紀頌之の 中國詩人名鑑のサイト


       虞美人と項羽

項羽と虞美人


虞美人と項羽


《項羽と虞美人》紀 頌之のブログ 目次
中国史・女性論 《項羽と虞美人》
 目次
§-1 楚・漢の抗争

§-1  1. 秦末の群雄蜂起



§-1  2. 項梁と項羽の挙兵



§-1  3. 劉邦の人となり



§-1  4. 鴻門の会



§-1  5. 楚・漢の抗争




§-2 垓下の戦い

§-2  1. 垓下の詩  -@



§-2  1. 垓下の詩  -A



§-2  2. 虞美人について



§-2  3. 項羽の最後



§-2 4. 項羽の死にざま



§-3 この武力抗争を考えてみる
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》










項羽と虞美人


1.秦末の群雄蜂起



項羽と虞美人との悲恋を、歴史上に浮かび上がらせたのは、楚(項羽)・漢(劉邦)の抗争である。この戟いは、楚王項羽と漢王劉邦との覇権をめぐる死闘として知られているが、そのフィナーレをかざるのは「垓下の戦い」である。
そこで話しを、その歴史的背景ともいえる「楚・漢の抗争」から説きおこすことにしよう。
いや、もっと遡って、項羽と劉邦との挙兵について語る必要がある。



1. 秦未の群雄蜂起

紀元前221年、といえば日本では、弥生時代の初めであるが、中国では、戦国六雄國といわれる、趙、楚、齊、魏、燕、韓の諸国をつぎつぎに併合して、長年にわたって分裂してきた中原に、ひとまず統一をもたらした秦国王の政、後の始皇帝が秦帝国を創り上げた年である。ところが春秋・戦国時代以来数百年間、自由な風気になじんできた中原の人びとの間では、秦帝国の厳しい法律づくめの法家的統一政治をよろこばず、同時に、守旧派の利権と絡み合い、時あらば反乱をひきおこそうとする気運が容易にとれなかった。硬直化していた天下を一気に統一に導く国家的エネルギーはこの恐怖的中央集権的専制政治しか成し遂げられないものであった。



しかし、この急速な変化は不安定な政情であることには間違いなく、たまたま始皇帝が東方巡幸の途次、北中国の沙丘(河北省平郷)で急死すると、この機に乗じて、これまで外国遠征や大土木工事による労役や徴発になやまされてきた民衆の不満は一挙に爆発し、翌年にはまず楚国の東北部、いわゆる西楚―ここはいまの准河流域の安徽省・江蘇省北部地区で、当時富も文化も中原につぐところであった1に反乱の火の手があがった。その首謀者は、農民出身の陳勝と呉広とであった。かれらは土木工事に動員されて首都の成陽(西安)におもむく途中、大雨にあって日限におくれたため法律上死刑に処せられる運命にあった。秦では徴発の期限におくれたものは、理由の如何を問わず死刑を免れることはできなかった。そこで、かれらは同じ死ぬならと、西楚の彰城(江蘇省徐州市)を中心に反乱に立ちあがった。

この挙兵は、中国史上最初の農民反乱ともいわれるが、このとき陳勝がかかげたスローガンがおもしろい。

《 王、侯、将、相、あに種あらんや。》

もっとくだいていえば、

人間男子と生まれたからには大事をせよ。王侯・大将・大臣とて別にちがう人間ではない。死ぬ覚悟でやれば、だれでもなれる。

という意味である。

   
史記』  陳渉世家 【題意】:
王と諸侯・将軍・大臣となるのは血筋によらず、誰でも実力次第でなれる。
呉廣素愛人。士卒多爲用者。 呉広、素より人を愛す。士卒、用を為さんとする者もの多し。
將尉醉。廣故數言欲亡、忿恚尉、令辱
之、以激怒其衆。
将尉、酔う。広、故さらに数しば亡げんと欲っすと言い、尉を忿恚せしめ、之れを辱かしめしめ、以って其の衆を激怒せしめんとす。
尉果笞廣。尉劍挺。廣起奪而殺尉。 尉、果して広を笞つ。尉の剣、挺く。広、起ちて奪いて尉を殺ころす。
陳勝佐之、并殺兩尉。 陳勝、之れを佐け、并せて両尉を殺す。
召令徒屬曰、公等遇雨、皆已失期。 召して徒属くに令して曰く、公等、雨に遇い、皆、已に期を失なえり。
失期當斬。藉第令毋斬、而戍死者、固十六七。 期を失なうは斬に当る。藉い、第だ斬らるること毋【なから】しむとも、戍の死する者は、固とに十に六七なり。
且壯士不死即已。死即舉大名耳。 且つ壮士、死せずんば即ち已まん。死せば即ち大名いを挙げんのみ。
王侯將相寧有種乎。 王侯、将相、寧くんぞ、種、有らんや、と。
徒屬皆曰、敬受命。 徒属く皆、曰く、敬しみて命を受ん、と。
呉広 … 秦末の農民。陳勝とともに秦に対する反乱(陳勝・呉広の乱)を起した。
忿恚 … 怒り憤らせること。
陳勝 … 農民反乱の指導者。字あざなは渉。呉広ごこうとともに秦に対する反乱を起こした。
徒属 … 仲間。
戍  … 辺境守備。
将相 … 大将と大臣。
種  … 血筋。


このスローガンは二千数百年前の一農民の口から出たとは思えないほど、人間平等の意識−農耕民族は太陽、土、水、など土着し、時期、或は繰り返しのひたむきな作業の結果収穫を迎えるという平等という概念を理解しやすい生産様式であり、騎馬民族の個人能力、天運によるという生産様式の違い―にめざめたことばであり、春秋・戦国時代以来中原民衆の自由で反骨的な風気を、一言のうちによくいいあらわしていると思う。

陳勝・呉広によって点火された農民反乱の火焔は、たちまち全土に波及し、やがて秦の厳しい統一政治に反感をいだく豪傑や瀞快の徒が、旧六回の王族や貴族たちを擁して各地に兵をあげた。秦末の群雄蜂起といわれるものである。これらの群雄のなかで、最後までいちだんと強い光を放っていた二つの星があった。楚の項羽と、のちの漠の高祖・劉邦とである。


徴発:人が所有する物を強制的に取り立てる行為のこと。北方の匈奴の脅威を除くために万里の長城を建設し、阿房宮などの宮殿と自己の巨大な陵墓を建設したが、その際に多数の農民を徴発した。

陳勝・呉広の乱:秦の始皇帝の死後の前209年に起こった農民反乱。翌年鎮圧されたが、秦滅亡をもたらすきっかけの乱である。始皇帝の死の翌年の前209年、秦の支配に対して起こされた農民反乱。この後に中国で続く、農民反乱の最初のものとして重要。その首謀者陳勝と呉広はいずれも貧農出身。かれらが反乱を起こすとたちまち中国全土で秦の圧政に対する不満が噴出して、各地で呼応する反乱が起こった。陳勝と呉広の軍は内紛から瓦解し、鎮圧されたが、それに誘発された農民出身の劉邦の挙兵、また楚の王族であった項羽の挙兵などが一挙に秦を滅亡させることとなる。