建安七子 | 196年 - 220年 | 竹林七賢 | 229年-西晉の頃 | |||
孔融 (こうゆう) | 153-208 | 阮籍(げんせき) | 210-263 | |||
陳琳 (ちんりん) | 未詳-217 | ケイ康(けいこう) | 223-262 | |||
徐幹 (じょかん) | 170-217 | 山濤(さんとう) | 205-283 | |||
王粲 (おうさん) | 177-217 | 劉伶(りゅうれい) | 211-300 | |||
応チョウ (おうちょう) | 未詳-217 | 阮咸(げんかん) | 不詳 | |||
劉驕@ (りゅうてい) | 未詳-217 | 向秀(しょうしゅう) | 不詳 | |||
阮ウ (げんう) | 未詳-212 | 王戎(おうじゅう) | 234-305 | |||
建安文学の文学者 有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねて はいるが、中でも著名なのが建安七子と呼ばれる文学者たちであ る。 |
竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国・魏 (三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なった りと交遊した。 |
この七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学 の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植 の3人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することも ある。 また、繁欽・路粋・何晏・応?・蔡?・呉質といった著名文学者たち も、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされ ている。 建安文学(けんあんぶんがく)は、中国の後漢末期、建安年間 (196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一 族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げら れた、五言詩を中心とする詩文学。 それまで文学の中心とされていた辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌 謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、 自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作 風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の 混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数 多く残されている。 |
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新 語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一 堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになっ たとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職についてお り、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。日本では 竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の 代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は 死の危険があり、事実、?康は鍾会の讒言によって陥れられ、 死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意 と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦 (目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判 表明と賞される。 魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談 論を行う清談が流行した。『世説新語』には、彼ら以外の多く 人物について記されているが、彼ら以後は、社会に対する慷慨 の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。 |