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     隋詩人

隋詩人










 隋(ずい、581年 -618年)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した(西晋の実質的な統一期間は30年間もないため、黄巾の乱によって中国が分裂時代に入ってから数えれば400年ぶりとなる)。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。
581 煬帝    582 楊素   583 廬思道  584 薛道衡   585 廬世基  
586 孫萬壽   587 王冑   588 尹式   589 孔徳紹   590 孔紹安
591 陳子良   592 王申禮  593 呂譲   594 明餘慶   595 大義公主



  

ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記
作品/記事 作品/記事 作品/記事

    581年 -618年

 古詩源 掲載隋詩人






1
僧慧遠 そう えおん 523 - 592 無量寿経義疏



2
江總 こうそう 519 - 594 閨怨篇




3
陸法言 ほうげんそう 不明(隋の時活躍) 切韻



4
崔ヒョウ さいひょう 531 - 602 時人爲崔ヒョウ李若語



5
楊堅 ようけん 541 - 604  宴秦孝王于并州作詩



6
楊素 ようそ  ? - 606年 出塞二首 贈薛内史
贈薛播州
詩(十四
章)
山齋獨坐
贈薛内史
詩二首
行經漢高
陵詩

7
薛道衡 せつどうこう 540年 - 609年 展敬上鳳林
寺詩
從駕天池
應?詩
梅夏應教
詠苔紙詩 人日思歸

8
房彦謙 ぼうげんけん 547 - 615  房彦謙墓 唐故徐州都督房公碑


9
テキ譲 てきじょう ? - 617年





10
王通 おうとう 584 - 618 東征歌




 11
煬帝 ようだい 569 - 618  望海詩 詠鷹詩 獻?燕宮臣詩 現存詩 多

12
廬世基 ろせいき ?  - 618  出塞二首 江都夏 長安秋 初渡江詩 現存 多し

13
孫萬壽 そんまんじゅ 生没年不詳  遠戍江南 答楊世子
別贈詩 行經舊國詩

14
王冑 おうちゅう 生没年不詳 別周記室




15
尹式 いんしき 生没年不詳 送晉熙公別詩 別宋常侍詩

16
孔徳紹 こうとくしょう 生没年不詳 送祭君知入蜀 夜宿荒村

17
孔紹安 こうしょうあん 577年−622年 落葉 別徐永元秀才


18
陳子良 ちんしりょう  ? - 632年 七夕看新婦 辯正論注
隋新城郡
東曹
掾蕭平仲
祭司馬相
如文

19
王申禮 おうしんれい 不明(隋の時活躍) 宝林寺 賦得岩穴無結構 賦得馬援? 駿馬

20
呂譲 りょじょう 不明(隋の時活躍) 和入京



21
明餘慶 めいよけい 不明(隋の時活躍) 從軍行 詠死烏詩


22
大義公主 たいぎこうしゅ 不明(隋の時活躍) 書屏風詩








ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事

    581年 -618年

 古詩源 掲載隋詩人





1 僧慧遠 そう えおん 523 - 592 無量寿経義疏 『大乗義章』14巻

慧遠(えおん、523年(正光4年) - 592年8月7日(開皇12年6月24日))は、中国の北周・隋代の地論宗の僧。東晋廬山の慧遠と区別して浄影寺の慧遠と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌郡出身の人である。

建州高都県(山西省晋城市沢州県)に生まれる。
13歳で出家し、四分律や経論を修学し、法上(495年 - 580年)に師事した。法上は、『十地経論』を研究する地論宗の南道派の中心人物で、北斉の僧統であった慧光の弟子で、師と同じく僧統となった。慧遠は、北周武帝の廃仏時に、ただ一人、武帝に対して正面きって直諫した。580年(大象2年)に仏教が復興すると、少林寺で講説した。

隋代になると、洛州の沙門都に任じられた。その後、開皇7年(587年)には、都の大興城に招致された。当初は大興善寺に入ったが、その喧騒を嫌い、新たに建立された浄影寺に移った。以後、遠は浄影寺で講説を行い、700余人という多数の僧徒が集まったという。主著は、『大乗義章』14巻である。自宗の見地からみた六朝仏教教理の総説的な内容であり、教理史上において重要視される。

開皇12年(592年)に勅が下り、翻経を管轄し、その文義を校定するよう求められたが、その年に住寺で没した。享年70。

 2 江總 こうそう 519 - 594 閨怨篇




江 総(こう そう、519年 - 594年)は、中国南北朝時代、梁・陳の政治家・文学者。字は総持。済陽郡考城県(現在の河南省商丘市民権県)の人。南朝の名門貴族の家に生まれ、梁・陳の高官を歴任し、陳の後主の時代には尚書令(宰相)となるが、後主の宴席にはべり詩文を作るのみで政務に励まず、陳が北朝の隋に滅ぼされる原因を作った一人とされる。
なお初唐の三大家の一人、欧陽詢の出生を題材にした唐代の伝奇小説『補江総白猿伝』は、江総の『白猿伝』を補訂したものとされるが、後世の仮託であるとする見方が一般的である。
江総は、先祖に西晋の散騎常侍江統、宋の尚書右僕射江夷、侍中・吏部尚書江湛など、歴代の王朝で高官を輩出した名門貴族の出身であった。7歳の時に父の江?を亡くし、母の実家に引き取られ、母方のおじ蕭?にその才能を可愛がられた。成長して学問に励み、家に伝わる数千巻の書物を昼夜をおかず読み、倦むことがなかったという。
18歳で武陵王蕭紀の法曹参軍として初めて出仕し、その後、梁の武帝に詩才を評価され、当時の重臣・学者たちからも年齢を超えた交友をもって遇された。548年、江総は徐陵とともに東魏への使者に選ばれたが、病気を理由に辞退した。同年、侯景の乱が起こり、翌549年に首都建康が反乱軍によって陥落すると、江総は戦乱を避けて会稽(現在の浙江省紹興市)に逃れた。さらにおじの広州刺史蕭勃を頼って嶺南に避難し、以後10数年を広州で過ごした。
563年、陳の文帝により中書侍郎として朝廷に召還され、文帝・宣帝に仕えた。宣帝の皇太子陳叔宝(後の後主)は江総を非常に気に入り、彼を自分の太子・事とするよう懇願し、一緒に長夜の宴を開いたり、お忍びで江総の屋敷に通うほどであった。569年、江総の友人の欧陽?が広州で反乱を起こし殺されると、江総は彼の唯一の遺児であった欧陽詢をかくまって養育した。
583年、後主が即位すると、江総は彼の信任を受け高官を歴任し、586年には尚書令となった。江総は宰相の位についたものの政務に従事せず、後主と日夜酒宴の席で詩文を作るのみで、人々からは陳暄・孔範らとともに「狎客」と呼ばれていた。589年、隋が陳を滅ぼすと、隋の朝廷に入り上開府となった。594年、江都(現在の江蘇省揚州市)で死去、享年76。

