(隋軍を指す)が我が国に勝手に侵入し、京師(国都の周辺地域を指す)の近郊を盗み取っている。蜂や蠍のごとき毒のある者は、時機を選んで(隋軍を)掃討・平定するがよい。内外ともに厳重に警戒するように」と詔したが、迎撃に出た将の紀?が撃破され、隋軍の前線司令官賀若弼が陳の捕虜を寛大に扱ったこともあり、形勢不利を悟った陳軍からは投降者が相次いだ。首都の建康が陥落するに及び、大臣の1人である尚書僕射の袁憲は「隋軍の兵士達が宮廷に侵入してきても、決して乱暴なことはしないでしょう。しかも今は陳国にとって最も重大な時でございます。陛下におかれましては、服装を正して正殿に着座し、梁の武帝が侯景を引見した時の例にお倣い下さいますように」と後主に進言したが、後主は従わず「剣の刃の下では当たっていくことはできない。私には私の考えがあるのだ」と言って、宮中の奥にある空井戸に隠れようとした。袁憲は繰り返し諫め、さらに後閤舎人の夏侯公韻が、自分の体で井戸を覆って妨害したが、彼を押しのけて張麗華・孔貴人の両夫人とともに井戸の底に隠れていたところ、結局、宮殿に侵入してきた隋軍に発見されて捕虜となった。張麗華は楊広の命により青渓中橋で斬られた。 陳の滅亡後、陳叔宝は隋の都長安に送られた。当時、亡国の君主が囚われると反乱を予防するため殺されるのが通例であったが、亡国や張麗華が殺されたことを全く恥じず、酒浸りの生活を送るなど、元皇帝とは思えない振舞いをしたため猜疑心が強かった文帝からも警戒されず、文帝の行幸に随行したり酒宴に侍るなどして余生を全うすることができた。 |
謝 眺 (謝玄暉) | しゃちょう(げんき) | 464年 - 499年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。本貫は陳郡陽夏県。同族の謝霊 運・謝恵連とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせて「三謝」と称される。 また謝霊運と併称して「二謝」と呼ぶこともあり、その場合は、謝霊運を「大謝」と呼ぶ のに対し、謝?を「小謝」と呼ぶ(ただし「小謝」の呼称は謝恵連を指すこともある)。宣 城郡太守に任じられ、この地で多くの山水詩を残したことから、「謝宣城」とも呼ばれ る。竟陵王・蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の一人であり、同じく八友の仲 間である沈約・王融らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 謝?は若い頃から学問を好み、詩文に巧みで名声が高かった。南斉の武帝の永明年 間に出仕し、皇族である豫章王蕭嶷・隨郡王蕭子隆・南斉の重臣王倹らの属官を 歴任した。 493年、武帝が死去し、蕭鸞(後の明帝)が実権を握ると、その幕下に招かれ、驃騎 諮議参軍・記室参軍となって文書の起草をつかさどり、さらには中書省の文書をも管 轄することになった。明帝が即位すると、謝?は明帝の封地であった宣城郡太守に赴任 するなど、明帝に大いに信任された。 498年、謝?の妻の父である王敬則が反乱を起こした。王敬則は南斉の武将としてし ばしば武勲を重ね、高帝・武帝の二代にわたり重臣として非常に信頼されていた。しか し、傍系の明帝が即位すると、先代の重臣だったことを逆に皇帝に警戒され、大司馬・ 会稽郡太守として朝廷の外に出されてしまった。明帝は病気で重態に陥ると、王敬則 に対する警戒をさらに強めた。これに身の危険を感じた王敬則も反乱を決断し、娘婿 の謝?に協力を呼びかけたのである。しかし謝?は王敬則からの使者を捕らえ、逆に朝 廷に王敬則の反乱を告発した。明帝は謝?を賞賛し、彼を尚書吏部郎に抜擢した。 岳父を告発したという行為は、謝?自身にもさすがに後ろめたいものであり、これによって 世間の批判を受けたため、尚書吏部郎を拝命したのは再三の固辞の末のことであっ た。また彼の妻はこのことを恨み、懐に短剣を隠し持って謝?に報復しようとしたため、 謝?は彼女に会うのを避けた。王敬則の敗死に臨んで、謝?は「私は王公を殺したわけ ではないが、王公は私のせいで死んだのだ」と嘆いたという。 明帝の跡を継いだ東昏侯は暗君で失政が続いたため、499年、重臣である江?・江祀 兄弟は、これを廃して始安王蕭遙光を擁立しようと謀り、謝?にもその謀議への参加を 誘った。しかし謝?は元々江?を軽んじていたことから参加を拒否し、彼らの計画を他人 に漏らしてしまった。このことを知った蕭遙光・江?らは計画が露見する前に先手を打ち、 逆に謝?を捕らえ、朝政誹謗の罪で告発した。詔勅が下り謝?は処刑された。享年36。 現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器 物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。 山水詩の分野において、謝?は同族の謝霊運が開拓した山水描写を継承するととも に、それをより一層精緻なものへと洗練させていった。さらに謝霊運の山水詩が、前代 の「玄言詩」の影響を受け、自然の中から哲理や人生の教訓を引き出そうとすることに よって、しばしば晦渋さや生硬さを免れないのに対し、謝?の山水詩は、山水描写と自 らの情感とを巧みに融合させた、より抒情性豊かなものとなっている。このような精巧で 清澄な描写と抒情性に富んだ風格は、山水詩以外の分野でも発揮されており、謝? の詩の基調となっている。 謝?の詩は同時代から高く評価され、「二百年来 此の詩無し」(沈約)や「三日玄暉 の詩を誦せざれば、即ち口の臭きを覚ゆ」(梁の武帝)のように、竟陵八友の間でも特 に愛好された。他に少し遅れて「近世の謝?・沈約の詩、任ム・陸?の筆、斯れ実に文 章の冠冕、述作の楷模なり」(梁の簡文帝)、「詩多くして能なる者は沈約、少なくして 能なる者は謝?・何遜」(梁の元帝)などの評価も残されている。 後世においても、 「謝?の詩、已に全篇唐人に似たる者有り」(宋の厳羽『滄浪詩話』)や「世の玄暉の 目して唐調の始と為すは、精工流麗の故を以てなり」(明の胡応麟『詩藪』)のように、 唐詩の先駆として高く評価されている。唐の詩人李白は謝?詩の清澄さをことに愛好 し、自らの詩の中でしばしば謝?の詩に対する敬愛を表明している。 |
謝眺(謝玄暉) 《文選》に掲載された詩文
謝眺(謝玄暉) 《玉臺新詠》に掲載された詩
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![]() 紀 頌之 |