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南朝 宋の詩人






三国時代 魏 220 - 265 呉 222 - 280 蜀 221 - 263
晉  265 - 420
東晉 317 - 420 五胡十六国 304-439
南北朝(439〜589)
西魏 535 - 556
東魏 534 - 550
北斉 550 - 577
唐(とう、618年 -907年)
   初唐の詩人たち   盛唐の詩人たち   中唐の詩人たち   晩唐の詩人たち

晉・東晉・五胡十六国・南北朝・隋 の詩人

<西晉
詩>
裴秀 韋昭 傳玄 皇甫諡 山濤
杜預 陸壽 李密 荀メ 劉怜
張華 程暁  2.詩《嘲熱客》 潘岳 束ル 張翰(張季鷹)
策靖 陸機 陸雲 王戎 阮咸
向秀 張協 左思 左貴嬪 張載
孫楚  司馬懿 王衍 潘尼 郭象
曹リョ(手へんに慮)  王讃(王正長) 郭泰機 石崇 欧陽建
何劭



<東晉
詩>
東晉
317−
420
劉コン(王+昆) 廬ェ 東晋元帝司馬睿 王偉 謝混
郭璞 謝 尚 曹毘 王導 陶侃
ユ翼 葛洪 王洽 僧支遁 桓温
王猛 孫綽 王羲之 謝安 僧 道安
王獻之 桃葉 王` 范寧 桓玄
呉隠之 僧肇 僧 慧遠 孔琳之 陶潜 (陶淵明)
 廬山諸道人 恵遠 帛道猷 謝道饂 趙整
<宋詩> 451 孝武帝 452 南平王鑠 453 何承天  454 顔延之 455 謝靈運
456 謝膽  457 謝恵連 458 謝莊  459 鮑照 460 鮑令暉
461 呉遇遠 462 王微  463 王ソウ達 464 沈慶之  465 陸凱
466 湯惠休  467 劉呉


<齊詩> 481 謝眺   482 王融   483 劉繪  484 孔稚圭 485 陸厥
486 江孝嗣



<梁詩> 501 梁武帝 502 簡文帝 503 元帝   504 沈約   505 江淹
506 范雲  507 任肪   508 邱遅  509 劉ツ  510 呉均
511 何遜  512 王籍  513 劉峻   514 劉孝綽 515 陶弘景
516 曹景宗 517 徐ヒ  518 虞羲   519 衞敬瑜妻王氏
520 劉キョウ 文心雕龍(南朝梁の劉キョウが著した文学理論書。全10巻。5世紀の末、南斉の末期頃)
<陳詩> 531 陰鏗  532 徐陵  533 周弘譲  534 周弘正 535 江總
536 張正見  537 何胥  538 韋鼎  539 陳昭
<北魏
詩>
551 劉昶   552 常景  553 温子昇 554 胡叟  555 胡太皇
556 



<北齊
詩>
561 刑邵  562 祖テイ  563 鄭公   564 蕭懿  565 顔之推
566 馮淑妃 567 斛律金


<北周
詩>
571 ユ信 572 王褒 


<隋> 581 煬帝   582 楊素  583 廬思道 584 薛道衡 585 廬世基
586 孫萬壽 587 王冑  588 尹式  589 孔徳紹 590 孔紹安
591 陳子良 592 王申禮 593 呂譲 594 明餘慶 595 大義公主

南北朝
南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。

この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。

また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。

宋    

宋を建国する劉裕は東晋北府の劉牢之配下の参軍であったが、孫恩の乱鎮圧で功績を立てて台頭する。403年12月、東晋領の荊州に基盤を置く西府軍を握る桓玄が安帝を廃して帝位に即位し、楚を建国した。そして桓玄により北府軍団は圧迫されて劉牢之は憤死し、これに憤激した北府軍団は劉裕を擁して結集し404年3月、建威将軍だった劉裕は反撃して最終的に蜀に逃れる桓玄を敗死させた。