文学作品
江総は五言詩と七言詩に巧みであった。現存する詩は約100首。宮廷詩人として陳の後主の朝廷で活躍した経歴から、南北朝後期に流行した艶詩が彼の作品を代表するものとされている。艶麗さを身上としたその詩風は、当時大いにもてはやされたが、後世ではかえって淫靡で浮薄なものとされ、亡国の臣としての彼の生涯と相まって、しばしば批判されることにもなった。
また、江総は熱心な仏教信者であったため、現存する彼の詩には、山中の仏寺に遊んだ時の詩がいくつかある。それらの作品では、謝霊運のごとき清冽な山水描写が目を惹くものとなっている。

賦得謁帝承明廬詩賦得攜手上河梁應詔詩
賦得汎汎水中鳬詩
賦得三五明月滿
衡州九日詩
賦詠得琴詩


詠雙闕詩
三善殿夜望山燈詩
奉和東?經故妃舊殿詩
同?信答林法師詩
詠李詩
詠?詩
答王?早朝守建陽門開詩
侍宴賦得起坐彈鳴琴詩
別永新侯
春日詩
於長安歸還揚州九月九日行薇山亭賦韻詩
哭魯廣達詩
秋日新寵美人應令詩
新入?人應令詩

3 陸法言 ほうげんそう 不明(隋の時活
躍)
切韻



陸 法言(りく ほうげん、生没年不詳)は、中国・隋代の音韻学者。本貫は魏郡臨?県。法言は字であり、名は詞または慈という。陸爽の子で、陸氏は鮮卑人である。

業績
法言は、漢字の発音の標準を定めるため、古来の韻書の記述を統合し、601年(仁寿元年)に『切韻』5巻を編纂した。この編纂は、中国の歴史上、重要な業績の一つといえる。

『切韻』の序によれば、隋の開皇のはじめに、8人の著名学者(劉臻、顔之推、盧思道、李若、蕭該、辛徳源、薛道衡、魏彦淵)が法言の家にきて音韻について討論し、のちに『切韻』を完成したとある。完成までに十数年かかったという。

607年(大業3年)に科挙の制度がはじまるが、この制度によって、詩文の試験の成績がすぐれていれば、誰でも政府の要職につき、富と権力を得ることが可能となった。しかし詩文を読みこなし、つくりこなすためには、標準的な漢字音に精通していなければならない。その手引書となったのが『切韻』であった。以後、『唐韻』、『広韻』などに改訂され、中国の歴代の韻書における韻の分類は、『切韻』を基礎とすることになった。つまり、漢字の『切韻』音は、以後の中国語の一種の基準とされるに至ったのである。

4 崔ヒョウ〔イ+鹿+心 さいひょう 531 - 602 時人爲崔ヒョウ李若語



崔 ?(さい ひょう、生没年不詳)は、北斉から隋にかけての人物。字は岐叔。本貫は清河郡東武城県。
経歴
北斉の高陽郡太守の崔仲文(崔休の子)の子として生まれた。名門の清河崔氏の生まれで、16歳のときに郡功曹となるよう清河郡太守に請われたが、就任しなかった。若くして范陽の盧思道や隴西の辛徳源と交友した。読書に励み、文章を作り、才能と門地を鼻にかけて他人を粗略にあつかうところがあった。北斉において秀才に挙げられ、員外散騎侍郎となり、殿中侍御史に転じた。まもなく熊安生や馬敬徳らとともに五礼を議論して、律令の修定にあたった。まもなく散騎侍郎を兼ね、南朝陳に対する使者をつとめた。帰国すると、待詔文林館となった。殿中曹郎中・膳部曹郎中・員外曹郎中を歴任した。頓丘の李若と並び称されて、当時の人に「京師灼灼たるは、崔?・李若」と言われた。北斉が滅亡すると郷里に帰り、清河郡に出仕して功曹となり、冀州が置かれると主簿に任じられた。

584年(開皇4年)、給事郎に任じられ、まもなく内史舎人を兼ねた。587年(開皇7年)、通直散騎侍郎を兼ね、再び陳に対する使者をつとめて、帰国すると、員外散騎侍郎の位を受けた。越国公楊素は崔?の門地を重んじて、子の楊玄縦のために崔?の娘を妻に迎えさせた。婚礼において楊素は崔?を迎えに出て驢馬に乗せ、式場では上座の席にすえたが、崔?は楊素を軽んじて倨傲不遜な態度を取った。楊素は怒って衣をはらって立ち上がり、中座して現れなかった。数日後、崔?が陳謝すると、楊素はもとのように待遇した。仁寿年間、崔?は長安で死去した。享年は72。

子に崔世済があった。

5 楊堅 ようけん 541 - 604  宴秦孝王于并州作詩



楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。第2代皇帝煬帝の父。

出生
楊堅は、北周の大将軍の楊忠と呂氏の間に生まれた。楊氏は漢民族で後漢の楊震の末裔を称し、弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市)を本貫とした。しかし、漢族出身ではなく北方異民族の普六茹氏の子孫という説がある[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。

