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五代十国・宋詩 花間集 |
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花間派は、作品が五代の詞集『花間集』に収録された詞家を指す。代表人物に温庭イン・韋荘・張泌らがいる。 | |
一般に花間派は、唐代の温庭?に起源を持ち、五代の時の後蜀で繁栄したとされる。 | |
厳格な意味で言えば一派をなす訳ではないが、一般に花間派とは、この種の文学形式が民間歌曲を経て文人の創作へと到るものを指す中間形態である。 |
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題 名 | 著 者 | 出版社 | 年代 |
玉台新詠集 (上) | 鈴木虎雄 | 岩波文庫 | 1953 |
玉台新詠集 (中) | 鈴木虎雄 | 岩波文庫 | 1955 |
玉台新詠集 (下) | 鈴木虎雄 | 岩波文庫 | 1956 |
新釈漢文大系60玉台新詠 上 | 内田泉之助 | 明治書院 | 1974 |
新釈漢文大系61玉台新詠 下 | 内田泉之助 | 明治書院 | 1975 |
玉台新詠索引―附玉台新詠箋註 | 小尾郊一・高志真夫編 | 山本書店 | 1976 |
中国の古典25 玉台新詠 | 石川忠久 | 学習研究社 | 1986 |
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春?以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,?霞醴則 穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。 楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。 競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,?幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖 纖之玉指,拍按香檀。 不無清?之辭,用助嬌?之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而 不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越?。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。 在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代?飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無 愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織?泉底,獨殊機杼之功。 廣會?賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命 題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為?唱,乃命之為《花間集》。 庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。 時大蜀廣政三年夏四月日序。 |
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春?以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,?霞醴則穆王心醉。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,?幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清?之辭,用助嬌?之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越?。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代?飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織?泉底,獨殊機杼之功。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては?飛卿庭?の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
廣會?賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為?唱,乃命之為《花間集》。
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
武徳郡節度判官 歐陽炯 とは
○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。
○欧陽烱(896-971) 五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。
益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。