劉裕は安帝を復位させ、車騎将軍として実権を握った。劉裕は積極的に外征を行い、410年2月には南燕を滅ぼし、南燕皇帝慕容超を処刑した。だが劉裕の留守を衝いて、孫恩の残党が水路から建康に迫って何無忌や劉毅の東晋軍を破ったため、劉裕は迅速に帰還して石頭において残党軍を破り、411年には広東に逃れていた残党軍を殲滅した。

また416年には後秦を攻めて洛陽を奪取し、さらに西進して417年には長安を攻め落として後秦を滅ぼした。ただこの際にも建康の留守を任せていた参謀の劉穆之が急死したため、江南に不測の事態が起きる事を恐れた劉裕は建康に帰還し、奪った領土も大半が華北の異民族政権に奪取される事になった。

とはいえ、これらの功績を背景にして劉裕は安帝を殺害し、新帝に弟の恭帝を擁立した。そして420年に劉裕(高祖武帝)は恭帝から禅譲を受けて、宋王朝を開き、劉裕は武帝となった。

元嘉の治
東晋以来、貴族勢力が強かったものの、貴族勢力との妥協のもと武帝は政治を行なった。武帝は在位からわずか2年後の422年に崩御した。武帝の死後、長男の少帝が第2代皇帝となるが、この少帝は遊興に耽って節度が乏しかったために宋は乱れ、滑台・虎牢などの領土が北魏に奪われた。このため424年に徐羨之・傅亮・謝晦らによって廃位され、第3代皇帝には弟の文帝が擁立された。文帝は先帝を廃立した徐羨之ら3名を殺害し、名門貴族の王華・王曇首・殷景仁らを重用して政務を行なった。この文帝の30年の治世は元嘉の治と呼ばれて国政は安定した。

430年、文帝は前年から北魏軍が柔然を攻めたのを見て河南に北伐軍を差し向けた。当初は河南4鎮(洛陽・滑台・虎牢など)を奪取したが、やがて北魏軍の反撃を受けて全て奪い返された。431年1月、宋の名将檀道済が滑台を再び奪い、さらに北魏軍を破って優位に戦況を進めたが、兵糧不足により撤退し、奪った領土も北魏に再度奪われた。この後、北魏の申し出で宋は和睦した。その後、文帝は北魏と使者を交換して親善に務めて両国間は平和になり、国内では富国強兵が図られた。また宋の南方を脅かした林邑を442年に討伐した。

しかし宋では文帝の安定した治世といわれながら、436年3月に名将檀道済が文帝により誅殺され、442年には後仇池の楊難当に攻められ(これは追い返した)、北魏は華北を統一して南下の気配を示すなど、次第に状況は不穏になりだした。445年には北魏の武将蓋呉が宋に降伏したが、北魏は直ちに鎮圧してこれ以降は両国間で小競り合いが発生しだした[15]。

449年に北魏が柔然を攻めると、450年1月に文帝は国内の安定を背景にして貴族の賛同を得て北伐を行なうが、当時の宋軍は元嘉の治のために泰平に慣れきり非力であり、逆に北魏は太武帝の下で周辺諸国を併呑した軍事強国であったため、宋軍は北魏軍に敗れて北魏軍50万の大軍の侵攻を建康の手前まで受ける事になった。この時は太武帝の皇太子問題などが再燃したため北魏軍は北に帰還したが、対北魏戦線の宋領などはこの侵略と略奪で荒廃し大量の物的・人的資源を失った。この北魏の侵攻で宋の国力は衰退し、文帝も453年に皇太子劉劭の謀反により殺害された。その劉劭も弟の劉駿に敗れて子供4人とともに晒し首とされて長江に遺棄され、劉駿が孝武帝として即位した。