『隋書』の「本紀」には、楊堅の誕生に関して以下の話を載せている。楊堅が生まれたのは、541年(大統7年)6月13日、生まれた場所は、馮翊(陝西省大茘県)の般若寺という仏寺であり、幼名は金剛力士をあらわす那羅延であったという。この時代、熱心な仏教信者でなくとも、名前に仏教語を使用するのは一般的なことではあったが、楊堅の場合は乳母役を引き受けて養育したのが智仙という尼僧であったという。このようなことから、楊堅は幼少の頃から仏教に親しみを持っていたものと考えられる。

また、初唐の護法僧法琳の『弁正論』によると、その般若寺は北周武帝の廃仏によって廃毀されたが、楊堅は即位後の585年に出生地を懐かしみ、父母への追善供養の意味も込めて、その場所に後の日本の国分寺に相当する大興国寺を建立し、華麗な荘厳を施された堂塔伽藍を建立したと記している。

実力をつける楊堅
楊堅は、14歳のとき、京兆尹の薛善に召されて功曹となった。15歳で父の功績により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司となり、成紀県公に封じられた。16歳で驃騎大将軍に転じ、開府儀同三司の位を受けた。北周の明帝が即位すると、右小宮伯となり、大興郡公に進んだ。武帝が即位すると、左小宮伯に転じ、隋州刺史として出向し、位は大将軍に進んだ。父の楊忠の死後、隋国公の爵位を嗣いだ。
北斉の平定にも戦功を挙げ、位は柱国に進み、定州総管に任ぜられた。のちに亳州総管に転じた。

578年、楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。579年、大後丞・右司武となり、大前疑に転じた。580年5月、揚州総管となるが、宣帝が死去したため、楊堅は静帝の下で左大丞相となり、北周の実権を掌握した。6月以降、尉遅迥・司馬消難・王謙らに反乱を起こされたが、楊堅はこれを武力で鎮圧した。9月には大丞相となり、12月には相国・総百揆・都督内外諸軍事・隋王に上った。翌581年2月、静帝から禅譲させて皇帝に即位し、隋王朝を開いた。後には静帝を初めとする北周の皇族の宇文氏一門を皆殺しにした[10]。

皇帝として
楊堅は大興(後に長安)を都として定めた。そして587年には後梁を、589年には陳を滅ぼして、西晋滅亡以来約300年にわたり乱れ続けてきた中国全土を統一することに成功した。598年には高句麗に対し第1次高句麗遠征を行った。
楊堅は内政にも力を注いだ。まず、開皇律令を公布、中央官制を三省六部に整え、さらに地方に対しては郡を廃して州・県を設置した。また、官僚の登用においても九品中正法を廃止し、新たに科挙制度を設けた。さらに貨幣の統一、府兵制や均田制などの新制度を設けるなど、中央集権体制を磐石なものとした。また、仏教の興隆にも尽力し、その仏教を重視した政策は、仏教治国策とまで称せられた。

楊堅の死について
楊堅の長男の楊勇が皇太子に立てられていたが、独孤皇后や楊素らの画策で廃嫡され、次男の楊広(後の煬帝)が代わって太子に立てられた。604年、楊堅は仁寿宮で病の床についたが、楊広が楊堅の寵愛する宣華夫人に手を出そうとしたことを、難を逃れた夫人から直接聞いて、「畜生になんで大事を託せようか。独孤(皇后)がわしを誤らせたのだ」と言い、「我が子を呼べ」と叫んで、楊勇を呼び出そうとした。その直後に楊堅は亡くなった。享年64。

病床の楊堅が、廃太子楊勇を呼び出そうとしたことを柳述・元厳が楊素に報告し、楊素が太子楊広に報告すると、楊広が張衡を楊堅の寝殿に派遣し、夫人や後宮の侍従が別室に離れた直後に、楊堅は亡くなったとする。
以上の説は、宮崎市定が『隋の煬帝』(中公文庫)で説くように、煬帝の暴君伝説がさまざま作られるなかで成立した部分が多いようである。唐初に成立した『隋書』では、「本紀」ではなく「列伝第一」「后妃伝」に記されている。

6 楊素 ようそ  ? - 606年 出塞二首 贈薛内史詩 贈薛播州詩
(十四章)
山齋獨坐贈
薛内史詩二
行經漢高陵

楊 素(よう そ、? - 606年)は、中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道。楊?の子、楊約、楊詢、楊慎、楊岳、楊戻、楊操らの兄、楊玄感、楊玄奨、楊玄縦、楊仁行、楊万石、楊積善の父。
『隋書』によると、楊素は弘農郡華陰県(現在の陝西省渭南市華陰市)を本貫とする。隋の帝室である楊氏(異民族普六茹部[1])とは別系統にあたる。
父の楊?は北周の天和年間に汾州刺史となり、北斉の将軍の段韶の攻撃を受けて捕らえられた。北斉は楊?を任用しようとしたが、楊?は屈することなく?で憤死した。
楊素は、北周の大冢宰の宇文護に引き立てられて中外記室となり、礼曹に転じ、大都督を加えられた。北周の武帝が親政をはじめると、楊素は父の楊?が節義を守って死んだにもかかわらず、いまだ追封を受けていないことを再三にわたって訴えた。このため武帝の逆鱗に触れてしまい、処刑寸前まで追い詰められた。「臣は無道な天子につかえて、死ぬのは分相応である!」といった。武帝はその壮語に免じて、楊?に持節・大将軍・淮魯復三州刺史の位を追贈した。楊素は車騎大将軍・儀同三司に任ぜられ、礼遇を受けた。
北斉に対する戦役で、先鋒をつとめ、斉王宇文憲に従って河陰で戦い、功績により清河県子に封ぜられ、司城大夫に任ぜられた。北斉が平定されると、上開府の位を加えられ、成安県伯に改封された。
楊堅(のちの隋の文帝)が北周の丞相に上ると、楊素はこれと親交を結び、?州刺史に任ぜられた。尉遅迥の乱が起こると、北周の大将軍に上り、?州刺史の宇文胄を撃破した。徐州総管に転じ、柱国となり、清河郡公に封ぜられた。
隋が建国されると、上柱国・御史大夫に上った。楊素の妻の鄭祁耶は嫉妬深く、これに楊素は怒って、「もし私が天子となったとしても、お前は皇后にはしてやるまい」と言った。鄭祁耶がこれを上奏したため、楊素は免官された。
文帝(楊堅)が江南を奪う計画を考えはじめると、楊素は数度にわたって南朝陳を平定する策を進言した。するとまもなく、楊素は信州総管に任ぜられた。永安で「五牙」「黄龍」と称する大艦を次々と建造し、楊堅の次男である晋王の楊広(のちの煬帝)を補佐して、みずからは行軍元帥となり、水軍で長江を下って一挙に陳を滅ぼした。楊素はその功績で越国公に封ぜられた。まもなく納言となり、内史令に転じた。陳滅亡後に江南で頻発した隋に対する反抗を次々と撃破した。
有名な「破鏡重円」の故事によると、陳を滅ぼした後、陳の宣帝の娘である楽昌公主を賜り、自分の側室にした。しかし楽昌公主の前夫の徐徳言が、別れた妻を探していることを知ると、特別な計らいでこの夫婦の復縁に尽力したという。ただしこの故事の歴史的な信憑性は低い。
592年、蘇威に代わって尚書右僕射となり、張衡と高?とともに朝政を分掌した。598年、突厥の達頭可汗が塞内に侵入すると、霊州道行軍総管となって出征し、達頭可汗を撃破した。
600年、晋王楊広が霊朔道行軍元帥となると、楊素はその下で長史となり、楊広との親交を深めた。601年、高?に代わって尚書左僕射となった。楊素の一族の多くは隋の高官に任命され、楊素自身の邸宅も宮殿風に建築して贅を極めた。

文帝の晩年、太子楊勇と晋王楊広とのあいだには、次の皇帝位をめぐる暗闘があった。楊素は建前は中立を保ったが、裏では太子の悪評を流し、楊広の立太子に協力した。やがて文帝は独孤皇后の言を容れて楊勇を廃嫡し、楊広を太子に定めた。

604年、文帝が逝去し、煬帝(楊広)が即位した。このとき病床の文帝が、太子楊広の非行に激怒して、廃太子の楊勇を呼び出そうとした。楊素はこれを察知して楊広に報告し、楊広が父の殺害を命じたとする説も根強い。

煬帝の弟である漢王楊諒が乱を起こすと、楊素はこれを討伐して鎮圧した。605年、尚書令となり、太子太師に任ぜられた。606年、司徒に上り、楚国公に封ぜられた。しかし、煬帝の猜疑を受け、失意のうちに逝去した。

7 薛道衡 せつどうこう 540年 - 609年

薛 道衡(せつ どうこう、540年 - 609年)は、中国南北朝時代および隋の文学者。字は玄卿。本貫は河東郡汾陰県。薛収の父、薛稷の曾祖父。高祖父は薛謹。曾祖父は薛破胡。祖父は薛聡。父は薛孝通。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。
生涯
6歳の時に父の薛孝通を失うが、学問にはげみ、13歳の時『春秋左氏伝』を読んで、鄭の宰相子産の功績を称える「国僑の賛」を作り、人々からその出来映えを賞賛された。はじめ北斉に仕え、武成帝・後主の時には北周や陳の使者の応対、詔勅の起草などをつかさどり、文林館待詔の時には、盧思道・李徳林らと親しく交際し、彼らと名声を等しくした。北斉が滅びると北周・隋に仕えた。584年、陳に使者として赴くと、後主ら江南の人々にその詩文を賞賛された。

592年、蘇威とともに人事を濫用していると讒言され嶺南に左遷された。当時揚州にいた晋王楊広(後の煬帝)は薛道衡を自分の幕僚に招こうと人づてに誘ったが、薛道衡は気が進まず、揚州を通らずに任地に赴いた。これにより楊広は秘かに薛道衡を恨んだ。まもなく召還の詔が出て、数年後に内史侍郎となり、上儀同三司を加えられた。薛道衡の文才は文帝に大変重んじられ、その名声は当時並ぶものなく、太子楊勇や諸王はあらそって交際を求め、高?・楊素ら重臣からも尊敬された。

604年、文帝が死去して煬帝が即位すると、薛道衡は番州刺史に左遷された。翌年、煬帝は薛道衡を秘書監として召還したが、薛道衡が奉った「高祖文帝頌」を読み、「薛道衡が先朝を賛美しているのは自分への当てこすりである」と不快に思った。そこで薛道衡を司隷大夫に任じ、秘かに罪に陥れようとした。

609年、新たに制定された法律の議論に参加した薛道衡は、議論がなかなか決定しないのを見て、「(陛下が)高?を死なせなかったら、法令はとうに執行されているだろうに」と漏らした。御史大夫の裴蘊は、かねてから煬帝が薛道衡を憎んでいることを知っており、これを煬帝に報告して「薛道衡は自分の才能と旧臣であることを鼻にかけ、陛下をないがしろにしております」と讒言した。煬帝は薛道衡が高?の処刑を批判したことに怒り、彼に自殺を命じた。薛道衡は大した罪にはならないと思っていたため、自殺の命令に驚き、それを受け入れることができなかった。御史が再度上奏し、薛道衡は縊殺された。享年70。天下の人々はこれを冤罪としたという。

一説には、煬帝は薛道衡の文才をねたんでおり、薛道衡の死を聞くと、「これで『空梁に燕泥落つ』(薛道衡の詩「昔昔塩」の一句)のような句は作れまい」と言ったという(司馬光『資治通鑑』などより)。

陸法言の『切韻』序によると、薛道衡は開皇の始め、顔之推・盧思道らとともに陸法言の家に集まって音韻の討論を行い、これが後に『切韻』にまとめられたとある。
<隋全書>
出塞二首
(和楊素○以下五言。)
昭君辭
昔昔鹽
豫章行(七言)