衰退・滅亡へ
文帝時代から始まった子が父を、弟が兄を殺すという皇族の内紛は後の南朝において常に続く内争の端緒となり、また宋を大いに衰退させる一因となった。孝武帝も自身の兄弟や一族を次々と殺戮した。また中央集権を図ったが失敗している。孝武帝が464年に崩御すると、長男の劉子業が跡を継いだが、性格が凶暴・残忍で戴法興・柳元景・顔師伯ら重臣を殺したため、465年に寿寂之・姜産之により殺害された。
新しい皇帝には文帝の11男明帝が擁立された。だがこの明帝も残忍で孝武帝の子を16人も殺害した。またこの明帝の時代には北魏からの侵略が激しくなり、山東半島から淮北までの領域を完全に奪われた。明帝は寺院の建立や無謀な遠征を連年続けて濫費を繰り返し、宋の財政は悪化した。472年に明帝が崩御すると、長男の劉cが跡を継いだが、この時にも孝武帝の遺児12人が殺戮される悲劇が繰り返されている。このように歴代が内紛を繰り返した結果、宋は衰退した。

このような中、明帝時代に北魏との戦線で実力を築いた軍閥の蕭道成は、驍騎将軍・西陽県侯・南?州刺史・右衛将軍・衛尉と昇進を重ねて宋の実力者となった。そして宋の末年に発生した皇族の江州刺史で桂陽王劉休範や荊州刺史沈攸之らの反乱を平定した。このように蕭道成が実力を蓄える一方で、劉cは殺戮を好み暴政を繰り広げ、遂には蕭道成の殺害を計画したために477年に殺害された。
新しい皇帝には実弟の順帝が擁立されたが、幼少の事もあり実権は蕭道成が握った。479年、順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は斉王朝を開き、ここに宋は滅亡した。なお、同族相食む中で滅亡した宋であるが、順帝は禅譲後に殺される直前、「2度と王家に生まれたくない」と述べたとまで伝わる。
中 国 詩 人 と 歴 史
・元謀・藍田・北京原人

・神話伝説(三皇五帝)

・黄河・長江・遼河文明

・夏 ・殷 ・周・西周


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唐           
唐   (初唐)

西夏
 
 
北元
後金

 
満洲
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国家体制
外交
対外的には、北涼・吐谷渾・北燕・高句麗を冊封下に置き、北方の柔然とも結んで、華北で有力だった北魏に対抗した(ただし、吐谷渾と高句麗は北魏からも冊封を受けた)。倭の五王による南朝への入貢の大半は宋の時代におけるものである。また、北燕や後仇池など華北の小国を冊封下に置き、それぞれ爵位を与えて北魏と対抗させた。
軍隊
宋は東晋を引き継いでいたため、軍事体制も建康東方の京口と対岸の広陵を基盤とする北府軍団と、長江中流の荊州を基盤とする西府集団という2大軍事勢力に分かれていたが、劉裕は自らが北府軍団の長として実力をつけた事を逆に恐れており、死の直前に北府長官には皇族か近親者を充て、西府長官には皇子を充てる事を命じ、この慣例は宋が滅ぶまで厳重に守られた。また劉裕は東晋が貴族に軍権を与えて権力をつけていた事を逆に危ぶみ、貴族から軍権を奪った。
貴族
宋は東晋から禅譲(簒奪)したために貴族から正統性を疑念されており、文帝時代には皇帝がお気に入りの書記官を貴族にしようとして貴族の王球に反対されたという逸話も伝わるほどである。宋時代の貴族は皇帝権力の介入さえ拒否できる権力を持ち、軍権は奪っていたとはいえ政治においては貴族の権限は大きく、元嘉の治においても皇帝と貴族が相互補完的に支え合って成立していたといえる。
皇族
宋の皇族は互いに殺し合い、そのため国勢を大きく衰退させたが、これは皇族が権勢と軍事力を持っていた上に、始祖の劉裕が寒門出身の軍人で社会の底辺から成り上がった人物だったため、信ずるに足りるは自分の実力だけと他人を猜疑し、宋の皇室における家庭教育の欠如が原因であるとされている。また南朝では強固な身分制度が存在していたが、下克上の風潮は常にあったとされる。