詩(以下五言。)
從駕幸晉陽詩
奉和月夜聽軍樂應?詩
奉和臨渭源應?詩
秋日遊昆明池詩
敬酬楊仆射山齋獨坐詩
重酬楊仆射山亭詩
入?江詩
渡北河詩
和許給事善心戲場轉韻詩
展敬上鳳林寺詩
從駕天池應?詩
梅夏應教詩
人日思歸詩
夏?詩
?窮應教詩
詠苔紙詩


<古詩源>
昔昔鹽
敬酬楊仆射山齋獨坐詩
人日思歸詩

8 房彦謙 ぼうげんけん 547 - 615  房彦謙墓 唐故徐州都督房公碑


房彦謙(547年−615年6月16日),字は孝沖といい,出身は清河房氏である。房彦謙の一生で東魏、北齊、北周、隋四朝を經歴し,終に隋の陽縣令に任上る。
七世祖房ェ,在後燕擔任太尉掾,隨着慕容コ南遷青州。高祖房法壽,曾擔任魏青、冀二州刺史。祖房翼,莊武伯、鎮遠將軍、宋安太守。父房伯熊,清河?史。兄房??,釋褐儀同開府行參軍,尋除殿中侍御史,改授青州法曹參軍,行益都縣事,尋除千乘縣令。房?謙行六,在十八?時被廣寧王高孝?聘為主簿,清簡守法,州境肅然。齊亡後,稱病「歸於家」,當時北朝政教嚴切,人士不敢隱退。開皇七年(587年),由刺史韋藝堅持推薦入朝廷,吏部尚書盧ト很看重他,授承奉郎,不久再遷監察御史。大業九年(613年),隨隋煬帝至遼東,擔任扶餘道(今東北地區)監軍,後因得罪權貴,遷為陽縣令,卒於任上。

房彦謙は書法を工にし,楷法については勁ェ博にひってきする。有子房玄齡,他曾經和玄齡?過:「人皆因祿富,我獨以官貧,所遺子孫,在於清白耳。」今山東省濟南市?城區彩石鎮西彩石村東北有房彦謙墓。

唐故徐州都督房公碑

9 テキ譲〔擢ヘン無〕 てきじょう ? - 617年





? 譲(てき じょう/たく じょう、生年不詳 - 617年)は、中国の隋末の民衆叛乱の指導者。本貫は東郡韋城県(現在の河南省安陽市滑県)。

生涯
隋に仕えて東郡法曹となったが、616年に事件に連座して斬刑となるところ、獄吏の黄君漢の助けで脱獄した。瓦崗に逃れて隋に叛いた。単雄信・徐世勣らを迎えて、東郡と梁郡の境で公私の船を掠奪し、一万人あまりの人々を集めた。
李密・王伯当らを迎え、李密の活躍により隋の河南討捕大使張須陀を敗死させた。617年、李密の勧めで東都洛陽の攻略に乗り出し、興洛倉(現在の河南省鄭州市鞏義市)を奪取して、官倉を開き民衆にほしいままに取らせた。また裴仁基らの隋軍を撃破した。

李密を魏公に擁立して、自身は上柱国・司徒・東郡公を称した。李密は回洛倉(現在の河南省洛陽市?河回族区)や黎陽を奪い、王世充らの隋軍を撃破し、竇建徳や朱粲を帰服させ、裴仁基や柴孝和らを迎えて威勢は振るった。

王儒信やテキ譲の兄のテキ弘らがテキ譲に李密の大権を奪うよう勧め、テキ譲はこれを笑い飛ばしたが、李密はこのことを知って憎んだ。房彦藻や鄭廷がテキ譲の貪欲不仁ぶりを李密に告発し、テキ譲を排除するよう勧めた。李密は逡巡したが、やがて説得に応じ、テキ譲を酒席に招いた。李密が良弓を持ち出したので、?譲はその弓を引いてみたところ、蔡建徳に後ろから斬られた。直後に?弘・?摩侯(テキ譲の甥)・王儒信らも殺された。

10 王通 おうとう 584 - 618 東征歌




王 通(おう とう、584年(開皇4年)- 618年(武徳元年))は、中国・隋代の儒学者。字は仲淹(ちゅうえん)。号は文中子(ぶんちゅうし)。絳州竜門県(現在の山西省運城市河津市)の出身。
名族である太原王氏の傍系出身である。父の王隆は国子博士となり、開皇初年文帝に「興衰要論」7篇を奏した。兄は王度。弟は王凝・王績(東皐子)・王。孫には初唐の詩人王勃がいる。

18歳の時に秀才科に及第したにもかかわらず、官には就かなかった。603年(仁寿3年)に文帝に対して「太平十二策」を上呈した[1]が、納れられなかったため、郷里である竜門県に戻り、著述に専心した。その許には一千人単位の門弟が集まった。その中からは唐朝建国の功臣たちが多数輩出した。その著書『文中子中説』は弟子たちとの対話を集録したものであり、北宋の阮逸が注を付した。ただ、この書の内容や真偽に関しては、諸説紛紛たるさまを呈した。

11 煬帝 ようだい 569 - 618  望海詩 詠鷹詩 獻?燕宮臣詩
現存 多し
煬帝(ようだい)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。中国史を代表する暴君といわれる。煬帝は唐王朝による追謚であり、本名は楊広である。

皇帝への即位まで
後に煬帝と呼ばれることになる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智に対しては「智者」の号を下賜している。

煬帝の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い匈奴独孤部の末裔出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、煬帝の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を煬帝が利用して自ら側妾を持たず蕭妃だけを愛しているように装うと共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。

604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が煬帝を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝」でも言及している)。

治世
即位した煬帝はそれまでの倹約生活から豹変し奢侈を好む生活を送った。また廃止されていた残酷な刑を復活させ、謀反を企てた楊玄感は九族に至るまで処刑されている。

洛陽を東都に定めた他、文帝が着手していた国都大興城(長安)の建設を推進し、また100万人の民衆を動員し大運河を建設、華北と江南を連結させ、これを使い江南からの物資の輸送を行うことが出来るようになった。対外的には煬帝は国外遠征を積極的に実施し、高昌に朝貢を求め、吐谷渾、林邑、流求(現在の台湾、一説に沖縄)などに出兵し版図を拡大した。

さらに612年には煬帝は高句麗遠征を実施する。高句麗遠征は3度実施されたが失敗に終わり、煬帝に離反して亡命した高句麗から送還された斛斯政を射殺に処して、その遺体を釜茹でにするなど、これにより隋の権威は失墜した。また国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中の楊玄感の反乱など各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた。615年8月、雁門において突厥に包囲された。煬帝は多大な賞賜を約束して援軍を募ったが、突厥が撤退すると恩賞を払わず、多くの将士から恨みを買った。各地で李密、李淵ら群雄が割拠する中、煬帝は難を避けて江都に逃れた。

最期
煬帝は反乱の鎮圧に努める中で次第に現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われた。ある日、煬帝は眠れなかったので天を仰ぐと、帝星が勢いを失い傍らにあった大星が妖しげな光を放っているのを見て、不吉なものを感じて天文官に聞いてみると、「近頃、賊星が帝星の座をおかしています。また日光は四散してあたかも流血のごとき模様を描いております。このまま時が過ぎますと、恐らくは近々に不測の禍が起こりましょうから、陛下には直ちに徳をおさめられてこの凶兆を払う事が肝要と存じます」と述べた。この日から煬帝は国事の上奏を受け付けなくなり、上奏する者は斬罪に処すという命令を出した。

618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた宇文化及・宇文智及兄弟や裴虔通らによって、末子の趙王楊杲(13歳)と共に50歳にして殺害された。彼は皇帝として毒酒による自害を望んだが、その最期は家臣2人に真綿で首を絞められるものだった。。

歴史的評価
煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。

大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸したために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。しかし大運河の建設は、長期間分裂していた中国を統一するための大事業でもあった。

また、共に兄を殺した次子でありクーデターによって帝位に就くなど、環境や行動に類似点の多い唐太宗の正統性を主張するため、煬帝(ようだい)という貶字を謚号に用い、『隋書』にも暴君であるように編纂したとする意見もある。

煬帝個人に関する研究は多いとは言えないが、その中で宮崎市定・布目潮?・アーサー・F・ライトが挙げられ、いずれも煬帝の暴君像は後世に(その程度がどれほどであったかは別として)誇張されたとする点では共通している。

2013年3月、中国江蘇省揚州市の工事現場で古代遺跡が発見された。2013年11月16日、この遺跡が煬帝の墓であることが発表された。

詩人としての煬帝
煬帝は統治者としては結果として国を滅ぼした失格者であったが、一面では隋代を代表する文人・詩人でもあった。治世中各地に巡幸した際などしばしば詩作を行なったといわれる。治世後半には自らの没落を予見したのか、寂寥感を湛える抒情詩を数多く残した。煬帝の作品は文学史上からも高い評価を受けている。


<隋全書>
飲馬長城窟行白馬篇
??詞二首
春江花月夜二首
錦石搗流?二首
喜春遊歌二首
泛龍舟
四時白紵歌二首
東宮春
江都夏
鳳?歌
冬至乾陽殿受朝詩
雲中受突厥主朝宴席賦詩
宴東堂詩
賜史祥詩
賜牛弘詩
賜諸葛穎
早渡淮詩
臨渭源詩
還京師詩
舍舟登陸示慧日道場玉清玄壇コ衆詩
謁方山靈岩寺詩
月夜觀星詩
季秋觀海詩
望海詩
詠鷹詩
獻?燕宮臣詩
正月十五日於通衢建燈夜升南樓詩
?春詩
悲秋詩
冬夜詩
夏日臨江詩
北?古松樹詩
幸江都作詩
野望



<古詩源>
飲馬長城窟行
白馬篇

12 廬世基 ろせいき ?  - 618  出塞二首 江都夏 長安秋 初渡江詩 現存 多し
虞 世基(ぐ せいき、? - 618年)は、中国陳および隋の政治家。字は茂世。越州余姚県(現在の浙江省寧波市余姚市)の人。「初唐の三大家」の一人、虞世南の兄。隋の煬帝に重臣として仕えたが、後に宇文化及の反乱で殺された。

陳の太子中庶子虞茘の子として生まれる。幼くして態度が落ち着き、博学でかつ才能が人並み外れており、草書・隷書に巧みであった。中書令の孔奐は彼を「南金(南方の優秀な人材)の貴」と評し、太子少傅の徐陵は彼に会うと「今の潘岳・陸機だ」と言って、姪を彼に嫁がせた。初め陳に仕えて建安王の法曹参軍事となり、祠部殿中二曹郎・太子中舎人を経て、太子中庶子・散騎常侍・尚書左丞に移る。陳の後主が幕府山で狩りを催した時、虞世基は「講武賦」を奉り後主に褒められた。陳が滅亡すると隋に仕えて通直郎となるが、家が困窮したため書物を書写して生計を立て、それで親を養った。しばらくして内史舎人となった。

煬帝が即位すると、秘書監柳?の推薦により内史侍郎に抜擢され、蘇威・宇文述・裴矩・裴蘊とともに政治を掌り、「五貴」と称された。当時全国からの上奏は1日に100を数え、決裁が滞っていたが、虞世基が入省して勅書の作成を掌ると、1日に100枚を書き上げ、しかも書き損じがなかったという。煬帝は虞世基の才能を評価し、彼をますます礼遇した。高句麗遠征の時には金紫光禄大夫に昇進した。615年、煬帝が雁門で突厥に包囲されると、虞世基は将兵に恩賞を与え、高句麗遠征を中止する詔勅を出すことを進言した。煬帝が進言に従うと将兵は奮い立った。しかし包囲が解かれると約束は反故にされたため、これ以後朝野の人々の信頼を失った。