社会・経済
劉裕は宋を成立させる過程に当たって、かつての桓温と同じように東晋時代に大規模な土断を行なって戸籍の把握に務めている。

宋時代から南朝では現物交換経済から貨幣経済への転換・発展が急速に進んでいた。このため商人は暴利をむさぼり、官吏は汚職を行ない、国勢の衰退の一因となった。また当時の基軸貨幣である銅銭の材料である銅の絶対的不足で経済の発展が阻害され、窮余の一策として宋は民間での貨幣鋳造を許したが、逆に不法の介入を招いて庶民の生活に甚大な被害を与えた。また宋は徴税においては銅銭での納入、しかも不純物が入っていない銅銭を求めたが、これは過酷な増税であり、庶民は戸籍の書き換えで徴税を逃れたり生活窮乏のために反政府活動をしたりして治安の悪化を招いた。

なお、宋は孝武帝の時代に大規模な徴税改革が行なわれた。当時の宋は北魏との戦争で荒廃していたため、中央から台使という使者を地方に派遣して地方官に徴税の督促を行なわせて徴税の強化を行なった[18]。これは中央の財政を安定させるために行なわれたのだが、台使が権勢をかさに着て不当な取立てを行ない、民心を宋から離反させる一因を成した。

 南 朝南朝

江南では劉裕が東晋より禅譲を受けて、420年に宋を建国した。北では北魏が華北統一に追われていたこともあり、建国直後の宋は概ね平和で、第3代の劉義隆(文帝)の30年近くにわたる治世は当時の元号を取って「元嘉の治」と称揚される善政の時代と名高い。しかしその一方で東晋時代から進行していた貴族勢力の強大化がますます進み、皇帝ですら貴族を掣肘できないという状態を生み出した。この貴族制度から漏れた寒人と呼ばれる層は、皇帝や皇族の周りに侍ることで権力を得ようと画策するようになった。

文帝は453年、皇太子劉劭によって殺される。この反乱者たちを倒して即位したのが劉駿(孝武帝)である。孝武帝は貴族勢力の抑制を狙って税制の改革や寒人層の登用などを行う。しかし孝武帝の死後は身内内での血みどろの殺し合いとなり、権力争いが激化した。特に第6代の劉ケ(明帝)は血族28人を殺害し、家臣も少しでも疑いがあれば殺すなどの暴政を行い、宋の衰退が決定的となった。


  420 - 479


 
ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事

 謝膽 しゃたん 387 - 421 九日從宋公戲馬臺集送孔令詩 答霊運

 謝靈運 しゃれいうん 385 - 433 山居賦 謝靈運 1
   謝恵連 しゃけいれん 394 - 433 雪賦 擣衣 西陵 西陵遇風獻康樂五首










羊欣 ようきん 370 - 442




  王微 おうび 415 - 443





劉義慶 りゅうぎけい 403 - 444 世説新語



范嘩 はんか 398 - 445 後漢書




 何承天 かしょうてん 370 - 447 雉子遊原澤篇



 呉邁遠 ごばいえん 生没年不詳 擬樂府四首 飛來雙白鵲 陽春曲 長別離 長相思

寇謙之 こうけんし 363 - 448





 鮑令コン〔日+軍〕 ほうれいこん   435頃活躍




   鮑照 ほうしょう 405 - 450 蕉城賦




崔浩 さいこう 372 - 451





裴松之 はいしょうし 372 - 451 三国志 注



 南平王鑠 なんぺいおうしゃく 431  -  453




蕭思和 しょうしか 406 - 455




   顔延之 がんえんし 348 - 456 北使洛




 王僧達 おうそうたつ 423-458 答顔延年 瑯ヤ王依古〔王+邪〕 (玉臺)七夕月下一首

 謝莊 しゃそう 421 - 466 














 孝武帝 劉駿 ぶてい りゅうしゅん 430 - 464 自君之出矣


1

沈慶之   しんけいし 386年−465年 侍宴詩














宋武帝  (劉裕) こうぶてい(りゅうゆう 420-479






陸凱 りくがい 420年〜479年 贈范曄詩




































ID
詩人名
よみ
生没年
作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事 作品/記事


呉邁遠 ごばいえん 生没年不詳 擬樂府四首 飛來雙白鵲 陽春曲 長別離 長相思





















南宋詩人
文選  謝瞻  傅亮  謝恵連  謝霊運  范曄  袁淑  顔延之  謝荘  鮑照  劉鑠  王僧達  王微
玉臺新詠
古詩源 孝武帝  南平劉鑠  何承天  顔延之  謝靈運  謝膽  謝恵連  謝莊  鮑照  鮑令琿  呉邁遠  王微  王僧達  沈慶之  陸凱  劉呉







劉ゴ (イ呉)  (古)詩一首
湯恵休 (古)怨詩行   ・楚明妃曲 ・ 白紵歌三首 ・ 秋風歌 ・ 歌思引・楊花曲三首・贈鮑侍郎詩
湯惠休,南朝宋詩人,字茂遠。生卒年不詳。早年為僧,人稱"惠休上人"。因善於寫詩被徐湛之賞識。孝武帝劉駿命其還俗,官至揚州從事史。鍾エ《詩品》作"齊惠休上人",可能卒於南齊初。
湯惠休詩作今存11首,以《怨詩行》最為著名,富於民歌氣息。詩中"悲風盪帷帳,瑤翠坐自傷。妾心依天末,思與浮雲長。嘯歌視秋草,幽葉豈再揚。暮蘭不待?,離華能幾芳"等句,自然真切,頗具情致。
陸凱 420年〜479年 字を智君といい、代(河北省) のひとである。好学忠孝の士である。《太平御覧》卷九七〇引《荊州記》に”「陸凱與范嘩相善、自江南寄梅花、詣長安與嘩、並贈花詩曰:折花逢驛使、寄與隴頭人、江南無所有、聊贈一枝春。」調名義此。”とみえる。
(古)贈范曄詩
沈慶之 沈慶之(386年−465年),字は弘先,呉興武康(今浙江コ清西)の人。南朝宋の將領である。沈慶之は曾て多場の戰事に參與し,包括して蠻族を討ち平らげ、元嘉には北伐し、劉劭、魯爽、劉誕等を事し討伐し,得宋孝武帝重用於軍事,並因其遺詔成為顧命大臣。沈慶之後瓦解了劉義恭、柳元景等人廢黜前廢帝的圖謀,卻因?次勸諫前廢帝而為其所殺。
沈慶之具軍事才能,不但在討伐蠻族多有成效,元嘉北伐期間亦?有建言,亦?助孝武帝平定?亂,遂成為主掌出征軍務的顧命大臣。
沈慶之在清明門外有四間相當華麗的屋宅,又在婁湖有田舍,孝武帝時辭官職後曾經與家人及親族一起搬到婁湖田舍大行耕作,常指著田地向人?:「錢都在這裏呀。」其時家中十分富有,有?萬金的?業,上千奴僕,又有數十個擅長工藝的貌美妓妾。故當時慶之無官,優游享樂,不是入朝都不出門。前廢帝初即位時,身為顧命大臣的沈慶之?次入朝都乘豬鼻無?車,侍從不過三五數人,在田園騎馬巡行時更是隻身獨行,農作繁忙的季節時即使?到慶之的人都不知其身分。
沈慶之老年時都會隨孝武帝出遊和打獵,但即使他年紀已大,但在馬上的氣勢也不輸年輕人。可是沈慶之並沒讀過書,也不識字,一次飲宴中孝武帝曾逼他作詩,慶之不會寫字,遂請求讓他口述,由顏師伯默寫,終寫出:「微命?多幸,得逢時運昌。朽老筋力盡,徒?還南崗。辭榮此聖世,何?張子房。」孝武帝十分高興。
王僧達 王 僧達(おう そうたつ、423年 - 458年)は、南朝宋の官僚。本貫は琅邪郡臨沂県。