616年、煬帝は江都に御幸しようとした。虞世基は反乱が盛んになっていることを憂えて、洛口倉に兵を留めて不測の事態に備えるべきだと煬帝に進言したが、聞き入れられなかった。当時天下は大いに乱れていたが、虞世基は煬帝が諫言を聞かず、高?・張衡らが相次いで誅殺されたことから、自らに災いが及ぶことを恐れ、煬帝の気に入らないことは報告しなくなった。反乱の報告が届けられると、それを虚偽だと言上したため、これ以後煬帝に報告する者はいなくなった。また虞世基の後妻の孫氏は驕慢で奢侈を好み、その連れ子の夏侯儼は盛んに賄賂を取っては蓄財に励んだため、人々の怨みと憎しみを買った。618年、宇文化及が反乱を起こし煬帝を殺すと、虞世基も同じく殺された。
<隋全詩>
出塞二首(和楊素。)
四時白?歌二首(和?帝。)
江都夏
長安秋
奉和幸江都應?詩
?水早發應令詩
秋日贈王中舍詩
在南接北使詩
奉和望海詩
賦昆明池一物得織女石詩
賦得石詩
衡陽王齋閣奏妓詩
奉和幸太原?上作應?詩
初渡江詩
零落桐詩
?飛烏詩
入關詩
賦得戲燕?宿詩
<古詩源>
出塞二首
入關

13 孫萬壽 そんまんじゅ 生没年不詳  遠戍江南 答楊世子詩 別贈詩 行經舊國詩

孫 万寿(孫萬壽、そん ばんじゅ、生没年不詳)は、北斉から隋にかけての文学者。字は仙期。またの字は遐年。本貫は信都郡武強県。

北斉の国子博士の孫霊暉の子として生まれた。14歳のとき、阜城の熊安生に五経を学び、概略をつかんで、諸子や史書を渉猟した。文章を得意とし、談論が美しかったため、博陵の李徳林に認められた。17歳のとき、北斉の奉朝請に任じられた。また陽休之の下で開府行参軍をつとめた。

隋が建国されると、滕王楊?に召されてその文学となったが、衣冠の整わなかった罪で、江南に流されて防人の任についた。行軍総管の宇文述に召されてその軍の書簡をつかさどった。書生気質の万寿は、軍の麾下にあっては面白くなく、その心うちを「遠戍江南寄京師親友」の五言詩にしたためて長安の友人に送ると、その詩は当時に流行して多く壁書された。

後に郷里に帰って、十数年にわたって任用されなかった。601年(仁寿元年)、豫章王楊?に召されてその長史となった。604年(仁寿4年)、楊?が斉王に転封されると、斉王文学となった。当時、諸王の属官は族滅されるものが多かったため、万寿は不安にかられて、病にかこつけて辞職した。長らくして大理司直に任じられ、在官のまま死去した。享年は52。『文集』10巻があって当時に通行した。

 隋全書  遜萬壽
遠戍江南 (寄京邑親友)  答楊世子詩  別贈詩  和張丞奉?於江都望京口詩  行經舊國詩
早發揚州還望郷邑詩     東歸在路率爾成詠詩
 古詩源
和周記室遊舊京  早發揚州還望郷邑詩  東歸在路率爾成詠詩

14 王冑 おうちゅう 生没年不詳 別周記室




王 冑(おう ちゅう、558年 - 613年)は、南朝陳から隋にかけての詩人。字は承基。本貫は琅邪郡臨沂県。
経歴
陳の黄門侍郎の王祥(王キンの子)の子として生まれた。陳に仕えて、ハン陽王法曹参軍を初任とし、太子舎人・東陽王文学を歴任した。

陳が滅ぶと、晋王楊広に召されて学士となった。604年(仁寿4年)、劉方の下で林邑に対する征戦に従軍し、功績により帥都督に任じられた。
605年(大業元年)、著作佐郎となり、詩文の才能で煬帝に重んじられた。煬帝が洛陽から長安に帰るたびに天下で大宴会を開かせていたが、王冑は命を受けてこの宴会を題材に五言詩を作った。王冑の文名は虞綽と並び称され、またふたりのあいだは仲が良かった。王冑は高句麗遠征に従軍し、朝散大夫の位に進んだ。

王冑は才能を恃んで傲慢であり、官位が低いことに不満を漏らしていた。諸葛潁に憎まれてたびたび誣告されたが、煬帝は王冑の才能を愛して罰しようとしなかった。礼部尚書の楊玄感とつきあいがあり、たびたびその邸に遊んだ。
613年(大業9年)、楊玄感が反乱を起こして敗れると、王冑は虞綽とともに辺境に流された。配流地から逃亡して、江南に潜伏していたが、官吏に捕縛されて処刑された。享年は56。王冑の著した詞や賦は、多くが当時に流行した。

15 尹式 いんしき 生没年不詳 送晉熙公別詩 別宋常侍詩

尹式(6世紀?−604年),隋代河間(今屬河北)人。
博學能作詩,少時即有令譽,官至漢王記室。仁壽四年(604年),隋文帝死,隨漢王楊諒起兵反對楊廣,兵敗,尹式自殺。
尹式の現存二詩
送晉熙公別詩
 太行君失路,扶搖我退飛。無複紅顔在,空持白首歸。色移三代服,塵化兩京衣。道窮方識命,事去乃知非。
 西候追孫楚,南津送陸機。雲薄鱗逾細,山高翠轉微。氣隨流水咽,涙逐斷弦揮。但令寸心密,隨意尺書稀。
 (○《文苑》二百六十六作送留熙公別。《詩紀》百二十六。○ロク按:《文苑》留字率寫作留,留晉易訛。)  

別宋常侍詩
 遊人杜陵北,送客漢川東。無論去與住,?是一飄蓬。
 秋鬢含霜白,衰顔倚酒紅。別有相思處,啼烏雜夜風。
(○《文苑英華》二百六十六。《詩紀》百二十六。)