経歴
王弘(王曇首の兄)の末子として生まれた。徳陽殿で文帝の謁見を受けて、学問と家事を問われると賢く受け答えしたため、気に入られて臨川王劉義慶の娘を妻に迎えた。若くして学問を好み、文章を得意とした。20歳にならないうちに、始興王劉濬の下で後軍参軍となり、太子舎人に転じた。病と称して仕事を休み、楊列橋で闘鴨を観戦していたため、御史の糾弾を受けたが、不問に付された。鷹や犬を好み、郷里の少年たちと追いかけあい、自ら牛を屠殺したりもした。劉義慶は僧達のこのような素行を聞くと、沙門の慧観を派遣して様子を見させることにした。僧達は書物を席いっぱいに広げて、慧観と文章の意味を論じ合うと、慧観は応答に追われることとなり、賛嘆せざるをえなかった。僧達は兄の王錫と反りが合わず、貧窮を訴えて郡太守の任を求めると、文帝は秦郡太守に任じようとしたが、吏部郎の?炳之が反対したために取りやめた。まもなく僧達は太子洗馬に転じた。母が死去したため、辞職して喪に服した。兄の王錫が臨海郡太守の任を辞めて帰り、奉禄100万以上を送ってきたが、僧達は一夕のうちに余すところなく奴たちに取らせてしまった。喪が明けると、宣城郡太守となった。遊猟を好み、数日帰らないこともあり、訴訟ごとを猟所で受けることも多かった。451年(元嘉28年)春、北魏の大軍の進攻が長江に達し、建康に危険が迫ると、僧達は建康防衛のために入城を求めて、許可された。魏軍が撤退すると、僧達はまた宣城郡太守に任じられた。ほどなく義興郡太守に転任した。

453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称し、武陵王劉駿が劉劭打倒のために起兵すると、僧達は客の説得を受けて劉駿に従うことを決めた。劉駿(孝武帝)が即位すると、僧達は尚書右僕射に任じられた。6月、使持節・南蛮校尉となり、征虜将軍の号を加えられた。南郡王劉義宣が江陵で留任を求めたため、僧達は南蛮校尉の任を解かれないまま、赴任もしなかった。閏月、護軍将軍に任じられた。僧達は才能の自負もあり、護軍将軍の地位に不満で、徐州刺史の任を求めたが、聞き入れられなかった。三たび孝武帝に訴えたため、帝の不興を買い、8月には征虜将軍・呉郡太守として出された。呉郡の西台寺に富裕な沙門が多かったため、僧達は主簿の顧曠を派遣して沙門の竺法瑤を人質にし、数百万銭を手に入れた。454年(孝建元年)、南郡王劉義宣や臧質・魯爽らが反乱を起こすと、僧達はこれを口実に兵を増やし、朝廷には1000人と報告しながら、80人の隊を30隊立てた。さらには呉郡に私邸を建てるために、多くの労役を動員した。これらの罪により免官された。

456年(孝建3年)、太常に任じられたが、僧達はやはり不満であった。ほどなく解職を求めて上表し、文章に不遜な言葉があることが問題とされ、罪に問われて免官された。ほどなく江夏王劉義恭の下で太傅長史となり、臨淮郡太守を兼ねた。さらに太宰長史に転じた。457年(大明元年)、左衛将軍となり、太子中庶子を兼ねた。かつての功績により、寧陵県五等侯に封じられた。458年(大明2年)、中書令となった。8月、高闍らの反乱計画に加担していた罪で、獄に下されて殺害された。

子の王道?は新安郡に流されたが、前廃帝が即位すると建康に帰り、元徽年間に廬陵国内史となったが、赴任しないうちに死去した。

(古)答顔延年、瑯ヤ王依古〔王+邪〕  (玉臺)七夕月下一首
王微 (450-455)活躍  雜詩二首
謝混  謝混(?−412年),字は叔源という,小字は益壽で,陳郡陽夏(今の河南省太康)の人である。東晉の名士である。官員であり,太保の謝安の孫である。會稽?史であった謝?の第三子である。晉の孝武帝司馬曜の婿である。 謝混の出身は陳郡における謝氏一族である,年輕時に頗に美譽が有り,文章寫を善くし,官を累して尚書左僕射に至る,爵に襲われ蔡縣公に望み,並びに晉陵公主を娶り妻と為す。

謝混(4世紀?−412年),字叔源,小字益壽。陳郡陽夏(今河南太康)人,謝?幼子,謝安之孫。東晉官員、文學家。在晉官至尚書僕射,但因依附劉毅而被劉裕誅殺。
謝混年輕時就有美譽,長於寫文章。後娶晉孝武帝女晉陵公主,並承襲父親望蔡縣公的爵位。

謝混在朝廷?任中書令、中領軍及尚書左僕射領選等職。

謝混在政治上支持北府軍將領劉毅,與劉裕抗衡,謝混堂兄謝澹,常為此擔憂,因而逐漸跟謝混疏遠[1][2]。義熙八年(412年),劉裕決定消滅劉毅勢力,遂收謝混下獄,並於獄中賜死他,晉陵公主也被迫?離謝家[3][4]。

劉裕於永初元年(420年)接受晉室禪讓時,謝混堂?謝晦對劉裕?:「陛下順應天命,登壇之時可惜沒有謝益壽奉上??。」劉裕也很後悔,?:「我也很後悔,這讓後生一?無法看到他的風采!」[5]


謝混曾為時人認為「風華江左第一」,工於詩[6],鍾エ《詩品》評謝混詩,謂「其源出於張華,才力苦弱,故務其清淺,殊得風流媚趣」,《南齊書・文學傳論》稱「謝混情新」。作品早佚,今存詩3首,收入《先秦漢魏晉南北朝詩》。
謝混為人孤高,不常與其他人交際,但就和幾個有文才的族子謝靈運、謝瞻、謝晦、謝曜及謝弘微經常在一起。而他特別重視謝弘微,在謝混死後弘微亦為其代管家業,直至晉亡後晉陵公主得回謝家。
逸事
謝?被帳下督張猛所殺,謝混的兩個哥哥亦在該戰被殺。後來劉裕在討伐孫恩時生擒了張猛,將之送去謝混那裏,謝混就?開張猛,割下其肝臟生吃,以報父兄之仇[7]。
晉孝武帝為晉陵公主招夫婿時就向親近的王c?:「公主的夫婿只要像劉真長、王子敬那樣,我就滿意了;王處仲、桓元子這種確實好,但才剛得富貴就要干預別人家事。」王c就答:「謝混雖然比不上真長,但不比子敬差呀。」孝武帝於是?:「這就好了。」不久孝武帝去世,袁山松打算嫁女給謝混,王c就向袁山松?:「?不要想染指禁臠呀。」正以孝武帝已為公主選定了謝混,他就如專門進獻給皇帝獨?的那塊最好的肉,其他人不能打其主意。此即「禁臠」一名的由來[8]。
桓玄當政時曾打算改建謝安舊宅,謝混就?:「召伯的仁心尚能惠及一?甘棠樹,而文靖(謝安諡號)的コ行卻不能保住五畝的屋宅??」桓玄聽後慚愧不已,遂打消念頭[9]。
呉邁遠 (古)胡笳曲、古意贈今人、長相思 (玉臺)擬樂府四首(一)飛來雙白鵲、(二)陽春曲、(三)長別離、(四)長相思
鮑令コン 雑詩六首(一)擬青青河畔草、(二)擬客從遠方来、(三)題書後寄行人、(四)古意贈今人、(五)代葛沙門妻郭小玉詩二首〔一〕明月何皎皎、〔二〕君子將徭(遙)役