16 孔徳紹 こうとくしょう 生没年不詳 送祭君知入蜀 夜宿荒村

会稽の人。才があって、景城縣丞にいたる。竇建徳が王を称し、中書令に任じた。書と檄をつかさどった。竇建徳がやぶれたため、孔徳紹も誅された。

17 孔紹安 こうしょうあん 577年−622年 落葉 別徐永元秀才


字は不詳であり,越州山陰(今浙江紹興)の人,孔奐之子。約四十六?。孔免の長子,孔子三十三代孫。隋の末,監察御史と為り。唐になり,?史舍人に拜せられた。恩禮甚だ厚く,撰梁史に詔せられた。有文集五十卷,今存詩七首。
孔紹安(577年−622年),越州山陰人,南朝陳吏部尚書孔奐之子。年輕時與兄孔紹新都以文詞知名。十三?時,隋朝滅陳,孔紹安徙居京兆?縣,閉門讀書,誦古文集數十萬字,表兄虞世南嘆異之。孔紹新曾對虞世南?:「本朝淪陷,分從湮滅,但見此弟,竊謂家族不亡矣!」時有詞人孫萬壽,與孔紹安結忘年之好,時人稱為孫、孔。大業末年,孔紹安為監察御史。時太原留守李淵以擁隋為名用兵河東,詔孔紹安監李淵軍,深得接遇。李淵受禪稱帝建立唐朝,孔紹安從洛陽走小路來奔。李淵見之甚ス,拜?史舍人,賜宅一區、良馬兩匹、錢米絹布等。時夏侯端也曾為御史,監李淵軍,先於孔紹安歸朝,獲授秘書監。孔紹安趁侍宴時應詔詠《石榴詩》稱:「只為時來?,開花不及春。」時人稱道。武コ五年(622年)奉詔撰《梁史》,未成而卒。有文集五卷(一作五十卷)。
《侍宴詠石榴》
可惜庭中樹,移根逐漢臣。只為來時?,花開不及春。

《詠夭桃》
結葉還臨影,飛香欲遍空。不意餘花落,翻?露井中。

《贈蔡君》
疇昔同幽谷,伊爾遷喬木。赫奕盛青紫,討論窮簡牘。

《結客少年場行》
結客佩?鈎,行度隴頭。雁在弓前落,雲從陣後浮。?師驚燧象,燕將警奔牛。
轉蓬飛不息,冰河結未流。若使三邊定,當封萬?侯。

《傷顧學士》
迢遞雙?道,超忽三川?。此中?失路,思君不可思。遊人行變橘,逝者遽焚芝。
憶昔江湖上,同詠子衿詩。何言陵谷徙,翻驚鄰笛悲。陳根非席卉,穗帳異書帷。
與善成空?,殲良信在茲。今日嚴夫子,哀命不哀時。

《別徐永元秀才》
金湯既失險,玉石乃同焚。墜葉還相覆,落羽更為群。豈謂三秋節,重傷千里分。
遠離弦易轉,幽咽水難聞。欲識相思處,山川間白雲。

《落葉》
早秋驚落葉,飄零似客心。翻飛未肯下,猶言憶故林。

18 陳子良 ちんしりょう  ? - 632年 七夕看新婦 辯正論注序 隋新城郡東
掾蕭平仲誄 祭司馬相如

子良,?人,武コ時官右衛率府長史,為隱太子學士,貞觀六年卒。<古詩源>
送別
七夕看新婦隔巷停車
  **********
為奚御史彈尚書某入朝不敬文
為王季卿與王仁壽書
辯正論注序
隋新城郡東曹掾蕭平仲誄
平城縣正陳子幹誄
祭司馬相如文

19 王申禮 おうしんれい 不明(隋の時活
躍)
宝林寺 賦得岩穴無結構 賦得馬援? 駿馬


 傳不詳

<賦得岩穴無結構>
岩間無結構,谷處極幽尋。
葉落秋?迥,雲生石路深。
早梅香野徑,清?響邱琴。
獨有棲遲客,留連芳杜心。

園柳吟凉久,嘶?應序驚。
露下?恆濕,風高翅轉輕。
叶疏飛更迥,秋深響自清。
何言枝里翳,遂入蔡琴聲。


20 呂譲 りょじょう 不明(隋の時活
躍)
和入京



 傳不詳
和入京
俘囚經萬里,憔悴度三春。發改河陽?,衣餘京洛塵。鍾儀悲去楚,随會泣留秦。既謝平?利,終成失路人。(○《文苑英華》二百四十。《詩紀》百二十七。)

21 明餘慶 めいよけい 不明(隋の時活
躍)
從軍行 詠死烏詩


 傳不詳
從軍行三邊烽亂驚,十萬且行。風卷常山陣,笳喧細柳營。
劍花寒不落,弓月曉逾明。會取淮南地,持作朔方城。
(○《文苑英華》百九十九。《樂府詩集》三十二。《詩紀》百二十六。)  

詠死烏詩
暮空長罷噪,箭急不知驚。ョ餘琴裏曲,猶有夜啼聲。
(○《初學記》三十。《詩紀》百二十六。)  

22 大義公主 たいぎこうしゅ 不明(隋の時活
躍)
書屏風詩



千金公主 北周の趙王宇文招の娘。 579年に突厥の沙鉢略可汗の求めで皇女として入嫁した。 楊堅の簒奪後に楊姓を下賜されて大義公主と改められたが、簒奪を怨恚して都藍可汗に入冦を煽動し、そのため隋に通誼した突利可汗の讒言で殺された。
書屏風詩
盛衰等朝露,世道若浮萍。榮華實難守,池台終自平。
富貴今何在,空事寫丹青。杯酒恒無樂,弦歌?有聲。
餘本皇家子,飄流入虜廷。一朝睹成敗,懷抱忽縱。
古來共如此,非我獨申名。惟有明君曲,偏傷遠嫁情。
(○《隋書・突厥傳》。《詩紀》百二十八。)  













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    581年 -618年

 隋全書 掲載隋詩人